ネズユウ

 二五時、鋭くきみを想う。テーブルの上にはオレンジバラの小さなプリザーブドフラワーがあって、おれの溜息を飲み込んでいく。明日はバレンタインだ。
 ユウリに出会って、五年が経った。一人の少女を大人に変えるのには十分すぎる時間を経て、おれたちはいつの間にかお互いに好意を持っていた……いる……おそらく。おれが彼女を好きだと気付いたのも、彼女もおれに好意を抱いているということに気付いたのも、もうどれくらい前のことかは忘れてしまったけれど。彼女が一八歳になって、そうしたら、告白しよう。そう考えてやっと迎えた絶好の機会であるバレンタインの真夜中、おれは部屋の隅っこで体育座りだ。鮮やかな敵前逃亡だ。はためく白旗だ。
 おれは自分から他人を好きになったことがない。いつだって向こうから仕掛けてきて、手を握られて、それが関係をねだる合図だと学んでしまっただけで。おれは自分のことが嫌いだから、自分を好きだと言ってくれる女にめっぽう弱かった。女を自ら求めることはなかったけれど、女が切れることもなかった。そんな環境にずぶずぶと浸かって、こうして他人を愛する勇気を持てない男の完成だ。
 結局おれは小心者で卑怯で、勇気なんてなかった。やっとのことで選んだプレゼントがおれの溜息を吸い込み続ける。
 生花は枯れれば捨てられてしまうから。お菓子は食べたらなくなるから。身に着けるものは、つけていないところを見てしまったら自尊心が崩壊するから。そんなこんなでやっと考えたプレゼントは、両手のひらに乗るほどの大きさの薔薇のプリザーブドフラワー。重いかもしれないとは感じたが、赤薔薇でないのでまだかわいいほうだ。そう思い込もうとしても、やっぱり勇気がない。
 ユウリに好かれている自信は、昨日まではあった。けれど昨日ユウリが突然おれを嫌いになっていたらどうしよう。そんな考えに憑りつかれて、二五時を指していたアナログ時計はくるりと回って、窓の外には透明な空が広がっていた。朝日に照らされたプリザーブドフラワーを飾るビーズたちがキラキラ輝いて、結局徹夜になったおれの目をグサグサ。嗚呼、痛い。
 頭の中では白旗が大きくはためいている。これはもうだめだ。結局おれはその程度なのだ。体育座りのまま腕に力を込めて、部屋の隅っこに腐れた白黒の団子、出来上がり。 
「アニキ、朝ごはん……げぇっ」
 ノックもなしに部屋のドアを開けたのは妹であった。おれはなおさら情けなくて、さらに小さく縮まった。
「何しとーと」
「……放っておいてください」
「いいけど、そしたらこの花あたしにちょうだい」
 テーブルの上の花に手を伸ばすマリィを見て、やっとおれは這いつくばるようにテーブルに向かって……まるでメタモンのようにのたのたとプリザーブドフラワーを奪還した。
「ユウリに告白するんじゃなかったの」
「わかっていて意地が悪くなりましたね、妹よ」
「アニキが情けないから」
 心にグサリと包丁が刺さった。
「あたしだって、アニキと親友が幸せになってくれれば一挙両得やもん。うれしいよ。でもアニキがそんなに情けないんじゃ本当にどうしようもない」
 言葉の包丁でめった刺しだ。頭の中の白旗はどんどん大きくなって、今やこいのぼりみたいに空を悠々と泳いでいた。
「アニキのユウリを好きな気持ちは、その程度?」
「……好きだから、怖いんですよ」
「ユウリに好かれてる自信があったんじゃなかった?」
「昨日まではありましたけど、夜の間に知らないところで嫌いになられたらって思ったらもうだめです」
「難儀やねぇ」
 マリィの大きなため息がおれの髪の毛を揺らした。抱きしめた箱の角で肋骨が痛い。難儀なのはわかっている。でも、もしおれが彼女の手を握った時、ユウリが笑ってくれなかったらどうしよう。そればかりが恐ろしい。それは肋骨が痛いことよりずっとずっと怖かったから、箱を握る腕の力はぎゅっと強くなった。
「……ほんとに難儀やね……はぁ、朝ごはんの支度してくる」
 やっと放っておく気になってくれたらしい。面倒見が良い子に育ったのはいいことだが、兄にだって放っておいてほしいときはある。箱を抱えてごろりと床に転がると、マリィの困った顔が……困った顔が……いや、なぜかマリィは笑っていた。
「ユウリ、あたしの部屋にいるから」
 ……はい? ちょっと待ってくれ、マリィの部屋はおれの隣の部屋で、古い家は意外と壁が薄くって、ドアが開いているならなおさらで――。
 慌てて起き上がってマリィに縋るように視線を向けると、マリィの背中越しに茶色い頭が見えた。
「あれ、ユウリ。もうちょいゆっくり寝てていいよ? 今コーヒー淹れてくるから」
 軽快な足音を立てて、マリィは階段を降りていく。残されたのはユウリと、腐れ白黒団子のおれ。
 ――参った。心の中の白旗は、もはや取り返しがつかなくなっていた。
「あ、の……」
 呼吸を忘れたみたいに口をはくはくさせるしかないおれの口からやっとひねり出されたのは、それだけだった。あとはもう言葉にならない。抱きしめた箱は相変わらず角でおれの肋骨を攻撃するし、ユウリも押し黙ったままだ。考えてみればなのだけれど、こんな腐れた白黒団子に話しかけられる人間はそうそういないと思う。
「……着替える時間をくれます?」
「……はい」
 一時休戦である。正直を言えばこのまま逃げ出してしまいたいけれど、それは頑張ってお膳立てをしてくれたマリィを裏切る行為なので、それだけはできない。静かに閉まったドアを見届けて、おれはクローゼットから一番いい服を取り出して、ぼさぼさになった髪を櫛で梳いてアイロンを当てて、それから、それから……できる限りの身支度をして、小箱を背中に隠すように持って階下に降りた。
 リビングに行くと果たしてそこには食後のコーヒーを飲みながら談笑する妹とユウリの姿があった。おれがリビングに足を踏み入れると、マリィがきっとした吊り目でおれを睨む。それからコーヒーカップを持って椅子から立ち上がり、おれに肩をぶつけてきた。
「しっかりやりんしゃい、アニキ」
 ……焚き付けられてしまったし、階段を上るマリィの足音が、完全におぜん立てされたのだということを教えてくれた。その優しさに感謝をしたい気持ちはやまやまだったが、今のおれの心は軽やかな敵前逃亡を望むばかり。嗚呼、つらい。
「……ネズさん」
「はい……」
 声が震えてしまう。箱を持った指に力が入らなくなる。なんて情けないんだろう! さりとて逃げるところなんてどこにもないので、おれは逃げ出したいと疼く足を叱咤する。
「あたし、切り替えの早い性格じゃなくって」
 ぽつり、とユウリが話し始める。マリィが座っていた椅子が寂しそうに放置されているので、ユウリの話を聞く姿勢をとるために……正直に言えば逃げようとする足を止めるために……そこに座る。ありがたいことに、コーヒーサーバーにはまだコーヒーが残っていたし、テーブルにはおれのマグカップがちゃんと置いてあった。
「……そうなんですね、きみは悩まないタイプの人間だと思ってましたよ」
 コーヒーを注ぎながら返事をする。そして今の返事は事実である。五年にわたる付き合いの中で、彼女がウジウジ悩んでいるところを見たことはなかった。彼女のことは気性のさっぱりした人間だと思っていたので、気持ちの切り替えも早いものだとばかり。そう返事をしてユウリをちらりと見ると、長いまつげに憂いが乗っていた。
「何か悩んでるんですか?」
 流石に兄貴分として、悩める少女を放置するわけにもいかないし、こんな時ばかりは頼りになる男でありたくて、相談に乗りますよ、なんて言ってみる。するとユウリの溜息がコーヒーに波を立てた。
「ネズさんってずるい人。こういうときばっかりお兄さんを気取るんだから」
 嗚呼――不満げに唇を尖らせる彼女の表情を見て、察してしまった。……告白の機会を、自ら逃しかけているのだ! 慌てて背中に隠した薔薇を出す。マリィがお膳立てしてくれて、ユウリが作ってくれた機会を無駄にはしたくない。ああ、もう、どうとでもなれ!
「ユウリ! これ、受け取り、やが、れ……」
 言葉尻はどんどん自信を無くして小さくなっていったけれど、ちょっと箱がよれた薔薇を差し出す。するとユウリは茶色い瞳を丸くするので、ああ、やっぱり愛おしいのだ。
「いいんですか? 今日は……」
「バレンタインの、プレゼント……です……」
 お互いになぜかひそひそ声で、ちょっと笑えてくる。薔薇はおれの手から離れてユウリの手の上に乗っかった。
 無邪気で、誇り高くて、情熱的なきみへの贈り物。彼女の手のひらでささやかに咲き誇る薔薇を見て、やっと足の震えが止まった。渡せた。渡すことができた。一晩の悩みがやっと解決した! 突き返される様子もないので、どうやら本当に嫌われてはいないらしい。
「……ありがとうございます」
「いえ……あの、おれ……」
 好きだ。きみのことが好きだ。そんなのおれの姿を見ればわかるだろう。髪にいちいちアイロンを当ててストレートにして、一番いい服なんか出して、メイクもキメ顔で。こんな姿、好きじゃない相手の前でいちいちするもんか! と、口に出せたらよかったけれど、白旗は依然脳内で揺れている。
「ネズさん……あたしね、切り替えの早い性格じゃないから……昨日までと気持ちは変わってないですよ?」
 決定打が顔面目掛けて飛んできた。ああ、そんなことを言われたら。おれが勘違いをしていたわけじゃなかったら、それは、きみもおれのことが好きだということになってしまう。ねぇ、いいんですか。おれの昨日までの自信は、今日も継続していいんですか。
「……おれ、きみはおれのことが好きなんだと思ってたんですけど」
「はっ……はい……そうです……」
 呆けた顔のおれの言葉に、ユウリは気恥ずかしそうに返事をする。オレンジの薔薇みたいに色づいた頬に手を伸ばすと、きみはさっきまでまつげに乗っていた憂いさえも色づけるから、勘違いじゃなかったことをやっと理解する。そして同時におれの気持ちをさっきの部屋で聞かれていることもしっかりと思い出し。
「……おれも……すっ……好き、です」
 見た目だけばっちりきまっているけれど、中身はポンコツなおれがやっと吐き出した言葉はあまりにも凡庸で、ありきたりで、かっこ悪い。けれど、そんなおれですら、彼女の目にはかっこいい大人として映っていたら、いいなぁ。無理か。けれど彼女の頬に咲いた薔薇の色はそのままなので、それでいいことに……しておいてほしい。
 心の中の白旗は、バレンタインの透明な空のどこかに飛んで行った。
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