ムベショウ
乾いた木の葉がひらりと舞う季節になった。赤く色めいた季節。そんな季節も、ムベは相変わらずイモヅル亭の調理場でケムリ芋を潰している。後数刻もすれば、ショウがお腹を空かせてコトブキムラに帰ってくるのだから。
ムベが季節を気にしなくなってどれくらいの時が流れただろうか。はて。思えば故郷を焼かれ、必死に生き残った者たちをかき集め、このヒスイの地を目指して旅立って……冬は恐ろしかった。厳しい寒さに、そのまま体を凍らせて倒れていく者たちもいた。デンボクとムベの両手を足したほどの生き残りは、この地に降りたときにはムベの両手程度まで減っていた。そうしてやっとの思いで小さな村を作り、それが噂を呼び、人が増え。今のようにコトブキムラが発展するまで、何年もの年月をかけて。忙しく過ごすそのうちに、すっかり季節の移り変わりというものに頓着が無くなってしまった。冬だけはどうにも嫌いだ。だから冬ばかりは気にするが、他には何も感じるものはない。けれど。今年ばかりは季節が妙に輝くのだ。それは、そのわけは。
「ムベさん、ただいま!」
こうして腹を空かせて返ってきた少女、というわけだ。
「イモモチください」
「あいよ。待っとれ」
少女、ショウは外の席に座って足を揺らしている。
春だった。彼女が空から落ちてきたのは、春だったのだ。新緑も芽吹く季節に、彼女は空に浮かぶ時空の裂け目から落下してきた。最初は余所者に厳しい態度も取った。それは、己の身は全てギンガ団、ひいてはデンボクのためにあると心に刻んでいたからだ。
けれど、ショウは厳しい入団試験を合格し、今では立派なギンガ団の一員として日々励んでいる。そんな彼女を無碍にする理由がどこにあろうか。今日も一人前より少し多いイモモチを皿に盛りつけるムベに何故かと問えば、そのような返事が返ってくるだろう。それ以上をムベが語ることはない。けれど。
「頭に葉が付いておるぞ」
「えっ!」
「ほれ」
イモモチを机に置き、それからムベはショウの頭に手を伸ばした。するとショウはくすぐったそうに肩をすくめるものだから。嗚呼――何とも、可愛らしくて仕方がないと、何処かで感じてしまうムベがいた。
春を運んできた少女は、夏も、秋も、冬も、そして春も運んできた。いつも頭や肩に季節を運んでムベのところにやってくる。桜の花びらが頭に乗れば、ああ、春か、と。足にくっ付き虫が一杯に付いていれば夏も近いか、と。こうして一年はぐるりと回り、今年もショウは秋を運んでくる。頭に乗っかっていた葉は、紅く紅く染まっていた。
「秋、か」
「そうですね、寒くなってきました」
そう言ってショウはムベに体を摺り寄せようとするが、ムベはそんな彼女の頭を軽く盆で小突いた。
「いたぁい」
「営業中じゃ」
そう、営業中である。そして、路上である。
ムベとショウが、そう、恋人という関係になってから、まだ日は浅い。ショウの熱烈な告白に、ムベは戸惑った。あんたにはまだ未来があるじゃろう、こんな老いぼれを選ばずとも。いえ、ムベさんが好きなんです。ムベさんじゃなきゃ嫌。そんなやり取りも数度。そうしてムベはとうとう折れた。
ムベとてショウのことを憎んでいたわけではない。寧ろ、好意を持っていた。テンガン山でそのまっすぐな目を見てから。いや、もしかしたらそのずっと前から。
ムベはデンボクからの密命で、最初はショウを監視していた。それはそうだ、空から落ちてきた余所者を簡単に信用できるはずがない。そうして陰からショウを監視し、日向ではイモモチを美味しそうに頬張るショウの姿を見守り。そのうちに、何もかもに真っ直ぐ真摯に取り組み、嬉しければ笑い、悲しければ泣く素直な子供に懐かれては、独身を貫いているムベにとってショウは子か、孫か。そのように思っていたのだが。
春が連れてきた少女が、三度目の春を運んできたときには、ショウがムベを見る目は熱と愁いを帯び。ムベが如何に色恋に唐変木と言っても木石ではないので、流石にこうも分かりやすく好意を隠さない目で見られては、たまったものではなかった。そうしてとうとう告白を受け、何度かは断り、それでも彼女は諦めず。
こうしてこのような言い合いは終わりを迎え、ムベはショウの恋人の位置に座ることになった。かと言えど、公言するようなことでもない。寧ろ、ムベは自分のような老骨がショウの恋人だと周囲に知られてはならない、とショウに伝えていた。だからこそ、こうして衆目がある場所では必要以上の接触はしないように、と口酸っぱく言ったものだ。けれど、ショウは恋に浮かれる少女である。少し背も伸び、胸も大きくなった。それでも彼女はまだ少女であるがため、こうして初恋の人に受け入れてもらった喜びを隠そうともしないものだから、ムベははぁ、と溜息を吐くほかなかった。
「じゃあ、夜ならいいですか」
「とりあえず食べんかね。冷めるぞ」
「そうだった!いただきます!」
こうしてイモモチに夢中になる彼女も、先ほど色を帯びた目でムベに触れようとした彼女も、同じ人物であるため。ムベはこうしていつも調子を崩されている。
――愛おしいのだ。どんな彼女も。彼女の未来を、だとか。こんな老骨でなくても、だとか。そんなものは、自分が傷付かないための詭弁だった。
ムベは恋をしたことがない。だからこそこうも唐変木だったわけだが、ショウは、ショウのことは、愛している。こうにも心をかき乱されたのは初めてだった。テンガン山で初めて本性を明かした時も、ショウはムベから向けられた殺意に泣きそうな顔をしたものの、ムベの血に塗れた本性を否定はしなかった。誰もがこの正体を知れば自分の前から去っていくと思っていたムベにとって、それでも翌日にはムベさん、と呼ぶ変わらぬ声がイモヅル亭に響いたのは、福音に近かった。神には祈らぬムベであったが、そう思ってしまうほどに。
だから。
「……泊っていけ」
「え、いいんですか?」
「夜に、誰にも見られず来るならな」
そっと耳打ちで会話をした。すると少女は口の端にイモモチのタレをくっつけたまま、頬を花色に染めるものだから。
「口を拭け」
つっけんどんにおしぼりを差し出してやると、ショウは歓喜ではなく今度は羞恥で顔を真っ赤にした。
さて、晩飯は二人前作ろう。ショウはまだ食べ盛りだから、夜食だってたくさん食べるだろう。先日布団を一式購入した。まさかあなたが?と呉服屋の店主に胡乱な目で見られたものだが、年寄りにせんべい布団は腰が痛むと言い訳をしたらすっかり信じてくれた。そうして押し入れには、ショウ用の柔らかな布団が出番はまだかと待っている。
ああ、日が沈むのは早い。秋の足音は明確に輪郭を浮かび上がらせて、もうショウの頬がどちらの意味で染まっているのかさえ分からない。
「早く食べんかね。この後の客の邪魔になっては敵わん」
「は、はい!そう言えばもう暗い……!今すぐ食べますすぐ食べます」
そう言ってショウは慌ててイモモチにかぶりつく。そうして皿が空っぽになる頃には、イモヅル亭には仕事を終えた人々が集まりはじめた。ムベはショウの胸元に領収書を押し付けて、店の中へと入っていく。暖かな光が灯るイモヅル亭は、今日も村人たちの憩いの場となる。
ああ、ムベさんの忙しい時間はいつ終わるんだろう。ショウはほんの少し落胆する。ショウも任務に忙しく、やっと帰ってきたと思えば今度はムベが忙しくなる時間がやってくる。会える時間も、触れる時間すらも少ないのだ。
でも、今日は泊まっていいって言ってくれたもん。胸に押し付けられた領収書をギンガ団に持っていく前に、せっかくのムベさんの綺麗な文字を見てもう少し我慢しよ、などと考えながら見ると、うっすら表面に筋が浮かんでいた。領収書をひっくり返してみると、裏側にムベの文字が走っている。
「夜四つに」
たった四文字しかそこには書かれていないが、ショウにとってはこれは恋文と一緒だ。恋人が、淡白で愛想のない恋人が、逢瀬を約束してくれた!それだけで飛び上がってしまいそうになるが、ショウは領収書を握りしめて足早に宿舎へと駆けて行った。
夜四つって、何時だっけ!あと何時間でムベさんと指を絡めて、その色素の薄い灰色の瞳で私だけを見てもらえる時が来るんだろう。どれだけくっついても怒られない時間が待ち遠しくて仕方ない。これはムベさんからのラブレターだもん、これを経費の領収書として提出するなんてとんでもない!ショウは宿舎の布団の上で領収書を抱きながら転がったり、掛布団の中に頭を突っ込んでムベさーん!と叫んでみたりと忙しい。夜四つまでは、まだ遠い。
ムベが店の暖簾を下ろすころには、じんわりと寒くなっていた。短い秋の足音が一瞬にして過ぎ去ったようだ。秋ということは、冬の季節がやってくるということだ。吐く息はほんのりと白い。
冬は嫌いだった。恐ろしくて仕方なかった。ここに辿り着くまでに、志半ばで血液まで凍り付いていった同胞の姿が頭をよぎる季節が、冬だ。季節に頓着はしないが、こう寒いとどうしても斃れていく同胞の最後の言葉を思い出して仕方がない。けれど。
「ムベさん」
ギンガ団の制服を脱ぎ、洗いざらしの髪は軽く結っただけ、服は呉服屋に駄々をこねた、膝下までの長いシャツとやらのショウが息をひそめてやってきた。約束の時間、夜四つである。
「そんな恰好で、冷えるぞ」
「ムベさんが抱きしめてあっためてくれるって信じてますもん」
ああ、木枯らしがショウの後れ毛を揺らした。それがあまりにも、冬を連れてくるにはおかしくて。そして、思わず取った手が温かいものだから、冬めく季節の輪郭は、あっという間に消えてしまう。
「ねぇムベさん、はやくあったかいお部屋に連れてって。寒くなくなるまで、抱きしめて」
そう言ってショウは笑う。洗いざらしの髪も凍るだろう。部屋の火鉢に火を入れておいた。だから、どうか。
冬の足音を、どうかあんたの熱で溶かしてやくれまいか。冬が恐ろしいわしを、どうか、心安らかにしてくれまいか。ムベがそう口にせずとも、ショウはムベの腕に体を寄せる。
ショウは何も知らない。何も考えてはおるまい。けれど、その体温がどうしようもなく温かい。それだけが、ただ、真実だった。
ショウよ。唯一の恋よ。どうか冬の季節を共に過ごしてくれまいか。何も言えない。それでもただショウの肩を抱き寄せると、ショウは店の薄明りだけに照らされた顔に、ゆるんだ笑みを乗せるものなので。何も言わずとも――今年の冬も、来年の冬も、この肌の温度が傍にあることがようやく真実味を帯びてきて。
嗚呼、ショウよ。どうかこの老いぼれが命の火を消すまで、傍にいてくれないだろうか。それすら、言えない。けれど、その願いが叶うのならば。神に祈らない自分が願いなどと口にするのも烏滸がましいが、どうか。
ショウの肩を抱いたまま暖かい部屋に入って、薄い座布団に座って、他愛ない話をして、指を絡めて。そうして、こんな日々が続くのだと思って、やっと、冬に魘される夜はもう来ないのだと、ムベは知った。
ムベが季節を気にしなくなってどれくらいの時が流れただろうか。はて。思えば故郷を焼かれ、必死に生き残った者たちをかき集め、このヒスイの地を目指して旅立って……冬は恐ろしかった。厳しい寒さに、そのまま体を凍らせて倒れていく者たちもいた。デンボクとムベの両手を足したほどの生き残りは、この地に降りたときにはムベの両手程度まで減っていた。そうしてやっとの思いで小さな村を作り、それが噂を呼び、人が増え。今のようにコトブキムラが発展するまで、何年もの年月をかけて。忙しく過ごすそのうちに、すっかり季節の移り変わりというものに頓着が無くなってしまった。冬だけはどうにも嫌いだ。だから冬ばかりは気にするが、他には何も感じるものはない。けれど。今年ばかりは季節が妙に輝くのだ。それは、そのわけは。
「ムベさん、ただいま!」
こうして腹を空かせて返ってきた少女、というわけだ。
「イモモチください」
「あいよ。待っとれ」
少女、ショウは外の席に座って足を揺らしている。
春だった。彼女が空から落ちてきたのは、春だったのだ。新緑も芽吹く季節に、彼女は空に浮かぶ時空の裂け目から落下してきた。最初は余所者に厳しい態度も取った。それは、己の身は全てギンガ団、ひいてはデンボクのためにあると心に刻んでいたからだ。
けれど、ショウは厳しい入団試験を合格し、今では立派なギンガ団の一員として日々励んでいる。そんな彼女を無碍にする理由がどこにあろうか。今日も一人前より少し多いイモモチを皿に盛りつけるムベに何故かと問えば、そのような返事が返ってくるだろう。それ以上をムベが語ることはない。けれど。
「頭に葉が付いておるぞ」
「えっ!」
「ほれ」
イモモチを机に置き、それからムベはショウの頭に手を伸ばした。するとショウはくすぐったそうに肩をすくめるものだから。嗚呼――何とも、可愛らしくて仕方がないと、何処かで感じてしまうムベがいた。
春を運んできた少女は、夏も、秋も、冬も、そして春も運んできた。いつも頭や肩に季節を運んでムベのところにやってくる。桜の花びらが頭に乗れば、ああ、春か、と。足にくっ付き虫が一杯に付いていれば夏も近いか、と。こうして一年はぐるりと回り、今年もショウは秋を運んでくる。頭に乗っかっていた葉は、紅く紅く染まっていた。
「秋、か」
「そうですね、寒くなってきました」
そう言ってショウはムベに体を摺り寄せようとするが、ムベはそんな彼女の頭を軽く盆で小突いた。
「いたぁい」
「営業中じゃ」
そう、営業中である。そして、路上である。
ムベとショウが、そう、恋人という関係になってから、まだ日は浅い。ショウの熱烈な告白に、ムベは戸惑った。あんたにはまだ未来があるじゃろう、こんな老いぼれを選ばずとも。いえ、ムベさんが好きなんです。ムベさんじゃなきゃ嫌。そんなやり取りも数度。そうしてムベはとうとう折れた。
ムベとてショウのことを憎んでいたわけではない。寧ろ、好意を持っていた。テンガン山でそのまっすぐな目を見てから。いや、もしかしたらそのずっと前から。
ムベはデンボクからの密命で、最初はショウを監視していた。それはそうだ、空から落ちてきた余所者を簡単に信用できるはずがない。そうして陰からショウを監視し、日向ではイモモチを美味しそうに頬張るショウの姿を見守り。そのうちに、何もかもに真っ直ぐ真摯に取り組み、嬉しければ笑い、悲しければ泣く素直な子供に懐かれては、独身を貫いているムベにとってショウは子か、孫か。そのように思っていたのだが。
春が連れてきた少女が、三度目の春を運んできたときには、ショウがムベを見る目は熱と愁いを帯び。ムベが如何に色恋に唐変木と言っても木石ではないので、流石にこうも分かりやすく好意を隠さない目で見られては、たまったものではなかった。そうしてとうとう告白を受け、何度かは断り、それでも彼女は諦めず。
こうしてこのような言い合いは終わりを迎え、ムベはショウの恋人の位置に座ることになった。かと言えど、公言するようなことでもない。寧ろ、ムベは自分のような老骨がショウの恋人だと周囲に知られてはならない、とショウに伝えていた。だからこそ、こうして衆目がある場所では必要以上の接触はしないように、と口酸っぱく言ったものだ。けれど、ショウは恋に浮かれる少女である。少し背も伸び、胸も大きくなった。それでも彼女はまだ少女であるがため、こうして初恋の人に受け入れてもらった喜びを隠そうともしないものだから、ムベははぁ、と溜息を吐くほかなかった。
「じゃあ、夜ならいいですか」
「とりあえず食べんかね。冷めるぞ」
「そうだった!いただきます!」
こうしてイモモチに夢中になる彼女も、先ほど色を帯びた目でムベに触れようとした彼女も、同じ人物であるため。ムベはこうしていつも調子を崩されている。
――愛おしいのだ。どんな彼女も。彼女の未来を、だとか。こんな老骨でなくても、だとか。そんなものは、自分が傷付かないための詭弁だった。
ムベは恋をしたことがない。だからこそこうも唐変木だったわけだが、ショウは、ショウのことは、愛している。こうにも心をかき乱されたのは初めてだった。テンガン山で初めて本性を明かした時も、ショウはムベから向けられた殺意に泣きそうな顔をしたものの、ムベの血に塗れた本性を否定はしなかった。誰もがこの正体を知れば自分の前から去っていくと思っていたムベにとって、それでも翌日にはムベさん、と呼ぶ変わらぬ声がイモヅル亭に響いたのは、福音に近かった。神には祈らぬムベであったが、そう思ってしまうほどに。
だから。
「……泊っていけ」
「え、いいんですか?」
「夜に、誰にも見られず来るならな」
そっと耳打ちで会話をした。すると少女は口の端にイモモチのタレをくっつけたまま、頬を花色に染めるものだから。
「口を拭け」
つっけんどんにおしぼりを差し出してやると、ショウは歓喜ではなく今度は羞恥で顔を真っ赤にした。
さて、晩飯は二人前作ろう。ショウはまだ食べ盛りだから、夜食だってたくさん食べるだろう。先日布団を一式購入した。まさかあなたが?と呉服屋の店主に胡乱な目で見られたものだが、年寄りにせんべい布団は腰が痛むと言い訳をしたらすっかり信じてくれた。そうして押し入れには、ショウ用の柔らかな布団が出番はまだかと待っている。
ああ、日が沈むのは早い。秋の足音は明確に輪郭を浮かび上がらせて、もうショウの頬がどちらの意味で染まっているのかさえ分からない。
「早く食べんかね。この後の客の邪魔になっては敵わん」
「は、はい!そう言えばもう暗い……!今すぐ食べますすぐ食べます」
そう言ってショウは慌ててイモモチにかぶりつく。そうして皿が空っぽになる頃には、イモヅル亭には仕事を終えた人々が集まりはじめた。ムベはショウの胸元に領収書を押し付けて、店の中へと入っていく。暖かな光が灯るイモヅル亭は、今日も村人たちの憩いの場となる。
ああ、ムベさんの忙しい時間はいつ終わるんだろう。ショウはほんの少し落胆する。ショウも任務に忙しく、やっと帰ってきたと思えば今度はムベが忙しくなる時間がやってくる。会える時間も、触れる時間すらも少ないのだ。
でも、今日は泊まっていいって言ってくれたもん。胸に押し付けられた領収書をギンガ団に持っていく前に、せっかくのムベさんの綺麗な文字を見てもう少し我慢しよ、などと考えながら見ると、うっすら表面に筋が浮かんでいた。領収書をひっくり返してみると、裏側にムベの文字が走っている。
「夜四つに」
たった四文字しかそこには書かれていないが、ショウにとってはこれは恋文と一緒だ。恋人が、淡白で愛想のない恋人が、逢瀬を約束してくれた!それだけで飛び上がってしまいそうになるが、ショウは領収書を握りしめて足早に宿舎へと駆けて行った。
夜四つって、何時だっけ!あと何時間でムベさんと指を絡めて、その色素の薄い灰色の瞳で私だけを見てもらえる時が来るんだろう。どれだけくっついても怒られない時間が待ち遠しくて仕方ない。これはムベさんからのラブレターだもん、これを経費の領収書として提出するなんてとんでもない!ショウは宿舎の布団の上で領収書を抱きながら転がったり、掛布団の中に頭を突っ込んでムベさーん!と叫んでみたりと忙しい。夜四つまでは、まだ遠い。
ムベが店の暖簾を下ろすころには、じんわりと寒くなっていた。短い秋の足音が一瞬にして過ぎ去ったようだ。秋ということは、冬の季節がやってくるということだ。吐く息はほんのりと白い。
冬は嫌いだった。恐ろしくて仕方なかった。ここに辿り着くまでに、志半ばで血液まで凍り付いていった同胞の姿が頭をよぎる季節が、冬だ。季節に頓着はしないが、こう寒いとどうしても斃れていく同胞の最後の言葉を思い出して仕方がない。けれど。
「ムベさん」
ギンガ団の制服を脱ぎ、洗いざらしの髪は軽く結っただけ、服は呉服屋に駄々をこねた、膝下までの長いシャツとやらのショウが息をひそめてやってきた。約束の時間、夜四つである。
「そんな恰好で、冷えるぞ」
「ムベさんが抱きしめてあっためてくれるって信じてますもん」
ああ、木枯らしがショウの後れ毛を揺らした。それがあまりにも、冬を連れてくるにはおかしくて。そして、思わず取った手が温かいものだから、冬めく季節の輪郭は、あっという間に消えてしまう。
「ねぇムベさん、はやくあったかいお部屋に連れてって。寒くなくなるまで、抱きしめて」
そう言ってショウは笑う。洗いざらしの髪も凍るだろう。部屋の火鉢に火を入れておいた。だから、どうか。
冬の足音を、どうかあんたの熱で溶かしてやくれまいか。冬が恐ろしいわしを、どうか、心安らかにしてくれまいか。ムベがそう口にせずとも、ショウはムベの腕に体を寄せる。
ショウは何も知らない。何も考えてはおるまい。けれど、その体温がどうしようもなく温かい。それだけが、ただ、真実だった。
ショウよ。唯一の恋よ。どうか冬の季節を共に過ごしてくれまいか。何も言えない。それでもただショウの肩を抱き寄せると、ショウは店の薄明りだけに照らされた顔に、ゆるんだ笑みを乗せるものなので。何も言わずとも――今年の冬も、来年の冬も、この肌の温度が傍にあることがようやく真実味を帯びてきて。
嗚呼、ショウよ。どうかこの老いぼれが命の火を消すまで、傍にいてくれないだろうか。それすら、言えない。けれど、その願いが叶うのならば。神に祈らない自分が願いなどと口にするのも烏滸がましいが、どうか。
ショウの肩を抱いたまま暖かい部屋に入って、薄い座布団に座って、他愛ない話をして、指を絡めて。そうして、こんな日々が続くのだと思って、やっと、冬に魘される夜はもう来ないのだと、ムベは知った。