泡沫トワイライト
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新品故に硬かった上靴はすっかり足に馴染み、履きやすくなったことで生徒各々の個性が靴に磨き掛かり始める。
踵部分をべた踏みし、ペタンペタンとスリッパのようにして履く銀髪の彼はポケットに両手を突っ込み、身体を後ろへ向けて、とある人物に意識を集中させていた。
それは自身が敬愛してやまないボスの隣にいる女子生徒であった。
自分こそが十代目の右腕と自負するだけはあり、授業中であろうと例え火の中水の中、常に沢田の周囲を警戒し目を光らせている。
最近気に入らない人物が出来た。
佐倉楓香、沢田の隣の席に座っている一般人だ。獄寺は沸々と燃え上がる嫉妬の炎を瞳に宿らせていた。
沢田は家庭教師にネッチョリとしごかれ、深夜まで死ぬ気でトレーニングをした疲労によって、うつらうつら睡魔に襲われている。
「起きろ沢田綱吉!授業中だぞ」
担任が教壇の上から呆れ顔を向ける。
「…す、すみません!」
「お前は何回夢の世界に飛び立てば気が済むんだ」
ダメツナがまたやってるよ、とクラスメイト達が口々にせせら笑う。
この時、普段ならばボスの眠りを妨げた教師と不敬なクラスメイトに怒声を浴びせる獄寺だが、今回は様子が違った。
目を三角にして睨み付けた先に居るのは、やはりあの少女だ。
楓香は鞄からハンカチを取り出すと沢田に手渡した。
ぼやっとした顔に「よ・だ・れ」と口パクで伝えると、恥ずかしげにたった今感謝を述べたばかりの口を拭う。
(その役目は俺の筈なのに…ッ!)
ギリッと歯を食い縛りながら、獄寺は本日何度目の舌打ちをするのだった。
背後から凍てついた視線が惜しみなく送られているとは露知らず、退屈な授業が終わり欠伸をしている楓香は隣から小さく名前を呼ばれる。
「ハンカチありがとう。ちゃんと洗って明日返すね」
「気にしなくていいよ。あげる」
「あっ、俺の涎ついたから汚いよね、ごめん!」
ペコペコと頭を下げるその姿は、まるで弱いものいじめをしている気分になるくらい悲壮感たっぷりだ。
そんなに気にしなくても良いのにと思う反面、きっと逆の立場になったら同じように反応するだろう。
「見てこのライオン、綱吉君みたいじゃない?」
そのハンカチには沢田と同じ蜂蜜色の立て髪をした百獣の王が刺繍されていた。
威厳が全く感じられないつぶらな瞳が魅力的だ。
「俺、ポンデライオンなのーーーッ!?」
言った本人に悪気はなく、純粋な気持ちなのが伝わるからこそ余計にグサリと刺さる。
肩を落とした沢田にトドメの一撃が放たれた。
「私より綱吉君が持っている方が似合ってるよ」
「あ、ありがと…」
複雑な感情を無理矢理に咀嚼する沢田に、「どうしたんだ?」と元気な声が近付いてきた。
その声の持ち主はクラスの中で一番人気者である山本武だった。
男女問わず他のクラスの友達も多く、格好良し性格良し運動神経良しという非の打ち所がない好青年だ。
「さっき俺、授業中に寝ちゃったじゃん?その時に涎垂らしててさ、気付いた楓香ちゃんがハンカチを渡してくれたんだ」
「そーなのな。佐倉ってツナのことよく面倒みてくれるよな。俺からも礼を言わせてくれ、サンキュ」
「…どーも、です」
形の良い唇の間から綺麗に揃った白い歯が愉しそうにのぞく。
山本の笑顔は雑誌の表紙に飾っても良いほど眩しいもので、たまらず楓香は視線を逸らした。
学校では目立ちたくないという楓香に配慮して、沢田と山本は二人だけで会話を始める。
ここまで一連の流れを見ていた獄寺は小刻みに揺らし続けた貧乏ゆすりを止め、勢い良く椅子から立ち上がる。
そのままベタンベタンと大きな足音を立て、向かった先は勿論あの少女の席だった。
「おい、ツラ貸しな」
突然のことで目を丸くさせた楓香が放とうとした疑問を遮るように、くいっと顎で教室の外を示す。
「ご、獄寺君!?」
「どーしたんだ?あ、もしかして告白か!」
「ちっげーよ野球バカ!お前は黙ってろ」
的外れなことを言う能天気にキャンキャンと吠える。
この番犬はボスのことになると一本ネジが外れてしまうのだ。
そのことを身を持って痛感している沢田は、きっと自分関係なんだろうなと困ったように眉を寄せた。
いくらボスの為とはいえ女子供に手を出すような人間ではない。
獄寺のことは信頼しているが、円滑な学校生活に亀裂が走るのは避けたいので、牽制の意味を込めて名前呼ぶが、
「安心してください!十代目の右腕の座は死守しますッ」
「何がーーッ!?」
悲しいかな、全く伝わっていないようであった。
有無を言わさず、獄寺に連行される楓香は側から見て売られていく子牛の如く。正にドナドナが聞こえてきそうだ。
あの問題児が女子生徒と一緒に歩いている、という物珍しい光景は生徒達の関心を大いにかき立てた。
たくさんの好奇な視線に晒され楓香は顔を引き攣らせるが、彼はそんな周りを蹴散らすように肩を怒らせ先導する。
そして、俯きがちに歩いていた楓香の顔に何かがぶつかった。
いてて、と身体を引き顔を上げると、目の前の壁の正体に気付いて息を呑む。
こんなまじまじと獄寺の背中を見詰める機会は今後ないだろう。
意外と広いその背中に、鍛えてるのかな?と純粋な疑問が生まれるが、「おい」と話しかけられて我に返った。
「ご、ごめんなさい」
膝に額をつけるくらいの勢いで謝るも返事はない。
無言のまま腕を引っ張られ、教室の奥へと押し込まれた。
室内には誰もおらず、窓から差す陽の光が二人を包み込む。
しかし、体温急降下中の楓香にとってその暖かさはただの気休めに過ぎない。
(…わ、私何かしちゃった?)
氷柱の雨のような沈黙の中、楓香は必死に頭を働かせていた。
獄寺隼人とはこれまで言葉を交わしたことはあまりなく、接点があるとすれば、日直の仕事を手伝ってもらったことがあるだけで。
彼は沢田綱吉を異常なまでに敬っており、それ以外の人間は道端に転がっている小石同然だ。
そんな彼だが山本武は例外である。
沢田と親しい山本が気に入らず噛み付く姿は、まるで戯れ合う犬のよう。二人の絡みはクラスの名物になっていた。
この三人には目には見えない特別な絆で繋がっている。それがクラスの暗黙の了解だった。
そこに部外者が入る隙など一切ない、とそこまで思考して閃く。
そう、この番犬が吠えるのは沢田に関連することだ。以前から獄寺に目を付けられていたことを思い出す。
楓香が口を開く前に、目の前から舌打ちが飛んできた。
「お前には渡さねぇ」
「えっと、それは何のことでしょうか…」
「十代目の右腕はこの俺だッ!」
「だから何のこと!?」
やっぱりか、と零しそうになる溜め息をぐっと我慢する。
予想は的中した。どうやら沢田のことで因縁を付けてきたらしい。
彼の隣の席になってから何かと世話を焼いてきたが、それが逆鱗に触れたのだろうか。
沢田が一番頼りにする存在は自分であるべきなのに、お節介焼きの行動は知らずのうちに右腕のプライドを刺激していたらしい。
一度ついた嫉妬の炎は止まることを知らぬかのように獄寺の中で燃え上がる。
しかし、楓香とて黙ってはいられなかった。
今にも噛み付いて来そうな同担拒否火力増し増し過激派沢田担に怖気つきながらも、拳を握り締めて己を鼓舞した。
よく分からない誤解を解く為には、慎重に言葉を選ばないといけない。
「わ、私は綱吉君の隣の席なだけで右腕とか興味はないです!」
神経を逆撫でしないように最大の注意を払いながら宥めるが、獄寺は苛立ちを隠さずに鼻で笑う。
「テメェが下心であのお方に恩を売ろうとしてんのはお見通しなんだよ。言え、何が目的だ?」
「目的って…そんなのないですよ」
「ふざけんな。そんな話信じられっか」
意見は互いに一方通行のまま、とても交わりそうにない。
これでは埒が明かないとばかりに、楓香は静かに嘆息を漏らす。
「大体、人が人を傷付けるのに動機が必要だとしても、人が人を助けるのに理由なんていちいち考えないと思うんですが」
獄寺は生唾を呑んだ。
何の躊躇いもなく言ってのける楓香の姿が、あの日の彼と重なって見えたのだ。
意表を突かれ、血が上っていた頭が徐々に冷静さを取り戻していく。
「獄寺君の周りには居なかったんですか。ピンチの時に善意で手を差し伸べてくれた人」
その言葉に肩をピクリと震わせ、たちまち恩情の色を眼に浮かばせた。
思い返すのは身を挺して命を救ってくれた恩人であり親友、沢田綱吉との出会いだった。
その記憶は右腕の座を目指すきっかけとなり、大切な宝物として今でも鮮明に脳裏に焼き付いていた。
深く刻まれた眉間の皺が僅かに解け始める。
「…仮に一万歩譲ってテメェに邪な考えがないとする。だが十代目のお世話をする役目は俺だ。隣の席だからって出しゃばんな。分かったか?」
はいかYESの返事しか聞き入れる気はない威圧感に尻込みするが、一つ疑問が生まれる。
「でも二人の席ってすごく離れてますよね?」
「んなこと関係ねェ。どこに居ようがどんな時でもお側に駆け付けるのが右腕の勤めだ」
「授業中、何かある度に綱吉君の元に行くんですか?」
さも当然とばかりに獄寺が自信満々に頷くのを、乾いた笑みで返す。
「…効率悪すぎる」
直球で図星を突かれ、獄寺は「うがっ」と喉を詰まらせた。
返す言葉が見付からず目が泳ぐ彼の前に、楓香はダメ押しとばかり一歩踏み出す。
「当人が満足ならそれでも良いんですが、他の生徒達は気が散って授業に集中出来ないですよ。ずっと綱吉君の一挙一動を見張ってたら獄寺君自身も勉強出来ませんし、それを彼は望んでいると思いますか?」
あの底抜けの優しさで全てを包み込む大空は、自分のせいで誰かが犠牲になることを良しとしないだろう。
獄寺はその暖かさに救われ、生涯忠誠を誓ったのだ。
自分の浅はかな考えを一巡させ改め直すと、側に置いてある椅子に手を置いた。
「ならテメェの席を俺の席と交換しな」
「えっ、無理」
「あぁ゛?」
沢田が隣の席になってから学校へ行くのが楽しみになった楓香は、この日常が終わってしまうのは絶対に嫌だった。
「と、とにかく席を交換するのは全力でお断りします!」
ガタガタと音を立てて、一つの椅子を互いに押し付け合う両者一歩も譲らない攻防戦が繰り広げられる。
しかし、不意に獄寺がその場から一歩下がり、ポケットに手を突っ込んだ。
「…消し炭になりたくねェなら言うこと聞きな」
両手にダイナマイトを構え、青褪める楓香をジリジリと壁際に追い詰める。
「ちょっ待って、その物騒なもの一体どこから出したんですか?手品師?てか、前から気になってたんですけど入手ルートはヤベーニオイがしない健全な所からですよね!?」
今時の不良はこんなにデンジャラスなのか、と平和ボケしている日本人なら衝撃の余り誰もが白目を剥くだろう。
「手品師じゃねェ、スモーキン・ボム隼人だ!この自家製のボムを全身に仕込み、あらゆる獲物を仕留めてきた」
本人は得意気に語っているが、自分は犯罪に片足どころか両足を突っ込んでいると自白しているようなものだ。
獄寺はあくまで脅しの為にやっているので危害を加える気は微塵もない。
その証拠に導火線には火が着火しておらず、ただの見せしめのつもりだった。
だが、いつもの癖で無意識に煙草を口に咥えていた。
それが仇となることをこの時の彼はまだ知らない。
「どうどう。一回深呼吸して落ち着きましょう」
「往生際が悪い奴め」
彼が一歩足を出せば、楓香が一歩足を下げる。
それらを複数回繰り返していると、トンと背中に壁が当たった。これ以上後退することが出来ない。
残された唯一の退路は、獄寺の横を素早くすり抜けて教室の外に出ること。
その為には意識を自分から逸さねば。
覚悟を決め、教室の外に視線を向けた。
「あ、綱吉君だ」
「んなっ!?」
今だ、この瞬間を待っていた。
獄寺が慌てた様子で振り返る隙を突き、ドア目掛けて走り出す。
嵌められたことに気付き逃げる細い腕を捕まえるが、その拍子にポロッと煙草を床に落としてしまう。
最悪にも火種はダイナマイトに引火し、音を立てて閃光を放った。
ジ・エンドまで残り一秒。
恐怖で固まった楓香を抱き上げた獄寺は、勢い良く窓を突き破って教室の外に出る。
間を置かず後ろから爆風が襲い掛かり、彼らは廊下に叩き付けられた。
獄寺は身体を回転させ、楓香を守るように自分が下敷きになる。咄嗟の判断だったが、どうやらそれは正解だったらしい。
座り込んで腕の中にいる楓香と目が合う。
どこも負傷していないことを確認し、獄寺は胸を撫で下ろした。
「…い、生きてる」
まるで映画のワンシーンのような怒涛の展開だった。
黒焦げになった教室を呆然と見上げ、後一秒遅かったらと想像して背筋が凍る。
「獄寺君、ボンバーマン辞めてスタントマンに転職します?」
「どっちもやらねーよッ!」
恐怖によって五月蠅かった心臓の音が、やがて静かに規則的になっていく。
震えが収まった楓香は一息つくと、おずおずと尋ねた。
「どうして助けてくれたんですか?」
んなもん知るかと乱暴に言葉を吐き捨てた彼は顔を背けるが、ぼそりと呟く。
「身体が勝手に動いたんだよ」
貸し借りだの見返りだの、そんな面倒なことを考える暇もなかった。
気が付けば、爆発から楓香を守ろうとしている自分がいた。
「…同じですね、私も綱吉君に対してそうだったから」
また互いの視線がかち合う。
バツが悪そうに獄寺は首の後ろを掻いた。
「…悪かった」
声はぶっきらぼうだが、その視線は気遣わしげだ。
「助けてくれてありがとう、獄寺君」
もうその目には敵意が込められていない。
ようやく誤解が解けたことを確信し、仲直りの握手でも出来そうな雰囲気になるが、
「二人共、無事なの!?」
騒ぎを駆け付けた沢田達の姿を視界に捉えると、獄寺は力任せに楓香を突き飛ばす。
いきなりのことで間抜けな声を出す羽目になり、楓香は文句の一つでも言ってやろうとするが、口を開く前に獄寺が立ち上がった。
「すみません十代目!」
「痛いところとかない!?」
少し焦げた臭いが鼻をつんとつく。
二人の全身をぺたぺたと隈なく触り、どこも怪我をしていないことを確認した沢田は深い溜め息を吐いた。
「誰かさんが庇ってくれたから大丈夫だよ」
明後日の方向に顔を背けた獄寺に視線を投げる。
「何があったの?」
「そこのボンバーマンが自滅しました」
「おい!スモーキン・ボム隼人だって言ってんだろうが!」
ぐるんと首を回した獄寺が喚く。
軽口を言えるくらいの元気はあるらしい。
安堵した沢田の背後から顔を覗かせた楓香は獄寺に向かってあっかんべと舌を出す。
危うく死ぬところだったのだ。仕返しくらいしないと割に合わない。
「………この、クソアマ…!」
沢田というSSR級の盾があるのを良いことに楓香は好き勝手に煽る。
「楽しそうだな、俺も混ぜてくれよ」
飛びかかろうとする獄寺の肩に腕を乗せて、山本がニカッと笑った。
「はっなれろ野球バカ!重いんだよ!」
ギャーギャーと騒いでいると、
「これは一体どういうことか、説明してもらおうか」
スカートの下からすらりと伸びた足が一歩一歩と前に踏み出され、楓香達の元へやって来る。
清める女、と畏れられている鈴木アーデルハイトが君臨した。
腕に"粛清"の腕章を着けた粛清委員をたくさん引き連れている。
巻き込まれないように楓香達はいそいそと退散するが、気付いた獄寺が声を上げる。
「…あ、テメェ逃げんじゃねェ!」
すぐに後を追うも、立ちはだかったアーデルハイトが行く手を阻んだ。
豊満な胸の前で腕を組み、また一歩と前へ出る。
「躾のなってない駄犬は調教の甲斐がある」
その愉悦に歪んだ笑みに、獄寺は「うげぇ」とあからさまに顔を顰めた。
獄寺は成績優秀な生徒なので、いくら素行が悪くても学校側は目を瞑っていた。
しかし、そんなことは粛清委員会の前では通用しない。誰もが平等に粛清されるのだ。
教室を木っ端微塵に破壊した罰として、獄寺は強制的に三年間学校の美化活動に携わることになった。
「邪魔だって言ってんだろ、どっかいけ!」
「キャー♡隼人君カッコイイ♡」
「だぁー、もう!う…っせェな!」
目をハートにさせた女子達に囲まれ、獄寺は怒りのあまり血管がはち切れそうになる。
あっちいけ、と追い払う度に黄色い歓声が上がった。露骨に悪態を吐いても、恋に盲目な乙女には無意味だ。
並盛高校ではクラスに一名ずつ、校内の掃除や花壇の手入れなどを行う美化委員を選出する事になっている。
「おい、ちゃんと根っこまで抜けよ。雑草ナメんな」
「……はいはい」
「んだァ?その適当な返事は」
「獄寺君って私の姑でした?」
「誰が姑だゴラァ!!」
偶然にも美化委員に所属している楓香は、委員会の仕事をしていると獄寺とよくエンカウントするようになった。
校内のゴミ拾いや、廊下に貼られたポスターなどの掲示物の補修、花壇の手入れ。楓香の行く先を知っていたかのように何故か獄寺が居るのだ。
楓香のことが気に入らないのか毎日隣でガミガミとイビリ倒してくるので、最初は怯えていた彼女も今では適当にあしらったり軽く毒を吐いたりと遠慮がなくなった。
獄寺のことを狙っていた女子達は楓香を目障りに思っていたが、その態度っぷりを見て害はないと判断し、敵意を向けなくなった。
「ねぇ、隼人。私も草むしり手伝うわ」
上二つのボタンを外し、深い谷間を強調して着崩した女子生徒が獄寺にしな垂れる。
「テメェも毟ってやろうかァ?あ゛ぁん?」
獄寺は自身の背後からゴゴゴと音が出そうな威圧感を放つ。
雑草を勢い良く引っこ抜いて、女子の眼前に突き付けた。案の定、怯えた彼女はすぐに退散する。
「…にしても、あっちーな」
放課後、まだ日が暮れていない校庭で草抜きを始めること三十分。
こめかみから顎へと汗が伝い、銀の髪が首に張り付く。鬱陶しげに首裏の髪を払っている獄寺に、楓香はヘアゴムを渡した。
「これで髪を結ぶと少しは楽になりますよ」
「……ありがとよ」
ぴょんと結ばれた髪は小さな尻尾のようで、少し可愛らしい。
獄寺は美化活動をサボることなく真剣に取り組んでいる。不良だが根は真面目な人なんだろう、だから成績も優秀なのだ。
また女子がキャッキャと声をかけるが、相手にせず一蹴する。
「今日はこのくらいで終わりにしましょうか」
「明日はもっとペース上げてくぞ」
「……スパルタ」
「あん?なんつった?」
「ナンデモナ、」
最後まで言えなかった。
突然、稲妻が走ったかと思ったら、間髪入れずにものすごく大きな雷鳴が響いたからだ。
驚きのあまり声が出ない楓香だったが、それとは対照的に獄寺は瞬きをするだけだった。
「チッ、雨が降り出したか」
(そろそろ梅雨入りってニュースで流れてたなぁ)
なんて呑気なことを頭の片隅で考えている楓香だったが、雷が鳴ると肩を震わせていた。
鞄と荷物を抱えてすぐにその場から撤収する。昇降口の軒下へ向かう獄寺の背中を必死に追った。
「…朝のお天気予報では快晴って言ってたのに。あのイケメン兄さん許すまじ」
「その番組よく外れることで有名だぞ、知らねェのか」
「えっ、そうなの!?」
見上げた空はどんよりなんて可愛いらしいものではない。閻魔様が降りてきそうな禍々しさと言った方が正しい。
ぽつぽつと降り出した雨は、どんどんと雨脚を早めている。
空気はジメジメ、肌はベトベト、気分はドンヨリ。不快指数百パーセント、否、百パーセントでも足りないくらい不快だ。
「テメェ、傘ないのかよ」
「だって雨降るとは思わなくて」
溜め込んだ水分を一斉に吐き出す雨空を見上げていると、獄寺が自身の置き傘を開いた。
灰色の空に漆黒の大輪が花開く。
「安心しろ、バカは風邪引かねェらしい。あばよ」
無情にも獄寺は足早に楓香の前を通り過ぎて行った。色とりどりの傘の花が開く中、彼の黒い傘が小さくなっていく。
地面の上に出来た水溜りを見下ろす。この土砂降りの中、走って帰る覚悟が決まらず重たい溜め息を吐いた。
(…よし、腹くくるか)
このまま雨宿りしていても現状は変わらない。自分の頬を叩き、帰る決意をして足を一歩踏み出したその時、
「……え?」
突然、顔に差し掛かった傘の影に、楓香はぽかんと口を開ける。
「どうしたんですか、帰った筈じゃ…?」
口をぐっと噛み締めて、渋い表情を浮かべた獄寺が立っていた。
楓香が雷を怖がっていることに彼は気付いていた。
彼女を一人残して帰ろうとした気まずさと後ろめたさ、それから自分のミスで危険な目に合わせてしまったあの日のことを思い出し、積み重なる負債は獄寺の口を重くしていた。
思考は絵の具を混ぜだようにぐちゃぐちゃで、雨も止む気配を見せない。
とにかく何かを口から紡ぎ出そうと、獄寺は必死になって頭の中身を言語化しようとする。
じっと此方を見詰める楓香は傘を持ってなくて、このままでは彼女はずぶ濡れで、でも自分は傘を持っていて、だけど一本しかなくて。
「ん」
そう短く言うと、獄寺は持っていた傘を楓香の方へと押しやった。
「…えっ!?私は大丈夫です、気にしないで下さい」
遠慮がちに楓香が首を振ると、獄寺は苛立ちを隠すことなく口をへの字にする。
「ん!」
「あ、ちょっと」
そして、強引に傘を握らせると、彼はあっという間に雨の中へ走り去った。
断ることも礼を言う隙も与えなかった。渡されたその傘は、楓香の上をすっぽりと覆う、握り手の太いこうもり傘だった。
「……っか、か、」
(カンタァーーーッ!)
思わず内心で叫んでしまった楓香である。最近トトロを鑑賞した影響がモロに出ていた。
呆気に取られ少しの間立ち尽くしたが、急いで獄寺の後を追う。
「ちょっと待ってよカンタ!」
「誰がカンタだ、クソアマ!」
「ちょっと待って!いいから待ってってば!私と、」
―――傘シェアしよ!
「………」
獄寺は、吐き出された言葉を吟味し理解した途端、足を止めた。
首から昇ってくる熱に頭が沸騰し、顔が火でも浴びせられたように熱くなる。
「…な、ななななに言ってんだクソアマ!誰がテメェと相合傘なんて!」
(あ、相合傘って…獄寺君、思ったよりもピュアなのかな)
予想外のリアクションに面食らった楓香は急に小っ恥ずかしくなるが、何とか耐えてゆっくりと見上げる。
「だって獄寺君が風邪引いたら嫌です」
少しの間俯いていた獄寺だったが、楓香が傘をかざしたので二人はコウモリの影に潜り込む。
これで一安心だ、と下心のない顔を覗き込んでくる楓香に、自分だけが妙に意識してることを獄寺は知った。
「…テメェはチビだからな。傘は俺が持ってやる」
ひょいっと傘の持ち手を掠め取られる。
言われるがまま、鞄の持ち手を握り締めて獄寺の隣に寄り添った。
「いいか、このことは、だっっっれにも言うなよ」
「それは勿論ですが一応理由を聞いても?」
「この俺がテメェみたいなへっぽこなんかと相合傘してるなんて知られたらジ・エンドだろ」
「じゃあ二人だけの秘密ってことで」
「キメェこと言うな」
当たった肩から流れてくる熱が獄寺の体温をまた急上昇させた。
制服越しなのに体温が伝わってくるように感じるのは獄寺の錯覚なのか、二つの体温が混じって訳が分からなくなりそうだった。
恥ずかしいので今すぐ離れたいのに、そうさせてくれない雨が憎らしい。
「(……チッ)」
隣を盗み見ても、楓香は気にする素振りすら見せずに淡々と前を向いている。
会話らしい会話もなく、ただ、傘に打ち付ける規則正しい雨音だけが響く。
不意に、楓香が口を開いた。
「助けて下さって、本当にありがとうございます」
「この恩は百倍にして返せよ」
そんな軽口を叩くが、今でも楓香が濡れないよう傘を此方に寄せていることに彼女は気付いていた。
風上に立ち、勢いを増す風雨から壁になろうと肩を濡らす獄寺を見遣る。
いつも顰め面で不機嫌だし怖いけど、野良猫のように気まぐれに、こうして守ってくれた。
「何だかんだ言って優しいんですよね、獄寺君は」
頭上で花開く傘のように、楓香はにっこりと笑顔を咲かせた。
雨に濡れた髪が水滴を吸って束を作り、その先から雫を落として顎先をくすぐる。その感触で我に返った獄寺は、自分が楓香に見惚れていたことを知る。
気まずくなった彼は、頬を掻きながら視線を外した。
「フン…テメェはその辺のミーハー女共とは違ェことは分かった。十代目の右腕の座は俺だが、そうだな―――吹き出物くらいには認めてやるよ」
「獄寺君、私のことめちゃくちゃ嫌いですよね」
「何でだよ!?」
その後、近くのコンビニで楓香が傘を買うまで二人は言い合いをしていた。
踵部分をべた踏みし、ペタンペタンとスリッパのようにして履く銀髪の彼はポケットに両手を突っ込み、身体を後ろへ向けて、とある人物に意識を集中させていた。
それは自身が敬愛してやまないボスの隣にいる女子生徒であった。
自分こそが十代目の右腕と自負するだけはあり、授業中であろうと例え火の中水の中、常に沢田の周囲を警戒し目を光らせている。
最近気に入らない人物が出来た。
佐倉楓香、沢田の隣の席に座っている一般人だ。獄寺は沸々と燃え上がる嫉妬の炎を瞳に宿らせていた。
沢田は家庭教師にネッチョリとしごかれ、深夜まで死ぬ気でトレーニングをした疲労によって、うつらうつら睡魔に襲われている。
「起きろ沢田綱吉!授業中だぞ」
担任が教壇の上から呆れ顔を向ける。
「…す、すみません!」
「お前は何回夢の世界に飛び立てば気が済むんだ」
ダメツナがまたやってるよ、とクラスメイト達が口々にせせら笑う。
この時、普段ならばボスの眠りを妨げた教師と不敬なクラスメイトに怒声を浴びせる獄寺だが、今回は様子が違った。
目を三角にして睨み付けた先に居るのは、やはりあの少女だ。
楓香は鞄からハンカチを取り出すと沢田に手渡した。
ぼやっとした顔に「よ・だ・れ」と口パクで伝えると、恥ずかしげにたった今感謝を述べたばかりの口を拭う。
(その役目は俺の筈なのに…ッ!)
ギリッと歯を食い縛りながら、獄寺は本日何度目の舌打ちをするのだった。
背後から凍てついた視線が惜しみなく送られているとは露知らず、退屈な授業が終わり欠伸をしている楓香は隣から小さく名前を呼ばれる。
「ハンカチありがとう。ちゃんと洗って明日返すね」
「気にしなくていいよ。あげる」
「あっ、俺の涎ついたから汚いよね、ごめん!」
ペコペコと頭を下げるその姿は、まるで弱いものいじめをしている気分になるくらい悲壮感たっぷりだ。
そんなに気にしなくても良いのにと思う反面、きっと逆の立場になったら同じように反応するだろう。
「見てこのライオン、綱吉君みたいじゃない?」
そのハンカチには沢田と同じ蜂蜜色の立て髪をした百獣の王が刺繍されていた。
威厳が全く感じられないつぶらな瞳が魅力的だ。
「俺、ポンデライオンなのーーーッ!?」
言った本人に悪気はなく、純粋な気持ちなのが伝わるからこそ余計にグサリと刺さる。
肩を落とした沢田にトドメの一撃が放たれた。
「私より綱吉君が持っている方が似合ってるよ」
「あ、ありがと…」
複雑な感情を無理矢理に咀嚼する沢田に、「どうしたんだ?」と元気な声が近付いてきた。
その声の持ち主はクラスの中で一番人気者である山本武だった。
男女問わず他のクラスの友達も多く、格好良し性格良し運動神経良しという非の打ち所がない好青年だ。
「さっき俺、授業中に寝ちゃったじゃん?その時に涎垂らしててさ、気付いた楓香ちゃんがハンカチを渡してくれたんだ」
「そーなのな。佐倉ってツナのことよく面倒みてくれるよな。俺からも礼を言わせてくれ、サンキュ」
「…どーも、です」
形の良い唇の間から綺麗に揃った白い歯が愉しそうにのぞく。
山本の笑顔は雑誌の表紙に飾っても良いほど眩しいもので、たまらず楓香は視線を逸らした。
学校では目立ちたくないという楓香に配慮して、沢田と山本は二人だけで会話を始める。
ここまで一連の流れを見ていた獄寺は小刻みに揺らし続けた貧乏ゆすりを止め、勢い良く椅子から立ち上がる。
そのままベタンベタンと大きな足音を立て、向かった先は勿論あの少女の席だった。
「おい、ツラ貸しな」
突然のことで目を丸くさせた楓香が放とうとした疑問を遮るように、くいっと顎で教室の外を示す。
「ご、獄寺君!?」
「どーしたんだ?あ、もしかして告白か!」
「ちっげーよ野球バカ!お前は黙ってろ」
的外れなことを言う能天気にキャンキャンと吠える。
この番犬はボスのことになると一本ネジが外れてしまうのだ。
そのことを身を持って痛感している沢田は、きっと自分関係なんだろうなと困ったように眉を寄せた。
いくらボスの為とはいえ女子供に手を出すような人間ではない。
獄寺のことは信頼しているが、円滑な学校生活に亀裂が走るのは避けたいので、牽制の意味を込めて名前呼ぶが、
「安心してください!十代目の右腕の座は死守しますッ」
「何がーーッ!?」
悲しいかな、全く伝わっていないようであった。
有無を言わさず、獄寺に連行される楓香は側から見て売られていく子牛の如く。正にドナドナが聞こえてきそうだ。
あの問題児が女子生徒と一緒に歩いている、という物珍しい光景は生徒達の関心を大いにかき立てた。
たくさんの好奇な視線に晒され楓香は顔を引き攣らせるが、彼はそんな周りを蹴散らすように肩を怒らせ先導する。
そして、俯きがちに歩いていた楓香の顔に何かがぶつかった。
いてて、と身体を引き顔を上げると、目の前の壁の正体に気付いて息を呑む。
こんなまじまじと獄寺の背中を見詰める機会は今後ないだろう。
意外と広いその背中に、鍛えてるのかな?と純粋な疑問が生まれるが、「おい」と話しかけられて我に返った。
「ご、ごめんなさい」
膝に額をつけるくらいの勢いで謝るも返事はない。
無言のまま腕を引っ張られ、教室の奥へと押し込まれた。
室内には誰もおらず、窓から差す陽の光が二人を包み込む。
しかし、体温急降下中の楓香にとってその暖かさはただの気休めに過ぎない。
(…わ、私何かしちゃった?)
氷柱の雨のような沈黙の中、楓香は必死に頭を働かせていた。
獄寺隼人とはこれまで言葉を交わしたことはあまりなく、接点があるとすれば、日直の仕事を手伝ってもらったことがあるだけで。
彼は沢田綱吉を異常なまでに敬っており、それ以外の人間は道端に転がっている小石同然だ。
そんな彼だが山本武は例外である。
沢田と親しい山本が気に入らず噛み付く姿は、まるで戯れ合う犬のよう。二人の絡みはクラスの名物になっていた。
この三人には目には見えない特別な絆で繋がっている。それがクラスの暗黙の了解だった。
そこに部外者が入る隙など一切ない、とそこまで思考して閃く。
そう、この番犬が吠えるのは沢田に関連することだ。以前から獄寺に目を付けられていたことを思い出す。
楓香が口を開く前に、目の前から舌打ちが飛んできた。
「お前には渡さねぇ」
「えっと、それは何のことでしょうか…」
「十代目の右腕はこの俺だッ!」
「だから何のこと!?」
やっぱりか、と零しそうになる溜め息をぐっと我慢する。
予想は的中した。どうやら沢田のことで因縁を付けてきたらしい。
彼の隣の席になってから何かと世話を焼いてきたが、それが逆鱗に触れたのだろうか。
沢田が一番頼りにする存在は自分であるべきなのに、お節介焼きの行動は知らずのうちに右腕のプライドを刺激していたらしい。
一度ついた嫉妬の炎は止まることを知らぬかのように獄寺の中で燃え上がる。
しかし、楓香とて黙ってはいられなかった。
今にも噛み付いて来そうな同担拒否火力増し増し過激派沢田担に怖気つきながらも、拳を握り締めて己を鼓舞した。
よく分からない誤解を解く為には、慎重に言葉を選ばないといけない。
「わ、私は綱吉君の隣の席なだけで右腕とか興味はないです!」
神経を逆撫でしないように最大の注意を払いながら宥めるが、獄寺は苛立ちを隠さずに鼻で笑う。
「テメェが下心であのお方に恩を売ろうとしてんのはお見通しなんだよ。言え、何が目的だ?」
「目的って…そんなのないですよ」
「ふざけんな。そんな話信じられっか」
意見は互いに一方通行のまま、とても交わりそうにない。
これでは埒が明かないとばかりに、楓香は静かに嘆息を漏らす。
「大体、人が人を傷付けるのに動機が必要だとしても、人が人を助けるのに理由なんていちいち考えないと思うんですが」
獄寺は生唾を呑んだ。
何の躊躇いもなく言ってのける楓香の姿が、あの日の彼と重なって見えたのだ。
意表を突かれ、血が上っていた頭が徐々に冷静さを取り戻していく。
「獄寺君の周りには居なかったんですか。ピンチの時に善意で手を差し伸べてくれた人」
その言葉に肩をピクリと震わせ、たちまち恩情の色を眼に浮かばせた。
思い返すのは身を挺して命を救ってくれた恩人であり親友、沢田綱吉との出会いだった。
その記憶は右腕の座を目指すきっかけとなり、大切な宝物として今でも鮮明に脳裏に焼き付いていた。
深く刻まれた眉間の皺が僅かに解け始める。
「…仮に一万歩譲ってテメェに邪な考えがないとする。だが十代目のお世話をする役目は俺だ。隣の席だからって出しゃばんな。分かったか?」
はいかYESの返事しか聞き入れる気はない威圧感に尻込みするが、一つ疑問が生まれる。
「でも二人の席ってすごく離れてますよね?」
「んなこと関係ねェ。どこに居ようがどんな時でもお側に駆け付けるのが右腕の勤めだ」
「授業中、何かある度に綱吉君の元に行くんですか?」
さも当然とばかりに獄寺が自信満々に頷くのを、乾いた笑みで返す。
「…効率悪すぎる」
直球で図星を突かれ、獄寺は「うがっ」と喉を詰まらせた。
返す言葉が見付からず目が泳ぐ彼の前に、楓香はダメ押しとばかり一歩踏み出す。
「当人が満足ならそれでも良いんですが、他の生徒達は気が散って授業に集中出来ないですよ。ずっと綱吉君の一挙一動を見張ってたら獄寺君自身も勉強出来ませんし、それを彼は望んでいると思いますか?」
あの底抜けの優しさで全てを包み込む大空は、自分のせいで誰かが犠牲になることを良しとしないだろう。
獄寺はその暖かさに救われ、生涯忠誠を誓ったのだ。
自分の浅はかな考えを一巡させ改め直すと、側に置いてある椅子に手を置いた。
「ならテメェの席を俺の席と交換しな」
「えっ、無理」
「あぁ゛?」
沢田が隣の席になってから学校へ行くのが楽しみになった楓香は、この日常が終わってしまうのは絶対に嫌だった。
「と、とにかく席を交換するのは全力でお断りします!」
ガタガタと音を立てて、一つの椅子を互いに押し付け合う両者一歩も譲らない攻防戦が繰り広げられる。
しかし、不意に獄寺がその場から一歩下がり、ポケットに手を突っ込んだ。
「…消し炭になりたくねェなら言うこと聞きな」
両手にダイナマイトを構え、青褪める楓香をジリジリと壁際に追い詰める。
「ちょっ待って、その物騒なもの一体どこから出したんですか?手品師?てか、前から気になってたんですけど入手ルートはヤベーニオイがしない健全な所からですよね!?」
今時の不良はこんなにデンジャラスなのか、と平和ボケしている日本人なら衝撃の余り誰もが白目を剥くだろう。
「手品師じゃねェ、スモーキン・ボム隼人だ!この自家製のボムを全身に仕込み、あらゆる獲物を仕留めてきた」
本人は得意気に語っているが、自分は犯罪に片足どころか両足を突っ込んでいると自白しているようなものだ。
獄寺はあくまで脅しの為にやっているので危害を加える気は微塵もない。
その証拠に導火線には火が着火しておらず、ただの見せしめのつもりだった。
だが、いつもの癖で無意識に煙草を口に咥えていた。
それが仇となることをこの時の彼はまだ知らない。
「どうどう。一回深呼吸して落ち着きましょう」
「往生際が悪い奴め」
彼が一歩足を出せば、楓香が一歩足を下げる。
それらを複数回繰り返していると、トンと背中に壁が当たった。これ以上後退することが出来ない。
残された唯一の退路は、獄寺の横を素早くすり抜けて教室の外に出ること。
その為には意識を自分から逸さねば。
覚悟を決め、教室の外に視線を向けた。
「あ、綱吉君だ」
「んなっ!?」
今だ、この瞬間を待っていた。
獄寺が慌てた様子で振り返る隙を突き、ドア目掛けて走り出す。
嵌められたことに気付き逃げる細い腕を捕まえるが、その拍子にポロッと煙草を床に落としてしまう。
最悪にも火種はダイナマイトに引火し、音を立てて閃光を放った。
ジ・エンドまで残り一秒。
恐怖で固まった楓香を抱き上げた獄寺は、勢い良く窓を突き破って教室の外に出る。
間を置かず後ろから爆風が襲い掛かり、彼らは廊下に叩き付けられた。
獄寺は身体を回転させ、楓香を守るように自分が下敷きになる。咄嗟の判断だったが、どうやらそれは正解だったらしい。
座り込んで腕の中にいる楓香と目が合う。
どこも負傷していないことを確認し、獄寺は胸を撫で下ろした。
「…い、生きてる」
まるで映画のワンシーンのような怒涛の展開だった。
黒焦げになった教室を呆然と見上げ、後一秒遅かったらと想像して背筋が凍る。
「獄寺君、ボンバーマン辞めてスタントマンに転職します?」
「どっちもやらねーよッ!」
恐怖によって五月蠅かった心臓の音が、やがて静かに規則的になっていく。
震えが収まった楓香は一息つくと、おずおずと尋ねた。
「どうして助けてくれたんですか?」
んなもん知るかと乱暴に言葉を吐き捨てた彼は顔を背けるが、ぼそりと呟く。
「身体が勝手に動いたんだよ」
貸し借りだの見返りだの、そんな面倒なことを考える暇もなかった。
気が付けば、爆発から楓香を守ろうとしている自分がいた。
「…同じですね、私も綱吉君に対してそうだったから」
また互いの視線がかち合う。
バツが悪そうに獄寺は首の後ろを掻いた。
「…悪かった」
声はぶっきらぼうだが、その視線は気遣わしげだ。
「助けてくれてありがとう、獄寺君」
もうその目には敵意が込められていない。
ようやく誤解が解けたことを確信し、仲直りの握手でも出来そうな雰囲気になるが、
「二人共、無事なの!?」
騒ぎを駆け付けた沢田達の姿を視界に捉えると、獄寺は力任せに楓香を突き飛ばす。
いきなりのことで間抜けな声を出す羽目になり、楓香は文句の一つでも言ってやろうとするが、口を開く前に獄寺が立ち上がった。
「すみません十代目!」
「痛いところとかない!?」
少し焦げた臭いが鼻をつんとつく。
二人の全身をぺたぺたと隈なく触り、どこも怪我をしていないことを確認した沢田は深い溜め息を吐いた。
「誰かさんが庇ってくれたから大丈夫だよ」
明後日の方向に顔を背けた獄寺に視線を投げる。
「何があったの?」
「そこのボンバーマンが自滅しました」
「おい!スモーキン・ボム隼人だって言ってんだろうが!」
ぐるんと首を回した獄寺が喚く。
軽口を言えるくらいの元気はあるらしい。
安堵した沢田の背後から顔を覗かせた楓香は獄寺に向かってあっかんべと舌を出す。
危うく死ぬところだったのだ。仕返しくらいしないと割に合わない。
「………この、クソアマ…!」
沢田というSSR級の盾があるのを良いことに楓香は好き勝手に煽る。
「楽しそうだな、俺も混ぜてくれよ」
飛びかかろうとする獄寺の肩に腕を乗せて、山本がニカッと笑った。
「はっなれろ野球バカ!重いんだよ!」
ギャーギャーと騒いでいると、
「これは一体どういうことか、説明してもらおうか」
スカートの下からすらりと伸びた足が一歩一歩と前に踏み出され、楓香達の元へやって来る。
清める女、と畏れられている鈴木アーデルハイトが君臨した。
腕に"粛清"の腕章を着けた粛清委員をたくさん引き連れている。
巻き込まれないように楓香達はいそいそと退散するが、気付いた獄寺が声を上げる。
「…あ、テメェ逃げんじゃねェ!」
すぐに後を追うも、立ちはだかったアーデルハイトが行く手を阻んだ。
豊満な胸の前で腕を組み、また一歩と前へ出る。
「躾のなってない駄犬は調教の甲斐がある」
その愉悦に歪んだ笑みに、獄寺は「うげぇ」とあからさまに顔を顰めた。
獄寺は成績優秀な生徒なので、いくら素行が悪くても学校側は目を瞑っていた。
しかし、そんなことは粛清委員会の前では通用しない。誰もが平等に粛清されるのだ。
教室を木っ端微塵に破壊した罰として、獄寺は強制的に三年間学校の美化活動に携わることになった。
「邪魔だって言ってんだろ、どっかいけ!」
「キャー♡隼人君カッコイイ♡」
「だぁー、もう!う…っせェな!」
目をハートにさせた女子達に囲まれ、獄寺は怒りのあまり血管がはち切れそうになる。
あっちいけ、と追い払う度に黄色い歓声が上がった。露骨に悪態を吐いても、恋に盲目な乙女には無意味だ。
並盛高校ではクラスに一名ずつ、校内の掃除や花壇の手入れなどを行う美化委員を選出する事になっている。
「おい、ちゃんと根っこまで抜けよ。雑草ナメんな」
「……はいはい」
「んだァ?その適当な返事は」
「獄寺君って私の姑でした?」
「誰が姑だゴラァ!!」
偶然にも美化委員に所属している楓香は、委員会の仕事をしていると獄寺とよくエンカウントするようになった。
校内のゴミ拾いや、廊下に貼られたポスターなどの掲示物の補修、花壇の手入れ。楓香の行く先を知っていたかのように何故か獄寺が居るのだ。
楓香のことが気に入らないのか毎日隣でガミガミとイビリ倒してくるので、最初は怯えていた彼女も今では適当にあしらったり軽く毒を吐いたりと遠慮がなくなった。
獄寺のことを狙っていた女子達は楓香を目障りに思っていたが、その態度っぷりを見て害はないと判断し、敵意を向けなくなった。
「ねぇ、隼人。私も草むしり手伝うわ」
上二つのボタンを外し、深い谷間を強調して着崩した女子生徒が獄寺にしな垂れる。
「テメェも毟ってやろうかァ?あ゛ぁん?」
獄寺は自身の背後からゴゴゴと音が出そうな威圧感を放つ。
雑草を勢い良く引っこ抜いて、女子の眼前に突き付けた。案の定、怯えた彼女はすぐに退散する。
「…にしても、あっちーな」
放課後、まだ日が暮れていない校庭で草抜きを始めること三十分。
こめかみから顎へと汗が伝い、銀の髪が首に張り付く。鬱陶しげに首裏の髪を払っている獄寺に、楓香はヘアゴムを渡した。
「これで髪を結ぶと少しは楽になりますよ」
「……ありがとよ」
ぴょんと結ばれた髪は小さな尻尾のようで、少し可愛らしい。
獄寺は美化活動をサボることなく真剣に取り組んでいる。不良だが根は真面目な人なんだろう、だから成績も優秀なのだ。
また女子がキャッキャと声をかけるが、相手にせず一蹴する。
「今日はこのくらいで終わりにしましょうか」
「明日はもっとペース上げてくぞ」
「……スパルタ」
「あん?なんつった?」
「ナンデモナ、」
最後まで言えなかった。
突然、稲妻が走ったかと思ったら、間髪入れずにものすごく大きな雷鳴が響いたからだ。
驚きのあまり声が出ない楓香だったが、それとは対照的に獄寺は瞬きをするだけだった。
「チッ、雨が降り出したか」
(そろそろ梅雨入りってニュースで流れてたなぁ)
なんて呑気なことを頭の片隅で考えている楓香だったが、雷が鳴ると肩を震わせていた。
鞄と荷物を抱えてすぐにその場から撤収する。昇降口の軒下へ向かう獄寺の背中を必死に追った。
「…朝のお天気予報では快晴って言ってたのに。あのイケメン兄さん許すまじ」
「その番組よく外れることで有名だぞ、知らねェのか」
「えっ、そうなの!?」
見上げた空はどんよりなんて可愛いらしいものではない。閻魔様が降りてきそうな禍々しさと言った方が正しい。
ぽつぽつと降り出した雨は、どんどんと雨脚を早めている。
空気はジメジメ、肌はベトベト、気分はドンヨリ。不快指数百パーセント、否、百パーセントでも足りないくらい不快だ。
「テメェ、傘ないのかよ」
「だって雨降るとは思わなくて」
溜め込んだ水分を一斉に吐き出す雨空を見上げていると、獄寺が自身の置き傘を開いた。
灰色の空に漆黒の大輪が花開く。
「安心しろ、バカは風邪引かねェらしい。あばよ」
無情にも獄寺は足早に楓香の前を通り過ぎて行った。色とりどりの傘の花が開く中、彼の黒い傘が小さくなっていく。
地面の上に出来た水溜りを見下ろす。この土砂降りの中、走って帰る覚悟が決まらず重たい溜め息を吐いた。
(…よし、腹くくるか)
このまま雨宿りしていても現状は変わらない。自分の頬を叩き、帰る決意をして足を一歩踏み出したその時、
「……え?」
突然、顔に差し掛かった傘の影に、楓香はぽかんと口を開ける。
「どうしたんですか、帰った筈じゃ…?」
口をぐっと噛み締めて、渋い表情を浮かべた獄寺が立っていた。
楓香が雷を怖がっていることに彼は気付いていた。
彼女を一人残して帰ろうとした気まずさと後ろめたさ、それから自分のミスで危険な目に合わせてしまったあの日のことを思い出し、積み重なる負債は獄寺の口を重くしていた。
思考は絵の具を混ぜだようにぐちゃぐちゃで、雨も止む気配を見せない。
とにかく何かを口から紡ぎ出そうと、獄寺は必死になって頭の中身を言語化しようとする。
じっと此方を見詰める楓香は傘を持ってなくて、このままでは彼女はずぶ濡れで、でも自分は傘を持っていて、だけど一本しかなくて。
「ん」
そう短く言うと、獄寺は持っていた傘を楓香の方へと押しやった。
「…えっ!?私は大丈夫です、気にしないで下さい」
遠慮がちに楓香が首を振ると、獄寺は苛立ちを隠すことなく口をへの字にする。
「ん!」
「あ、ちょっと」
そして、強引に傘を握らせると、彼はあっという間に雨の中へ走り去った。
断ることも礼を言う隙も与えなかった。渡されたその傘は、楓香の上をすっぽりと覆う、握り手の太いこうもり傘だった。
「……っか、か、」
(カンタァーーーッ!)
思わず内心で叫んでしまった楓香である。最近トトロを鑑賞した影響がモロに出ていた。
呆気に取られ少しの間立ち尽くしたが、急いで獄寺の後を追う。
「ちょっと待ってよカンタ!」
「誰がカンタだ、クソアマ!」
「ちょっと待って!いいから待ってってば!私と、」
―――傘シェアしよ!
「………」
獄寺は、吐き出された言葉を吟味し理解した途端、足を止めた。
首から昇ってくる熱に頭が沸騰し、顔が火でも浴びせられたように熱くなる。
「…な、ななななに言ってんだクソアマ!誰がテメェと相合傘なんて!」
(あ、相合傘って…獄寺君、思ったよりもピュアなのかな)
予想外のリアクションに面食らった楓香は急に小っ恥ずかしくなるが、何とか耐えてゆっくりと見上げる。
「だって獄寺君が風邪引いたら嫌です」
少しの間俯いていた獄寺だったが、楓香が傘をかざしたので二人はコウモリの影に潜り込む。
これで一安心だ、と下心のない顔を覗き込んでくる楓香に、自分だけが妙に意識してることを獄寺は知った。
「…テメェはチビだからな。傘は俺が持ってやる」
ひょいっと傘の持ち手を掠め取られる。
言われるがまま、鞄の持ち手を握り締めて獄寺の隣に寄り添った。
「いいか、このことは、だっっっれにも言うなよ」
「それは勿論ですが一応理由を聞いても?」
「この俺がテメェみたいなへっぽこなんかと相合傘してるなんて知られたらジ・エンドだろ」
「じゃあ二人だけの秘密ってことで」
「キメェこと言うな」
当たった肩から流れてくる熱が獄寺の体温をまた急上昇させた。
制服越しなのに体温が伝わってくるように感じるのは獄寺の錯覚なのか、二つの体温が混じって訳が分からなくなりそうだった。
恥ずかしいので今すぐ離れたいのに、そうさせてくれない雨が憎らしい。
「(……チッ)」
隣を盗み見ても、楓香は気にする素振りすら見せずに淡々と前を向いている。
会話らしい会話もなく、ただ、傘に打ち付ける規則正しい雨音だけが響く。
不意に、楓香が口を開いた。
「助けて下さって、本当にありがとうございます」
「この恩は百倍にして返せよ」
そんな軽口を叩くが、今でも楓香が濡れないよう傘を此方に寄せていることに彼女は気付いていた。
風上に立ち、勢いを増す風雨から壁になろうと肩を濡らす獄寺を見遣る。
いつも顰め面で不機嫌だし怖いけど、野良猫のように気まぐれに、こうして守ってくれた。
「何だかんだ言って優しいんですよね、獄寺君は」
頭上で花開く傘のように、楓香はにっこりと笑顔を咲かせた。
雨に濡れた髪が水滴を吸って束を作り、その先から雫を落として顎先をくすぐる。その感触で我に返った獄寺は、自分が楓香に見惚れていたことを知る。
気まずくなった彼は、頬を掻きながら視線を外した。
「フン…テメェはその辺のミーハー女共とは違ェことは分かった。十代目の右腕の座は俺だが、そうだな―――吹き出物くらいには認めてやるよ」
「獄寺君、私のことめちゃくちゃ嫌いですよね」
「何でだよ!?」
その後、近くのコンビニで楓香が傘を買うまで二人は言い合いをしていた。