ネズユウ
何時間でも、このままいたいよ。ただきみの顔だけ見ていたい。はしゃぎ疲れて眠る彼女の顔を眺めているだけで、おれは世界一幸せな人間だ。彼女が目覚めるまでのたった七時間、世界は、おれがこの世で一番の幸せ者であることを許してくれる。
おれは彼女に男として意識されていないから、彼女はこうやって時々おれをキャンプに誘うし、毎回、一つのテントで一緒に夜を明かそうだなんて笑いかけてくる。それに毎回乗るおれもおれだ。男女の同衾なんてと断ればいいのに、彼女恋しさに断れない。
年を経るごとにユウリの脚は長くなるし、鎖骨も浮き出してくる。ユウリは徐々に女の体になっていく。そのうち、こうやってキャンプに誘ってくれなくなる日が来るだろう。だから、おれがこの世で一番の幸せ者でいられる時間は、そう長く残っていない。だからおれは、なおさら彼女からのキャンプの誘いを断れない。
ねぇ、わかっていますか。寝顔なんて誰でも見られるものじゃないんですよ。本来だったら、家族とか、すごく仲がいい友人だとか、パートナーだとか。そんな相手しか、きみの寝顔を見ることはできないはずなんですよ。
おれはきみのパートナーでもないし、一番の友人でもない。それでもきみはおれをキャンプに誘ってくれるから、おれは特別に、きみの寝顔を見ることができる。それって、とても幸せなことなんです。きみに告白する勇気もなくて、一番の友達になれるような年齢でもないおれが、唯一きみの特別を奪える時間。
いつも、夜が来て、二人でテントに潜って、寝袋に体を半分突っ込んでから数時間語り合って、そのままきみはしゃべり疲れて寝てしまう。そうしてきみが目覚めるまでは、おれはきみの『特別』でいられるんです。
長いまつげに影が差している。いつまで経っても直らない口呼吸の癖で、あかい唇が少し乾いている。柔らかい髪がウェーブを描いて頬にかかっている。
ああ、何時間でもこのままいたいよ。いつまでも、おれをきみの特別でいさせてよ。たった数時間だけの勘違いを、永久の真実にしてよ。――そんな勇気も、ないくせに。
馬鹿みたいだ。幸せなはずなのに、泣きたくって仕方がない。本当はわかってる。おれが、きみの特別な人じゃないってことくらいは。きみの善意と好意のうえに胡坐をかいて恩恵を得ているだけのクソ野郎だ。きみの寝顔を眺めて悦に入っているなんて、気味が悪い。
ごめん、ごめん。わかっているんだ。でも、こうするより他に、きみの特別になる方法が分からない。だからおれはこれからも、その日が来るまで、きみの善意の上で寝っ転がりながら勘違いをし続けるだけ。わかって、いる。
せめて、この数時間だけ、きみを愛しつくさせてほしい。愛してる、愛しているんです。それだけはどうか、疑わないで。眠っているきみは、知る由もないけれど。なんてこった、願いまでもが身勝手だった。いつだってこんな身勝手さを抱えたまま、空が白み始める。ユウリが目覚めるまで、あと数十分。おれもそろそろ寝ていたふりをしなければならない。
ほんとうに、いつまででもこの時間が続けばいいのに。そんな都合のいいことなんてないけれど、そんな幻想に沈んでいたい。けれど時間は無常であるので、おれは音を立てないように寝袋の中に滑り込み、ユウリに背を向けて横になる。
「……どうして?」
少し枯れた声が、おれの背中に突き刺さった。思わず起き上がると、茶色くて大きな瞳がじっとおれを見ていた。
「……おはようございます? 早いですね」
冷静を装って取り繕うけれど、ユウリの目はじっとおれを捕らえている。
「ネズさんのばか、弱虫、うそつき」
「結構な言い様じゃねぇですか」
「ばか、ずるい」
「一体何の話で――」
「ばか!」
枕代わりのクッションを顔に投げつけられる。ヘアミストの甘い匂いがした。
「まったく、何を」
「あたしのこと好きなくせに、ネズさんのばか、弱虫、見てるだけで満足なら、人形にでも恋してればいいのに! そしたらあたしだって、諦めつくのに!」
荒げた声は嗚咽交じりになって、震えていた。ちがう、違うよ。おれはきみのことが好きだから、本当は手を繋ぎたいし、くちづけで君の頬を色づけたいし、抱きしめてそのまま朽ちていけたらいい。でも、きみに好きだというただ一言を伝える勇気がないばかりに、きみを見てただけだった。
――ああ、確かに。見ているだけの恋なんて、人形を愛でるのと変わらない。そうじゃないよな。おれが好きになったのは人形じゃなくて、触れればあたたかいし、表情はくるくる変わるし、生きて呼吸をしている。おれのために心臓をうるさく鳴らしてくれる、愛しい女の子。ねえ、きみはおれを好きと思ってくれているの?そうなら、おれも。ねえ、ほんの少しの勇気をもって。
「……すいませんでした」
「あたしは謝ってほしくて怒ってるんじゃないです」
すっかり機嫌を損ねたユウリは、おれに背を向けてまた横たわってしまった。
「うん。……おれ、きみのことが好きです」
「知ってます」
それでもユウリはまだおれに背を向けたままだ。
「好きだよ。きみを見つめていられるこの時間が永遠だったらって、いつも考える」
「……」
「でも、勇気がなかった。おれときみは年の差もあるし、男として意識されてないって思ってたから」
「……あたし、そんなこと言った覚えないもん」
「はい。おれの勘違いです。なので、勘違いついでなんですが」
きみも、おれのことが好きってことですか?
意地悪な問いかけだった。今まで、ユウリがおれをキャンプに誘っては無防備に眠っていたわけも、おれがきみをじっと眺めていたのを知っていたということも、それがどうして嫌だったのかも、おれにはわかってしまったから。だからあとは、きみが真っ赤な顔で頷くのを待つだけなのだ。
ああ、本当に、何時間でもこのままいたい。顔を真っ赤にしたユウリが不機嫌そうなままおれの胸に飛び込むのも、きみを抱きしめた手にきみの心音が届くのも、頬を寄せ合って、やっとユウリが微笑んでくれるのも、それからはじめてのキスをするのも。
神様、どうか気まぐれを起こしても時は止めないで。これからずっと、こうしていたいから。
おれは彼女に男として意識されていないから、彼女はこうやって時々おれをキャンプに誘うし、毎回、一つのテントで一緒に夜を明かそうだなんて笑いかけてくる。それに毎回乗るおれもおれだ。男女の同衾なんてと断ればいいのに、彼女恋しさに断れない。
年を経るごとにユウリの脚は長くなるし、鎖骨も浮き出してくる。ユウリは徐々に女の体になっていく。そのうち、こうやってキャンプに誘ってくれなくなる日が来るだろう。だから、おれがこの世で一番の幸せ者でいられる時間は、そう長く残っていない。だからおれは、なおさら彼女からのキャンプの誘いを断れない。
ねぇ、わかっていますか。寝顔なんて誰でも見られるものじゃないんですよ。本来だったら、家族とか、すごく仲がいい友人だとか、パートナーだとか。そんな相手しか、きみの寝顔を見ることはできないはずなんですよ。
おれはきみのパートナーでもないし、一番の友人でもない。それでもきみはおれをキャンプに誘ってくれるから、おれは特別に、きみの寝顔を見ることができる。それって、とても幸せなことなんです。きみに告白する勇気もなくて、一番の友達になれるような年齢でもないおれが、唯一きみの特別を奪える時間。
いつも、夜が来て、二人でテントに潜って、寝袋に体を半分突っ込んでから数時間語り合って、そのままきみはしゃべり疲れて寝てしまう。そうしてきみが目覚めるまでは、おれはきみの『特別』でいられるんです。
長いまつげに影が差している。いつまで経っても直らない口呼吸の癖で、あかい唇が少し乾いている。柔らかい髪がウェーブを描いて頬にかかっている。
ああ、何時間でもこのままいたいよ。いつまでも、おれをきみの特別でいさせてよ。たった数時間だけの勘違いを、永久の真実にしてよ。――そんな勇気も、ないくせに。
馬鹿みたいだ。幸せなはずなのに、泣きたくって仕方がない。本当はわかってる。おれが、きみの特別な人じゃないってことくらいは。きみの善意と好意のうえに胡坐をかいて恩恵を得ているだけのクソ野郎だ。きみの寝顔を眺めて悦に入っているなんて、気味が悪い。
ごめん、ごめん。わかっているんだ。でも、こうするより他に、きみの特別になる方法が分からない。だからおれはこれからも、その日が来るまで、きみの善意の上で寝っ転がりながら勘違いをし続けるだけ。わかって、いる。
せめて、この数時間だけ、きみを愛しつくさせてほしい。愛してる、愛しているんです。それだけはどうか、疑わないで。眠っているきみは、知る由もないけれど。なんてこった、願いまでもが身勝手だった。いつだってこんな身勝手さを抱えたまま、空が白み始める。ユウリが目覚めるまで、あと数十分。おれもそろそろ寝ていたふりをしなければならない。
ほんとうに、いつまででもこの時間が続けばいいのに。そんな都合のいいことなんてないけれど、そんな幻想に沈んでいたい。けれど時間は無常であるので、おれは音を立てないように寝袋の中に滑り込み、ユウリに背を向けて横になる。
「……どうして?」
少し枯れた声が、おれの背中に突き刺さった。思わず起き上がると、茶色くて大きな瞳がじっとおれを見ていた。
「……おはようございます? 早いですね」
冷静を装って取り繕うけれど、ユウリの目はじっとおれを捕らえている。
「ネズさんのばか、弱虫、うそつき」
「結構な言い様じゃねぇですか」
「ばか、ずるい」
「一体何の話で――」
「ばか!」
枕代わりのクッションを顔に投げつけられる。ヘアミストの甘い匂いがした。
「まったく、何を」
「あたしのこと好きなくせに、ネズさんのばか、弱虫、見てるだけで満足なら、人形にでも恋してればいいのに! そしたらあたしだって、諦めつくのに!」
荒げた声は嗚咽交じりになって、震えていた。ちがう、違うよ。おれはきみのことが好きだから、本当は手を繋ぎたいし、くちづけで君の頬を色づけたいし、抱きしめてそのまま朽ちていけたらいい。でも、きみに好きだというただ一言を伝える勇気がないばかりに、きみを見てただけだった。
――ああ、確かに。見ているだけの恋なんて、人形を愛でるのと変わらない。そうじゃないよな。おれが好きになったのは人形じゃなくて、触れればあたたかいし、表情はくるくる変わるし、生きて呼吸をしている。おれのために心臓をうるさく鳴らしてくれる、愛しい女の子。ねえ、きみはおれを好きと思ってくれているの?そうなら、おれも。ねえ、ほんの少しの勇気をもって。
「……すいませんでした」
「あたしは謝ってほしくて怒ってるんじゃないです」
すっかり機嫌を損ねたユウリは、おれに背を向けてまた横たわってしまった。
「うん。……おれ、きみのことが好きです」
「知ってます」
それでもユウリはまだおれに背を向けたままだ。
「好きだよ。きみを見つめていられるこの時間が永遠だったらって、いつも考える」
「……」
「でも、勇気がなかった。おれときみは年の差もあるし、男として意識されてないって思ってたから」
「……あたし、そんなこと言った覚えないもん」
「はい。おれの勘違いです。なので、勘違いついでなんですが」
きみも、おれのことが好きってことですか?
意地悪な問いかけだった。今まで、ユウリがおれをキャンプに誘っては無防備に眠っていたわけも、おれがきみをじっと眺めていたのを知っていたということも、それがどうして嫌だったのかも、おれにはわかってしまったから。だからあとは、きみが真っ赤な顔で頷くのを待つだけなのだ。
ああ、本当に、何時間でもこのままいたい。顔を真っ赤にしたユウリが不機嫌そうなままおれの胸に飛び込むのも、きみを抱きしめた手にきみの心音が届くのも、頬を寄せ合って、やっとユウリが微笑んでくれるのも、それからはじめてのキスをするのも。
神様、どうか気まぐれを起こしても時は止めないで。これからずっと、こうしていたいから。