ネズユウ
そうですね、昔話をしようと思います。
あの頃おれは16歳で、まだ少年と呼ぶべき年齢でした。ミュージシャンを目指して田舎町を飛び出したおれは、都会と言うには少し郊外の町に小さなアパートを借りて、週に一回、土曜日の夜に駅前の広場でギターを弾いていたんです。上京したての音楽家志望なんて、みんなそんなものだと思うけれど。
こんなに月が綺麗な夜は、少し思い出してしまいます。
それは、10年前のこと。
夜9時、土曜日の駅前広場は人通りも多く、あちこちに酔っ払いが転がっていた。それと同じ数くらい、おれと同じミュージシャン志望らしき青年たちが座っていて、思い思いの楽器を持っていた。そのほとんどはアコースティックギターで、おれももれなくアコースティックギターを抱えて、路上に座っている。
何曲か弾いたけれど、悲しいかな、おれの音楽は酔っ払いの足止めにもならなかった。
田舎から上京して2か月になる。貯金を切り崩して小さなアパートを借り、バイトを掛け持ちしては、その合間に曲を作って、週に一回駅前広場で歌う。けれど、駅前広場を通る酔っ払いも、アベックも、バイト帰りのフリーターも、おれの歌に足を止めてはくれなかった。この2か月、誰一人として。
地元では音楽をやっているだけでちょっとかっこいいなんて言われたりもして。打ち込みではあるが一通りの楽器はできて、作詞作曲編曲もできて、さらに歌えるだなんて、寂れた田舎町ではそれだけでそこそこモテたものである。女性からも、同性からも。……尊敬の対象という意味で。
けれど、都会に出てきてしまえばそんなものはみんなできて当然なのだ。田舎町で「持っている」と確信していたアドバンテージは、都会では無いも同然、プライドだけが高い凡庸な人間の出来上がりだった。
プライドと理想ばっかり高くなって。夢を見て学校をやめて家を飛び出したはいいが、結局おれを待っていた新生活は、朝もはよからあくせくバイトを掛け持ちし、疲れた体を引きずって家に帰ってきては次のバイトの時間まで泥のように眠る。そして何とか捻出した時間でちょっとだけ曲を作って、叶うわけのない夢を追いかけて路上で歌う。その繰り返し。
叶うわけがないと、思いたくなかっただけなのだ。夢は見ているだけで無条件で叶えられると信じたかっただけ。努力はすれば必ず報われると信仰していたかっただけ。こんなに頑張ったのだから必ず目標に手が届くって、夢を見ていたかっただけ。
――そう、信じたかっただけで。現実はおれの心を引き裂いていく。誰も、おれを見てはくれない。おれの声に足を止めてもくれない。それが事実だ。夢なんて、見ないほうが賢明だったのだ。まじめに学校を卒業して、大学に行くなり就職するなりしたほうが賢かった。そんなことはわかっている。それでもおれには歌う以外に何もできやしない。なにも、したくない。
歌っているとき以外のおれは、まるでおれじゃないみたいだ。息をしているだけで。鼓動があるだけで。おれがおれで在れるのは、誰も聞いてくれなくたって歌っているときだけだ。おれに。何もないおれが持っている唯一のものが、歌だから。だから結果が出なかったとしても、おれは歌に縋りつくのだろう。たぶん、未来永劫に。だからおれは、夢をあきらめて故郷に帰る電車に乗ることもできずに、今日も駅前広場で立ち止まるし、レンガの地面に座ってギターを抱える。
赤い布張りのギターケースは音を立てない。そんなことはわかって、いるけど。もう前を見ることもやめてしまった。ただ街灯の薄明りに照らされた自分の指先だけをじっと見て。今日もおれの前を通り過ぎる足たちを見送るだけ――そう、思っていた。
おれは、耳がいいから。見えなくたって、小さな足音がおれの前で止まったことに気付いていた。視界の端に、水色の小さなスニーカーが見える。どうせすぐにどこかに行くだろう、けれど、初めておれの前に立ち止まってくれた観客だった。
嬉しくないと言えば嘘だ。おれは、うれしかった。たとえ子供でも、おれの歌に興味を持ってくれた人がいるということが、嬉しくてたまらなかった。震えそうになる指を押しとどめて、弦を弾く。立っていた小さな足は、いつの間にかおれの前にしゃがんでいた。たった一曲、5分間の魔法が永遠みたいだ。
ねえ、おれの歌はきみに夢を見させられているの?5分だけの、短い魔法をかけられているの?――そんなことは、おれは知らない。ただ、誰かにかけるべく作った魔法に、おれ自身がかかってしまったみたいで。まるで夢うつつの5分を終えたおれがやっと前を見ると、塾帰りらしき黄色いリュックを背負った女の子が、アーモンド色の瞳でおれをじっと見つめていた。まだ小学生ぐらいだろうか。やっと見ることができた少女の顔は、ゆるりと微笑みの形をしていた。
ぱちぱち。小さな手が何度か打ち鳴らされる。それが拍手だったと気付いたのは、なんとも情けないことだが、少女がマジックテープ式の財布から100円玉を出して、おれのギターケースに入れて走り去ってからずいぶん後のことだった。
本当に、変な話。赤い布張りのギターケースの中に、月あかりを映して輝く100円玉が1枚。それがこの2ヶ月で唯一の成果。貧乏暇なしだから、明日も朝からバイトだし、新曲の進捗は悪いし、晩飯はもやしと油揚げの醤油炒めだし。
でも、なぜか。あの子から貰った100円玉を財布に入れる気にはなれなかったし、心の底にちょっとだけあった「故郷に帰ろうかな」って気持ちはすっかりなくなってしまった。
本来、普通の人間だったら、2ヶ月の成果が幼子からお情けでもらった100円玉だなんて、挫折の要因でしかないだろう。でも、なんでかな。おれは、あの子がくれた笑顔と100円玉が、まるで宝物のように思えて。おれはあの子の100円玉を、百均で買ってきた瓶の中に入れた。ちょっと青みがかった瓶のなかに入った100円玉は、いつだって窓際でキラキラ輝いてた。
それからも、変わらない生活をしていた。朝からバイトに行って、夜遅くに帰ってきて、真夜中にちょっとパソコンで打ち込みをして、5時間だけ寝て、朝になったらまたバイト。
月に何度かTDCでデモCDとフライヤーを配って、週に一回最寄りの駅前でギターを弾く。
ちょっと前までと違うのは、おれがギターを弾いていると、必ずおれの前にあの水色のスニーカーが立ち止まることだった。顔を上げれば、いつもあの子がいた。小さな手に100円玉を握りしめて、曲が終わればギターケースにあったかくなった100円玉を入れて走って行ってしまう。
門限でもあるのか、曲が終わるなりお金を置いて走って行ってしまうから、おれはあの子に声をかけたことがない。一言も、お礼を言えていない。百均で買った瓶のなかに、あの子から貰った100円玉が貯まっていく。あの子は毎週必ず100円をくれるから、瓶はちょっとした貯金箱みたいになっていた。
そうすると、なんだか申し訳なくなってくる。あの子はお小遣いからおれに投げ銭をしてくれているのだろう。小学生の小遣いなんてたかが知れているし、週に一回とはいえ、月にすると400円か500円をおれにくれているわけだ。少女漫画雑誌でも買える金額だ。もしかしたら、ちゃおやらなかよしやらを買うのを我慢しておれに投げ銭をしてくれているのかもしれないと思えば心が痛む。かといって、善意でくれる100円玉を突き返すわけにもいかないし。じゃあ、おれに何ができるだろうか。――と思うけれど、おれがあの子のためにできることなんて、あの子のために曲を作ることくらいだった。金も甲斐性も勇気もないおれにできるのは、ただそれだけ。
それから、バイトが終わってからパソコンに向かう時間はちょっと長くなって、睡眠時間はちょっと少なくなった。あの子はどんな曲を喜んでくれるだろうか。恋愛曲はちょっと年齢に見合わない?青春っぽい曲もまだきみには早い?失恋曲はきみを悲しませてしまうかな?きみは。ねぇ、きみは、どんな歌が好きなの?
おれはがむしゃらに曲を作った。あの子がどんな曲を喜んでくれるかなんて考えても無駄だと気付いたので、とにかく数をこなした。だからと言って凡作や駄作を生んだつもりもなく、すべての曲が魂の一曲だった。
かといって時間は有限だから、2週間に1曲を作れればいいほうだ。だから、隔週であの子に新曲を披露した。バラードを歌えば、あの子は自らが心を痛めたように眉根を寄せてくれた。恋の歌を歌えばちょっと頬を染めた。話したこともないくせに、おれの歌を聴いては優しく微笑んでくれるあの子のことを、ちょっと好きになりかけていた。
そのうち、少しずつあの子以外の人々もおれの歌に足を止めてくれるようになって、ギターケースの中に100円玉1枚じゃなくて、ときどき紙のお金が入るようになって、ちょっとギターケースの横に置いたCDの塔が少しずつ低くなっていって。小さなあの子を囲むように人だかりができるようになって。そんな日、ライブハウスのほうでの活動にも成果が出始めた。おれの歌を聴くためにチケットを買ってくれる人が、複数人……いや、いつの間にか何十人にもなっていたのだ。上京したばかりの頃の1回目のライブは誰もチケットを買ってくれなくて、おれがステージに上がったとたんドリンクスタンドで酒を飲んで談笑を始めるなんて光景が、まるで嘘みたいだ。最前を争う女の子だとか、ちょっと後ろの柵に腕をもたれかけておれの歌に耳を傾けるおじさんだとか。ライブを行う度、その人数は増えていく。ツイッターのフォロワーもじわじわと増えて、とうとう先日1000人を超えた。
あの子がおれの歌を聴きに来てくれてから、何かが変わった。あの子がおれに幸福を運んでくれる妖精か何かなのか、それともおれが変わったのか。そんなバカなことを考えてしまいそうになるくらい、短期間で、おれを取り巻く環境は目まぐるしく変わった。あ、またフォロワーが増えた。
――と、そんな生活を続けて1年。ツイッターのフォロワーは1万人を超えて、いつもの週末路上パフォーマンスでも、ギターケースに時給の数倍の金額が投げ入れられるようになったし、そしてとうとう明日は人生で初めてのワンマンライブだ。チケットはソールドした。マイナーバンドを特集する雑誌から、ライブの様子を取材したいとの連絡も来た。夢しか持たず上京したおれだったけど、その夢は今羽ばたこうとしていた。
あの子が知ったら、喜んでくれるかな。ファンに対して塩なことに定評のあるおれだけど(塩りたくてしているわけではない、単純にコミュ障なのだ)、あの子の笑顔を見るためだったらなんだってできるような気がした。
ねえ、きみはおれが有名になったら喜んでくれる?テレビに出たおれを指さして、母親に「前に応援してた路上アーティスト!」って報告してくれる?
――いや、「前に」になってしまうのは嫌だ。これからも、あの子に会いたい。おれの曲たちは、全部あの子のために書いた曲だから。あの子が誇ってくれるようなアーティストになりたい。夢を、叶えたい。おれの夢は、明確な形を持った小鳥になった。客席から、おれを呼ぶ声が聞こえる。BGMがかかり始めた。ライトがステージを彩っている。ねえ、きみが応援してくれたから、ここまで来られたんです。
きみが、すきだ。
初めてのワンマンライブは大成功に終わった。楽屋にやってきた雑誌記者は、スーツ姿の男を連れてきて。スーツの男は、おれに芸能プロダクションに興味はないかと話しかけてきた。はい、と答えて、名刺を受け取って、インタビューを受けて、スーツ男が乗ってきた車の後部座席に乗って、あれよあれよという間に有名レーベルの事務所で、契約書にサインをしていた。一瞬詐欺を疑ったけれど、スーツ男が車を回してくるまでの間に事務所の場所をグーグルマップで調べたし、そこに連れてこられたし、さっき廊下ですれ違ったのはこのレーベルの大御所バンドだし。ボールペンを持つ手は震えて、書いた名前はちょっと斜めになった。
それからはずっと忙しかった。メジャーデビューに向けてライブの回数は増えたし、取材も何件も入った。デビュー曲に相応しい曲を作れとも言われた。体がいくつあっても足りなかった。それでもあの子に会いたくて、あのちょっと寂れた駅前にギターを担いでいった。
疲れて何を弾く気にもなれなかったけれど、ギターを抱えて座っていただけで、あの水色のスニーカーがおれの前に座った。ほっぺたに手を当てておれを見つめる彼女の姿を見て、なんだか今までおれの身に起きたことを一斉に話したくなってしまう。けど、それをこらえておれはギターを弾いた。ねえきみ、これ、デビュー曲になるかもしれないです。最初に、きみに聴いてほしくて。そんな思いは届いたかどうかわからないけど、あの子はやっぱりマジックテープの財布から100円玉を出して、ギターケースにころりとそれを入れて、走っていった。――今日も、話しかけられなかった。
話しかけられるのはあの日がラストチャンスだったと言わんばかりに、おれには大量の仕事が降ってきた。スタイルがよくて身長も高いからモデルもやってみろだとか、エッセイを書いてみろだとか、純粋にアーティストになりたかった過去のおれが見たら辟易するであろう仕事の量。けれど、小鳥になった夢を空高く羽ばたかせるためには、どうしてもそれらの仕事も必要だった。
やっと少し仕事から解放された土曜日の夜、おれは帽子で派手な髪を隠して、いつもの駅前に走っていった。ほんとはね、もっと事務所にアクセスがいい街に引っ越したんだ。六畳一間の安アパートじゃなくて、いいマンションを借りれたんですよ。でも、あの子がいるこの街が、どうしても忘れられない。
いつもの時間にいつもの場所に座ってギターを抱えると、見計らったように水色のスニーカーが駆けてきた。髪を隠していても、彼女はおれを見間違えたりしなかった。それがうれしくて、なんだかおれも上機嫌。けれどきみの目を見たら、声を掛けられるような強気はなくなってしまうので、今日はスケッチブックに言いたいことを書いてギターケースの横に置いた。
『毎月第一土曜日のみのパフォーマンスになりました。また会いに来てください』
演奏が終わった後、お金を握ったあの子はその文字をじっと見つめて、それからギターケースにまたころんと100円玉を入れて立ち上がる。
「絶対待ってますね」
そう言って、あの子はいつものように走って去っていった。
あ、初めて声を聞けた。
それから数年、おれはどんなに仕事が忙しくなっても、第一土曜日の夜にだけは絶対仕事を入れなかった。ツアーの最中だってあの街に行った。地方から車を飛ばしてくれるマネージャーには謝意しかない。それでも、あの子に会いたかった。
音楽番組に出たよ。ラジオでレギュラー番組を持ったよ。ツイッターのフォロワーは5万人を超えたよ。それでも、ねえ、第一土曜日だけは髪を隠してきみに会いに行く。
きみの水色のスニーカーはいつの間にかローファーになって、それからレースがついたショートブーツになって。
気が付いたら、あの日から10年も経っていた。彼女がくれるのも、100円玉から1000円札に変わった。おれの変装も髪を隠す程度じゃ済まなくなった。
それでも、おれはきみに会いたくて、どんなに仕事があっても全部蹴っ飛ばして、ギターケースを背にあの街に向かった。ねえ、毎日見てると気付かないって言うけどね、きみはすごく綺麗になった。10年も経てば当たり前なんだけど、手足はすらっと長くなったし、唇には桃色のグロスがうすく塗ってあるし、小学生だったきみが大学の名前が入ったバッグを持つようになったのを見て、馬鹿みたいだけどちょっと心に来た。
本当に、素敵な女性になった。話したこともないのに、ちょっと兄心。けれど、今日来たのはそんなことを考えるためじゃなくて。
いつも通りに路上に座ると、ギターを出したタイミングで軽快なかかとの音が聞こえた。ギターの調節をしていた手を止めて前を見ると、やっぱりあの子がおれの目の前にしゃがんでいた。
ねえ、ねえ、今日は新曲を持ってきたんですよ。きみのために作ったし、きみに一番最初に聴いてほしいって思ったから、マネージャーにだって黙ってこの曲を作ってきたんです。どうか聴いて。これは、恋の歌。
この時間だけはきみはおれだけを見てくれていると思うと胸が苦しくなる。きみの世界のはおれでできてるって思ったら舞い上がりそう。ねえ、この曲にはそんな気持ちを詰めてきたんです。ギターを抱えて歌い始めると、やっぱり、そう。この瞬間だけはきみとおれ、二人だけの世界みたい。5分間の魔法だ。ねえ、冷めないで。消えないで。そう思ったら、ギターケースにお金を入れようとしていたきみの手を掴んでいた。10年もこうしていて、初めてきみの手に触れた。きみはびっくりしたように手を引っ込めようとしたから、慌てておれは追いすがる。風で1000円札がひらひら舞った。
「あ、あの、待ってください」
声を絞り出すと、彼女は引っ込めようとしていた腕から力を抜いた。単純に腕をいきなりつかまれて驚いたのだろう。
「聞いてほしいことが、あって」
言葉が喉に引っかかる。でも、どうか5分間の魔法が覚める前に。
「……何でしょう?」
10年前のあの日以来に、彼女が口を開いた。思い出の中の声はわたあめみたいに甘い子供の声だったけれど、今はまるで透明な宝石を鳴らしたみたいな声だった。
「あ……あの、今の曲なんですけど」
「はい」
彼女はもう手を引っ込めようともせず、ただおれをじっと見てくれていた。アーモンド色の瞳は街灯の光を映してきらきら光る。負けるな、がんばれ、おれ。10年も付き合ってくれたこの子に、言うことがあるだろ。
「初めて話すのに、おかしいって思われるかもしれないんですけど」
勇気を持て。こんな勇気を出すのは生涯最初で最後だ。ねえ、どうか、笑わないでね。
「きみへのプロポーズのつもりだったんです、け、ど……」
言葉尻は小さくなってしまった。恥ずかしくて彼女から視線を外す。沈黙に耐えられない。逃げ出してしまおうか。けれど仕掛けたのはおれだ。言い逃げなんてできるもんか。
数分経った?それとも数秒?心臓がうるさくて、時間の感覚が狂ってしまった。わからないけれど、彼女の右腕を掴んだおれの手に、優しい温度が重なった。
「……あたし、ユウリです」
彼女は、おれの指をそっと撫でてくれた。
「……ユウリさん」
「あたしも、10年前からあなたのことが好きです。ネズさん」
逸らしていた視線を彼女に向けると、アーモンド色の大きな目からガラス粒があふれ出していた。
「……結婚してくれますか」
「っ、それは、お互いを知ってからです」
ユウリというらしい彼女はおれの手を撫でていた左手でスマホをポケットから取り出して、QRコード画面をおれの目の前に突き付けた。
「……ライン、教えてください」
それがおれと彼女の始まりでした。
と、長話をしちまいましたね。嘘か本当か、まあ、信じなくてもいいですけどね。これはただの戯言ですから。まあ、たまにはこんな戯言もいいでしょう。
そろそろ妻に帰るよラインしたいです。今日はカンヅメ?そんな馬鹿な……現実逃避に長話したのは謝りますから、ねえ2代目敏腕マネージャー様。神様仏様マネージャー様。え、ダメ?ちっ。あ、すみませんすみません。舌打ちしてません。頑張ります。今夜中に新譜上げますから、はい。
……あーあ、ユウリに会いたい。
あの頃おれは16歳で、まだ少年と呼ぶべき年齢でした。ミュージシャンを目指して田舎町を飛び出したおれは、都会と言うには少し郊外の町に小さなアパートを借りて、週に一回、土曜日の夜に駅前の広場でギターを弾いていたんです。上京したての音楽家志望なんて、みんなそんなものだと思うけれど。
こんなに月が綺麗な夜は、少し思い出してしまいます。
それは、10年前のこと。
夜9時、土曜日の駅前広場は人通りも多く、あちこちに酔っ払いが転がっていた。それと同じ数くらい、おれと同じミュージシャン志望らしき青年たちが座っていて、思い思いの楽器を持っていた。そのほとんどはアコースティックギターで、おれももれなくアコースティックギターを抱えて、路上に座っている。
何曲か弾いたけれど、悲しいかな、おれの音楽は酔っ払いの足止めにもならなかった。
田舎から上京して2か月になる。貯金を切り崩して小さなアパートを借り、バイトを掛け持ちしては、その合間に曲を作って、週に一回駅前広場で歌う。けれど、駅前広場を通る酔っ払いも、アベックも、バイト帰りのフリーターも、おれの歌に足を止めてはくれなかった。この2か月、誰一人として。
地元では音楽をやっているだけでちょっとかっこいいなんて言われたりもして。打ち込みではあるが一通りの楽器はできて、作詞作曲編曲もできて、さらに歌えるだなんて、寂れた田舎町ではそれだけでそこそこモテたものである。女性からも、同性からも。……尊敬の対象という意味で。
けれど、都会に出てきてしまえばそんなものはみんなできて当然なのだ。田舎町で「持っている」と確信していたアドバンテージは、都会では無いも同然、プライドだけが高い凡庸な人間の出来上がりだった。
プライドと理想ばっかり高くなって。夢を見て学校をやめて家を飛び出したはいいが、結局おれを待っていた新生活は、朝もはよからあくせくバイトを掛け持ちし、疲れた体を引きずって家に帰ってきては次のバイトの時間まで泥のように眠る。そして何とか捻出した時間でちょっとだけ曲を作って、叶うわけのない夢を追いかけて路上で歌う。その繰り返し。
叶うわけがないと、思いたくなかっただけなのだ。夢は見ているだけで無条件で叶えられると信じたかっただけ。努力はすれば必ず報われると信仰していたかっただけ。こんなに頑張ったのだから必ず目標に手が届くって、夢を見ていたかっただけ。
――そう、信じたかっただけで。現実はおれの心を引き裂いていく。誰も、おれを見てはくれない。おれの声に足を止めてもくれない。それが事実だ。夢なんて、見ないほうが賢明だったのだ。まじめに学校を卒業して、大学に行くなり就職するなりしたほうが賢かった。そんなことはわかっている。それでもおれには歌う以外に何もできやしない。なにも、したくない。
歌っているとき以外のおれは、まるでおれじゃないみたいだ。息をしているだけで。鼓動があるだけで。おれがおれで在れるのは、誰も聞いてくれなくたって歌っているときだけだ。おれに。何もないおれが持っている唯一のものが、歌だから。だから結果が出なかったとしても、おれは歌に縋りつくのだろう。たぶん、未来永劫に。だからおれは、夢をあきらめて故郷に帰る電車に乗ることもできずに、今日も駅前広場で立ち止まるし、レンガの地面に座ってギターを抱える。
赤い布張りのギターケースは音を立てない。そんなことはわかって、いるけど。もう前を見ることもやめてしまった。ただ街灯の薄明りに照らされた自分の指先だけをじっと見て。今日もおれの前を通り過ぎる足たちを見送るだけ――そう、思っていた。
おれは、耳がいいから。見えなくたって、小さな足音がおれの前で止まったことに気付いていた。視界の端に、水色の小さなスニーカーが見える。どうせすぐにどこかに行くだろう、けれど、初めておれの前に立ち止まってくれた観客だった。
嬉しくないと言えば嘘だ。おれは、うれしかった。たとえ子供でも、おれの歌に興味を持ってくれた人がいるということが、嬉しくてたまらなかった。震えそうになる指を押しとどめて、弦を弾く。立っていた小さな足は、いつの間にかおれの前にしゃがんでいた。たった一曲、5分間の魔法が永遠みたいだ。
ねえ、おれの歌はきみに夢を見させられているの?5分だけの、短い魔法をかけられているの?――そんなことは、おれは知らない。ただ、誰かにかけるべく作った魔法に、おれ自身がかかってしまったみたいで。まるで夢うつつの5分を終えたおれがやっと前を見ると、塾帰りらしき黄色いリュックを背負った女の子が、アーモンド色の瞳でおれをじっと見つめていた。まだ小学生ぐらいだろうか。やっと見ることができた少女の顔は、ゆるりと微笑みの形をしていた。
ぱちぱち。小さな手が何度か打ち鳴らされる。それが拍手だったと気付いたのは、なんとも情けないことだが、少女がマジックテープ式の財布から100円玉を出して、おれのギターケースに入れて走り去ってからずいぶん後のことだった。
本当に、変な話。赤い布張りのギターケースの中に、月あかりを映して輝く100円玉が1枚。それがこの2ヶ月で唯一の成果。貧乏暇なしだから、明日も朝からバイトだし、新曲の進捗は悪いし、晩飯はもやしと油揚げの醤油炒めだし。
でも、なぜか。あの子から貰った100円玉を財布に入れる気にはなれなかったし、心の底にちょっとだけあった「故郷に帰ろうかな」って気持ちはすっかりなくなってしまった。
本来、普通の人間だったら、2ヶ月の成果が幼子からお情けでもらった100円玉だなんて、挫折の要因でしかないだろう。でも、なんでかな。おれは、あの子がくれた笑顔と100円玉が、まるで宝物のように思えて。おれはあの子の100円玉を、百均で買ってきた瓶の中に入れた。ちょっと青みがかった瓶のなかに入った100円玉は、いつだって窓際でキラキラ輝いてた。
それからも、変わらない生活をしていた。朝からバイトに行って、夜遅くに帰ってきて、真夜中にちょっとパソコンで打ち込みをして、5時間だけ寝て、朝になったらまたバイト。
月に何度かTDCでデモCDとフライヤーを配って、週に一回最寄りの駅前でギターを弾く。
ちょっと前までと違うのは、おれがギターを弾いていると、必ずおれの前にあの水色のスニーカーが立ち止まることだった。顔を上げれば、いつもあの子がいた。小さな手に100円玉を握りしめて、曲が終わればギターケースにあったかくなった100円玉を入れて走って行ってしまう。
門限でもあるのか、曲が終わるなりお金を置いて走って行ってしまうから、おれはあの子に声をかけたことがない。一言も、お礼を言えていない。百均で買った瓶のなかに、あの子から貰った100円玉が貯まっていく。あの子は毎週必ず100円をくれるから、瓶はちょっとした貯金箱みたいになっていた。
そうすると、なんだか申し訳なくなってくる。あの子はお小遣いからおれに投げ銭をしてくれているのだろう。小学生の小遣いなんてたかが知れているし、週に一回とはいえ、月にすると400円か500円をおれにくれているわけだ。少女漫画雑誌でも買える金額だ。もしかしたら、ちゃおやらなかよしやらを買うのを我慢しておれに投げ銭をしてくれているのかもしれないと思えば心が痛む。かといって、善意でくれる100円玉を突き返すわけにもいかないし。じゃあ、おれに何ができるだろうか。――と思うけれど、おれがあの子のためにできることなんて、あの子のために曲を作ることくらいだった。金も甲斐性も勇気もないおれにできるのは、ただそれだけ。
それから、バイトが終わってからパソコンに向かう時間はちょっと長くなって、睡眠時間はちょっと少なくなった。あの子はどんな曲を喜んでくれるだろうか。恋愛曲はちょっと年齢に見合わない?青春っぽい曲もまだきみには早い?失恋曲はきみを悲しませてしまうかな?きみは。ねぇ、きみは、どんな歌が好きなの?
おれはがむしゃらに曲を作った。あの子がどんな曲を喜んでくれるかなんて考えても無駄だと気付いたので、とにかく数をこなした。だからと言って凡作や駄作を生んだつもりもなく、すべての曲が魂の一曲だった。
かといって時間は有限だから、2週間に1曲を作れればいいほうだ。だから、隔週であの子に新曲を披露した。バラードを歌えば、あの子は自らが心を痛めたように眉根を寄せてくれた。恋の歌を歌えばちょっと頬を染めた。話したこともないくせに、おれの歌を聴いては優しく微笑んでくれるあの子のことを、ちょっと好きになりかけていた。
そのうち、少しずつあの子以外の人々もおれの歌に足を止めてくれるようになって、ギターケースの中に100円玉1枚じゃなくて、ときどき紙のお金が入るようになって、ちょっとギターケースの横に置いたCDの塔が少しずつ低くなっていって。小さなあの子を囲むように人だかりができるようになって。そんな日、ライブハウスのほうでの活動にも成果が出始めた。おれの歌を聴くためにチケットを買ってくれる人が、複数人……いや、いつの間にか何十人にもなっていたのだ。上京したばかりの頃の1回目のライブは誰もチケットを買ってくれなくて、おれがステージに上がったとたんドリンクスタンドで酒を飲んで談笑を始めるなんて光景が、まるで嘘みたいだ。最前を争う女の子だとか、ちょっと後ろの柵に腕をもたれかけておれの歌に耳を傾けるおじさんだとか。ライブを行う度、その人数は増えていく。ツイッターのフォロワーもじわじわと増えて、とうとう先日1000人を超えた。
あの子がおれの歌を聴きに来てくれてから、何かが変わった。あの子がおれに幸福を運んでくれる妖精か何かなのか、それともおれが変わったのか。そんなバカなことを考えてしまいそうになるくらい、短期間で、おれを取り巻く環境は目まぐるしく変わった。あ、またフォロワーが増えた。
――と、そんな生活を続けて1年。ツイッターのフォロワーは1万人を超えて、いつもの週末路上パフォーマンスでも、ギターケースに時給の数倍の金額が投げ入れられるようになったし、そしてとうとう明日は人生で初めてのワンマンライブだ。チケットはソールドした。マイナーバンドを特集する雑誌から、ライブの様子を取材したいとの連絡も来た。夢しか持たず上京したおれだったけど、その夢は今羽ばたこうとしていた。
あの子が知ったら、喜んでくれるかな。ファンに対して塩なことに定評のあるおれだけど(塩りたくてしているわけではない、単純にコミュ障なのだ)、あの子の笑顔を見るためだったらなんだってできるような気がした。
ねえ、きみはおれが有名になったら喜んでくれる?テレビに出たおれを指さして、母親に「前に応援してた路上アーティスト!」って報告してくれる?
――いや、「前に」になってしまうのは嫌だ。これからも、あの子に会いたい。おれの曲たちは、全部あの子のために書いた曲だから。あの子が誇ってくれるようなアーティストになりたい。夢を、叶えたい。おれの夢は、明確な形を持った小鳥になった。客席から、おれを呼ぶ声が聞こえる。BGMがかかり始めた。ライトがステージを彩っている。ねえ、きみが応援してくれたから、ここまで来られたんです。
きみが、すきだ。
初めてのワンマンライブは大成功に終わった。楽屋にやってきた雑誌記者は、スーツ姿の男を連れてきて。スーツの男は、おれに芸能プロダクションに興味はないかと話しかけてきた。はい、と答えて、名刺を受け取って、インタビューを受けて、スーツ男が乗ってきた車の後部座席に乗って、あれよあれよという間に有名レーベルの事務所で、契約書にサインをしていた。一瞬詐欺を疑ったけれど、スーツ男が車を回してくるまでの間に事務所の場所をグーグルマップで調べたし、そこに連れてこられたし、さっき廊下ですれ違ったのはこのレーベルの大御所バンドだし。ボールペンを持つ手は震えて、書いた名前はちょっと斜めになった。
それからはずっと忙しかった。メジャーデビューに向けてライブの回数は増えたし、取材も何件も入った。デビュー曲に相応しい曲を作れとも言われた。体がいくつあっても足りなかった。それでもあの子に会いたくて、あのちょっと寂れた駅前にギターを担いでいった。
疲れて何を弾く気にもなれなかったけれど、ギターを抱えて座っていただけで、あの水色のスニーカーがおれの前に座った。ほっぺたに手を当てておれを見つめる彼女の姿を見て、なんだか今までおれの身に起きたことを一斉に話したくなってしまう。けど、それをこらえておれはギターを弾いた。ねえきみ、これ、デビュー曲になるかもしれないです。最初に、きみに聴いてほしくて。そんな思いは届いたかどうかわからないけど、あの子はやっぱりマジックテープの財布から100円玉を出して、ギターケースにころりとそれを入れて、走っていった。――今日も、話しかけられなかった。
話しかけられるのはあの日がラストチャンスだったと言わんばかりに、おれには大量の仕事が降ってきた。スタイルがよくて身長も高いからモデルもやってみろだとか、エッセイを書いてみろだとか、純粋にアーティストになりたかった過去のおれが見たら辟易するであろう仕事の量。けれど、小鳥になった夢を空高く羽ばたかせるためには、どうしてもそれらの仕事も必要だった。
やっと少し仕事から解放された土曜日の夜、おれは帽子で派手な髪を隠して、いつもの駅前に走っていった。ほんとはね、もっと事務所にアクセスがいい街に引っ越したんだ。六畳一間の安アパートじゃなくて、いいマンションを借りれたんですよ。でも、あの子がいるこの街が、どうしても忘れられない。
いつもの時間にいつもの場所に座ってギターを抱えると、見計らったように水色のスニーカーが駆けてきた。髪を隠していても、彼女はおれを見間違えたりしなかった。それがうれしくて、なんだかおれも上機嫌。けれどきみの目を見たら、声を掛けられるような強気はなくなってしまうので、今日はスケッチブックに言いたいことを書いてギターケースの横に置いた。
『毎月第一土曜日のみのパフォーマンスになりました。また会いに来てください』
演奏が終わった後、お金を握ったあの子はその文字をじっと見つめて、それからギターケースにまたころんと100円玉を入れて立ち上がる。
「絶対待ってますね」
そう言って、あの子はいつものように走って去っていった。
あ、初めて声を聞けた。
それから数年、おれはどんなに仕事が忙しくなっても、第一土曜日の夜にだけは絶対仕事を入れなかった。ツアーの最中だってあの街に行った。地方から車を飛ばしてくれるマネージャーには謝意しかない。それでも、あの子に会いたかった。
音楽番組に出たよ。ラジオでレギュラー番組を持ったよ。ツイッターのフォロワーは5万人を超えたよ。それでも、ねえ、第一土曜日だけは髪を隠してきみに会いに行く。
きみの水色のスニーカーはいつの間にかローファーになって、それからレースがついたショートブーツになって。
気が付いたら、あの日から10年も経っていた。彼女がくれるのも、100円玉から1000円札に変わった。おれの変装も髪を隠す程度じゃ済まなくなった。
それでも、おれはきみに会いたくて、どんなに仕事があっても全部蹴っ飛ばして、ギターケースを背にあの街に向かった。ねえ、毎日見てると気付かないって言うけどね、きみはすごく綺麗になった。10年も経てば当たり前なんだけど、手足はすらっと長くなったし、唇には桃色のグロスがうすく塗ってあるし、小学生だったきみが大学の名前が入ったバッグを持つようになったのを見て、馬鹿みたいだけどちょっと心に来た。
本当に、素敵な女性になった。話したこともないのに、ちょっと兄心。けれど、今日来たのはそんなことを考えるためじゃなくて。
いつも通りに路上に座ると、ギターを出したタイミングで軽快なかかとの音が聞こえた。ギターの調節をしていた手を止めて前を見ると、やっぱりあの子がおれの目の前にしゃがんでいた。
ねえ、ねえ、今日は新曲を持ってきたんですよ。きみのために作ったし、きみに一番最初に聴いてほしいって思ったから、マネージャーにだって黙ってこの曲を作ってきたんです。どうか聴いて。これは、恋の歌。
この時間だけはきみはおれだけを見てくれていると思うと胸が苦しくなる。きみの世界のはおれでできてるって思ったら舞い上がりそう。ねえ、この曲にはそんな気持ちを詰めてきたんです。ギターを抱えて歌い始めると、やっぱり、そう。この瞬間だけはきみとおれ、二人だけの世界みたい。5分間の魔法だ。ねえ、冷めないで。消えないで。そう思ったら、ギターケースにお金を入れようとしていたきみの手を掴んでいた。10年もこうしていて、初めてきみの手に触れた。きみはびっくりしたように手を引っ込めようとしたから、慌てておれは追いすがる。風で1000円札がひらひら舞った。
「あ、あの、待ってください」
声を絞り出すと、彼女は引っ込めようとしていた腕から力を抜いた。単純に腕をいきなりつかまれて驚いたのだろう。
「聞いてほしいことが、あって」
言葉が喉に引っかかる。でも、どうか5分間の魔法が覚める前に。
「……何でしょう?」
10年前のあの日以来に、彼女が口を開いた。思い出の中の声はわたあめみたいに甘い子供の声だったけれど、今はまるで透明な宝石を鳴らしたみたいな声だった。
「あ……あの、今の曲なんですけど」
「はい」
彼女はもう手を引っ込めようともせず、ただおれをじっと見てくれていた。アーモンド色の瞳は街灯の光を映してきらきら光る。負けるな、がんばれ、おれ。10年も付き合ってくれたこの子に、言うことがあるだろ。
「初めて話すのに、おかしいって思われるかもしれないんですけど」
勇気を持て。こんな勇気を出すのは生涯最初で最後だ。ねえ、どうか、笑わないでね。
「きみへのプロポーズのつもりだったんです、け、ど……」
言葉尻は小さくなってしまった。恥ずかしくて彼女から視線を外す。沈黙に耐えられない。逃げ出してしまおうか。けれど仕掛けたのはおれだ。言い逃げなんてできるもんか。
数分経った?それとも数秒?心臓がうるさくて、時間の感覚が狂ってしまった。わからないけれど、彼女の右腕を掴んだおれの手に、優しい温度が重なった。
「……あたし、ユウリです」
彼女は、おれの指をそっと撫でてくれた。
「……ユウリさん」
「あたしも、10年前からあなたのことが好きです。ネズさん」
逸らしていた視線を彼女に向けると、アーモンド色の大きな目からガラス粒があふれ出していた。
「……結婚してくれますか」
「っ、それは、お互いを知ってからです」
ユウリというらしい彼女はおれの手を撫でていた左手でスマホをポケットから取り出して、QRコード画面をおれの目の前に突き付けた。
「……ライン、教えてください」
それがおれと彼女の始まりでした。
と、長話をしちまいましたね。嘘か本当か、まあ、信じなくてもいいですけどね。これはただの戯言ですから。まあ、たまにはこんな戯言もいいでしょう。
そろそろ妻に帰るよラインしたいです。今日はカンヅメ?そんな馬鹿な……現実逃避に長話したのは謝りますから、ねえ2代目敏腕マネージャー様。神様仏様マネージャー様。え、ダメ?ちっ。あ、すみませんすみません。舌打ちしてません。頑張ります。今夜中に新譜上げますから、はい。
……あーあ、ユウリに会いたい。