透明な果肉【円堂守】
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
.
守は練習が終わると汗でじっとり重いユニフォームを体に引きずらせながら脱いだ。首が抜けるとどことなく蒸し暑さから解放される。そして学ランのボタンを一番上までとめると、誰かの置きわすれた雑誌やハンドグリップなんかを踏まないよう気をつけて、やたら急ぎ足になりながら部室を出る。
守は忙しかった。それはサッカーのせいではないけれど、守の大切なサッカーもある意味で彼の時間を貪り荒らしているようにも思えた。山の裏で鈍色の風が吹いている。守は呼ばれていた。そして約束をしていた。
ななみはちょっと田舎臭い女だった。醜女であるかと問われれば違うけれどとくべつ垢抜けている訳ではない。ただ、佳人と肩を並べればどことなく影が薄らぐような、そんなおとなしい帰宅部の生徒だった。守は彼女と約束をしている。ななみは鉄塔よりも東の林で一人だった。そこで静かに佇んでいた。
「きたんだ」
「お前こそ、今日も撮ってるのか」
うん。ななみはカメラのシャッターを切った。林の中は鬱蒼としていて日の光はあまり入ってこない。どれも背が高かった。ななみと守の身長を足しても足りそうになかった。守はただ彼女の横顔を見つめていた。そのひとみは憂鬱を飲み込み、三日月のように淡く光を放っていた。どうしてそんな顔が出来るのか守は尋ねたことがある。もうすぐここは森に変化するから。それ以上は答えなかった。
そっか。守は下手くそな相槌を打った。守に林と森の正確な違いは分からなかったけれど、彼女との間に生まれるおぼつかないコミュニケーションを楽しんでいた。ななみは今日も、昨日もずっとずっとこの場所へ来ている。もう夕陽は半分しか顔を出していない。このごろ日暮れは夏よりもうんと早かった。
「まもる」
ななみは、カメラを守に手渡した。あまり高価な物ではない事ぐらいは守にも分かった。撮った写真を見返しても林の写真しかない。ななみはこの林しか撮っていないらしい。月日を重ねるほど木の本数は増えている。それに気付いて守はぞっとした。
「もうこの街には何も居ない。それは善い意味でも、悪い意味でも……。わたしの代わりに、あなたがこの記録を残し続けるんだ」
「なんで」
「この街で死んだ人は木になる。私もこの林の一部になって、いずれ私達は森になる」
なんでだよ。守は上手な言葉が出なかった。そんなぶっきらぼうな守でもお構いなしにななみは遠くを向いてくしゃみをした。守は試しにシャッターを切る。ななみはそれを確認して笑って見せた。寒天を切り崩したような、無機質な笑いだった。
自分が木になる感覚なんて守には少しも掴めなかったけれど、ななみがなんとなく学校を休むようになっていってからはようやく身近で着実な変化を感じ始めた。林の写真は少しずつ増えていった。反比例するよう彼女は日に日に弱っていった。
人は木になりながら命を燃やし続けるのだろうか。人は、どこまで人で居られるだろうか。守は落ち葉だらけの地面に腰を下ろす。哲学的なことを考えるのは嫌いだった。理屈では生きてこられなかったから。それでも隣で血色のうすいななみを見ると考えてしまった。
「死ぬのが怖くないのかよ」
「こわいよ」
そっか。守は相槌を打った。ななみは少しも泣かなかった。そこで初めてななみは赤んぼうに向けるようやさしく笑ってみせた。取り合ったその手のなかに彼女の体温が燃えていた。
こわいけど、その為にまもるがいるのよ。私たちはそうやって幾つもの時間を生きてきたから。ねえ、まもる、めそめそしちゃいけないよ。しっかりおやりね。
思えば守はこの林がいつから存在するのかよく思い出せない。どうして今まで気づかなかったのだろう。守はななみと会うまで林の存在を知らなかった。そしてとうとうななみは学校に来なくなった。
彼女の名前を呼んだ。反応はなかった。しかし転がる少女は死体ではないのだ。これからきっと神になる。守はとにかくそう思った。きっと人間は神様になっていく。清ければ清いぶんだけ早く。守はななみをもう一度呼んだ。返事はなかった。神様の森を作っていくのだ。彼女は神様になるのだ……。あんまりななみが儚く尊いので、守はしばらくその御身を葬るように見つめた。
.
.
.
.
.
そうしてついにななみは居なくなってしまった。人間ではなくなってしまった。この林の一部になってしまった。もうどこにも居ない。もうななみはななみでない。守は林の中を歩き始めた。樹齢からおおまかな目星はつけられても、守にはどの木がななみなのか少しも分からなかった。守は[さびしい]とは思わなかった。でも、ちょっとだけ涙が出た。
ぱしゃり。カメラのシャッターを切る。やがて林はどんどん広くなって町さえ飲み込んでしまうかもしれない。そこでななみの写真が一枚もないことに気づいた。彼女を証明するものなどないことに気がついた。
だからななみの木に、果実が実るといい。ななみのような実がなるといい。透明で綺麗な実が。ほんのひとつだけでも実ってくれたなら。そこにななみがいた根拠が欲しい。あの日の像をまぼろしにしたくはない。守は林の中をしばらくさ迷って疲れてしまった。適当な木にもたれかかって休憩する。
こんな寂しい所に実はならなかった。神様は涙のひとつさえこぼさなかった。ただ本当に、どこか果実が実るなら中身は透明なのかもしれない。志村ななみのように透けているのかもしれない。
守は涙を拭いて立ち上がり歩き始める。守は歩かねばならない。守は受け継がなければならない。守は、生きねばならない。
.
守は練習が終わると汗でじっとり重いユニフォームを体に引きずらせながら脱いだ。首が抜けるとどことなく蒸し暑さから解放される。そして学ランのボタンを一番上までとめると、誰かの置きわすれた雑誌やハンドグリップなんかを踏まないよう気をつけて、やたら急ぎ足になりながら部室を出る。
守は忙しかった。それはサッカーのせいではないけれど、守の大切なサッカーもある意味で彼の時間を貪り荒らしているようにも思えた。山の裏で鈍色の風が吹いている。守は呼ばれていた。そして約束をしていた。
ななみはちょっと田舎臭い女だった。醜女であるかと問われれば違うけれどとくべつ垢抜けている訳ではない。ただ、佳人と肩を並べればどことなく影が薄らぐような、そんなおとなしい帰宅部の生徒だった。守は彼女と約束をしている。ななみは鉄塔よりも東の林で一人だった。そこで静かに佇んでいた。
「きたんだ」
「お前こそ、今日も撮ってるのか」
うん。ななみはカメラのシャッターを切った。林の中は鬱蒼としていて日の光はあまり入ってこない。どれも背が高かった。ななみと守の身長を足しても足りそうになかった。守はただ彼女の横顔を見つめていた。そのひとみは憂鬱を飲み込み、三日月のように淡く光を放っていた。どうしてそんな顔が出来るのか守は尋ねたことがある。もうすぐここは森に変化するから。それ以上は答えなかった。
そっか。守は下手くそな相槌を打った。守に林と森の正確な違いは分からなかったけれど、彼女との間に生まれるおぼつかないコミュニケーションを楽しんでいた。ななみは今日も、昨日もずっとずっとこの場所へ来ている。もう夕陽は半分しか顔を出していない。このごろ日暮れは夏よりもうんと早かった。
「まもる」
ななみは、カメラを守に手渡した。あまり高価な物ではない事ぐらいは守にも分かった。撮った写真を見返しても林の写真しかない。ななみはこの林しか撮っていないらしい。月日を重ねるほど木の本数は増えている。それに気付いて守はぞっとした。
「もうこの街には何も居ない。それは善い意味でも、悪い意味でも……。わたしの代わりに、あなたがこの記録を残し続けるんだ」
「なんで」
「この街で死んだ人は木になる。私もこの林の一部になって、いずれ私達は森になる」
なんでだよ。守は上手な言葉が出なかった。そんなぶっきらぼうな守でもお構いなしにななみは遠くを向いてくしゃみをした。守は試しにシャッターを切る。ななみはそれを確認して笑って見せた。寒天を切り崩したような、無機質な笑いだった。
自分が木になる感覚なんて守には少しも掴めなかったけれど、ななみがなんとなく学校を休むようになっていってからはようやく身近で着実な変化を感じ始めた。林の写真は少しずつ増えていった。反比例するよう彼女は日に日に弱っていった。
人は木になりながら命を燃やし続けるのだろうか。人は、どこまで人で居られるだろうか。守は落ち葉だらけの地面に腰を下ろす。哲学的なことを考えるのは嫌いだった。理屈では生きてこられなかったから。それでも隣で血色のうすいななみを見ると考えてしまった。
「死ぬのが怖くないのかよ」
「こわいよ」
そっか。守は相槌を打った。ななみは少しも泣かなかった。そこで初めてななみは赤んぼうに向けるようやさしく笑ってみせた。取り合ったその手のなかに彼女の体温が燃えていた。
こわいけど、その為にまもるがいるのよ。私たちはそうやって幾つもの時間を生きてきたから。ねえ、まもる、めそめそしちゃいけないよ。しっかりおやりね。
思えば守はこの林がいつから存在するのかよく思い出せない。どうして今まで気づかなかったのだろう。守はななみと会うまで林の存在を知らなかった。そしてとうとうななみは学校に来なくなった。
彼女の名前を呼んだ。反応はなかった。しかし転がる少女は死体ではないのだ。これからきっと神になる。守はとにかくそう思った。きっと人間は神様になっていく。清ければ清いぶんだけ早く。守はななみをもう一度呼んだ。返事はなかった。神様の森を作っていくのだ。彼女は神様になるのだ……。あんまりななみが儚く尊いので、守はしばらくその御身を葬るように見つめた。
.
.
.
.
.
そうしてついにななみは居なくなってしまった。人間ではなくなってしまった。この林の一部になってしまった。もうどこにも居ない。もうななみはななみでない。守は林の中を歩き始めた。樹齢からおおまかな目星はつけられても、守にはどの木がななみなのか少しも分からなかった。守は[さびしい]とは思わなかった。でも、ちょっとだけ涙が出た。
ぱしゃり。カメラのシャッターを切る。やがて林はどんどん広くなって町さえ飲み込んでしまうかもしれない。そこでななみの写真が一枚もないことに気づいた。彼女を証明するものなどないことに気がついた。
だからななみの木に、果実が実るといい。ななみのような実がなるといい。透明で綺麗な実が。ほんのひとつだけでも実ってくれたなら。そこにななみがいた根拠が欲しい。あの日の像をまぼろしにしたくはない。守は林の中をしばらくさ迷って疲れてしまった。適当な木にもたれかかって休憩する。
こんな寂しい所に実はならなかった。神様は涙のひとつさえこぼさなかった。ただ本当に、どこか果実が実るなら中身は透明なのかもしれない。志村ななみのように透けているのかもしれない。
守は涙を拭いて立ち上がり歩き始める。守は歩かねばならない。守は受け継がなければならない。守は、生きねばならない。
.