うちよそ

コンコン。控えめに、扉が叩かれた。

「誰だ」
「粧でございます」

扉の向こうから聞こえてきたのは、凛とした女の声だった。名も知っている。粧牡丹。祓い屋だ。数年前に面倒を見た女だ。以来、元上司だからと言って何かと気遣いを見せる女だが、普段彼奴の声はこれほど固くはなかった。

「入れ」

扉が静かに開く。其処に立つのは矢張り見知った姿であった。

「何用だ」

大した用事でもないだろうと、俺は机の上に積み重なった書類に目を通しながら声をかけた。靴底を鳴らして室内に入る姿を目の端で捉えることもなく、俺は書類に目を向ける。
足音が俺の所務机の前で止まる。かちり。踵を鳴らし、女は敬礼をとる。

「粧牡丹、日ノ本様に御別れのご挨拶に参りました」
「……別れ?」

書類から視線を上げると、粧は緊張した面持ちで礼をしている。

「礼はいい。理由は?」
「はっ。粧牡丹、本日を以って退役致します」
「退役だと?」

5年以上も勤め上げ、零號の中でも上位の成績を誇った女だ。女伊達らにと言われようと、日々御国の為にと働いていた女が、何故急に退役等と口にするのか。理由が不明だ。

「何故退役を?」
「……それは」
「ふむ……貴様は一月前に長期休暇を取っていたな?それが今の上司の怒りに触れたか?」
「……違います」
「では、何故だ。貴様は優秀だ。この機関でも十分な見返りを得られる……昇進も思うがままだろう」

そう言うと、粧の顔が殊更に固くなる。昇進の何が悪いと言うのか。
暫く黙ったままだった粧の唇が漸く開く。ーーーだが、やっと紡がれた言葉は震えていた。

「弟が、妖に喰われました」
「何だと?」
「ひと月前にお暇を戴きましたのは、それが理由でございます。故郷に帰り、弟を喰らった妖を祓って参りました」
「祓ったのならば、尚更。何故退役する必要がある?」
「喰われたものが悪かった……としか言いようがありません」
「何を喰われた」

問うと、粧は言葉を選ぶように迷いの表情を浮かべる。暫しの沈黙の後、返ってきた言葉は、こうだった。

「『体力』を。私が辿り着いた時にはもう遅く、弟は最早立ち上がれる余力もありません」
「厄介なものを喰われたものだな。その養生の面倒を見る為に退役し、故郷に帰るのか?」
「いえ。帝都に残ります」

予想外の言葉であった。当然、故郷に帰るものだとばかり思っていたからだ。
『体力』を喰われるということは、身体を動かすことも不用意だ。病にも罹り易くなる。その養生のために退役するのならば、留める理由もないものだが。

「帝都に残って何をする」
「祓い屋です」
「今の仕事と何が違う」
「……下世話な話ですけれど。お給金です。弟は、医者がいなければ生きられない体です。良い医者をあんな村に引き留めるのに、どれだけのお金がかかるでしょう。それに……お恥ずかしい話ですが、詐欺師に引っかかりまして。貯蓄がないのです」

祓い屋詐欺。帝都でも時折問題になる存在だ。何と言っても祓い屋は金になる。強い力を持つ妖を祓えると触れ回るだけでいい。前払金を受け取ればそのまま消える。
とは言え、粧牡丹は賢い女だ。普段ならば、そんなものに騙されることもなかっただろう。ーーー其れ程までに、追い込まれていたと言う事か。
ならば、引き留める訳にもいかない。

「……ですので。本日は、御別れと……一つ、お願いをしに参りました」
「何だ」
「時折でいいので……信頼の置ける祓い屋を、故郷に派遣していただけませんでしょうか」
「良いだろう。妖に喰われた人間の保護も我々の仕事のうちだ」
「ありがとうございます。では、粧牡丹、本日壱八零零を以って退役させていただきます」

粧がくるりと振り返る。踵の高い靴が震えていた。
気丈な女だ。本当なら、今直ぐにでも故郷に帰りたいだろうに。弟の行く末を思って泣き暮らしていたいだろうに。
けれど、粧牡丹という女は、それを良しとしない。いつだって強がりで、前向きで、大路を踵を鳴らして闊歩する。それが、粧牡丹という女なのだ。

「粧」

呼ぶと、粧の背中が立ち止まる。

「負けるな」
「……商売敵になる女に、激励なんて」
「貴様は俺の部下だ。俺がこの地位に就いてから、初めて受け持った部下だ。其れは変わらない」
「……日ノ本様」
「そうだ……貴様のような女を、世間では『ハイカラ』と呼ぶのだ。激動の時代を強く生きる女だ。だから、負けるな」

小さな背中が震えた。黒い髪がさらりと下を向く。数秒の沈黙の後、粧のまるい頭がこちらにゆるりと振り返る。

「……はい。私、今日からはいからさんですわ!」

強く、凛とした笑みを浮かべたその目元は薄らと濡れていた。
けれど、笑っている。震えていた足は確りと地面を踏んでいる。そうだ、それが大正乙女だ。それが、粧牡丹だ。踏み出した一歩の足音が高らかに響く。
時刻は丁度午後六時。柱時計の音と共に、女の背中は扉の向こうへと消えた。




さて、帝都は賑やかだ。銀座は人通りも多く、オペラ座の前は黒山の人だかり。
年明け早々だが、俺とて軍人である。新年に浮かれてふらつく部下を取り締まるのも仕事の一つだ。迷い子を見つけただの、あっちの麺麭屋が美味いだのと仕事を放棄しようとする部下の首に縄をつけ、銀座を歩くとーーー見知った丸い頭が見えた。

「……粧か!」
「えっ……日ノ本様!?」

雑踏の中で立ち止まった女ーーー粧牡丹は、真っ赤な洋装に身を包み、ぱちくりと此方を見詰めたのだった。
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