ムベショウ
ムベさんの背中は、私から見たらちょっと遠いの。まるで誰にも近寄られたくないとでも言いたげな背中。優しいおじいちゃんを気取るその笑みとは裏腹に、あなたの背中ってとっても遠いの。まるで、手が届かない。西の空に浮かぶ金星が、たった1時間くらいで消えてしまうのと同じように、いくら追いかけたって届きやしない冷たい背中に手を伸ばしても――いつものイモヅル亭のご主人の笑顔で、私に本心を隠す。
私はその理由がわからないほど子供でもない。完全に理解できるほど大人でもないけれど。
ムベさんは、何も求めていないの。愛も、恋も、色も、酔いも、熱も。そんなものはいらないって、冷たい背中で示しているの。そんなムベさんに恋をしてしまったのが運の尽き、私はムベさんのことが好きだけれど、それを告げることもできないまま、季節は何週回ったものか。今年も一番星が宵の空を飾る冬になってしまった。満ちては欠けていく月がまた満ちても、何度そんな日々を繰り返しても、私は。ただ好きだという思いを持て余して、今日も一番星にさよならを告げるだけ、なの。
「ムベさん」
「何じゃ、ショウよ」
「……今日もとってもおいしいです!」
「そうか、そうか」
イモヅル亭のご主人の笑みを浮かべるムベさんに、私は今日も何も言えない。
ねえ、現実っていつまでもあるものじゃないってわかってるの。明日も明後日も当たり前にあるような気がしているけれど、それも永遠じゃないって、知ってるの。
だからこの恋は胸に隠したままでいようか、だなんて思う日ばかりだ。隠したままでいれば、ムベさんはいつだって私に微笑んでくれる。優しくしてくれる。でも、恋を告げたらどうなるの?いまあなたに恋を伝えて、そうしたらきっと現実は変わっちゃって、私だって変わってしまって、今まで通りの今日と違う未来がやってくる。それが怖いの。
――臆病者。心の中で、ムベさんからの愛を求める私が囁いた。
好きよ、好きです。たった一つの言葉を吐き出したら、きっと明日は見たこともない景色があるの。それはきっと、暗い世界だ。ムベさんは何も求めていない。ましてや、まだ子供な私からの愛なんて。きっと、「すまん」とだけ言われるのだろう。そうしたら、私はもうムベさんにいつも通り顔を合わせることなんてできないよ。だって私はまだ大人じゃないから。子供というほどでもないけれど、まだ大人でもない。傷付くことが怖いから、痛いから、悲しいから、そんな言葉も出て来やしない。好きって気持ちにはきっと終わりはないし、この先もずっとムベさんのことが好きなまま、だけれど。
「――」
息の詰まった呼吸。小さな間に、ムベさんは首を傾げた。
「如何した、ショウ」
「な、なんでも、ないです」
好きがバレないように、口いっぱいにご飯を詰めた。止まってよ。こんな呼吸、止まってしまえばいいのに。鼓動も止まってよ。ご飯をいっぱい口に詰め込んだ私の前に、温かいお茶がそっと置かれた。その優しさが、嬉しくて、苦しくて。
ムベさん、あなたが私に色や愛や恋を望んでくれればいいのに。でも、ねえ。あなたが私に向ける微笑みには、優しさはあっても愛がないの。恋がないの。月が満ちるように、少しずつでも私に恋を抱いてくれていたらよかったけれど――私があなたの寂しげな視線に怯えている間は、秘かな恋を許されている間だけは、変わってしまう現実を当然だと受け入れずに済むのだ。
冬の空を飾る一番星は遠いの。手が届かないの。すぐに消えてしまうの。だけど、こんな夜で甘やかな夢を終わらせたくない。
ねえムベさん、私の夢の中でだけ、私を好きと言って。愛も、恋も、色も、酔いも、熱も、全部私から欲しいって言って。そんなの現実じゃないって、わかっているけど――現実を変えてしまうよりずっとマシだから。
西の空で、太陽は死ぬところ。一番星も、一緒に。掴めるものなら、掴み取って箱に仕舞ってしまいたい。
遠い遠い、一番星みたいな背中。愛してる、愛してるの。臆病な呼吸が胸を苦しくさせるけれど、あなたに抱いた熱がバレるのが怖くて、私はあなたの前では涙も流せない。
私はその理由がわからないほど子供でもない。完全に理解できるほど大人でもないけれど。
ムベさんは、何も求めていないの。愛も、恋も、色も、酔いも、熱も。そんなものはいらないって、冷たい背中で示しているの。そんなムベさんに恋をしてしまったのが運の尽き、私はムベさんのことが好きだけれど、それを告げることもできないまま、季節は何週回ったものか。今年も一番星が宵の空を飾る冬になってしまった。満ちては欠けていく月がまた満ちても、何度そんな日々を繰り返しても、私は。ただ好きだという思いを持て余して、今日も一番星にさよならを告げるだけ、なの。
「ムベさん」
「何じゃ、ショウよ」
「……今日もとってもおいしいです!」
「そうか、そうか」
イモヅル亭のご主人の笑みを浮かべるムベさんに、私は今日も何も言えない。
ねえ、現実っていつまでもあるものじゃないってわかってるの。明日も明後日も当たり前にあるような気がしているけれど、それも永遠じゃないって、知ってるの。
だからこの恋は胸に隠したままでいようか、だなんて思う日ばかりだ。隠したままでいれば、ムベさんはいつだって私に微笑んでくれる。優しくしてくれる。でも、恋を告げたらどうなるの?いまあなたに恋を伝えて、そうしたらきっと現実は変わっちゃって、私だって変わってしまって、今まで通りの今日と違う未来がやってくる。それが怖いの。
――臆病者。心の中で、ムベさんからの愛を求める私が囁いた。
好きよ、好きです。たった一つの言葉を吐き出したら、きっと明日は見たこともない景色があるの。それはきっと、暗い世界だ。ムベさんは何も求めていない。ましてや、まだ子供な私からの愛なんて。きっと、「すまん」とだけ言われるのだろう。そうしたら、私はもうムベさんにいつも通り顔を合わせることなんてできないよ。だって私はまだ大人じゃないから。子供というほどでもないけれど、まだ大人でもない。傷付くことが怖いから、痛いから、悲しいから、そんな言葉も出て来やしない。好きって気持ちにはきっと終わりはないし、この先もずっとムベさんのことが好きなまま、だけれど。
「――」
息の詰まった呼吸。小さな間に、ムベさんは首を傾げた。
「如何した、ショウ」
「な、なんでも、ないです」
好きがバレないように、口いっぱいにご飯を詰めた。止まってよ。こんな呼吸、止まってしまえばいいのに。鼓動も止まってよ。ご飯をいっぱい口に詰め込んだ私の前に、温かいお茶がそっと置かれた。その優しさが、嬉しくて、苦しくて。
ムベさん、あなたが私に色や愛や恋を望んでくれればいいのに。でも、ねえ。あなたが私に向ける微笑みには、優しさはあっても愛がないの。恋がないの。月が満ちるように、少しずつでも私に恋を抱いてくれていたらよかったけれど――私があなたの寂しげな視線に怯えている間は、秘かな恋を許されている間だけは、変わってしまう現実を当然だと受け入れずに済むのだ。
冬の空を飾る一番星は遠いの。手が届かないの。すぐに消えてしまうの。だけど、こんな夜で甘やかな夢を終わらせたくない。
ねえムベさん、私の夢の中でだけ、私を好きと言って。愛も、恋も、色も、酔いも、熱も、全部私から欲しいって言って。そんなの現実じゃないって、わかっているけど――現実を変えてしまうよりずっとマシだから。
西の空で、太陽は死ぬところ。一番星も、一緒に。掴めるものなら、掴み取って箱に仕舞ってしまいたい。
遠い遠い、一番星みたいな背中。愛してる、愛してるの。臆病な呼吸が胸を苦しくさせるけれど、あなたに抱いた熱がバレるのが怖くて、私はあなたの前では涙も流せない。