ネズユウ

夏の日、夜の森を歩いた。オーバーナイトハイキングだ。危険だってよく言うけど、おれたちはそんなこと知ったこっちゃない。どこにも行けないおれたちだけど、ここにいるよりはいいねって思ったんだ。
 夜の帳をめくっておれたちは歩いた。ねえ、今だったらどこにだって行けそう。空を飛ぶのだって簡単なような気がしたね。それくらい月も星も近くって、握って食べてしまえそうなくらいの夜。印象派が描いたみたいな、誰も見たことない色の夜空だった。
 きみはいつも笑うばっかりだったけど、月の柔らかい光が照らしてるきみの横顔は、ちっとも笑ってなかったよ。ねえ、あのときのきみはさ、おれにだけ本当の自分ってやつを見せてくれてたんだと思う。ねえユウリ、きみだって笑えない時くらいあったのに、それでもずっと笑ってたね。悲しい時だって悔しい時だってあったのに、きみは馬鹿みたいに笑ってた。誰もが、何をしてもきみに許されてると思って安心してた。でも、そうじゃないよな。きみにだって許せないことの一つや二つあっただろう。だからおれはちょっとだけ嬉しかった。きみが、笑わないことが。
 
 だからおれは何度でもあの日のきみを追いかける。
 
 寒くなったから、小さな焚き木を作って座ったね。
 おれは背中に持ってたギターをちょっとだけ弾いて、作りかけの曲をきみに語った。ねえ、忘れないでって。きみはおれのギターに合わせて踊ってくれたけど、ちっとも忘れたくないなんて思ってなかった、そうだろ? むしろきみは忘れたかったんだ。おれのことも、なにもかも。忘れることでしか来ない夜があるから。
 うすく朝靄がかかって、頼りになるのはお互いの息遣いと焚き木だけになっても、おれたちは歌って、踊ってた。もう二度と目覚めたくないって言うみたいに。本当に、目覚めたくなかったから。朝が来たら終わりだって、二人してちょっと怯えてたね。
「ねえ、好きですよ」そんなふうにおどけたら、ユウリは「うん」って、ちっとも笑ってない顔で言ったから、これは二人だけの秘密にしようって思った。
 お菓子みたいな月や星がすっかり見えなくなってしまうまでが、二人の時間だった。たった数時間だったけれど、ねえ、きみ。覚えていますか? いや、忘れただろうな。ちょっと忘れてほしくなかったけれど、それでもいいや。きみはどうか知らないけれど、おれの胸の中には、まだ薄明りの中で踊るきみの姿が焼き付いている。
 おかしいことにさ、きみがいなくなってから、あの森に行ったけど、あの日と同じ森には見えなかったです。探してもあの森はどこにもなくて。それで、やっとわかったんだ。おれの世界って、どこまでもきみを中心にできてるんだなぁって。夏の空に新しい朝が来るのを見て、またきみを想ったりしてます。
 
 これが、きみが失踪した日のことでした。
 
 というポエムはさておきとして。
 
「もうやだ、死んじゃいたい」
 我が家のリビングで、悲壮で物騒な声が上がった。マリィに背中を撫でられながら、ユウリは大きな目から真珠みたいな涙を流していた。
「そんなこと言わないでよ、ユウリ……」
「やだ、もうだめ。もうだめなの」
 ついさっきまで三人で囲んでいた食卓の皿が、妙に寂しそうだ。そう、さっきまでは楽しく食事をしていたのだ。おれたちは時々こうやって揃って食卓を共にする。今日はおれがふっくら焼いた魚のムニエルを供したし、デザートだって買ってきた。それなのに、食後の紅茶を用意するためにお湯を沸かしている間に、ユウリは何かの糸が切れたみたいに泣き出していたのだ。まったく、どうしていいかわからない。
 兄妹揃ってオロオロしている間にも、ユウリのスカートには大きなシミができていく。マリィのほうも泣き出してしまいそうだ。女二人に泣かれたら本格的にどうしようもなくなるので、黙って茶をすすっているわけにもいかなくなってしまった。それに。普段底抜けに明るいユウリが希死念慮を口にしながら泣いているなどという状況は、とても看過できるものではない。
「いったい、どうしたって言うんですか」
 手元にそれしかなかったので、食卓用のナプキンでユウリの頬をぬぐった。それでも大きな目からこぼれる真珠は止まらない。こんな彼女を見るのが初めてで、おれも動転しているのかもしれない。気の利いた言葉一つも出て来やしなかった。まあ、気の利いたセリフ一つ言えないのはいつものことだけれど。
 ごしごしとナプキンでユウリの顔を拭く以外にできることは何もないというのも情けないが、そういうところは同年代で同性のマリィに任せたほうがいいだろう。マリィ、頼む。視線で訴えると、マリィは小さく頷いた。
「……ユウリ、何があったの?」
 マリィは促すようにユウリを抱き寄せる。こういうことがさりげなくできるのが、同性の友人のうらやましいところだ。ユウリはマリィの肩に寄り掛かるようにして、マリィの服にシミを作っていく。
「もう嫌。チャンピオンなんて辞めちゃいたい。でも辞められないから死んじゃいたい」
 たっぷり数分してからユウリの口から出てきたのは、そんな言葉だった。
「嫌なことでもありましたか」
 そりゃあ、嫌なことだらけだろう。毎日休む暇もなく忙しいし、プレッシャーのかかる仕事だ。とてもティーンエイジャーにさせる仕事ではないと思う。だが、前チャンピオンである無敵のダンデが、今のユウリより年下でその頭に冠を戴き、それでいてプレッシャーなどないかのように振舞ったから。その一〇年間のせいで、「ガラルチャンピオン」という職への世間の認識はだいぶ温いものになっていた。功罪在りとはこのことだ。あの野郎。馴染みの顔を思い浮かべたら、急に憎たらしくなってきた。それはともあれ。
「……嫌になっちゃった。ダンデさんが言ってたのもいまならわかるよ。スタジアムにいる人みんながあたしを応援してくれてるわけじゃないの。あたしなんか負ければいいって、あたしなんかいなくなればいいって思ってスタジアムに来る人もいっぱいいるの」
「そんなことなかとよ……」
「マリィ、大丈夫、わかってるの。勝負の世界だもんね。誰にでもファンはいて、その人たちは別にあたしのこと好きじゃないってだけのことなの」
 でも、と、ユウリは続ける。
「疲れちゃったよ。「ユウリ負けろ」って声が聞こえるのにも。ダンデさんのほうがよかったって比較されるのにも。ユウリがチャンピオンでいるのに飽きたって言われるのにも。五年も防衛できているのは八百長をしてるんじゃないかって質問にも。上辺だけの応援を受けると嫌な汗が止まらないの。誰の気持ちもわからなくって、苦しくて、苦しくて、こんな思いをするくらいだったら死にたくて……」
 あたしのアンチ掲示板もあるんですって。と枯れた声で語るユウリの言葉を全部聞いた頃には、マリィの目からも涙が一筋こぼれていた。大切な友人がこれだけの苦しみを抱えていたことに気付かなかったことが悔しいとでも言いたげな涙だ。
 勿論、おれもその言葉に思うことがないはずがない。そう、見た目だけは取り繕っているけれど、本当はユウリの涙をぬぐっていたナプキンを床に投げつけてから、各報道機関のオフィスのドアを思いっきり蹴り開けて怒鳴り込んでやりたいし、ユウリのアンチスレに書き込んでる奴らを全員総合掲示板サーバーからBANしてやりたいし、なんなら全然関係ないけどダンデにブチギレのお気持ちお電話を百万回かけてやりたい。けれど、ユウリがそれを望んでいるわけではないのはわかっているので、やめた。
 その代わりに、おれに何かできることはないだろうか。これでもおれは、彼女のことが好きなのだ。だから、彼女のためになることなら何でもしてあげたい。死ぬこと以外で、ユウリがこんなしがらみから解き放たれる方法を、頭の中で必死で検索する。
 ――そして、結局誰もが考えつく普遍的な発想に至るのだ。
「失踪しちまえばいいじゃないですか」
「……何言ってんの、アニキ」
「バックレちまえば仕事はする必要ありませんし、ファンもアンチもしばらくすればユウリに興味をなくしますよ。生活に必要な資金は援助しますし、長い夏休みとでも思ってゆっくりバカンスをしていればいいんじゃないですか?」
 マリィは呆れて開いた口が塞がらないという様子だ。けれど、少なくともユウリの目からこぼれる涙は止まった。
「明日の朝イチで携帯ショップに行って、おれ名義で新しいスマホを契約しましょう。マリィはユウリをユウリとわからなくなるくらいにいい化粧をしてくれるサロンを探しておいてよ。ユウリが化粧をしている間に、どっかの地方への飛行機なり船なりのチケットを押さえます」
「で、でも」
「超人気シンガーなめねえでください。どこの地方にもある程度のツテくらいはあるんですよ。女の子が一人暮らしできる家を借りる程度の金だってあります」
「……そ、そうだよ。あたしとアニキにはちょっと定期で連絡くれればさ、安心だし。アタシ、サロン探してくる!」
 騒々しい足音を立てて、マリィは階段を駆け上っていった。自室に山積みのファッション雑誌を引っ張り出すくらいの時間はあげよう。空いたユウリの隣に腰を下ろして、今度はおれがユウリの背中を撫でた。話が亜高速で進んでいるのをやっと理解したのか、ユウリはあわあわと手を胸の前でこね回し始めた。
「あの、あの、チャンピオンのお仕事はどうするんですか」
「そんなのダンデに熨斗をつけて返してやりなさい。喜びますよ」
「明日も、明後日も、仕事があるし、ジムチャレンジももうすぐ」
「それが嫌だから死にたいって話じゃなかったんですか。おれはね、バックレろっつってんですよ。死ぬくらいならそんなのやめちまえ。というか、おれはきみが病んで最悪死ぬのと、今年のジムチャレンジがなくなるののどっちが嫌かっていったら、そんなの、きみがいなくなるほうが嫌に決まってるでしょう。ジムチャレンジはどうせきみが不在でもダンデがなんとかします。QED」
 ダンデに全部丸投げする形にはなるが、バトルすることとそれにまつわる各種業務が大好きで、いい意味でも悪い意味でも目立つことを苦に感じない委員長さんなら、何も言わなくてもやってくれる。
 五年か、そのくらいすれば、きっと誰も彼もユウリのことを忘れるだろう。最初のうちはニュースになるだろうし、テレビやネットは一日中ユウリの行方を特集するだろうが、数年の我慢だ。時には正しいまま傷つくことが必要な時もあるけれど、死んでしまったら元も子もないのだから。
「ユウリ、きみだけが傷付く必要はないんですよ。今まで五年もよく頑張りました。もう逃げていいんです」
 頭を撫でてやると、ユウリの顔はまた泣き出しそうに歪んだ。
「あたし、もう頑張らなくていいんですか」
「いいに決まってます」
「無理して笑ってなくていいんですか」
「逆に、きみの笑ってるとこ以外のいろんな表情を見たいもんですけどね」
「バックレるって、なんか悪い響きですね」
「前悪タイプジムリーダーですよ? 悪い発想はお手の物ですよ」
 だから、気にしないで。泣かないで。悪いことを言ったのはおれで、きみは唆されただけ。そう言いながら、おれはきみの頭をゆっくり撫でた。真っ赤に晴れた目元がやっと和らいでいくのをじっと眺めるこの時間は、これが最初で最後だ。
「……あ」
 それはちょっとした思い付きだけれど。しばらくの間彼女に会えない提案をしたのはおれだけれど、今更ながら惜しくて。それに、彼女がもう二度とガラルに戻らない選択をしたらどうしようという恐怖が少し。――だから、彼女の胸に楔を打っておきたかった。
「ユウリ、明日の朝までの時間をおれにください」
「え……それは、いいですけど」
「それともう一ついいですか」
「はい」
「好きです」
「……え、ええっ!?」
 ユウリの目元が、涙のせいだけでなく赤くなった。しどろもどろに視線を泳がせる様子を見ると、やはり、そう。彼女もおれのことを憎からず思っていることがわかる。おれの自信は間違ってはいない。
「あ、あの……あたし」
「返事は今じゃなくていいです。でも、五年か六年くらい後……誰もが君のことを忘れた頃に、ガラルに戻ってきて。そうしたら、おれと結婚してください」
 退路は断った。おれのことを少しでも想うなら、きみは絶対に帰ってくる。そしておれの手に落ちる。そんな未来が透けて見えるようで、笑ってしまいそうになるけれど、ここはぐっと我慢して、優しい大人を気取る。
「……ね、ユウリ。待ってますから」
 真っ赤な耳に唇を寄せて囁くと、ユウリは背中を痺れさせてしまった。嗚呼、この後が少し思いやられる。夏とはいえ、まだ夜は長い。
 ねえユウリ、何年経っても忘れられない思い出を二人で作ろう。ロマンチックなきみだから、オーバーナイトハイキングがいいね。誰も知らないところへ、夜空を見に行こう。忘れることでしか叶わない願いを、全部夜に溶かしに行こう。妹よ、きみに何も言わずこっそり家を出ていく兄と親友を許し給え。
 
 先ほどはポエミーに語ってしまったけれど、これが五年前のチャンピオン・ユウリ失踪事件の真相だ。ユウリとおれとマリィ、三人の秘密である。
 ユウリは約束通り、定期的にマリィかおれに電話やメールをくれた。五年間、有意義な時間を過ごせたようだ。それから、たった今、「来週帰りますね」なんてメールが来た。だからこそこんな五年前のことを思い返してみたことだけれど。
 まあ、自分も若かったな、と思う。あの頃おれはまだ二〇代半ばだったし、ユウリだって一八歳だった。お互いに若くて勢い任せだったところはあるけれど、後悔はしていない。何故なら、ユウリから来たメールにはまだ先があるからだ。
「あたし、プリンセスラインのドレスがいいんです」なーんて。うん、おれも。きみにはプリンセスラインの白いドレスがよく似合うと思うよ。
 幸いスパイクタウンには顔が利くからさ、昔からある写真館なんかとも付き合いがあるわけ。だから、きみが戻ってきたら、すぐにきみをさらって写真館に連れて行きます。
 新しい車を買ったんですよ。助手席はきみが座るところだって決めてたから、マリィだって座ったことがない。これから不動産屋に行って、きみと暮らす家を探そうとも思ってるんです。ちょっと不便でもいいから、静かなところで暮らしたいね。新居が見つかるまでには少し時間がかかるから、今の家にユウリの部屋ももう用意してあるんですよ。ねえ、ウールー毛のふかふかのベッドを窓際に置いたから。
 きみに会いたいよ。ねえ、髪は伸びた? 服の好みは変わりましたか? ――そんなのどうでもいい。きみに、早く会いたい。
 ねえ、早く帰ってきて。きみはまだロマンチックなことが好きだろうか。そうしたら、もう一度オーバーナイトハイキングをしたい。あの夏の日は、おれがどれだけ「好き」と言ってもきみは耳を赤くするだけだったけれど、きっと今度は返事をしてくれますよね。
 ユウリ、もう一度夏の夜空を見に行こう。そこで、どうか返事を聞かせて。
15/19ページ
スキ