ムベショウ
雨音を聞いていた。旋律を奏でるような雨が、私に降り注ぐ。コトブキムラに久々に雨が降っている。恵みの雨だ。傘なんて持っていない私は、雨の中を歩いていた。心臓の音が雨音に合わせて踊るの。それが心地良いけれど、やっぱり雨は冷たくて。
私は、ついさっき振られたのだ。大好きな人に。ずっと、好きだった人に。あたしはまだ子供なりに、その人のことが好きだ。愛というものはまだ知らないけれど、この想いが恋ということだけはわかる。だから一人で盛り上がって、一人で浮かれて、浮かれた拍子に恋を告げて、そうしてあっさり振られてしまったというわけだ。情けない。
明日から、どんな顔であの人に会えばいいのだろう。毎日に近い頻度で会うというのに、私ってやつは勝手に浮かれて、勝手に泣いている。
私の好きな人は、感情を隠すのが上手な人だから、きっと明日からも変わらない態度で私に接してくれる。そして、私だけが気まずくなる。こんなことなら好きだなんて言わなければよかった。想いなんて、伝えなければよかった。雨のおかげで涙は隠れている。だから、傘なんていらないの。
――けれど、私に降り注ぐ雨が急に止まった。視界は雨で一杯なのに、突然に私の周りだけ雨が止んで――違う。
「風邪をひくぞ」
愛しい声が、背後から聞こえた。さっき私を振った人の声。振り返ると、果たしてそこにはムベさんが私に傘を差し出していた。
「ムベ、さん」
ざぁざぁ鳴りに、心臓の音が重なる。ついさっき振られたばかりだけれど、私はまだムベさんのことが、好きなのだ。
「風呂に入って体を温めるといい」
「ムベさん……」
「何も、言うな」
どうして、私を振ったばかりの癖に、そんなに優しいの。私のことなんて想ってないくせに、あなたはこうして私に優しくするの。苦しいよ、悔しいよ。涙はもう雨で隠れてはくれない。
どうして、どうして。さっき、歳の差がありすぎるって私を振ったのに。ねえ、私がもっと大人で、あなたがもう少し若かったら、あなたは私を受け入れてくれたのだろうか。ないものねだりなのはわかっている。でも、もしムベさんが私を想うなら、こんな優しさなんて与えないでほしかった。私、あなたの傍にいるほどにあなたのことが好きになってしまうのだから。
雨音と同じリズムで動く心臓が痛いよ。傘の中でだけは二人きりなのに、あなたが私のことを愛していないという現実だけが、ここにあるの。二人の呼吸が傘の中で重なっても、想いばかりは伝わらない。
「ムベさん、好き、好きなの」
もう隠せない涙が頬から滑り落ちた。涙声。冷めない微熱。また振られるのをわかっていても、微熱が下がらないの。どうか嘘でも構わないから、受け止めてほしい。この傘の国の中でだけでいいから、愛していると言ってほしい。
「……ショウ」
「好きなんです。耐えきれないくらい、好きなんです」
「あんたはまだ若い。わしはあんたを幸せにはしてやれん」
「そんなの構わないくらい、好きなの。大好きなんです。本当に、大好きなんです」
美しい嘘でいい。ため息を吐かないで。傘の骨を伝ってビーズみたいにきらめく二人だけの中でだけでいい。たった今、この一瞬だけでいい。叶わない願いだということなんて、わかってる。それでもどうか。その薄い唇から、美しい嘘をついて。
ショウから告白を受けた。好きです、と言葉を紡ぐ唇が震えているのを、見ていた。
わしもだ。そう言えたらどれだけ良かっただろう。好きだ。わしも、あんたのことを好いておるよ、と。ただそれだけの返事が出来たら、本当に。どれだけ良かったか。
けれどこの身は最早死に向かうほうがよっぽど早く。ショウと共に過ごせる時間は残り少ない。ショウの未来を想えばこそ、断る以外の選択肢はなかった。
雨音が欺きを隠していく。ショウが逃げるように走っていった先から、雨がざあざあと降り始めた。
雨は無情を刻む。ショウを想う自分の心を欺いた。けれど、これでよかった。これしか、なかった。
あと何年生きられるだろうか。あと何年、ショウの笑顔を見ていられるだろうか。そんなことばかりを、ずっと考えていた。わしにとってショウは、永遠を咲く花だった。夢のような色をした、花だった。触れたい。手折りたい。けれどそうすれば、たった数年のうちにショウの未来を闇に閉ざしてしまう。そう思えばこそ、好きだなんて言葉は口から出てくるはずもない。
好きだ。愛している。名前を付けるなら、これが唯一の恋だ。けれど、美しい花を手折るのが怖い。自分のせいで美しい花が枯れていくのが怖い。愛を知らぬ臆病者が、この自分だった。
このまま突き放せばよかった。明日から、素知らぬ顔でいられれば良かった。けれど、ふらふらと雨の中を歩くショウの後ろ姿を見て、嗚呼、どうして。わしは店先から傘を抜き、彼女に差し出していたのだから。
雨はもう涙を隠さない。大きな目から涙をこぼすショウを見て、胸が痛む。こんな表情をさせてしまったのはこの自分に他ならない。
愛を知った。けれど、相果てる愛だった。誰も幸せにはなれない愛だった。雨粒が天蓋のように広がる中、ショウは泣いていた。わしを好きだとしゃくりあげながら、泣いていた。
雨音が心臓と同じ速さで地面に落ちる。ショウよ、この二人だけの小さな世界でなら、お前を好きだと言っていいものか。たった数年後には、わしはお前に左様ならを言わねばならない。愛している。愛しているからこそ、それが怖いのだ。
恐れを感じたのは、これが初めてだ。こんなことなら、愛など知らずに生を終えればよかった。けれど、お前を愛してしまったがために。
「ムベさん、好き、好きなの」
そう言いながら涙を流すお前の頬に、どうやって触れればいいかもわからない。
お前を想うほどに上がる微熱を、この冷たい雨で流し去ってくれ。
私は、ついさっき振られたのだ。大好きな人に。ずっと、好きだった人に。あたしはまだ子供なりに、その人のことが好きだ。愛というものはまだ知らないけれど、この想いが恋ということだけはわかる。だから一人で盛り上がって、一人で浮かれて、浮かれた拍子に恋を告げて、そうしてあっさり振られてしまったというわけだ。情けない。
明日から、どんな顔であの人に会えばいいのだろう。毎日に近い頻度で会うというのに、私ってやつは勝手に浮かれて、勝手に泣いている。
私の好きな人は、感情を隠すのが上手な人だから、きっと明日からも変わらない態度で私に接してくれる。そして、私だけが気まずくなる。こんなことなら好きだなんて言わなければよかった。想いなんて、伝えなければよかった。雨のおかげで涙は隠れている。だから、傘なんていらないの。
――けれど、私に降り注ぐ雨が急に止まった。視界は雨で一杯なのに、突然に私の周りだけ雨が止んで――違う。
「風邪をひくぞ」
愛しい声が、背後から聞こえた。さっき私を振った人の声。振り返ると、果たしてそこにはムベさんが私に傘を差し出していた。
「ムベ、さん」
ざぁざぁ鳴りに、心臓の音が重なる。ついさっき振られたばかりだけれど、私はまだムベさんのことが、好きなのだ。
「風呂に入って体を温めるといい」
「ムベさん……」
「何も、言うな」
どうして、私を振ったばかりの癖に、そんなに優しいの。私のことなんて想ってないくせに、あなたはこうして私に優しくするの。苦しいよ、悔しいよ。涙はもう雨で隠れてはくれない。
どうして、どうして。さっき、歳の差がありすぎるって私を振ったのに。ねえ、私がもっと大人で、あなたがもう少し若かったら、あなたは私を受け入れてくれたのだろうか。ないものねだりなのはわかっている。でも、もしムベさんが私を想うなら、こんな優しさなんて与えないでほしかった。私、あなたの傍にいるほどにあなたのことが好きになってしまうのだから。
雨音と同じリズムで動く心臓が痛いよ。傘の中でだけは二人きりなのに、あなたが私のことを愛していないという現実だけが、ここにあるの。二人の呼吸が傘の中で重なっても、想いばかりは伝わらない。
「ムベさん、好き、好きなの」
もう隠せない涙が頬から滑り落ちた。涙声。冷めない微熱。また振られるのをわかっていても、微熱が下がらないの。どうか嘘でも構わないから、受け止めてほしい。この傘の国の中でだけでいいから、愛していると言ってほしい。
「……ショウ」
「好きなんです。耐えきれないくらい、好きなんです」
「あんたはまだ若い。わしはあんたを幸せにはしてやれん」
「そんなの構わないくらい、好きなの。大好きなんです。本当に、大好きなんです」
美しい嘘でいい。ため息を吐かないで。傘の骨を伝ってビーズみたいにきらめく二人だけの中でだけでいい。たった今、この一瞬だけでいい。叶わない願いだということなんて、わかってる。それでもどうか。その薄い唇から、美しい嘘をついて。
ショウから告白を受けた。好きです、と言葉を紡ぐ唇が震えているのを、見ていた。
わしもだ。そう言えたらどれだけ良かっただろう。好きだ。わしも、あんたのことを好いておるよ、と。ただそれだけの返事が出来たら、本当に。どれだけ良かったか。
けれどこの身は最早死に向かうほうがよっぽど早く。ショウと共に過ごせる時間は残り少ない。ショウの未来を想えばこそ、断る以外の選択肢はなかった。
雨音が欺きを隠していく。ショウが逃げるように走っていった先から、雨がざあざあと降り始めた。
雨は無情を刻む。ショウを想う自分の心を欺いた。けれど、これでよかった。これしか、なかった。
あと何年生きられるだろうか。あと何年、ショウの笑顔を見ていられるだろうか。そんなことばかりを、ずっと考えていた。わしにとってショウは、永遠を咲く花だった。夢のような色をした、花だった。触れたい。手折りたい。けれどそうすれば、たった数年のうちにショウの未来を闇に閉ざしてしまう。そう思えばこそ、好きだなんて言葉は口から出てくるはずもない。
好きだ。愛している。名前を付けるなら、これが唯一の恋だ。けれど、美しい花を手折るのが怖い。自分のせいで美しい花が枯れていくのが怖い。愛を知らぬ臆病者が、この自分だった。
このまま突き放せばよかった。明日から、素知らぬ顔でいられれば良かった。けれど、ふらふらと雨の中を歩くショウの後ろ姿を見て、嗚呼、どうして。わしは店先から傘を抜き、彼女に差し出していたのだから。
雨はもう涙を隠さない。大きな目から涙をこぼすショウを見て、胸が痛む。こんな表情をさせてしまったのはこの自分に他ならない。
愛を知った。けれど、相果てる愛だった。誰も幸せにはなれない愛だった。雨粒が天蓋のように広がる中、ショウは泣いていた。わしを好きだとしゃくりあげながら、泣いていた。
雨音が心臓と同じ速さで地面に落ちる。ショウよ、この二人だけの小さな世界でなら、お前を好きだと言っていいものか。たった数年後には、わしはお前に左様ならを言わねばならない。愛している。愛しているからこそ、それが怖いのだ。
恐れを感じたのは、これが初めてだ。こんなことなら、愛など知らずに生を終えればよかった。けれど、お前を愛してしまったがために。
「ムベさん、好き、好きなの」
そう言いながら涙を流すお前の頬に、どうやって触れればいいかもわからない。
お前を想うほどに上がる微熱を、この冷たい雨で流し去ってくれ。