ペパアオ

世界には果てがない。一歩踏み出せば、有限だったように見えていた世界はどこまでも広く、空は何処までも遠かった。Non Plus Ultra(ここは世界の果て)は嘘だ。だからこそこの言葉は後年PLUS ULTRA(より彼方へ)へと形を変えて、このパルデアという土地の風土を示す言葉になっている。

そう、世界には果てがない。立った一歩を踏み出す勇気だけで、無限に世界は広がっていく。その最初の一歩をくれたのは、他でもないアオイだった。

最初は打算だった。ミライドンを御することができるほどのトレーナーならば、秘伝スパイスを集めるのにちょうどいい手駒になると思っただけだった。けれど、アオイはそんなオレの打算を知ってか知らずか、それでもオレに付き合ってくれた。
アオイは表情豊かな奴だった。すぐ泣くし、すぐ笑うし、すぐ怒る。最初はそんなところがうるさいとばかり思っていたが、今ならわかる。親友になった今なら。いや、その前からわかっていたのかもしれない。オレは、アオイのそういうところに惹かれて、友達になりたいと思ったのだと。

同じ夢を見ていたい。同じ涙を流したい。同じ理由で、笑いたい。刻む鼓動のフレーズは、一緒がいい。おれたちが笑い合うその場所に、名前も知らない花が咲いていてほしい。そう思うようになるまで、時間はかからなかった。その感情を何と呼ぶのか、友情にしてはイタいのか、そればかりはとんとわからなかったけれど。
けれど、お揃いの夢を見たい。夢の先は世界の広さよりもずっと向こう側にあるけれど、それでも、アオイと同じ夢を見ていきたい。



「ペパー先輩、世界って広いですねぇ」
アオイは野原に寝転んで、その名前よりもずっと青い空に向かって手を伸ばした。
「そりゃ……広いな」
「物理的じゃなくて、わたしたちの冒険の話ですよ。わたし、こんなに世界に期待してなかった」
アオイが伸ばす手は、未来を掴もうとしている手だった。
つかむとはなすを繰り返した手だ。そして、それはオレも同じだった。

マフィティフの命はつかめた。けれど、父ちゃんの命まではつかめなかった。今頃、未来のどこかで旅をしているかもしれない父ちゃん……いや、偽物なのだが。それでも父ちゃんの想いを伝えてくれたアイツを思うと、オレもアオイの隣に寝転がって、空に手を伸ばしたくなる。
今頃、どこでなにをしているんだろう。ス、と手を太陽にかざすと、どこかでつながるような気がして。同じ空の下に、父ちゃんがいるような気がして。
「……アイツ、今頃どうしてるんだろうな」
「博士のこと?」
「ああ……アイツ偽物だったけどよ、でもな……」
愛していたと伝えてくれた。それだけで、よかったのに。オレたちを守るために、何処かに消えてしまったアイツ。そう思うと、どうにも心の中にあった一筋の糸が切れたようで、寂しさにつまづいて転びそうになることもある。
「……痛くないふりするのやめて、ペパー先輩」
「痛くねぇよ。別に!」
そう。今ではそう痛くないのだ。父親との繋がりが断たれても、代わりにオレだけの宝物もちゃんと見つけたから。ボタンもネモも一癖あるが、大切なダチになってくれた。ひとりだったオレの、ダチに。
そして、アオイも。独りぼっちで何でもしようとしていたオレに手を差し伸べてくれた最初の一人は、間違いなくアオイだったのだから。
オレは痛くないふりは得意じゃない。感情がすぐに顔に出てしまう。隠し事には向かないタイプの人間だと自覚している。だから父ちゃん……の偽物、が消えたときも、本当にもう父ちゃんとの繋がりが無くなるのだと理解し、相当落ち込んだ。けれど、ネモとボタンとアオイが三人がかりで、ミライドンまで合わさってオレに美味いメシを詰め込んだ。
美味かった。親を亡くしてすぐに飯なんて喉を通るか!と思ったものの、結局、食った飯は美味かった。アイツらがいたから、美味かったのだ。

涙が渇くほど、アオイたちはおれの手を引っ張ってどこまででも行ってくれた。どこまでも、付き合ってくれた。そうしたら、涙を流している暇なんて一切ない。手がかかるネモとボタンを制御するのに手いっぱいだ。そのうち、泣きたいと思うこともなくなって。過去は変えられないが、今を生きることはできるのだと、ダチたちが教えてくれたのだ。

光塗れの中で、いつだって遊べる。涙もあっさり乾くほどに、日々は加速していく。いつかの悲しみだって、忘れられるのだ。巡っていく季節ごとに、胸を刺す痛みは薄らいでいくから、もう痛くなどない。
「ぜーんぜん痛くねえ。毎日飯が美味ぇ!」
「それならいいけど。あ、そろそろお昼になるから先輩のサンドウィッチが食べたいな」
ミライドンもお腹空いたよねぇ、と言いながら、アオイは起き上がった。ミライドンもアギャス、と呑気な声をあげてオレをつつくものだから、やっぱり寂しさに足を取られている暇なんて全くない。
「んじゃオレの特製サンドウィッチ、やるか!」
「やったー!」
「アギャス!」
「……オマエに作ってやるとは言ってない」
「ギャ……」
「ペパー先輩、そろそろミライドンに張り合うのをやめてもらって……」
「張り合ってなんかないっての!冗談ちゃんだぜ」
パンも具材も、全員分ちゃんとある。オレの手持ちとアオイの手持ちの分持ってきた材料は重かったけれど、食べれば背中に背負った荷物も軽くなる。
「で、どんな味がいいんだ?」
「甘いの!」
「了解ちゃんだ」
リュックから果物の缶詰やジャムやらを取り出すと、アオイは目をきらきらさせながらオレの手つきを見ていた。アオイの瞳には、今、オレだけがいるのだ。それだけで自尊心が満たされる。
アオイは一番のダチだ。親友だ。だから、アオイの一番もオレであってほしい、などと考えるのはおこがましいのだろうか。
サンドイッチを作りながら見上げた青い空は、いつも変わらぬ明るさでそこにあった。


「うーん、おいしい」
「アギャス!」
「たんと食えよ、まだ具材も余ってるしな」
「おかわり無限……!」
「さすがにそれは有限だけどな?」
アオイはサンドウィッチに幸せそうにかじりついている。そう喜んで食べてくれると作り甲斐もあるというものだ。手持ちポケモンを全部ボールから出し、一匹一匹に平等にサンドウィッチを配った。みんな、美味しそうに食べるものだ。おれも一口かじると、甘いバナナとクリームがよく合っていた。
こんな日々が続けばいい、と思う。アオイも、そう思ってくれていたらいい。

ここは世界の果てではない。世界はここから広がるのだ。アオイを中心に、オレの世界は大きく広がっていく。過ぎ行く季節は奇跡の積み重ねだ。アオイは、オレを取り巻く現実を思いついた色でさっと塗り替えていってくれたものだから、もうオレの世界に黒なんて存在しない。青いのだ。どこまでも、どこまでも、遠く突き抜けるように青くなった。悲しみの色さえ消してくれたアオイが、やっぱり一番の親友で――
「ペパー先輩、おかわりください!」
ほっぺにクリームをつけたままオレに笑って見せるアオイが、胸を刺すほどに好き、なのだ。
いっそ認めてしまった方が楽なのだと気付いたのが数週間前。恋心を認めてしまえば、そこからの転落は早かった。好きだ。同じ夢を見たい。同じ理由で笑いたい。同じ理由で、泣きたい。こんなことは、好きじゃなきゃ思わないのだ。望むのは、オレとアオイがいつまでも同じ理由でそばにいる、そんなイメージ。つまりは、まあ……アオイにもオレと同じ熱量を持ってほしい、ということだ。
けれど、オレはまだその育った感情を、胸に咲いた透明な花を、アオイに見せられないままでいる。明日は相変わらずやってくるし、明日も、とアオイに言えば、喜んでついてくるだろう。明日も、明後日も。けれど、永遠ではない。

アオイを中心に広がっていく世界が、もっと狭かったらいいのにな。世界の果てまで、そう遠くなければよかったのにな。

アオイを好きになった理由は、アオイが世界を広げてくれたからなのに、欲しいと思えばこそその世界の広さが恨めしくなってしまう。世界の広さなんて傘一つ分で十分だ。オレとアオイが並んで入れるほどの広さがあればいい。そうすれば、アオイの世界はオレでいっぱいになるのに。オレだけに、なる、のに。
アオイの未来は、世界は、ずっとずっと広くて。いつかオレを置き去りにして「より彼方へ」行ってしまうのだろう。オレだけが独占していいものじゃない。そんなことは、わかっているけど。それでも、すきだ。好きで仕方ない。オマエの世界を、オレでいっぱいにしたいくらいに、好きだ。
アオイの手は未来を掴むための手だ。オレが奪っていいわけがない。今はまだ小さいその手が、いつか大きくなった時、それでもアオイはその指の一本くらいはオレのために差し出してくれるのだろうか。そう思うと、この恋のほうがよっぽど痛い。
「ペパー先輩?」
アオイが不思議そうにオレの顔を見た。その目にオレが映ることに、心臓が早鐘を打つ。それだけで満たされる、と思わなければいけない。アオイの未来を千切っていいのはオレではない。
「わりぃ、考え事してた。ほらよ」
新しく作ったサンドウィッチを渡すと、アオイはまた丸い瞳を輝かせて笑った。


解散した後、オレはベッドに寝転がって今日できた新しい幸せの時間を反芻する。今日も、幸せだった。アオイといられる時間は、幸せの積み重ねだ。胸にしっかり仕舞っておかなければならない。
アオイも、今日の時間を楽しかったと思ってくれているだろうか。オレと同じに、過ごした時間を胸に抱きしめていてくれているだろうか。同じ理由で笑った今日を、忘れないでいてくれるだろうか。欲ばかりが大きくなって、もう手に負えなくなってきた。

いっそ、この恋心を告げてしまった方が楽になれるのだろうか。ごめん、と振られれば、前と同じように親友の距離感に戻れるのだろうか。そんな事ばかりが頭の中をぐるぐると巡っている。
好きで、好きで、仕方ない。小さな体を抱きつぶしたい。世界の果てで海を見たい。そんな事ばかりを考えるのは、罪、なのだろうか。恋心を自覚してからというものの、毎日こうだ。
告げる勇気もないのなら、心の中に仕舞って大事にするしかない。秘めやかな恋ならば、なおさら。
けれど、より彼方へと歩いていくアオイが、オレから離れて行ってしまうことばかりが恐ろしい。遠くへ行かないでくれ。いつまでも、オレの隣にいてくれ。そう願うのならば告げてしまった方が何十倍もいい。けれど、アオイの広い世界をオレが閉ざしてしまってもいいのだろうか。思考は堂々巡りで、結局何もかもに怯えて夜を過ごすことになる。オレはいつまでこの気持ちを抱き続けるのだろうか。そんな苦しさが、アオイが塗ってくれた青い心に、一点の黒を染めつけるのだ。

アオイ。アオイ。すきだ。オマエに触れたい。世界なんて、オレとアオイの二人分だけで十分だ。彼方へ行かないでくれ。ここで、おわりでいい、のに。

そう思っていると、ささやかに寮のドアが叩かれる。ドアを開けると、そこにはアオイが静かに立っていた。
「どうしたんだよ、こんな時間に」
「こんな時間だから、ですよ」
アオイはにこりと笑った。廊下で立ち話もなんだから部屋に上げて、アオイをベッドに座らせる。温かいエネココアをアオイに渡すと、ありがとうございます、とアオイはコップに口をつけた。
「……で、何なんだよ。こんな時間だからって」
「今日は流れ星が見えるって言うから、ペパー先輩と見たくて」
「……ああ、そうかよ。今見えるのか?」
「多分そろそろ」
ベッドから窓の外を見ると、確かに満天の星空から光の筋が降るのが見えた。アオイも同じく靴を脱いでベッドに乗りあがり、オレのすぐ隣で窓から星空を見上げている。
「おお、本当だ」
「ねえペパー先輩、流れ星が見えてから消える前に願い事を言うと叶うってジンクス知ってますか?」
「いや、知らねえ」
「そうだろうなぁ、わたしが一時期住んでた他の地方での言い伝えだから」
「ふうん……じゃあアオイは何か願い事でもあるのか?」
聞くと、アオイは小さく頷いた。
「ねえ、流れ星がいっぱいあるから、いくらでもお願いできそうだね。ペパー先輩はやっぱり料理人になりたい、とか?」
「そうだな。まあ他にも……あるかもしれないけど」
嘘だ。アオイからそのジンクスを聞いて一番に頭に浮かんだのは、「アオイの一番になりたい」だった。でも、それを願うにも、罪悪を感じる。おれは誤魔化しながら、「じゃあアオイの願い事は?」と話を変える。
「私の願い事はねぇ……」
青いは空を眺めていた視線を、オレにそっと向けた。
「ペパー先輩の一番になりたい、かな」
優しいキャラメル色の瞳が、オレだけを映してかすかに揺らいだ。
「そ、そんなの」
オレもだぜ、と言いたかった。けれど、言っていいのか。アオイはオレと同じ夢を見てくれるのか。オレと、世界の果てまで行ってくれるのか。オレと一緒にいるということは、オマエの広がる未来を狭くする。
「嫌……ですか?」
嫌じゃない。オレの世界は、オレとオマエで傘をさすくらいの広さでいい。でも、アオイもそれでいいのか。
「……オレ、束縛強いぜ」
「うん」
「オマエがどっか遠くに行くのとか、絶対許せそうにない」
「うん」
「世界の広さに希望を持たせてやることも、できない」
「それでもいいよ」
「……世界に期待してたんじゃないのか」
「わたしがペパー先輩をどこまででも連れていくよ」
そういうアオイの瞳には、嘘もなにもなかった。ただ、オレだけを映して静かに揺蕩っている。アオイの頬に手を伸ばすと、アオイは嫌がりもせずにオレの手に自分の手を重ねた。
「ペパー先輩もわたしのことが好き……ってことでいい?」
アオイの唇が小さく弧を描く。アオイは、世界の広さも、オレのことも、どっちも諦めちゃいないのだ。
「……全く、欲張りちゃんだぜ」
「よく言われる」
握られた手が熱い。オレも、アオイも、今この瞬間だけ、同じ夢を見ている。同じ理由で、鼓動もお揃いになっている。恋をしているのは、オレだけじゃないのだ。それを確かめたくてアオイを胸に引き寄せると、ドクンドクンと同じ速さで心臓の音が重なった。
「お揃いだね、先輩」
「そう、だな」
「ねえ、言って。先輩の気持ち」
アオイは静かに呟いた。同じ夢を見たい。同じ理由で笑いたい。同じ理由で、泣きたい。アオイが広い世界に飛び立つならその指一本分くらいオレに掴む権利をくれよと思っていたけれど、こうなってしまえば指一本分の温もりじゃ足りない。全部だ。全部欲しい。つかむとはなすを両方経験したその手を、熱を、全部欲しい。
「……好きだ、アオイ」
抱きしめたアオイの耳元でそう言うと、アオイもオレの背中に腕を回してきた。オレのシャツを強く握りしめるその指は、微かに震えている。
もう、流れ星に願いをかける必要もない。一番の願いは、こうして叶った。

そっとアオイをベッドに押し付けると、アオイは嫌がりもせずにベッドに倒れた。溶けたキャラメルの瞳に怯えなどない。ああ、世界が広がっていく。未体験が、まだここにある。アオイは、何処までオレを連れて行ってくれるのだろうか。勢いのまま、オレはアオイにそっと唇を重ねた。
世界がじわりとアオイを中心に広がっていく。まるで、夢でも見ているかのように。
オレとアオイの世界は傘の広さだけでいいと思った。けれど、世界はより深くなる。触れたところから、知らない世界がゆっくりと深みを増していく。ああ、やっぱり世界には果てがない。物理的な広さだけではなくて、心にも深く世界が広がっていくのを感じる。

より、彼方へ。二人でならどんな深みへも落ちられる。アオイが手を引いてくれるなら、物理的な広さも、精神的な深みも、どちらも価値がある。オレは、オマエとどこまでも一緒に行きたい。
重なる二つの鼓動。それは高みへの片道切符。未来色に染まった二つの心に、帰り道など、要らないのだ。




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