ペパアオ
目を閉じたら、オマエのことを瞳の奥に残しておけるだろうか。
アオイが急に倒れ、病院に運ばれてから3か月になる。あの日、オレがアオイに好きだと伝えて真っ赤に染まった丸い頬は、すっかり痩せこけていた。
病名は、教えてもらえなかった。けれどオレがアオイと面会している間に来た回診の医者の表情は、日に日に何かを諦めているようなものになっていって。アオイのつやつやだった唇は、少しずつカサカサになっていって。手も、骨ばっていって。パジャマの下に見える鎖骨は、すっかり浮き出ていた。
「どこ見てるの、ペパー先輩」
アオイは胸を隠して笑ってみせる。けれど、その腕もすっかりやせ細ってしまっていた。
「アオイ」
「何?先輩」
「あんなに秘伝スパイス食ったのに、何で病気になっちまったんだよ」
「なんで、でしょうね?」
おどけてみせるアオイが憎い。ふざけてみせるな。苦しいって言え、怖いって言ってくれよ。そうすれば、オレはアオイを慰めるために抱きしめてやれたって言うのに、アオイはそれすら許してくれない。
前ほど、温かくて柔らかいアオイではないだろう。きっと、骨が浮き出たアオイの体は冷たくて硬い。それでもいい。それでいいから、アオイを抱きしめてやりたかった。けれど、それだけの弱ささえアオイはオレに見せてくれやしないのだ。オレの前では気丈に振舞って見せるばかりで、オレに何も求めてくれない。
目の下にある濃い隈を見ればわかる。きっと夜は不安に押しつぶされそうで眠れていないのだろう。それでも、アオイはオレに笑ってみせる。恐れなど知らないように。不安など、忘れたように。そんな表情を嘘だと分かっているのに、求めてくれないからとひねくれているオレもオレだ。毎日、面会時間が終わった後に、やっぱり抱きしめればよかった。と後悔を抱えて寮に戻るオレも、どうしようもなくグズだった。
アオイはいつ退院できるだろうか。いつ、元気になるだろうか。退院したら、どこか美味しい飯屋で、もしくは天気のいい原っぱでピクニックを……そんなことを考えているうちに、もう3か月も経ってしまった。アオイの具合は良くなるどころか、日に日にベッド周りに機械が増えていって。少しずつ痩せていくアオイの姿を、見つめていることしかできないオレが情けなくて、苦しい。
アオイ。光塗れの中で、何度も会えた。アオイの姿を見るたびに、オレの世界は色付いた。大切なものはこの世に一つしかないものじゃなくて、いくらだって胸に持っていいと、アオイのおかげでやっと知ることができたのに、その大切なもののひとつが今、オレの指から離れようとしている。
丸くて柔らかかった頬まで、あと何センチ手を伸ばせば届く?光の中で微笑むアオイまで、あと何光年で辿り着ける?――全部、もう過去だ。何センチも、何光年も、変わらない。届かないという意味では、どちらも同じだ。
分かった。分かっている。アオイの命はもう――そんなに、長くないことを。心電図が、ピ……ピ……とか弱い鼓動を示している。弱弱しくなるアオイの姿を見るたびに、目を逸らしていた現実。これが、現実なのだ。心電図の音がやけに大きく聞こえて、オレはただ、気丈に振舞うアオイの前で、ただ俯くことしかできずに。そんな日々で涙を流そうものなら、アオイが遠くに行ってしまうのを認めたようなものだ。だから、泣けなかった。泣かなかった。けれど、ここに至っては。体を起こすこともできなくなって、もう食事を摂ることもできなくなって、腹にチューブを通されてしまったアオイの姿を見れば、もう。ああ、もうピクニックでサンドイッチを頬張るアオイの姿なんて見られないということが、明確になる。
「アオイ」
「なぁに」
「オレが、秘伝スパイスいっぱい持ってくるから、取ってくるからよ。だから、治ってくれよ。マフィティフだって治ったんだ、アオイも治ってくれよ」
窓際にある、誰かが見舞いで持ってきたのであろう花瓶に飾られた花がひとひら、またひとひらと落ちていく。それに合わせるように、オレの目からも涙が滑り落ちた。胃ろうをされているのだ、もう秘伝スパイスだって口には入れられない。どこぞから拾ってきた怪しい草をアオイの口に入れるなんて、医者だって許さない。でも、それでもさ。マフィティフだって良くなったんだから、アオイだって良くなるだろって。そうしたらこんな機械類もチューブも取れて、また一緒にサンドイッチを食べられる未来があるかもしれないじゃないかって。アオイの細い指に縋りつくと、その手はやっぱりひどく冷たかった。
「……ペパー先輩」
「死なないでくれよ、頼む。いなくなるなよ。オレ、何でもするから……」
「先輩……」
涙で滲んだ視界で、アオイが困ったように微笑んでいるのが見えた。
「大好きです、ペパー先輩」
「知ってる……オレも、アオイが好きだ」
「うん。だから、もう少しだけ手を握ってて」
「そんなこと、くらい、いくらでも」
アオイの指にオレの指を絡める。冷たい指先が、オレの温度で温まればいいのに。祈っても、アオイの指は冷たいままだ。
好きだ。こんなにも、好きだ。アオイがいない未来を想像できない。明日には、前のように元気にオレの名前を呼んでほしい。オレが作ったサンドイッチを口いっぱいに頬張ってほしい。そうして、笑ってほしい。頬を薄い花色に染めてほしい。そんな願いは、バラバラになって床に降り積もって。オレの心がもし見えるのならば、きっともう山のようになっている。アオイの手で、このパラバラの感情をくっつけて形にしてほしい。それくらい愛している、のに。
「……さよなら」
アオイが、残酷な呪文を小さな声で唱えた。瞬間、心電図がやけに大きな音をたてて、アオイの指先がオレの手からこぼれていった。絡めた指が、少しずつ離れていく。
「アオイ!」
返事は、無かった。
そこからは何もわからない。医者と看護師が飛んできて、オレは病室から追い出された。それからどれくらいの時間が経ったか、アオイの母親が走ってきて、それから何人もアオイの病室に入っていって、出て行って……最後に、アオイが寝かされたベッドが、何処かに運ばれていった。もう機械もチューブもついていない、アオイだけが。
アオイの母親がオレに頭を下げて何かを言っていたけれど、その内容も頭に入ってこない。
指の隙間からオマエの手が離れていったことだけが、純然たる事実だった。
小さくさよならを唱えた声だけが、頭の中に残っている。目を閉じれば、いくらだってアオイの姿が思い出せる。でも、もうオマエだけがいない世界に、オレは置き去りにされて。いくら名前を呼んでも、もう元には戻らない。明日も、明後日も、その先も、アオイはいない。それが胸を埋め尽くして、オレはもう、何処にも行けない。アオイが見たら、こんなオレを笑うだろう。でも、もう笑うアオイはいない。さよならひとつで、オマエは消えてしまった。
夢を見る。アオイが、綺麗な花が咲く野原で笑っている。花を摘んでは胸に抱えて、オレの名前を呼ぶ。いつもと変わらない声で、笑顔で、たくさんの花を胸に、オレを呼ぶのだ。けれど、その花が散りゆくと同時に、オレは目覚めてしまう。そうして、オレはもうアオイに触れられないことを思い出しては涙を流すのだ。
さよならの声が忘れられない。忘れたくない。泣いているオレに、マフィティフが優しく寄り添ってくれる。毎朝、こんな時間を繰り返して。けれど、こうならない朝が来てほしくないとも思ってしまう。
アオイを思い出しては泣いていられる間だけ、オレはアオイのことを忘れないでいられるから。――忘れてしまった時、泣かなくなった時、本当にオレたちの恋は終わってしまうのだろう。そう思ったら、毎日涙を流す方がいい。
「マフィティフ、もう大丈夫だぜ」
柔らかい毛並みを撫でると、マフィティフはオレの手を舐めた。
大丈夫じゃないオレでいたい。まだオレは、さよならなんて言いたくない。苦しいざわめきだけを胸に残しておきたい。だから、閉じた瞼の裏側で、また笑ってくれ。こんなオレを、いつまでも笑ってくれ。さよならは、まだ胸の底にとっておく。あともう少しだけ、できれば一生、オレを笑っていてほしい。
アオイが急に倒れ、病院に運ばれてから3か月になる。あの日、オレがアオイに好きだと伝えて真っ赤に染まった丸い頬は、すっかり痩せこけていた。
病名は、教えてもらえなかった。けれどオレがアオイと面会している間に来た回診の医者の表情は、日に日に何かを諦めているようなものになっていって。アオイのつやつやだった唇は、少しずつカサカサになっていって。手も、骨ばっていって。パジャマの下に見える鎖骨は、すっかり浮き出ていた。
「どこ見てるの、ペパー先輩」
アオイは胸を隠して笑ってみせる。けれど、その腕もすっかりやせ細ってしまっていた。
「アオイ」
「何?先輩」
「あんなに秘伝スパイス食ったのに、何で病気になっちまったんだよ」
「なんで、でしょうね?」
おどけてみせるアオイが憎い。ふざけてみせるな。苦しいって言え、怖いって言ってくれよ。そうすれば、オレはアオイを慰めるために抱きしめてやれたって言うのに、アオイはそれすら許してくれない。
前ほど、温かくて柔らかいアオイではないだろう。きっと、骨が浮き出たアオイの体は冷たくて硬い。それでもいい。それでいいから、アオイを抱きしめてやりたかった。けれど、それだけの弱ささえアオイはオレに見せてくれやしないのだ。オレの前では気丈に振舞って見せるばかりで、オレに何も求めてくれない。
目の下にある濃い隈を見ればわかる。きっと夜は不安に押しつぶされそうで眠れていないのだろう。それでも、アオイはオレに笑ってみせる。恐れなど知らないように。不安など、忘れたように。そんな表情を嘘だと分かっているのに、求めてくれないからとひねくれているオレもオレだ。毎日、面会時間が終わった後に、やっぱり抱きしめればよかった。と後悔を抱えて寮に戻るオレも、どうしようもなくグズだった。
アオイはいつ退院できるだろうか。いつ、元気になるだろうか。退院したら、どこか美味しい飯屋で、もしくは天気のいい原っぱでピクニックを……そんなことを考えているうちに、もう3か月も経ってしまった。アオイの具合は良くなるどころか、日に日にベッド周りに機械が増えていって。少しずつ痩せていくアオイの姿を、見つめていることしかできないオレが情けなくて、苦しい。
アオイ。光塗れの中で、何度も会えた。アオイの姿を見るたびに、オレの世界は色付いた。大切なものはこの世に一つしかないものじゃなくて、いくらだって胸に持っていいと、アオイのおかげでやっと知ることができたのに、その大切なもののひとつが今、オレの指から離れようとしている。
丸くて柔らかかった頬まで、あと何センチ手を伸ばせば届く?光の中で微笑むアオイまで、あと何光年で辿り着ける?――全部、もう過去だ。何センチも、何光年も、変わらない。届かないという意味では、どちらも同じだ。
分かった。分かっている。アオイの命はもう――そんなに、長くないことを。心電図が、ピ……ピ……とか弱い鼓動を示している。弱弱しくなるアオイの姿を見るたびに、目を逸らしていた現実。これが、現実なのだ。心電図の音がやけに大きく聞こえて、オレはただ、気丈に振舞うアオイの前で、ただ俯くことしかできずに。そんな日々で涙を流そうものなら、アオイが遠くに行ってしまうのを認めたようなものだ。だから、泣けなかった。泣かなかった。けれど、ここに至っては。体を起こすこともできなくなって、もう食事を摂ることもできなくなって、腹にチューブを通されてしまったアオイの姿を見れば、もう。ああ、もうピクニックでサンドイッチを頬張るアオイの姿なんて見られないということが、明確になる。
「アオイ」
「なぁに」
「オレが、秘伝スパイスいっぱい持ってくるから、取ってくるからよ。だから、治ってくれよ。マフィティフだって治ったんだ、アオイも治ってくれよ」
窓際にある、誰かが見舞いで持ってきたのであろう花瓶に飾られた花がひとひら、またひとひらと落ちていく。それに合わせるように、オレの目からも涙が滑り落ちた。胃ろうをされているのだ、もう秘伝スパイスだって口には入れられない。どこぞから拾ってきた怪しい草をアオイの口に入れるなんて、医者だって許さない。でも、それでもさ。マフィティフだって良くなったんだから、アオイだって良くなるだろって。そうしたらこんな機械類もチューブも取れて、また一緒にサンドイッチを食べられる未来があるかもしれないじゃないかって。アオイの細い指に縋りつくと、その手はやっぱりひどく冷たかった。
「……ペパー先輩」
「死なないでくれよ、頼む。いなくなるなよ。オレ、何でもするから……」
「先輩……」
涙で滲んだ視界で、アオイが困ったように微笑んでいるのが見えた。
「大好きです、ペパー先輩」
「知ってる……オレも、アオイが好きだ」
「うん。だから、もう少しだけ手を握ってて」
「そんなこと、くらい、いくらでも」
アオイの指にオレの指を絡める。冷たい指先が、オレの温度で温まればいいのに。祈っても、アオイの指は冷たいままだ。
好きだ。こんなにも、好きだ。アオイがいない未来を想像できない。明日には、前のように元気にオレの名前を呼んでほしい。オレが作ったサンドイッチを口いっぱいに頬張ってほしい。そうして、笑ってほしい。頬を薄い花色に染めてほしい。そんな願いは、バラバラになって床に降り積もって。オレの心がもし見えるのならば、きっともう山のようになっている。アオイの手で、このパラバラの感情をくっつけて形にしてほしい。それくらい愛している、のに。
「……さよなら」
アオイが、残酷な呪文を小さな声で唱えた。瞬間、心電図がやけに大きな音をたてて、アオイの指先がオレの手からこぼれていった。絡めた指が、少しずつ離れていく。
「アオイ!」
返事は、無かった。
そこからは何もわからない。医者と看護師が飛んできて、オレは病室から追い出された。それからどれくらいの時間が経ったか、アオイの母親が走ってきて、それから何人もアオイの病室に入っていって、出て行って……最後に、アオイが寝かされたベッドが、何処かに運ばれていった。もう機械もチューブもついていない、アオイだけが。
アオイの母親がオレに頭を下げて何かを言っていたけれど、その内容も頭に入ってこない。
指の隙間からオマエの手が離れていったことだけが、純然たる事実だった。
小さくさよならを唱えた声だけが、頭の中に残っている。目を閉じれば、いくらだってアオイの姿が思い出せる。でも、もうオマエだけがいない世界に、オレは置き去りにされて。いくら名前を呼んでも、もう元には戻らない。明日も、明後日も、その先も、アオイはいない。それが胸を埋め尽くして、オレはもう、何処にも行けない。アオイが見たら、こんなオレを笑うだろう。でも、もう笑うアオイはいない。さよならひとつで、オマエは消えてしまった。
夢を見る。アオイが、綺麗な花が咲く野原で笑っている。花を摘んでは胸に抱えて、オレの名前を呼ぶ。いつもと変わらない声で、笑顔で、たくさんの花を胸に、オレを呼ぶのだ。けれど、その花が散りゆくと同時に、オレは目覚めてしまう。そうして、オレはもうアオイに触れられないことを思い出しては涙を流すのだ。
さよならの声が忘れられない。忘れたくない。泣いているオレに、マフィティフが優しく寄り添ってくれる。毎朝、こんな時間を繰り返して。けれど、こうならない朝が来てほしくないとも思ってしまう。
アオイを思い出しては泣いていられる間だけ、オレはアオイのことを忘れないでいられるから。――忘れてしまった時、泣かなくなった時、本当にオレたちの恋は終わってしまうのだろう。そう思ったら、毎日涙を流す方がいい。
「マフィティフ、もう大丈夫だぜ」
柔らかい毛並みを撫でると、マフィティフはオレの手を舐めた。
大丈夫じゃないオレでいたい。まだオレは、さよならなんて言いたくない。苦しいざわめきだけを胸に残しておきたい。だから、閉じた瞼の裏側で、また笑ってくれ。こんなオレを、いつまでも笑ってくれ。さよならは、まだ胸の底にとっておく。あともう少しだけ、できれば一生、オレを笑っていてほしい。