ピニャアオ
夏の夜、階段の上に黒い背中が見えて、わたしは思わずその背中に向けて走り出した。
「ピーニャさん!」
改造のなされた制服の背中まで、あと数メートル。声をかけると、ぴょんと跳ねた髪が揺れて、彼がこちらを向く。
「アオイくん!こんにちは」
満面の笑みで、ピーニャさんはわたしに手を振ってくれた。学校前の階段はとっても長くて、ピーニャさんがまだ、遠いの。あと何段この階段を駆け上れば、ピーニャさんの手に触れられるだろうか。
丁度太陽は沈み切って、空には猫の目のような形の月が浮かんでいる。学校前のライトに照らされながら私に笑顔を向けてくれるピーニャさんは、なんだかわたしだけの一番星みたいに見えた。
まだ、この想いは告げていない。だってピーニャさんはボタンの宝物だから。人のものを勝手に取ったらどろぼうなことは理解している。だから、こうして笑顔を向けてもらえるだけで、わたしは十分に満たされているのだ。
階段を飛ばし飛ばしに駆け上ると、ピーニャさんはさっきのところから動かずにわたしを待っていてくれた。DJ悪事とかいってるくせに、本当は何処までも優しい人。
「ぴ、ぴーにゃさん」
息を切らしてピーニャさんのところまでたどり着くと、彼は慌てたように背中のリュックからおいしいみずの缶を差し出してくれた。
「すごい汗だね。これ、さっき買ったけど飲んでないやつ。あげるよ」
「あ、ありがとう……ございます」
「今から帰るところなら、途中まで送っていくからさ」
「はい……」
乱れた呼吸で缶を受け取り、飲み干す。するとピーニャさんは優しい手つきでわたしの頭に手を伸ばした。
「夏とはいえ、冷える所は冷えるよ。風邪ひかないようにね。それに、女の子がこんな時間まで外をふらついてるのも、ボクはどうかな?って思う」
優しい指先が、そっとわたしから離れていく。わたしの早鐘を打つ鼓動を、階段を駆け上ったせいだと勘違いしたままに、温もりは離れていってしまった。
スター団のみんなとは、それなりに仲良くなれたと思う。毎日STCに通った賜物だ。みんな、わたしのことを嫌がらずに受け入れてくれた。ボタンもわたしにすっかり心を許してくれている。頑なだったみんなが嘘みたいに、わたしのことを友人として扱ってくれる。メロコちゃんも、シュウメイくんも、オルティガくんも、ビワちゃんも……そして、ピーニャさんも。会えば笑ってくれる。手を振ってくれる。それだけでわたしはすっかり満たされる。満たされないと、いけないのに。
さっき差し出してくれた缶を受け取るとき、ピーニャさんの手に触れておけばよかった。そんな後悔が、ちょっとだけ。いや、とてもいっぱい。触れることなんてなかなかない。ピーニャさんが触ってくれた頭からも、もうピーニャさの温もりは去って、あるのは生ぬるい風に髪をさらわれる感覚だけだ。
ああ、だめだ。わがままはだめだ。わたしは満たされてないといけない。ピーニャさんのことがすき、すきだけど、ピーニャさんはボタンの――そんな思いを、おいしいみずで流し込んだ。
「はい」
お水を飲み終わると、ピーニャさんがわたしに手を差し出してくれた。缶を捨てておくから返せということだろうか。
「ごみ捨てくらい自分でできますよ」
「えっと、そうじゃなくて」
ピーニャさんは頬を指で掻いて、それからわたしから視線をそらした。
「暗くて危ないから、手を繋いでいきたいなって思って……」
ピーニャさんの声がどんどん小さくなっていく。最後のほうは殆ど何を言っているのか聞き取れなかった。でも、はっきりわかることは。
「……いいんですか?」
「……うん、いいよ」
また小さい声で、ピーニャさんは帽子で顔を隠してからわたしに手を差し出してくれた。大きな手にそっと触れると、汗ばんではいるけれど温かい指先がわたしの手に熱を伝えてくれた。縋りつくように、ピーニャさんの手を強く握る。ああ、こんなの、わたしにとって幸せが過ぎる。わたしの手を握り返してくれたピーニャさんは、相変わらず帽子のつばを目まで下げて、階段を登っていく。わたしもその歩調に合わせて階段をずっと、ずっと、登るの。学校前の階段は長くて疲れるだけと思っていたけれど、こんな時間が、こんな幸運が、こんな思いやりが続いてくれるなら、目の前の階段が一生分あったってかまわない。それくらい、大好き。
手から、わたしの鼓動は伝わりやしないだろうか。まだ、階段を駆け上ったせいと勘違いしてくれるだろうか。
ボタン、この恋を告げることだけはしないから、今だけ。この階段を登るあいだだけ、わたしのことを許していてください。
あとたった何十段だけ。時間にしたら数分だけ。それだけ――この幸せを、わたしだけのものにさせて。
「ピーニャさん!」
改造のなされた制服の背中まで、あと数メートル。声をかけると、ぴょんと跳ねた髪が揺れて、彼がこちらを向く。
「アオイくん!こんにちは」
満面の笑みで、ピーニャさんはわたしに手を振ってくれた。学校前の階段はとっても長くて、ピーニャさんがまだ、遠いの。あと何段この階段を駆け上れば、ピーニャさんの手に触れられるだろうか。
丁度太陽は沈み切って、空には猫の目のような形の月が浮かんでいる。学校前のライトに照らされながら私に笑顔を向けてくれるピーニャさんは、なんだかわたしだけの一番星みたいに見えた。
まだ、この想いは告げていない。だってピーニャさんはボタンの宝物だから。人のものを勝手に取ったらどろぼうなことは理解している。だから、こうして笑顔を向けてもらえるだけで、わたしは十分に満たされているのだ。
階段を飛ばし飛ばしに駆け上ると、ピーニャさんはさっきのところから動かずにわたしを待っていてくれた。DJ悪事とかいってるくせに、本当は何処までも優しい人。
「ぴ、ぴーにゃさん」
息を切らしてピーニャさんのところまでたどり着くと、彼は慌てたように背中のリュックからおいしいみずの缶を差し出してくれた。
「すごい汗だね。これ、さっき買ったけど飲んでないやつ。あげるよ」
「あ、ありがとう……ございます」
「今から帰るところなら、途中まで送っていくからさ」
「はい……」
乱れた呼吸で缶を受け取り、飲み干す。するとピーニャさんは優しい手つきでわたしの頭に手を伸ばした。
「夏とはいえ、冷える所は冷えるよ。風邪ひかないようにね。それに、女の子がこんな時間まで外をふらついてるのも、ボクはどうかな?って思う」
優しい指先が、そっとわたしから離れていく。わたしの早鐘を打つ鼓動を、階段を駆け上ったせいだと勘違いしたままに、温もりは離れていってしまった。
スター団のみんなとは、それなりに仲良くなれたと思う。毎日STCに通った賜物だ。みんな、わたしのことを嫌がらずに受け入れてくれた。ボタンもわたしにすっかり心を許してくれている。頑なだったみんなが嘘みたいに、わたしのことを友人として扱ってくれる。メロコちゃんも、シュウメイくんも、オルティガくんも、ビワちゃんも……そして、ピーニャさんも。会えば笑ってくれる。手を振ってくれる。それだけでわたしはすっかり満たされる。満たされないと、いけないのに。
さっき差し出してくれた缶を受け取るとき、ピーニャさんの手に触れておけばよかった。そんな後悔が、ちょっとだけ。いや、とてもいっぱい。触れることなんてなかなかない。ピーニャさんが触ってくれた頭からも、もうピーニャさの温もりは去って、あるのは生ぬるい風に髪をさらわれる感覚だけだ。
ああ、だめだ。わがままはだめだ。わたしは満たされてないといけない。ピーニャさんのことがすき、すきだけど、ピーニャさんはボタンの――そんな思いを、おいしいみずで流し込んだ。
「はい」
お水を飲み終わると、ピーニャさんがわたしに手を差し出してくれた。缶を捨てておくから返せということだろうか。
「ごみ捨てくらい自分でできますよ」
「えっと、そうじゃなくて」
ピーニャさんは頬を指で掻いて、それからわたしから視線をそらした。
「暗くて危ないから、手を繋いでいきたいなって思って……」
ピーニャさんの声がどんどん小さくなっていく。最後のほうは殆ど何を言っているのか聞き取れなかった。でも、はっきりわかることは。
「……いいんですか?」
「……うん、いいよ」
また小さい声で、ピーニャさんは帽子で顔を隠してからわたしに手を差し出してくれた。大きな手にそっと触れると、汗ばんではいるけれど温かい指先がわたしの手に熱を伝えてくれた。縋りつくように、ピーニャさんの手を強く握る。ああ、こんなの、わたしにとって幸せが過ぎる。わたしの手を握り返してくれたピーニャさんは、相変わらず帽子のつばを目まで下げて、階段を登っていく。わたしもその歩調に合わせて階段をずっと、ずっと、登るの。学校前の階段は長くて疲れるだけと思っていたけれど、こんな時間が、こんな幸運が、こんな思いやりが続いてくれるなら、目の前の階段が一生分あったってかまわない。それくらい、大好き。
手から、わたしの鼓動は伝わりやしないだろうか。まだ、階段を駆け上ったせいと勘違いしてくれるだろうか。
ボタン、この恋を告げることだけはしないから、今だけ。この階段を登るあいだだけ、わたしのことを許していてください。
あとたった何十段だけ。時間にしたら数分だけ。それだけ――この幸せを、わたしだけのものにさせて。
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