一章
「ここが東雲学園……今日から三年間、ここがぼくの学校で、家になるんだ」
桜が舞い散る木の下で、二葉は拳をしっかり握る。三日月のように流れた長い前髪を風に揺らしながら、華やかな双眸を細めた。
「待っててね、兄さん」
そしてフードを目深に被る。買ってもらったばかりのキャリーケースをゴロゴロ転がしながら、まだ見ぬ兄に会うために駆け出した。二葉にとって、今日から始まる高校生活や寮生活など、取るに足らない些末なこと。割り振られた自室で荷解きを済ませ、ルームメイトたちとの挨拶もそこそこに、軽やかなステップで寮内を闊歩した。
──ここにいるはずなんだ。あの人が──
顔の半分以上をフードで隠したまま、あちこちを見渡して兄を探し回る。途中で先輩らしき人や教員と思われる大人に声をかけられたが、ほとんど無視に近い形でやりすごしていった。いちいち相手をしている暇はない。この東雲学園に入った理由は生き別れの兄に会うため、それ以外はどうでもいいことだ──
*
幼い頃の二葉は、言葉では説明できない違和感を抱えていた。自分には何かが足りない、けれどそれが何かはわからない。漠然と、だけど確実に存在する違和感。見つけられるわけがないのに、周りを見渡して、意味もなく探した。
そんな二葉に突如、転機が訪れる。小学生になったばかりの頃、公園で追いかけっこをしている兄弟を見かけた時だ。
「お兄ちゃん待ってよ〜!」
必死で追いかける弟と、その足に合わせるように加減しながら逃げる兄。二人の笑い声と、駆け回る二人分の足音。
「あ、れ……」
涙が頬をつたって落ちた。仲睦まじい兄弟の姿が滲んで見えなくなっても、見開いたままの目から雫がボロボロこぼれる。
最初はそれで終わった。知りもしない兄弟の前で、わけもわからず泣いただけ。けれどこれを皮切りに、似たような現象が頻繁におこるようになる。公園で、ショッピングモールで、動物園で──行く先々で兄弟を見つけては、どうしようもない感情に押しつぶされそうになりながら涙を流した。
こんなとき、両親は決まって誤魔化すような苦い笑みを浮かべていて、まるで赤子をあやすように二葉を抱き上げて背中を擦った。突然泣いたのに、このときばかりは涙の訳を訊いてくれなかった。
どうしてこういうときだけ何も訊かないの? 二葉は思う。両親は何かを隠しているのかもしれない。そんなことを、子どもながらにボンヤリと感じ取っていた。
昔から、幼い子どもには化学で証明できない不思議な力が備わっていると聞く。テレビか何かで見聞きしたオカルト的な話だったが、胡散臭いと笑い飛ばすなんてことは、二葉にはできなかった。なぜならこの頃の二葉は既に、捜し物が『人』──それも、もっとも近しい家族であることをなんとなく察していたからだ。
やがて中学生になった二葉は幅広い知識をつけ、様々な観点から違和感の根源を探り出していった。
面白いことに、初めから疑いの目で見ていくと、不可解なところが次々と出てくるものだ。二葉は一人っ子の長男であるはずなのに、名前にはわざわざ『漢数字の二』が使われていること。母子手帳の表紙には両親の名、二葉の名と誕生日や血液型などが律儀に書き込まれているのに、何人目の子どもかを表記する欄だけが不自然に空欄であること。
特に後者は二葉の疑念を深める要因の一つだった。単に母がズボラで書き漏らしているだけではと思ったが、二葉の母はズボラというよりむしろマメなほうだ。パートが休みの日は手作りのお菓子を振舞ってくれたし、誕生日やクリスマスなどのイベントでは母だけでなく父も手の込んだ演出をしてくれる。
母子手帳の件でもそうだ。こっそり中身を見たとき、二葉はまずその文字の量に圧倒された。妊娠中の経過から出産まで、そして二葉の成長が事細かに記録されていたのだ。初めて歩いた日を記すまではいいとしても、乳歯が抜けた順番や日付まで書く必要はあるのかと、少しくすぐったい気持ちになった。
少々やりすぎなほどに愛情が詰まった手帳だった。それこそ書き込める欄は全て文字で埋まっているほどに。だからこそ、最初の子どもであるならば嬉々として『一人目』とでも書くだろうに、そこだけが寂しげに空白になっているのが異様に見えた。
この時点で二葉は、自分に兄がいたのではないかと考え始めた。不思議と『姉』とは思わなかった。
家には仏壇の類がないので、死に別れたわけではないだろう。仮に兄がとうの昔に成人して独立していたとしても、アルバムにすら何も残っていないのは無理がある。
他にも仮説を立ててみたものの、そのほとんどは現実と辻褄が合わず、決め手に欠ける。ただひとつの説を除いては──
「ぼくにお兄さんがいたとして、生まれてすぐにお父さんとお母さんがどこかに置いていったなら、説明がつく……のかな」
両親の名誉が傷つくと思い、できればこんなことは考えたくなかった。けれどありとあらゆる可能性を潰した結果、消去法で残った憶測がこれだった。
だけど違う、これだけは絶対にありえない。照れくさいほどの愛情を注いでくれるような両親なのだから、まさか我が子を棄てるなどあるわけがない。
ほとんど祈るような気持ちで、両親の潔白を証明するつもりで二葉は徹底的に調べあげた。
そして突き止めた真実は、無情にも二葉の心にヒビを入れる。とある真冬の日、兄が暮らしていたとされる施設を特定し、錆び付いた門の前で膝から崩れ落ちた。
年老いた男性職員が灰色の空を見上げて呟く。『あの日』も雪が降っていたのだと。
もうずいぶん昔の話になる、と枯れた声で職員は前置きした。雪が降りしきる中、外から弱々しい泣き声が聞こえると思って見に行けば、産まれたばかりの赤ん坊が施設の前に置き去りにされていたのだそうだ。雪の多い日だったから、辺りにあったはずの足跡は新雪が積もったことで綺麗に消されていたらしい。
「そ、それで……その子は今どうしてるんです? まだここにいますか?」
「あの子はとっくに施設を出たよ。高校を卒業するなり自立していった。と言っても就職したわけじゃなくてね、バイトしながら大学に通うとか言ってたおかしな子だったよ。身寄りもないのに無茶だって何度も止めたけど、昔からこちらの言うことなんて聞きやしない。上手くいってれば今頃は、どこかの学校で教師でもやってるんじゃないかな。教員免許を取るために大学へ行く、とかなんとか言ってたからね」
事務所へ通された二葉は、出された熱い茶を呆然と眺めた。一口も手をつけていないそれに自分の顔が鏡のように映っている。憔悴しきった酷い顔だ。
「……その人の名前は、なんて言うんですか?」
「
そう言って男性は奥の棚へ向き、皺の深い手で一冊のアルバムを持って戻ってきた。
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