ネズユウ
恋に落ちた。それも、相⼿は歳の離れた妹のライバル兼親友の少⼥である。
⼿⼊れが⾏き届いた髪はふわふわだし、ポケモンに注ぐ愛情はどこまでもあたたかくて、それでいて、⽴ち塞がる者を射抜く強い視線を持っていた。
チャンピオンリー グの真っ最中、おれを信じて先に進もうとするその背中と、決意を込めて⼩さく「 ネズさん」 とおれの名前を呼んだこと。そして、ユウリにエー ルを送ると決めたおれに向かって向けた、こぼれるような笑顔。⼈好き故か、お節介癖か、何故か―― おれに真っ直ぐに向けてくる好意の笑顔に、おれはすっかりやられちまったのです。
なんて⾺⿅な恋だろう。年齢は六歳も離れているし、⾃分は寂れた街のしがない元ジムリーダー で、彼⼥は⼀〇年無敗の記録を残した偉⼤なるチャンピオン、ダンデを打ち負かしてその⼩さな頭に冠を戴いた正真正銘の強者であり、伝説のポケモンとともにこの地⽅を救った英雄であり、そして、やはり少⼥なのである。
「 ネズさん!」
チャンピオンとなれば毎⽇メディアに追いかけられ、ダンデがやっていたように各種スポンサー 企業との折り合いを合わせるための仕事や、各地域を巡回して、ダイマックスやバトルへの信⽤というものを取り戻すという使命もある。
それでも彼⼥は数⽇に⼀度は必ず、このスパイクタウンにやってくる。結局何もない、ここに。
「 何をしに来やがったんですか」
「 今⽇はネズさんとカレー が⾷べたくて!」
「 カレー なんて誰と⾷おうが同じでしょうよ。ていうか、あんた毎⽇カレー ばっか⾷ってるじゃないですか」
「 今⽇は上物の⽔辺のハー ブが⼊ってますよ、ネズさん」
「 怪しい商売みたいに⾔うのをやめなさい」
ぺし、と⼩さな頭にチョップを喰らわしてやると、ユウリは「 あいたっ」 と恨みがましそうな⽬でこちらを⾒た。 ―― 彼⼥の前では、おれは、「 兄」 だ。
兄弟がないユウリに、マリィが「 うちの兄貴をユウリの兄貴と思ってもよかとよ」 だなんて⾔ったから、それから三年と少し。おれは彼⼥の兄貴を演じて過ごしている。兄貴だから、頼り甲斐がないといけない。兄貴だから、可愛い妹のお願いは聞いてあげなきゃいけない。兄貴だから、おいたは諌めなくてはならない。
兄だから。兄だから。兄だから。
そう⾃分に⾔い聞かせて、恋⼼に蓋をしてきた。だから今⽇も、ユウリの阿呆な軽⼝には軽いチョップで対応しつつ、なんだかんだで今から近場の道路で⽔⾊のテントを張って、カレーをコトコト煮込むのだ。早く早くと急かすユウリのまだ⼩さな⼿は、おれの⼿ではなく、おれの服の裾を握るだけだった。
つまり。おれは最初から失恋していたわけです。
そもそも恋愛対象としてのステー ジに⾜をかけるまでもなく、彼⼥から⾒てみればおれはただの兄貴分。⾔ってしまえば、おれがユウリを好きになったこと⾃体が、だいぶお⾨違いといえばそうなのだけれど。
さて、雪の降りしきる道路の端で、ユウリは荷物を広げた。
いつもの⽔⾊テントに、⼤きなカレー 鍋。ユウリのポケモンたちがはしゃぐなかで、おれたちは調理を開始した。薪に⽕をくべてやると、やはり寒いのか、ユウリは⽕のそばに⼿をかざして震えていた。
「 こんな寒いところでテントを張らなくてもいいんじゃないですかねぇ」
⽕をあおぎながら⾔うと、ユウリは⾸を横に振った。ユウリのポケモンのなかには、寒い場所を好むものもいる。その⼦を喜ばせてやろうとでもしているのだろうか。
⽕を⼗分⼤きくしてやると、ユウリの体の震えはやっと⽌まった。かじかむ指で、カレー をかき混ぜる。
だが、その表情はスパイスに⽬をやられたのではない憂いに⾒えた。どうしたんですか。相談なら⾔ってみなさい。そう⾔おうとしたところ、ユウリの⼩さな唇が動いた。
「 明⽇、ガラルを発つんです」
「………… はぁ?」
突然のことに、鍋をかき混ぜる⼿が⽌まる。なんで、どうして、そんな急に。⽕がはぜる⾳も、降り⽌まない雪の⾳も、全てが遠くに聞こえた。
「 各地⽅に、チャンピオンが来るバトル施設があるらしくて。ガラルのポケモンは珍しい⼦が多いから、ガラル地⽅の宣伝とか、あと、あたしがどれくらい強いのかの証明も兼ねて、いろんなところに⾏くことになったんです。アロー ラとか、ホウエンとか、⾊々」
「…… はぁ、そういうことですか。いいんじゃないですか、勉強にもなりますし」
どうせすぐ帰ってくる。おれは震えそうな⼿を抑えてカレー 鍋をかき混ぜる作業に戻る。
「 五年か六年くらい。ガラルに戻ってくるのはリー グのときくらい、かな」
思わずお⽟を鍋に落とした。すんでのところでユウリが拾ってくれたお⽟を握ったまま動かないおれは、随分間抜けだったろう。
「…… そんなに⻑旅になるんですか」
やっと絞り出した声は、だいぶ間抜けだった。
「…… はい。だから…… ネズさんとこうやって遊ぶのも、多分、最後かなって。…… まあ、その間にあたしがチャレンジャーに負けたら、そのお仕事も新チャンピオンに引き継ぐんで、そしたらもっと早く帰って来られますけど、あたし、負けませんから」
⼤きなアー モンド⾊の⽬が、ほんの少し揺れていた。
いかないで。そう⾔えたらどれだけよかっただろう。何度、去った恋⼈を想う曲を歌っただろう。ファンたちには「 切なくて好きです!」 だなんて⾔われたって、おれには特にそんな経
験があるわけでもなかったので、はー 、最近はこういうのもウケるのかと、その程度の感想しか持っていなかったものだけれど。今まさに、おれはその場所に⽴っている。
「…… ユウリ」
「 ネズさん、ほら、まごころこめて!」
込められるわけないでしょう。
せっかくのおれの好みの味付けのカレー が各々の⽫に盛られていっても、おれには何もできない。ポケモンたちは喜んで⾷べているが、おれとユウリのスプー ンはほとんど動いていなかった。
「…… チャンピオンリー グのときには、絶対帰ってきますから」
「…… いい社会勉強になりますね」
ギリギリで兄貴ヅラを保つ。やっと⼝に運んだカレー は、好きなはずの⽊の実を⼊れたというのに、味がしなかった。
「 他の地⽅にも⾯⽩いポケモンがいますし、ダイマックス以外の要素がある地⽅もあるって話です。バトル以外の施設もあると聞きますから、いいんじゃないですかね。エー ルを送りますよ」
もう⼀⼝⾷べる。やはり、味はしない。ユウリも⾷が進んでいないように⾒える。おれはユウリの兄貴分だ。ユウリが旅⽴つ覚悟を決めたというのなら、応援するしかない。ただ、三年も燻らせた恋⼼は、どう飲み込めばいいのだろうか。このカレー と⼀緒に、胃に隠してしまおうか。わかった、⾏かないで、さよなら。⾔いたくない⾔葉しか、⼝から出てきそうにない。どの⾔葉を選んだって、ユウリを困らせるだけだ。
⾃分のことで精⼀杯だったが、⾒れば、ユウリがスプー ンを握る指は震えていた。
「 ネズ、さん」
「…… なんです」
「 やだ。ネズさんと年に⼀回しか会えないなんて、やだ」
⼤きな⽬から、ついにぽたりと雫が落ちた。
「…… ネズさん。好きです。ずっとあなたのことが好きでした。いつもここに来るのも、ネズさんに会いたかったからなのに。明⽇から、そうじゃなくなっちゃう」
今度はおれが黙る番だった。おれだって好きだよ、そう⾔ってやればよかった。けれど、まだ彼⼥は幼くて、今おれが気持ちを伝えたら、彼⼥はきっとどこにもいけなくなってしまう。
おれのエゴでユウリを縛り付けておくことはできない。彼⼥はその⼿にきらめく未来をつかんだ⼩⿃。背中に⽣えた⽻根で、どこにでも⾶んでいけるのだ。
でも、せめて。⼀⾔だけ⾔わせてもらえるなら。
「 ユウリ…… 何年後でもいい。その気持ち、変わらないですか」
「 変わりません!あたしは、ずっと…… ネズさんのことをただのお兄ちゃんだなんて思ってませんでした!」
「…… そうですか」
失恋していたつもりが、どうやら失恋していなかったらしい。
失恋はしていなかったけれど、まだこの恋⼼は取っておこう。いつまでも待っています。またガラルに帰ってくるまで、いつまででも。帰ってくる頃には、きみはもう分別のつく⼤⼈になっているでしょう。
まだ⼗三歳の彼⼥にとっては、気が遠くなるほどの未来の話。それでも、その未来でもおれを好きだと⾔ってくれるなら。
「 待ってる。きみが⼤⼈になるまで、おれはここで待ってる。きみの気持ちが変わっても、変わらなくても」
「 変わり、ません!あたし、絶対…… 最⾼の⼥になって、帰ってきてやりますから!」
ユウリはまんまるな⽬からボロボロと涙をこぼしながら笑った。それが嬉しくて苦しくて、おれも泣いてしまいそうになるけれど、涙も未来に取っておこう。
そうしてユウリは本当にチャンピオンリー グにしか姿を現さなくなった。挑戦者を完膚なきまでに薙ぎ倒し、次の⽇にはまた次の地⽅へと向かってしまう。その後ろ姿を何度⾒送っただろうか。少しずつ⼤⼈になっていく彼⼥の姿が、コマ送りのように流れて―― 。
―― そして⽉⽇はぐるりと回り――
突然、ロトムスマホが通知を告げた。メッセー ジの差出⼈はユウリだ。慌てて開くと、「 今そちらに向かっています。」 とだけ。そちらって、どこだ。慌ててスパイクタウンから出ようとすると、そこには、少し背が伸びて、髪も⻑くなって、⼿⾜もすらりと伸びた⼤⼈の⼥性が⽴っていた。
「…… ユウリ」
「 この五年ちょっとで変わったつもりでいたんですけどね」
ユウリはバツが悪そうに⻑い髪を指でいじった。
「 あたし、変わらないですか」
「…… さあ?」
そんなことは分からない。だからまだおれは泣くのをこらえているし、笑うのも我慢している。五年前の⾔葉の続きが聞きたくて、おれは⼝をつぐんだ。それに気付いたのか、ユウリは静かに声を上げた。凛とした、よく通る声だった。
「 ネズさんに伝えたいことがあって、来ました」
「…… はい。聞きましょう」
ユウリは、前と変わらない穏やかな笑顔で、おれの⼿を握った。
「 ずっと、ネズさんのことを忘れたことはありませんでした。ネズさんから⾒たらあたしはただの妹で、あたしに対してそういう気持ちがないのはわかってます。でも…… 好きです。あたしはネズさんのことが、誰よりも、⼤好きです」
何年その⾔葉を待ち焦がれただろう。何度その気持ちが彼⼥から消えてしまうことを恐れただろう。何度この恋を諦めてしまおうかと思っただろう。
けれど、しっかりとおれの⼿を握る温かい⼿が、これが現実だと教えてくれた。なら、⾔うべき⾔葉なんて、⼀つしかない。
「…… おれも、ユウリのことが好きですよ」
「 ほんとに?」
おれを⾒上げる彼⼥の肩は、少し震えていた。
「 ユウリをただの妹だなんて思ったことは、ありませんよ。おれも、ずっとユウリのことが好きです」
⼿を握り返すと、ユウリの頬がぽふりと⾳を⽴てて⾚くなった。それから、まるい⽬がうっすらと滲んで。
「…… っ、ネズさん!好きです、⼤好きです!」
「 おれもです」
やっと抱きしめることができた彼⼥の体は、熱を持って暖かかった。
こうして⼆回⽬の恋が始まる。気が遠くなるほどの未来は、今ここにあった。
⼿⼊れが⾏き届いた髪はふわふわだし、ポケモンに注ぐ愛情はどこまでもあたたかくて、それでいて、⽴ち塞がる者を射抜く強い視線を持っていた。
チャンピオンリー グの真っ最中、おれを信じて先に進もうとするその背中と、決意を込めて⼩さく「 ネズさん」 とおれの名前を呼んだこと。そして、ユウリにエー ルを送ると決めたおれに向かって向けた、こぼれるような笑顔。⼈好き故か、お節介癖か、何故か―― おれに真っ直ぐに向けてくる好意の笑顔に、おれはすっかりやられちまったのです。
なんて⾺⿅な恋だろう。年齢は六歳も離れているし、⾃分は寂れた街のしがない元ジムリーダー で、彼⼥は⼀〇年無敗の記録を残した偉⼤なるチャンピオン、ダンデを打ち負かしてその⼩さな頭に冠を戴いた正真正銘の強者であり、伝説のポケモンとともにこの地⽅を救った英雄であり、そして、やはり少⼥なのである。
「 ネズさん!」
チャンピオンとなれば毎⽇メディアに追いかけられ、ダンデがやっていたように各種スポンサー 企業との折り合いを合わせるための仕事や、各地域を巡回して、ダイマックスやバトルへの信⽤というものを取り戻すという使命もある。
それでも彼⼥は数⽇に⼀度は必ず、このスパイクタウンにやってくる。結局何もない、ここに。
「 何をしに来やがったんですか」
「 今⽇はネズさんとカレー が⾷べたくて!」
「 カレー なんて誰と⾷おうが同じでしょうよ。ていうか、あんた毎⽇カレー ばっか⾷ってるじゃないですか」
「 今⽇は上物の⽔辺のハー ブが⼊ってますよ、ネズさん」
「 怪しい商売みたいに⾔うのをやめなさい」
ぺし、と⼩さな頭にチョップを喰らわしてやると、ユウリは「 あいたっ」 と恨みがましそうな⽬でこちらを⾒た。 ―― 彼⼥の前では、おれは、「 兄」 だ。
兄弟がないユウリに、マリィが「 うちの兄貴をユウリの兄貴と思ってもよかとよ」 だなんて⾔ったから、それから三年と少し。おれは彼⼥の兄貴を演じて過ごしている。兄貴だから、頼り甲斐がないといけない。兄貴だから、可愛い妹のお願いは聞いてあげなきゃいけない。兄貴だから、おいたは諌めなくてはならない。
兄だから。兄だから。兄だから。
そう⾃分に⾔い聞かせて、恋⼼に蓋をしてきた。だから今⽇も、ユウリの阿呆な軽⼝には軽いチョップで対応しつつ、なんだかんだで今から近場の道路で⽔⾊のテントを張って、カレーをコトコト煮込むのだ。早く早くと急かすユウリのまだ⼩さな⼿は、おれの⼿ではなく、おれの服の裾を握るだけだった。
つまり。おれは最初から失恋していたわけです。
そもそも恋愛対象としてのステー ジに⾜をかけるまでもなく、彼⼥から⾒てみればおれはただの兄貴分。⾔ってしまえば、おれがユウリを好きになったこと⾃体が、だいぶお⾨違いといえばそうなのだけれど。
さて、雪の降りしきる道路の端で、ユウリは荷物を広げた。
いつもの⽔⾊テントに、⼤きなカレー 鍋。ユウリのポケモンたちがはしゃぐなかで、おれたちは調理を開始した。薪に⽕をくべてやると、やはり寒いのか、ユウリは⽕のそばに⼿をかざして震えていた。
「 こんな寒いところでテントを張らなくてもいいんじゃないですかねぇ」
⽕をあおぎながら⾔うと、ユウリは⾸を横に振った。ユウリのポケモンのなかには、寒い場所を好むものもいる。その⼦を喜ばせてやろうとでもしているのだろうか。
⽕を⼗分⼤きくしてやると、ユウリの体の震えはやっと⽌まった。かじかむ指で、カレー をかき混ぜる。
だが、その表情はスパイスに⽬をやられたのではない憂いに⾒えた。どうしたんですか。相談なら⾔ってみなさい。そう⾔おうとしたところ、ユウリの⼩さな唇が動いた。
「 明⽇、ガラルを発つんです」
「………… はぁ?」
突然のことに、鍋をかき混ぜる⼿が⽌まる。なんで、どうして、そんな急に。⽕がはぜる⾳も、降り⽌まない雪の⾳も、全てが遠くに聞こえた。
「 各地⽅に、チャンピオンが来るバトル施設があるらしくて。ガラルのポケモンは珍しい⼦が多いから、ガラル地⽅の宣伝とか、あと、あたしがどれくらい強いのかの証明も兼ねて、いろんなところに⾏くことになったんです。アロー ラとか、ホウエンとか、⾊々」
「…… はぁ、そういうことですか。いいんじゃないですか、勉強にもなりますし」
どうせすぐ帰ってくる。おれは震えそうな⼿を抑えてカレー 鍋をかき混ぜる作業に戻る。
「 五年か六年くらい。ガラルに戻ってくるのはリー グのときくらい、かな」
思わずお⽟を鍋に落とした。すんでのところでユウリが拾ってくれたお⽟を握ったまま動かないおれは、随分間抜けだったろう。
「…… そんなに⻑旅になるんですか」
やっと絞り出した声は、だいぶ間抜けだった。
「…… はい。だから…… ネズさんとこうやって遊ぶのも、多分、最後かなって。…… まあ、その間にあたしがチャレンジャーに負けたら、そのお仕事も新チャンピオンに引き継ぐんで、そしたらもっと早く帰って来られますけど、あたし、負けませんから」
⼤きなアー モンド⾊の⽬が、ほんの少し揺れていた。
いかないで。そう⾔えたらどれだけよかっただろう。何度、去った恋⼈を想う曲を歌っただろう。ファンたちには「 切なくて好きです!」 だなんて⾔われたって、おれには特にそんな経
験があるわけでもなかったので、はー 、最近はこういうのもウケるのかと、その程度の感想しか持っていなかったものだけれど。今まさに、おれはその場所に⽴っている。
「…… ユウリ」
「 ネズさん、ほら、まごころこめて!」
込められるわけないでしょう。
せっかくのおれの好みの味付けのカレー が各々の⽫に盛られていっても、おれには何もできない。ポケモンたちは喜んで⾷べているが、おれとユウリのスプー ンはほとんど動いていなかった。
「…… チャンピオンリー グのときには、絶対帰ってきますから」
「…… いい社会勉強になりますね」
ギリギリで兄貴ヅラを保つ。やっと⼝に運んだカレー は、好きなはずの⽊の実を⼊れたというのに、味がしなかった。
「 他の地⽅にも⾯⽩いポケモンがいますし、ダイマックス以外の要素がある地⽅もあるって話です。バトル以外の施設もあると聞きますから、いいんじゃないですかね。エー ルを送りますよ」
もう⼀⼝⾷べる。やはり、味はしない。ユウリも⾷が進んでいないように⾒える。おれはユウリの兄貴分だ。ユウリが旅⽴つ覚悟を決めたというのなら、応援するしかない。ただ、三年も燻らせた恋⼼は、どう飲み込めばいいのだろうか。このカレー と⼀緒に、胃に隠してしまおうか。わかった、⾏かないで、さよなら。⾔いたくない⾔葉しか、⼝から出てきそうにない。どの⾔葉を選んだって、ユウリを困らせるだけだ。
⾃分のことで精⼀杯だったが、⾒れば、ユウリがスプー ンを握る指は震えていた。
「 ネズ、さん」
「…… なんです」
「 やだ。ネズさんと年に⼀回しか会えないなんて、やだ」
⼤きな⽬から、ついにぽたりと雫が落ちた。
「…… ネズさん。好きです。ずっとあなたのことが好きでした。いつもここに来るのも、ネズさんに会いたかったからなのに。明⽇から、そうじゃなくなっちゃう」
今度はおれが黙る番だった。おれだって好きだよ、そう⾔ってやればよかった。けれど、まだ彼⼥は幼くて、今おれが気持ちを伝えたら、彼⼥はきっとどこにもいけなくなってしまう。
おれのエゴでユウリを縛り付けておくことはできない。彼⼥はその⼿にきらめく未来をつかんだ⼩⿃。背中に⽣えた⽻根で、どこにでも⾶んでいけるのだ。
でも、せめて。⼀⾔だけ⾔わせてもらえるなら。
「 ユウリ…… 何年後でもいい。その気持ち、変わらないですか」
「 変わりません!あたしは、ずっと…… ネズさんのことをただのお兄ちゃんだなんて思ってませんでした!」
「…… そうですか」
失恋していたつもりが、どうやら失恋していなかったらしい。
失恋はしていなかったけれど、まだこの恋⼼は取っておこう。いつまでも待っています。またガラルに帰ってくるまで、いつまででも。帰ってくる頃には、きみはもう分別のつく⼤⼈になっているでしょう。
まだ⼗三歳の彼⼥にとっては、気が遠くなるほどの未来の話。それでも、その未来でもおれを好きだと⾔ってくれるなら。
「 待ってる。きみが⼤⼈になるまで、おれはここで待ってる。きみの気持ちが変わっても、変わらなくても」
「 変わり、ません!あたし、絶対…… 最⾼の⼥になって、帰ってきてやりますから!」
ユウリはまんまるな⽬からボロボロと涙をこぼしながら笑った。それが嬉しくて苦しくて、おれも泣いてしまいそうになるけれど、涙も未来に取っておこう。
そうしてユウリは本当にチャンピオンリー グにしか姿を現さなくなった。挑戦者を完膚なきまでに薙ぎ倒し、次の⽇にはまた次の地⽅へと向かってしまう。その後ろ姿を何度⾒送っただろうか。少しずつ⼤⼈になっていく彼⼥の姿が、コマ送りのように流れて―― 。
―― そして⽉⽇はぐるりと回り――
突然、ロトムスマホが通知を告げた。メッセー ジの差出⼈はユウリだ。慌てて開くと、「 今そちらに向かっています。」 とだけ。そちらって、どこだ。慌ててスパイクタウンから出ようとすると、そこには、少し背が伸びて、髪も⻑くなって、⼿⾜もすらりと伸びた⼤⼈の⼥性が⽴っていた。
「…… ユウリ」
「 この五年ちょっとで変わったつもりでいたんですけどね」
ユウリはバツが悪そうに⻑い髪を指でいじった。
「 あたし、変わらないですか」
「…… さあ?」
そんなことは分からない。だからまだおれは泣くのをこらえているし、笑うのも我慢している。五年前の⾔葉の続きが聞きたくて、おれは⼝をつぐんだ。それに気付いたのか、ユウリは静かに声を上げた。凛とした、よく通る声だった。
「 ネズさんに伝えたいことがあって、来ました」
「…… はい。聞きましょう」
ユウリは、前と変わらない穏やかな笑顔で、おれの⼿を握った。
「 ずっと、ネズさんのことを忘れたことはありませんでした。ネズさんから⾒たらあたしはただの妹で、あたしに対してそういう気持ちがないのはわかってます。でも…… 好きです。あたしはネズさんのことが、誰よりも、⼤好きです」
何年その⾔葉を待ち焦がれただろう。何度その気持ちが彼⼥から消えてしまうことを恐れただろう。何度この恋を諦めてしまおうかと思っただろう。
けれど、しっかりとおれの⼿を握る温かい⼿が、これが現実だと教えてくれた。なら、⾔うべき⾔葉なんて、⼀つしかない。
「…… おれも、ユウリのことが好きですよ」
「 ほんとに?」
おれを⾒上げる彼⼥の肩は、少し震えていた。
「 ユウリをただの妹だなんて思ったことは、ありませんよ。おれも、ずっとユウリのことが好きです」
⼿を握り返すと、ユウリの頬がぽふりと⾳を⽴てて⾚くなった。それから、まるい⽬がうっすらと滲んで。
「…… っ、ネズさん!好きです、⼤好きです!」
「 おれもです」
やっと抱きしめることができた彼⼥の体は、熱を持って暖かかった。
こうして⼆回⽬の恋が始まる。気が遠くなるほどの未来は、今ここにあった。