セキショウ
朝の鼓動が聞こえる。アラームの音と、ざわめく街の音。
こうやって毎日を繰り返して、それが私。朝起きて、お母さんが作ってくれたご飯を食べて、お父さんが出勤するのを見送って、私も学校に行くために玄関のドアを潜り抜けて、そうして一日が始まって。学校では他愛ない話をしたり、ちょっと勉強したり。家に帰って来てからは晩ご飯の支度を手伝って、家族揃って食べて、お皿を洗って、お風呂に入って、髪をドライヤーで乾かしてからベッドに入る。そう、そんなどこにでもいる学生が私。私の名前は――ショウ。
それは唐突で、突然で。ヒスイ地方という教科書でしかその名前を見たことのない場所に放り出された私は、これもまた教科書で見たような、木製のモンスターボールを使ってポケモンを捕まえ、調査する仕事に就いた。それ以外には、私に生きる手段はなかった。
今どきの子ならみんなできるようなことが、ヒスイ地方では難しいらしくて、あたしの人並み程度の能力でも、貴重な戦力として大切にしてもらった。
ラベン博士、テルくん、シマボシ隊長、デンボク団長、カイちゃん。そして、セキさん。
みんな私の才能を稀有だと言ってくれた。私の力を認めてくれた。それが嬉しくて、時々我を失って危険な目に遭ったりもしたけれど、私たちは固いきずなで結ばれていたと思う。
そして、唐突に始まった私の冒険は、終わりさえ唐突に訪れた。
朝、アルセウスフォンの音が私を起こした。アルセウスフォンは充電不要だけれど、アルセウスが私に何かを伝えたいときにしか動いてくれない。現代にいたときの癖で、布団から手を伸ばしてアラームを鳴らすアルセウスフォンを掴んで、そうしてやっと自分は今ヒスイ地方にいるのだと思い出す。慌てて画面を確認すると、たったこれだけ。
「こんや、テンガン山の神殿で」
それはアルセウスの声。つまり、今夜私は絶対にテンガン山の神殿に行かなければならないし、そこで必ずアルセウスが望むことが起きる。
ポケモン図鑑は完璧ではないものの、この地方のすべてのポケモンと出会った。神にも、伝説と呼ばれるものにも、全部。そうしてやっと私はアルセウスに認められたのだと思っていたが、どうやら違ったらしい。私は急いで着替え、髪を整え、ギンガ団本部へと走った。すると、私はだいぶ朝寝坊だったようで、団長室には団長、ラベン博士、テルくん、シマボシさん、そしてセキさんとカイちゃんが揃って険しい表情をしていた。
「来たな、ショウ!大変なことになってるんだぞ。空、見たか?」
テルくんが私に駆け寄ってきて、肩を掴んだ。アルセウスフォンに表示されたことばかりを気にして走ってきた私は空なんか見ていなくて、息を詰まらせながら私は首を横に振る。すると、団長が一つため息をついてから話し始めた。
「……時空の裂け目が大きくなった」
「……え?だ、だって、ギラティナもアルセウスも……」
「そうだ、あそこには居らぬ。だが、事実として裂け目は大きく広がった」
それで、各団の長が集まっているというわけか、その対策のために。アルセウスフォンを持つ手に力がこもる。誰もが、不安げな表情を浮かべていた。すると、もう一度。アルセウスフォンは音を鳴らした。
「ショウくん、それは……」
「博士……あの、さっきからアルセウスフォンが鳴るんです。それと、今夜、テンガン山の神殿でって、メッセージも出て」
言いながらみんなにアルセウスフォンの画面を見せると、驚いているテルくん以外はみんな、ああ。ともう一度ため息を吐いた。
「ショウくん。時空の裂け目の拡大とこのメッセージには、大きな繋がりがあります」
「ふむ。ショウのために、時空の裂け目が拡大したということか?」
「シマボシ団長、はい。そう睨んでいます」
「そうか……」
ギンガ団の大人たちだけで、勝手に納得してしまった。セキさんとカイちゃんは、揃って窓から空を見上げた。ならって窓の傍に行ってみると、確かに、空に浮かんでいる時空の裂け目は昨日よりだいぶ広がっていた。ディアルガとパルキアが現れたときほどではないにせよ、各団の長が集まって会合をする必要があるほどにその裂け目は大きい。そして、こうなってしまった理由は。
「ショウくん、今夜、元の世界に帰れるんですよ」
ラベン博士が、いつもの笑顔でそう告げた。
それからはビークインをつついたような大騒ぎだった。あちこちから、今までに私と出会ってくれた人たちがコトブキムラに集まってきて、ムベさんはイモモチのタネを大きな包みで差し出してくれて、カイちゃんは泣いていて、ムラの人たちがみんなで私に贈り物をしてくれて……私の両腕は、みんながくれたものでいっぱいになった。
テルくんがクラフト名人の力を活用して、大きいリュックを作ってくれた。ケムッソの糸で織った、丈夫なリュックだ。
そうして、ちょっとした騒ぎは少しずつ静かになっていく。カイちゃんがはらはらと涙を流すのにつられたのか、何人かもぽろぽろと涙を流して。そうして誰もが黙りこくった、夕暮れ。私にはあと数刻しか、この世界にいられる時間がない。テルくんが作ってくれたリュックをぎゅっと抱きしめて、私も何も言えなくなってしまった。テルくん。ラベン博士。シマボシ隊長。ムラのみんな。コンゴウ団のみんな。シンジュ団のみんな。もう、もう二度と会えない。
元の時代に戻れるのはうれしい。けれど、もう二度と、ここで心を通わせた人たちとは会えなくなる。それが悔しくて、リュックを持つ腕の力が強くなる。――すると、肩に温かい温度が触れた。
「おいおい、オレとショウの仲を知らないわけじゃねえだろ?ちっとくらいオレとショウだけの時間をくれたって、いいと思うがな」
私の肩口に後ろから頬を寄せたのは、私の大好きな人。セキさんだった。跳ねた髪と、あなたの呼吸が頬に触れてくすぐったいよ。
「セキさん……!、そ、そういえば!みんな!解散!解散!」
テルくんが本部前に集まった人たちを解散させる。全員散開した後、テルくんも最後に私と握手をして、ギンガ団本部の扉を閉めた。ギンガ団本部前には、私とセキさんのふたりっきりだった。
「……場所変えて話そうや」
「は、はい」
私の肩にのしかかっていた腕はふわりとあたしの手を引いた。強すぎるわけでもなく、かといって優しすぎない手の握り方は、いつものセキさんだった。
夕方の中を二人で歩いて。そうして辿り着いたのは、高台ベースだった。
セキさんが人払いをすると、ベースにいるのは私とセキさんの二人きりだった。揃ってテントの中に座ると、セキさんは私の髪をそっと撫でた。
「あんたとここで、初めてまともに話したんだっけなぁ」
「アヤシシさまのこと……ですね」
「ああ。あの時のあんたはまだちぃっとばかし頼りなかったがよ、それでも、こいつは何か仕出かすぜって予感はあった」
「……すみません」
「謝ることかよ?」
優しく私の髪を梳いていたセキさんの指が、乱暴に私の髪をぐちゃぐちゃにした。
「何するんですか!」
「わりぃわりぃ。しおらしいあんたじゃなくて、いつものあんたが見たかったんだよ、オレは」
そう言って、セキさんは笑った。今日、やっとセキさんの顔を真正面から見た。けれど、セキさんの笑顔は、苦しそうだった。いつもの朗らかな笑顔じゃなくて、悔しさを覆い隠そうとしているような笑顔だった。
「……セキさん」
「何も言うな。あんたはずっと笑ってろ。アンタの笑顔は人を救うぜ。だから、どうか向こうでも笑顔でやっててくれや」
セキさん。私は、私のほうこそ、いつもそう言って笑ってくれるあなたに救われていたの。辛かった時も、苦しかった時も、いつだってあなたは私を笑って抱きしめてくれた。優しくないけど力任せでもない、苦しくないくらいの力で、ぎゅっと抱きしめてくれた。手を繋いでくれた。それが、ねえ。あと数時間もしないうちに、長い夢になってしまうの。現実の、ただの学生の私が見ていた、長くて幸せな夢に。いやだ。いやだよ、セキさん。ねえ、お願いよ。離さないって、逃がさないって言って。ずっとオレの傍にいろって言ってよ。けれど、セキさんは大人だからそんな我儘を口にしたりしない。それが苦しくて、あなたの笑顔がもう歪んだ視界のせいで見えないよ。
「おいおい、泣くなよ。帰れるんだぞ」
「……いやです。セキさんと離れたくない」
「つってもよぉ……」
困らせているのはわかっている。セキさんは笑って見送ろうとしてくれているのに、私が言っているのはただのぐずる子供のような我儘だ。でも、でもね、セキさん。私、あなたを長い夢にしたくないの。手を繋いだことも、抱きしめてもらったことも、唇を合わせたことも。全部、全部、夢になんてしたくない。頬を伝う涙を、セキさんは優しく指ですくってくれた。
「ショウ、泣いてねぇで見てみろよ」
最後はちょっと乱暴に、セキさんは私の目に溜まった涙を拭った。
「流れ星だ」
いつの間にか東の空は藍色に染まっていて、星が瞬いていた。そこに、すっと星が軌跡を描く。まるで、私の代わりに泣くように、星が長い軌跡を描いて落ちていく。
「門出にはちょうどいいってもんだなぁ!行くぜ、ショウ」
すくっと立ち上がったセキさんが、私に手を差し伸べた。その指は、少し震えていただろうか。ああ、これが最後だ。もう二度と、その指が私の手を温めてくれることは、ない。
月が、山麓の端っこから顔を出していた。セキさんの力強い足取りは、迷うことなくまっすぐにテンガン山へ向かっている。
ねえ、どうか忘れないで。どうか、忘れて。私っていう、ショウっていう女の子が、あなたを心から愛したことを。忘れて、幸せになって。忘れないで、ずっと苦しんで。どっちだって、酷い我儘だ。だから私はそれを言葉にはせず。最後の温もりを、すっと吸い込んだ。
「これ、やるよ」
テンガン山のふもとに着いたとき、セキさんは自分の首についていたチョーカーを差し出してくれた。
「あのこれ、コンゴウ団にとって大事なものじゃないですか」
「また新しく作りゃいいだろ」
「でも」
「いいから。オレには、他にあんたにやれるものがねぇんだ。テルみてえに手先が器用なわけでもねぇ。ムラの奴らみたいに、何かを作る特技があるわけでもねぇ。だから、オレがあんたにやれるのはこれだけだ。いいから受け取っとけ」
ちょっと無理やり捕まれた手に、セキさんがずっと大切にしていたチョーカーの重みが触れた。これはきっと、セキさんにとって、コンゴウ団にとって神聖なもの。大切なもの。そんなものを、セキさんは惜しみなく私に差し出してくれた。
「オレはディアルガ様と出会えてよかった。ディアルガ様と出会わせてくれた、あんたがいてよかった。本当に、本当に……ショウ」
「……はい」
「好きだぜ、ずっと。」
そうして、月が空のてっぺんに昇ったとき。――私とセキさんは、最後の口づけをした。
私の寝る前の習慣は、ベランダから空を眺めること。暑い夏も、寒い冬も。ヒスイ地方にいた頃はもっと暑かったし寒かったから、現代の寒さ暑さなんて気にならない。
永遠に世界は回り続ける。私がいなくても、セキさんはきっとまっすぐ生きただろう。ダイヤモンドみたいに意志の固いあの人のことだから、きっと、あの時代を一生懸命に生きただろう。
だからこうして、私がこの現代に生まれたの。
今ではもう知ることのできないあなたの気持ち。今ではもう伝えることのできない私の気持ち。それをどうか、なくさないていてって。なくしたくないって思うのは、やっぱりちょっと我儘かな?でもね、やっぱり私は忘れたくないな。
こんなにも月の輝く夜は、あなたを想うとざわめくこの胸を止めたくない。
あなたは誰かと幸せに笑って生きていたかな。私も誰かと笑って生きていけるかな。もう私とあなたの道が重なることはないけれど――でも、どうかあなたに幸せに生きていてほしいって。この月の下にいる時だけは、あなたと繋がれる気がするよって。セキさんも、そう思っていてくれたらいいなって。
部屋の机の横には、ケムッソの糸で織った丈夫なリュック。机の上には、ポケモン図鑑が完成した時にみんなで撮った記念写真。そして、ドレッサーには。
セキさんがくれたチョーカーが、月の光を浴びて輝いている。
こうやって毎日を繰り返して、それが私。朝起きて、お母さんが作ってくれたご飯を食べて、お父さんが出勤するのを見送って、私も学校に行くために玄関のドアを潜り抜けて、そうして一日が始まって。学校では他愛ない話をしたり、ちょっと勉強したり。家に帰って来てからは晩ご飯の支度を手伝って、家族揃って食べて、お皿を洗って、お風呂に入って、髪をドライヤーで乾かしてからベッドに入る。そう、そんなどこにでもいる学生が私。私の名前は――ショウ。
それは唐突で、突然で。ヒスイ地方という教科書でしかその名前を見たことのない場所に放り出された私は、これもまた教科書で見たような、木製のモンスターボールを使ってポケモンを捕まえ、調査する仕事に就いた。それ以外には、私に生きる手段はなかった。
今どきの子ならみんなできるようなことが、ヒスイ地方では難しいらしくて、あたしの人並み程度の能力でも、貴重な戦力として大切にしてもらった。
ラベン博士、テルくん、シマボシ隊長、デンボク団長、カイちゃん。そして、セキさん。
みんな私の才能を稀有だと言ってくれた。私の力を認めてくれた。それが嬉しくて、時々我を失って危険な目に遭ったりもしたけれど、私たちは固いきずなで結ばれていたと思う。
そして、唐突に始まった私の冒険は、終わりさえ唐突に訪れた。
朝、アルセウスフォンの音が私を起こした。アルセウスフォンは充電不要だけれど、アルセウスが私に何かを伝えたいときにしか動いてくれない。現代にいたときの癖で、布団から手を伸ばしてアラームを鳴らすアルセウスフォンを掴んで、そうしてやっと自分は今ヒスイ地方にいるのだと思い出す。慌てて画面を確認すると、たったこれだけ。
「こんや、テンガン山の神殿で」
それはアルセウスの声。つまり、今夜私は絶対にテンガン山の神殿に行かなければならないし、そこで必ずアルセウスが望むことが起きる。
ポケモン図鑑は完璧ではないものの、この地方のすべてのポケモンと出会った。神にも、伝説と呼ばれるものにも、全部。そうしてやっと私はアルセウスに認められたのだと思っていたが、どうやら違ったらしい。私は急いで着替え、髪を整え、ギンガ団本部へと走った。すると、私はだいぶ朝寝坊だったようで、団長室には団長、ラベン博士、テルくん、シマボシさん、そしてセキさんとカイちゃんが揃って険しい表情をしていた。
「来たな、ショウ!大変なことになってるんだぞ。空、見たか?」
テルくんが私に駆け寄ってきて、肩を掴んだ。アルセウスフォンに表示されたことばかりを気にして走ってきた私は空なんか見ていなくて、息を詰まらせながら私は首を横に振る。すると、団長が一つため息をついてから話し始めた。
「……時空の裂け目が大きくなった」
「……え?だ、だって、ギラティナもアルセウスも……」
「そうだ、あそこには居らぬ。だが、事実として裂け目は大きく広がった」
それで、各団の長が集まっているというわけか、その対策のために。アルセウスフォンを持つ手に力がこもる。誰もが、不安げな表情を浮かべていた。すると、もう一度。アルセウスフォンは音を鳴らした。
「ショウくん、それは……」
「博士……あの、さっきからアルセウスフォンが鳴るんです。それと、今夜、テンガン山の神殿でって、メッセージも出て」
言いながらみんなにアルセウスフォンの画面を見せると、驚いているテルくん以外はみんな、ああ。ともう一度ため息を吐いた。
「ショウくん。時空の裂け目の拡大とこのメッセージには、大きな繋がりがあります」
「ふむ。ショウのために、時空の裂け目が拡大したということか?」
「シマボシ団長、はい。そう睨んでいます」
「そうか……」
ギンガ団の大人たちだけで、勝手に納得してしまった。セキさんとカイちゃんは、揃って窓から空を見上げた。ならって窓の傍に行ってみると、確かに、空に浮かんでいる時空の裂け目は昨日よりだいぶ広がっていた。ディアルガとパルキアが現れたときほどではないにせよ、各団の長が集まって会合をする必要があるほどにその裂け目は大きい。そして、こうなってしまった理由は。
「ショウくん、今夜、元の世界に帰れるんですよ」
ラベン博士が、いつもの笑顔でそう告げた。
それからはビークインをつついたような大騒ぎだった。あちこちから、今までに私と出会ってくれた人たちがコトブキムラに集まってきて、ムベさんはイモモチのタネを大きな包みで差し出してくれて、カイちゃんは泣いていて、ムラの人たちがみんなで私に贈り物をしてくれて……私の両腕は、みんながくれたものでいっぱいになった。
テルくんがクラフト名人の力を活用して、大きいリュックを作ってくれた。ケムッソの糸で織った、丈夫なリュックだ。
そうして、ちょっとした騒ぎは少しずつ静かになっていく。カイちゃんがはらはらと涙を流すのにつられたのか、何人かもぽろぽろと涙を流して。そうして誰もが黙りこくった、夕暮れ。私にはあと数刻しか、この世界にいられる時間がない。テルくんが作ってくれたリュックをぎゅっと抱きしめて、私も何も言えなくなってしまった。テルくん。ラベン博士。シマボシ隊長。ムラのみんな。コンゴウ団のみんな。シンジュ団のみんな。もう、もう二度と会えない。
元の時代に戻れるのはうれしい。けれど、もう二度と、ここで心を通わせた人たちとは会えなくなる。それが悔しくて、リュックを持つ腕の力が強くなる。――すると、肩に温かい温度が触れた。
「おいおい、オレとショウの仲を知らないわけじゃねえだろ?ちっとくらいオレとショウだけの時間をくれたって、いいと思うがな」
私の肩口に後ろから頬を寄せたのは、私の大好きな人。セキさんだった。跳ねた髪と、あなたの呼吸が頬に触れてくすぐったいよ。
「セキさん……!、そ、そういえば!みんな!解散!解散!」
テルくんが本部前に集まった人たちを解散させる。全員散開した後、テルくんも最後に私と握手をして、ギンガ団本部の扉を閉めた。ギンガ団本部前には、私とセキさんのふたりっきりだった。
「……場所変えて話そうや」
「は、はい」
私の肩にのしかかっていた腕はふわりとあたしの手を引いた。強すぎるわけでもなく、かといって優しすぎない手の握り方は、いつものセキさんだった。
夕方の中を二人で歩いて。そうして辿り着いたのは、高台ベースだった。
セキさんが人払いをすると、ベースにいるのは私とセキさんの二人きりだった。揃ってテントの中に座ると、セキさんは私の髪をそっと撫でた。
「あんたとここで、初めてまともに話したんだっけなぁ」
「アヤシシさまのこと……ですね」
「ああ。あの時のあんたはまだちぃっとばかし頼りなかったがよ、それでも、こいつは何か仕出かすぜって予感はあった」
「……すみません」
「謝ることかよ?」
優しく私の髪を梳いていたセキさんの指が、乱暴に私の髪をぐちゃぐちゃにした。
「何するんですか!」
「わりぃわりぃ。しおらしいあんたじゃなくて、いつものあんたが見たかったんだよ、オレは」
そう言って、セキさんは笑った。今日、やっとセキさんの顔を真正面から見た。けれど、セキさんの笑顔は、苦しそうだった。いつもの朗らかな笑顔じゃなくて、悔しさを覆い隠そうとしているような笑顔だった。
「……セキさん」
「何も言うな。あんたはずっと笑ってろ。アンタの笑顔は人を救うぜ。だから、どうか向こうでも笑顔でやっててくれや」
セキさん。私は、私のほうこそ、いつもそう言って笑ってくれるあなたに救われていたの。辛かった時も、苦しかった時も、いつだってあなたは私を笑って抱きしめてくれた。優しくないけど力任せでもない、苦しくないくらいの力で、ぎゅっと抱きしめてくれた。手を繋いでくれた。それが、ねえ。あと数時間もしないうちに、長い夢になってしまうの。現実の、ただの学生の私が見ていた、長くて幸せな夢に。いやだ。いやだよ、セキさん。ねえ、お願いよ。離さないって、逃がさないって言って。ずっとオレの傍にいろって言ってよ。けれど、セキさんは大人だからそんな我儘を口にしたりしない。それが苦しくて、あなたの笑顔がもう歪んだ視界のせいで見えないよ。
「おいおい、泣くなよ。帰れるんだぞ」
「……いやです。セキさんと離れたくない」
「つってもよぉ……」
困らせているのはわかっている。セキさんは笑って見送ろうとしてくれているのに、私が言っているのはただのぐずる子供のような我儘だ。でも、でもね、セキさん。私、あなたを長い夢にしたくないの。手を繋いだことも、抱きしめてもらったことも、唇を合わせたことも。全部、全部、夢になんてしたくない。頬を伝う涙を、セキさんは優しく指ですくってくれた。
「ショウ、泣いてねぇで見てみろよ」
最後はちょっと乱暴に、セキさんは私の目に溜まった涙を拭った。
「流れ星だ」
いつの間にか東の空は藍色に染まっていて、星が瞬いていた。そこに、すっと星が軌跡を描く。まるで、私の代わりに泣くように、星が長い軌跡を描いて落ちていく。
「門出にはちょうどいいってもんだなぁ!行くぜ、ショウ」
すくっと立ち上がったセキさんが、私に手を差し伸べた。その指は、少し震えていただろうか。ああ、これが最後だ。もう二度と、その指が私の手を温めてくれることは、ない。
月が、山麓の端っこから顔を出していた。セキさんの力強い足取りは、迷うことなくまっすぐにテンガン山へ向かっている。
ねえ、どうか忘れないで。どうか、忘れて。私っていう、ショウっていう女の子が、あなたを心から愛したことを。忘れて、幸せになって。忘れないで、ずっと苦しんで。どっちだって、酷い我儘だ。だから私はそれを言葉にはせず。最後の温もりを、すっと吸い込んだ。
「これ、やるよ」
テンガン山のふもとに着いたとき、セキさんは自分の首についていたチョーカーを差し出してくれた。
「あのこれ、コンゴウ団にとって大事なものじゃないですか」
「また新しく作りゃいいだろ」
「でも」
「いいから。オレには、他にあんたにやれるものがねぇんだ。テルみてえに手先が器用なわけでもねぇ。ムラの奴らみたいに、何かを作る特技があるわけでもねぇ。だから、オレがあんたにやれるのはこれだけだ。いいから受け取っとけ」
ちょっと無理やり捕まれた手に、セキさんがずっと大切にしていたチョーカーの重みが触れた。これはきっと、セキさんにとって、コンゴウ団にとって神聖なもの。大切なもの。そんなものを、セキさんは惜しみなく私に差し出してくれた。
「オレはディアルガ様と出会えてよかった。ディアルガ様と出会わせてくれた、あんたがいてよかった。本当に、本当に……ショウ」
「……はい」
「好きだぜ、ずっと。」
そうして、月が空のてっぺんに昇ったとき。――私とセキさんは、最後の口づけをした。
私の寝る前の習慣は、ベランダから空を眺めること。暑い夏も、寒い冬も。ヒスイ地方にいた頃はもっと暑かったし寒かったから、現代の寒さ暑さなんて気にならない。
永遠に世界は回り続ける。私がいなくても、セキさんはきっとまっすぐ生きただろう。ダイヤモンドみたいに意志の固いあの人のことだから、きっと、あの時代を一生懸命に生きただろう。
だからこうして、私がこの現代に生まれたの。
今ではもう知ることのできないあなたの気持ち。今ではもう伝えることのできない私の気持ち。それをどうか、なくさないていてって。なくしたくないって思うのは、やっぱりちょっと我儘かな?でもね、やっぱり私は忘れたくないな。
こんなにも月の輝く夜は、あなたを想うとざわめくこの胸を止めたくない。
あなたは誰かと幸せに笑って生きていたかな。私も誰かと笑って生きていけるかな。もう私とあなたの道が重なることはないけれど――でも、どうかあなたに幸せに生きていてほしいって。この月の下にいる時だけは、あなたと繋がれる気がするよって。セキさんも、そう思っていてくれたらいいなって。
部屋の机の横には、ケムッソの糸で織った丈夫なリュック。机の上には、ポケモン図鑑が完成した時にみんなで撮った記念写真。そして、ドレッサーには。
セキさんがくれたチョーカーが、月の光を浴びて輝いている。
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