一章
「ほら、この子が時雨だよ。あの子が施設を出る直前に撮った集合写真だから、ちょうど高校三年生の頃だね」
二葉はおそるおそる男性職員の人差し指の先を注視する。そこに佇む少年の顔を見た瞬間、叫び出したくなるほどの絶望を感じた。
「ぼく、じゃん……」
思わず口をついて出た。それほどに写真の少年──時雨は二葉にそっくりだった。ハーフ特有の目鼻立ちがハッキリした父と、淡く青みがかった髪色をした母親の特徴をそれぞれ引き継いでいる。
「うそ、だ……」
気が遠くなりそうなのを堪えて、荒んだ印象の少年を見つめた。正直これを見る前までは自分の予感は外れているものだと思っていたし、外れていてほしかった。しかし、こんなものを見てしまった以上、もう逃げることはできない。
二葉の両親は二葉が生まれるずっと前に第一子を養護施設の前に置き去りにした。その事実は思春期の二葉に重く重くのしかかる。
「そういえば二葉くんだっけ? こうして見ると君と時雨ってよく似てるね」
全てを見透かすような職員の言葉に、二葉は乾いた笑いしか出なかった。
「……ですね」
それから二葉は両親にこのことを問い詰めた。最初ははぐらかされたが、母子手帳や施設でのことを言及すると、青ざめた顔で白状してくれた。
言い訳は聞かなかった。聞いたところで何かが変わるわけでもないし、懺悔して許された気になってほしくなかったから。
「謝らなくていいよ、ていうかぼくに謝られても……ね。ぼくには兄さんがいる、それだけわかればいいんだ」
そうして数年後、時雨の職場である学園を特定した二葉は現在、東雲学園の敷地内を走り回っていた。
両親の過去を知ってショックを受けたし不信感も抱いたが、同時に兄の存在を確信できたのは大きい。やはりあのとき施設へ行って正解だった。
「兄さんっ、ぼくの兄さん……! やっと、やっと会える……!」
はやる気持ちで寮内を駆けていく。談話室、自習室、食堂、手当り次第にドアを開けては見渡したが、目当ての人物は見当たらない。二葉はパーカーのポケットの中からスマートフォンを取り出した。フォルダを漁って見つめるのは、施設で撮らせてもらった若かりし頃の兄の写真。
「はぁ……はぁっ、兄さん……どこにいるの?」
気落ちすると自然に足が止まった。心配して声をかけてくる上級生らしき生徒にそっぽを向いてやりすごし、フードを深く被り直す。他人に愛想を振り撒く必要はない。
「もしかすると、外にいるのかも……」
ひらめいた途端に玄関で靴を履き替えて寮を飛び出した。帰寮する生徒たちの間をぬって小走りに進み、宛もなく思いつくままに靴音を鳴らす。
寮を離れて、校舎を通り過ぎた二葉が行き着く先は、漫画やドラマで見るような桜並木の一本道。その春の色に染まった景色を見て、思わず足を止めた。桜の花びらがヒラヒラと二葉の頬を撫でて、落ちる。
「綺麗……」
この一本道は学園の入り口に続いている。二葉はついさきほど東雲学園に到着したばかりなので、当然この桜のアーチをくぐったはずなのだが、その時は兄に会えるという高揚感で気にもしていなかった。
「信じらんない。こんなの見逃すなんて、ぼくヤッバいな……」
目的を忘れて見惚れていると、桜の景色の中にひとつだけ、真っ白な布が風になびいているのが見えた。白衣を着た長身の人物が桜に向かってスマートフォンを構えている。その姿を見た二葉は目を見開き、その場で固まった。
髪が長く背が高い。細身だが全体的なシルエットは成人男性のそれだった。それにあの髪色は──
「……っ!」
その青みがかった髪色はまるで澄んだ冬空のような色で、二葉は思わず自分の髪をひと房掴んで確認した。同じ色だ。
それにあの顔は──今まさに二葉がスマートフォンで確認している『藍染時雨』の写真そのままだった。桜を撮り終えたのか、満足そうに微笑む彼を見た瞬間、二葉はたまらず駆け出した。
「兄さん!」
勢いよく抱きついて白衣に顔を埋めると、香水の匂いだろうか──桜のほのかな香りが鼻腔をくすぐった。突進したといってもいいほど大胆に飛びついたのに、兄らしき人物はよろけることもなくただ困惑の表情を浮かべていた。
「えっと……きみは?」
艶っぽく落ち着いた声色で宥めるように微笑みかけられる。やや中性的ともいえる端正な顔立ちは、二葉が毎日鏡で見ている自分の顔とそっくりで、生きてきた年月の差を感じる程度の違いしか見られなかった。十年後の自分の姿を可視化された気分だ。
二葉は確信した。この人こそが長年探し続けてきた兄なのだと。頬が紅潮し、今すぐ雄叫びをあげて駆け回りたい衝動をグッと堪えて、まずは兄から身を離し姿勢を整えた。
「はじめまして兄さん……いいえ、藍染時雨先生。あなたの生き別れの弟、紺乃二葉です! お互い初対面なのでビックリしたと思いますが、これから兄弟として親睦を深めたいと考えてます。よろしくお願いします!」
笑顔、ハキハキとした口調、最初の挨拶としては上々だと心の中で自画自賛する二葉だが、なぜか兄──時雨の反応は薄い。困惑と警戒をさらに濃くしたと思えば、次は可哀想なものを見るような目で二葉を見下ろしている。
それもそうだ、二葉は時雨を知っているが、時雨は自分に弟がいるという発想すらなかったはずなのだから。突然見ず知らずの新入生から『あなたの弟です』と言われても気味が悪いだけだろう。
そこで二葉は自身が被っているパーカーのフードを掴み、はらりと脱いでみせた。兄とそっくりなその顔を白日のもとに晒すと、時雨の目がわかりやすいくらいに大きく見開かれる。
しかしそれは一瞬で、次の瞬間には心に蓋をしたような完璧な微笑が二葉に向けられた。
「おれに弟なんていないよ」
ザァッ──と冷たい初春の風が吹く。さきほどまで穏やかに揺れていた桜が嬲られ、無理やり花びらを散らされる。気まぐれな強風が地面に落ちていたものまで巻き上げて、豪雪のように二人のあいだにブラインドを作る。
太陽が雲に隠れ、辺りは一変して暗い影を落とした。
静かな拒絶。けれど二葉は強い意志を瞳に込め、挑戦的な笑みを浮かべて兄を見上げる。はじめから歓迎されるなんて思っていない。
「絶対、誰もが羨む仲睦まじい兄弟になってみせるから」
雲の隙間から陽の光が差し込んで二人を照らす。同じ色で艶めく二人の髪が風に流され静かに揺れた。
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