泡沫トワイライト
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シャコシャコ。歯を磨く楓香は、洗面台の鏡に映る自分を見詰める。目の下には薄らと隈が出来ていた。
沢田家でバーベキューをした日、彼に家まで送ってもらっている時の会話を思い出す。
ランボのバズーカに直撃した楓香はその場で気絶したらしい。動揺した沢田は錯乱状態になり、それが例の発言をした理由だと謝罪された。
(今まで自死なんて考えたこともなかった)
気を失った時に夢を見たかと聞かれた。記憶は朧げだったが、大人の男に指輪泥棒だと誤解されて殺されそうになったと伝えれば、沢田は表情を険しくさせた。
それからというもの楓香の為事なす事、過敏に干渉してくるようになった。
ノートの紙を一枚切ろうとしてカッターを構えると「命だいじに!」と全力で止められ、屋上で昼食を取ろうとすると「早まらないで!」と阻止され、帰り道の橋を渡ろうとすれば「どざえもんんん!」と体当たりされる。
いい加減鬱陶しくなった楓香は「沢田君、ウザイ」と問答無用で一刀両断した。
「もし、どうしようもなく苦しくて悲しくて一人で耐えられなくなった時、真っ先に沢田君に言うよ。助けて、って」
「分かった、絶対に言うって約束して」
「うん」
約束のおまじないをした二人は、絡めた小指を離した。
上り始めた満月が楓香を見下ろす。
スーパーにはゴールデンタイムという半額値引きシールが一斉に貼られる激アツな時間帯がある。
狙っていた惣菜を買い占め、鼻歌を鳴らしながらエコバックを抱えて帰り道を歩いていた。
公園に繋がる並木の合間にぽつぽつと街灯が灯り始める。
信号が青色に変わり横断歩道を渡り終えると、後ろからチリンとベルの音が聞こえた。
振り返ると、そこには爽やかな笑顔があった。
「…や、山本君?」
「おっす、佐倉」
楓香の隣に並ぶように自転車から降りた山本は白い歯を輝かせる。さらっとした黒髪を風に靡かせ、健康的な肌が眩しい。
(背、高いなぁ)
好青年をぽけっと鑑賞していると、「家どこなん?送ってく」とまさかの申し出に慌てて手を振る。
「だ、大丈夫です一人で帰れますので」
「そー言うなって。ツナにはよく送ってもらってるんだろ?」
「なっ、しっ!?(なんで知って!?)」
素っ頓狂な声を上げる楓香に、山本は吹き出す。
「ふはっ、驚き過ぎだろ。ほら行こうぜ」
いつの間にか自然と一緒に帰る流れになったが、これが陽キャの距離感の詰め方かと格の違いを見せ付けられた。
あまり話したことがない一軍男子のオーラに心が折れそうになる。
手と足が同時に出ていたり、何もない所で躓いたりとへんてこっぷりを披露してまった。
「……笑わないで下さい」
顔を逸らした山本は肩を小さく震わせていた。
ぶすくれていると、ひょいっと持っていたエコバッグを取り上げられ、自転車のカゴに乗せられる。
これは好感度が高い、と他人事のように思いながら楓香はお礼を言った。
どうかクラスメイトに遭遇しませんように、と心の中で祈る。山本のファンクラブ会員を敵に回したくないし、何よりも親友の結衣に勘違いされたくない。
なるべく顔を見られないように下を向いていると、隣からふわりと制汗剤の香りがした。
「部活帰りですか?」
「そうだぜ、これからバッセン行こうと思ってたら定休日でさ。仕方ねーから帰ろうとしたら佐倉みっけたって訳」
肩にかけたバットケースに吊るされた野球帽が、歩く度に小さく揺れている。
「もうすぐ試合ですもんね。初戦、結衣と応援しに行きます」
「おっ、サンキュー!佐倉は野球好きなんか?」
「はい、特に高校野球が好き。あの青春臭さがたまらなくて」
「ははっ、おっさんみてーだな。いでっ」
思わず背中を叩いてしまった楓香は悪くないだろう。
クラスの人気者からおっさんと揶揄されてしまい、心に精神的ダメージが突き刺さる。
「……佐倉にこんなこと言うと困らせちまうけど、」
カラカラと規則正しくチェーンが回っていた自転車が止まった。
「ぶっちゃけ、今、自分に自信が持てなくてさ。お前なら打てるとか、そういうのが重くて」
周囲からのプレッシャーに押し潰されそうだ、と彼は弱々しく言葉を吐き捨てる。
あまり話したことがない顔見知りという関係の楓香にぽろりと悩みを吐いたのは、自分に期待する友人や身内に心配かけたくないからなのか。
親しくない他人だからこそ、誰にも言えなかった本音を零せるというものだ。
「…私が今から言うことを否定せずに聞いて下さい」
「……お、おう?」
試合に負けたらどうしようとネガティブ思考に陥ると、それに対して身体や心が合わせようと働く。その結果、本番でも失敗した前提の力しか発揮しない。
ならば、対策としては自己肯定感を爆上げして勝利した時のイメージを積み重ねていけば良いのだ。
「山本君はすごい!なんたって高校一年でレギュラー入りした期待の新星!彼の打席になったら、この人はきっと勝利に導いてくれるってワクワクする!どんなに悪い流れでもカキーンって一発でひっくり返してくれる、無限の可能性を秘めた選手だ!」
「な、なんかすげー目がキラキラしてるのな」
食い気味に語る楓香に圧倒され、山本は首を垂れて後頭部をガシガシと掻く。
「この前の練習試合だってすごい活躍でした。最後の逆転満塁ホームランは熱かった!ここで打席が回ってくるのか、そしてホームラン打つのかって野球マンガの主人公かと思いました!神様を見たことある?って聞かれたら球場で見たって答える自信あります。あと、…うわっ」
ぽすりと、急に視界が半分遮られる。
手で頭上を触ると少し曲がったツバのキャップのようで、恐らく野球帽だろう。
そう思い、隣を見上げるが目深に被せられたのも相まって山本の表情が見えない。
「それ被ってろ。あんま目立ちたくないんだろ?」
「よ、良く分かりましたね」
「赤マルチェックしてっからな」
(なにそれボスに近付く要注意人物リストってこと!?)
こうして山本と一緒に居るのを他の生徒に目撃され、デタラメな噂が流れるのは避けたかった。結衣の好きな人なら尚更だ。
相手のことを良く見て気遣いが出来るのもモテる理由の一つなんだろう。
素直に甘えることにした楓香はツバを少し下げた。
「ありがとな、なんか自信出たわ。最近ちょびっと弱気だったからさ」
端正な顔立ちで人柄も文句なし、運動神経抜群、人望もあって欠点がない完璧な男の子だと思っていた。
そんな山本でも不安になることがある。同じ人間なんだなと分かって少し嬉しかった。
「周りの期待に応えようとか余計なものは背負わないで、全てを手放しましょう。大切なのは自分がどうしたいか、です」
静かに山本は天を仰ぐ。無数の星が輝いている中、一番の煌めきを放つ星があった。
「……俺は、勝ちたい」
新星、か。彼は突き上げた手に力を入れて拳を作る。
「今まで頑張って努力してきた自分を信じてあげて下さい。誰よりもすごいと一番よく分かっているのは自分自身ですから。山本君は絶対勝ちます!」
もう大丈夫だ。その瞳には勝利に焦がれる一番星が宿っていた。
「おー。そうだな……絶対、勝つ!」
お互いに拳を合わせ、勝ち気に微笑んだ。
スポ根アニメのワンシーンみたいなことをした楓香だったが、後から冷静になり頭を抱える。
(私なんかが生意気にも山本君とグータッチとかしてごめんなさい!ファンにコロサレル…!)
沢田には申し訳ないがぽっくり死亡フラグが立ってしまった。
「あのさ、佐倉に興味持っちまった。教えてくれよ、お前のこと」
これは幻聴かと両耳を叩いて目を強く閉じて開くも、彼はのんびりと楓香を眺めているので、どうやらマジと書いて本気らしい。
「俺あんま佐倉と話したことないから、どんな奴なのか興味がある」
「ソウナンデスカ」
楓香の受け答えが面白かったのか、笑顔をきらりと輝かせて「カタコトおもろっ」と野球帽を軽くチョップした。
ズレた帽子を一瞥して、楓香は目深に被り直す。
「なー、なんで敬語なんだよ。俺達タメだろ」
「え、と、人見知りなので」
少し距離を取る楓香だったが、そんなことはお構いなしに彼はグイグイと来る。切実に止めてほしい。
「下の名前呼んでいいか?」
「殺されるのでやめて下さい」
「前から思ってたけど、楓香って名前可愛いよな」
「私を確実に殺ろうとしてます?」
楓香は真顔で尋ねてしまった。
(前からって何?以前から私の名前を可愛いと思ってたってこと!?)
人たらしは恐ろしい。山本は何の底意もなく言っているが、これ程のイケメンにそんな思わせぶりな発言をされたら勘違いしてしまうだろう。
「なぁ、楓香って呼ぶぜ」
「…せめて二人きりの時だけにして下さい。命がいくつあっても足りないので」
「おう、よく分かんねーけど分かった!んじゃ早速、」
帽子のツバの下に隠された顔を覗き込むようにして、山本は前のめりになる。
「楓香」
目が合って、視線が絡む。
思わず吸い込まれそうな気がした。
「みっ」
「み?」
「見詰め合うと素直にお喋り出来ない」
イケメンは鑑賞するに限る。致死量の触れ合いに楓香は涙目になった。
(もう距離感バグりすぎ一軍男子怖い心臓に悪い殺しにきてる)
ツボに入った山本は自転車のハンドルに寄りかかり、ひーひーと息を切らして笑っていた。
「やっぱり俺の勘が当たってた」
「その勘ズレてますね担任のカツラよりズレてますよ」
「いや当たってた」
「どこがやねん」
「あははっ、やっぱりおもしれー」
(おもしれー女、認定された!?)
もしかしてこのフレッシュ王子様は、冴えないモブ女を弄んで…と一瞬考えるが山本に限ってそれはない。
これは単純に楓香の挙動不審な反応がお気に召した、と言うべきか。
そんなまじまじと見詰められると、そうじゃないと分かっていても誰だって照れてしまうだろう。
それを隠すように楓香は野球帽をもっと深く被った。
「買い被りすぎです。私なんて気に掛けてもらえるような人間じゃないです」
「それはこっちの台詞だっつーの。俺なんか過大評価の塊だし」
ぽり、と頬を掻いて呟かれた言葉の意味が分からず、首を捻った。
いやいやと手を横に振ると、山本も同じように真似をした。二人していやいやと押し問答の末に、一呼吸を置いてから「それ本気で言ってます?」と念押しに問う。
「マジマジ」
「山本君はもっと評価されるべき人間です、国宝の自覚を持って下さい」
「ははっ、どんな自覚だよ」
意外というか、山本は話してみるとこんな感じなんだと楓香は驚く。
(なんか思っていたよりも話しやすい、かも。イケメンだからって身構え過ぎてたのかな)
「楓香は自分のこと過小評価しすぎじゃね」
「それはない」
「すっげー即答」
今更だが、クラスの人気者と普通に会話しているのが未だ信じられず、楓香は本当にこれは現実かと頬を抓る。
「どうした?」
「夢だけど夢じゃなかった」
「俺はトトロか」
そこでお互いに目を合わせ、二人は同時に吹き出した。
人見知りしていた楓香は徐々に慣れて、山本との会話を楽しむ余裕が出来た頃。
曲がり角を曲がった先にある光景に、二人は緊張の色が走る。
(さ、沢田君!?)
たくさんの不良に囲まれた沢田の後ろ姿がそこにあった。彼は気丈にも泣き出すことなく恐怖に耐えている。
警察に通報しようとした楓香の手を止め、山本が首を横に振る。
「心配すんな。まぁ、見とけって」
「…でも」
確かに沢田は意外と体が頑丈で反射神経が鋭く、格闘家のように俊敏な動きをしていたが、それでも一般の高校生だ。
不良に痛めつけられる彼を想像してしまい、恐怖で顔が引き攣った。
「ツナは強い男だぞ、俺よりもな」
ぽんと野球帽の上から撫でられる。大丈夫だというような、安心させる優しい笑みが、楓香の冷えた心を解かしていく。
お金をせびられていることから沢田はカツアゲに遭っているらしい。脅して金銭を奪おうとする不良のお家芸だ。
「ほら、さっさと財布よこせよクソガキ」
「すみません、財布忘れてて…」
「嘘つけや!金額次第でボコらないでやるよ」
「ヒィッ!そ、そんなぁ…」
次第に沢田との距離を詰めていく不良達。それはまるで狼の群れに取り残された仔羊だ。
自分よりも体格の劣る沢田を脅し、不適な笑みを浮かべる不良達は自分を強者と思い上がっている。
しかし、その傲慢な態度と思い上がりはそう長く続くことはなかった。
「さっさと渡さねぇお前が悪いんだからな。オラァ!」
「うわぁ!」
不良が渾身の一撃を振るうも、沢田は軽々と避けた。
躱されたことでバランスを崩し、不良が間抜けに転ぶ。
「…やるじゃねぇかボウズ。次は本気でいくぜ」
「や、やめて下さいーーッ!」
ちんちくりんな学生に初撃をあっさり避けられて腹が立ったのか、真っ赤な顔で不良が再度拳を振るった。
手の動きから狙いが頭の辺りだと察して、沢田は身を屈めて回避する。
「チッ…まぐれも大概にしろよ」
更にプライドを傷付けられた不良は怒り任せに殴りかかった。
その単調で大振りな打撃を沢田は悲鳴を上げながらも、軽やかに難なく躱し続ける。
「クソッ!お前ら、やっちまえ!」
なりふり構っていられなくなった不良達は一斉に沢田へ殴りかかった。
多勢に無勢という不利な状況だが、それでもその拳は彼へと届くことはない。
数分も経過せずに不良達の体力が尽き、呼吸が乱れ打撃にキレや威力が無くなった。
「…な、何なんだよ…お前」
何度攻撃しても当たらない。得体の知れない怪物と対峙した気分になり、不良達は戦慄した。
沢田は超直感でひたすら攻撃を避けただけだが、彼らから恐怖と怪訝な視線を浴びてきょとんとする。
「今日は、この辺で勘弁してやらぁ」
「あ、ありがとうございました?」
すっかり戦意喪失した不良達は、蜘蛛の子を散らすように逃げ出していった。
どうだ、と山本が自信満々に沢田を見るように促すから、楓香は肩の力を抜く。
怪我一つなくケロッとした沢田がくるりと振り返った。
「よぉ、ツナ」
「あれ?山本と…佐倉さん!?」
ずっと張り詰めていた緊張の糸が切れて、膝が崩れ落ちる。
「ちょっ、大丈夫?」
「うん平気。ちょっと気が抜けただけ。膝、爆笑しちゃってる」
「ははっ、これは暫く筋肉痛かー?」
それは勘弁してほしい。楓香はストレッチや筋トレでも始めてみようか悩んだ。
今までにない組み合わせの二人に、沢田が次々に質問攻めをする。
これまでの経緯を山本が説明すると、そっかと素っ気なく返すので、楓香が間を取り持つように話題を変えた。
「沢田君って喧嘩強いんだね。驚いた」
「そんなことないよ、ただ躱してただけだから。山本の方が強いし」
「何言ってんだよツナ。お前が一番強いだろ」
カラカラと自転車の車輪が音を奏でる。それに合わせて、さわさわと木々の葉が揺れた。そよぐ風が三人の髪を揺らす。
「ツナにはタメなのに俺には敬語かよー」
「沢田君は別枠です」
「ちぇっ。でも呼び捨てで呼んでもいいんだよな」
「それは二人きりの時だけですから」
「あー、そうだっけ?」
「私の命が掛かっているので忘れないで下さい!」
さして強い関心を示すでもなく、浮かない顔で二人の話に耳を傾けていた沢田が足を止める。
「その野球帽どうしたの」
押し黙っていた沢田がチラッと楓香の頭に被ってある帽子を一瞥した。
「山本君が気遣って貸してくれたの。ほら、私って目立つのが苦手だから」
「似合ってるぜ。なぁツナ」
「……」
口を閉ざす彼に気付き、楓香と山本が顔を見合わせて首を傾げた。
怪我をした訳ではないのに、何故か沢田の顔は傷付いたような表情だった。
「佐倉さんの顔がよく見えないから、俺は被ってほしくない…かな」
そう言って彼はまた歩き始める。
その後ろ姿を呆然と見ていた楓香は、無言で頭から野球帽を取ると山本のバットケースに吊り下げた。
「ちょっと歩くの早いよ沢田君、待ってってば」
「待たない」
「せっかち」
「うるさい」
沢田の隣に並んだ楓香の耳は熱が集まり赤くなっていた。
二人の様子を見守っていた山本は優しげに目を細める。
楓香を家まで送った二人は、途中まで帰り道が一緒なので二人乗りで自転車に跨る。
河原を通ると、虫の鳴き声とせせらぎの音が響き、かえって静寂を深めた。
「ツナはさ、佐倉のことどう思ってんの?」
その問いかけに少し間を置いてから言葉を紡ぐ。
「……どうって、友達だけど」
「ふーん?」
野球で鍛えられた広い背中にコテンと額を当てる。
「ただの友達、だよ」
その声は自分自身に言い聞かせているように聞こえた。
山本と別れて、家に着いた沢田は自室へ向かうなりスマホと睨めっこをする。
意を決してタップすると、発信画面に切り替わった。それを確認した後に耳へスマホを持っていく。呼び出し音が鳴り、後は繋がるのを待つだけである。
<…もしもし、沢田君?>
先程まで会っていた楓香の声が鼓膜を揺らす。
「あ、はい。沢田です。今いい?」
<うん>
「……その、あー…おやすみ。楓香、ちゃん」
微かに声が震えて、スマホを握る力が強くなった。
「ふ、二人きりの時は呼び捨てして良いって言ってた、から」
彼女が山本と打ち解け合うのを見て胸が苦しくなった。名前だって先に呼びたかった。
自分の知らない楓香が増えていくのは嫌だった。どんどん自分から離れていってしまう気がして、沢田はそれがすごく怖かった。
<…つ、…綱吉君なら、いつでもいいよ>
その上擦った声に肩が跳ねる。
楓香の口から自分の名前が紡がれ、どくんと心臓の音がやけに大きく響いた。
「!…あ、ありがとう」
<…おっ、おやすみ!>
ぶつんと通話が切られる。だらりと下げた手は緊張のせいか汗で湿っていた。
ただ名前を呼ばれただけなのに、心がそわそわして落ち着かない。
沢田はその場でくるくると踊るように回っていると、にちょりと笑う声が耳に入る。
「楽しそうだな、ツナ」
「り、リボーン!いつから見て…!?」
「んなもん最初からに決まってんだろ」
「居たなら声かけろよな!?」
羞恥のあまり真っ赤に熟した林檎と化した沢田は、部屋から飛び出して行った。
絶賛青春を送っている最中の教え子に水を差すのは憚られ、リボーンは一枚の紙を懐に仕舞った。
>例の指輪らしき情報が手に入った。突如、謎の遺跡から発掘された所有者不明の指輪だ。
>調査の為に考古学者の元へ渡る筈だったが、輸送中にマフィアが強奪し現在は行方不明となっている。
沢田家でバーベキューをした日、彼に家まで送ってもらっている時の会話を思い出す。
ランボのバズーカに直撃した楓香はその場で気絶したらしい。動揺した沢田は錯乱状態になり、それが例の発言をした理由だと謝罪された。
(今まで自死なんて考えたこともなかった)
気を失った時に夢を見たかと聞かれた。記憶は朧げだったが、大人の男に指輪泥棒だと誤解されて殺されそうになったと伝えれば、沢田は表情を険しくさせた。
それからというもの楓香の為事なす事、過敏に干渉してくるようになった。
ノートの紙を一枚切ろうとしてカッターを構えると「命だいじに!」と全力で止められ、屋上で昼食を取ろうとすると「早まらないで!」と阻止され、帰り道の橋を渡ろうとすれば「どざえもんんん!」と体当たりされる。
いい加減鬱陶しくなった楓香は「沢田君、ウザイ」と問答無用で一刀両断した。
「もし、どうしようもなく苦しくて悲しくて一人で耐えられなくなった時、真っ先に沢田君に言うよ。助けて、って」
「分かった、絶対に言うって約束して」
「うん」
約束のおまじないをした二人は、絡めた小指を離した。
上り始めた満月が楓香を見下ろす。
スーパーにはゴールデンタイムという半額値引きシールが一斉に貼られる激アツな時間帯がある。
狙っていた惣菜を買い占め、鼻歌を鳴らしながらエコバックを抱えて帰り道を歩いていた。
公園に繋がる並木の合間にぽつぽつと街灯が灯り始める。
信号が青色に変わり横断歩道を渡り終えると、後ろからチリンとベルの音が聞こえた。
振り返ると、そこには爽やかな笑顔があった。
「…や、山本君?」
「おっす、佐倉」
楓香の隣に並ぶように自転車から降りた山本は白い歯を輝かせる。さらっとした黒髪を風に靡かせ、健康的な肌が眩しい。
(背、高いなぁ)
好青年をぽけっと鑑賞していると、「家どこなん?送ってく」とまさかの申し出に慌てて手を振る。
「だ、大丈夫です一人で帰れますので」
「そー言うなって。ツナにはよく送ってもらってるんだろ?」
「なっ、しっ!?(なんで知って!?)」
素っ頓狂な声を上げる楓香に、山本は吹き出す。
「ふはっ、驚き過ぎだろ。ほら行こうぜ」
いつの間にか自然と一緒に帰る流れになったが、これが陽キャの距離感の詰め方かと格の違いを見せ付けられた。
あまり話したことがない一軍男子のオーラに心が折れそうになる。
手と足が同時に出ていたり、何もない所で躓いたりとへんてこっぷりを披露してまった。
「……笑わないで下さい」
顔を逸らした山本は肩を小さく震わせていた。
ぶすくれていると、ひょいっと持っていたエコバッグを取り上げられ、自転車のカゴに乗せられる。
これは好感度が高い、と他人事のように思いながら楓香はお礼を言った。
どうかクラスメイトに遭遇しませんように、と心の中で祈る。山本のファンクラブ会員を敵に回したくないし、何よりも親友の結衣に勘違いされたくない。
なるべく顔を見られないように下を向いていると、隣からふわりと制汗剤の香りがした。
「部活帰りですか?」
「そうだぜ、これからバッセン行こうと思ってたら定休日でさ。仕方ねーから帰ろうとしたら佐倉みっけたって訳」
肩にかけたバットケースに吊るされた野球帽が、歩く度に小さく揺れている。
「もうすぐ試合ですもんね。初戦、結衣と応援しに行きます」
「おっ、サンキュー!佐倉は野球好きなんか?」
「はい、特に高校野球が好き。あの青春臭さがたまらなくて」
「ははっ、おっさんみてーだな。いでっ」
思わず背中を叩いてしまった楓香は悪くないだろう。
クラスの人気者からおっさんと揶揄されてしまい、心に精神的ダメージが突き刺さる。
「……佐倉にこんなこと言うと困らせちまうけど、」
カラカラと規則正しくチェーンが回っていた自転車が止まった。
「ぶっちゃけ、今、自分に自信が持てなくてさ。お前なら打てるとか、そういうのが重くて」
周囲からのプレッシャーに押し潰されそうだ、と彼は弱々しく言葉を吐き捨てる。
あまり話したことがない顔見知りという関係の楓香にぽろりと悩みを吐いたのは、自分に期待する友人や身内に心配かけたくないからなのか。
親しくない他人だからこそ、誰にも言えなかった本音を零せるというものだ。
「…私が今から言うことを否定せずに聞いて下さい」
「……お、おう?」
試合に負けたらどうしようとネガティブ思考に陥ると、それに対して身体や心が合わせようと働く。その結果、本番でも失敗した前提の力しか発揮しない。
ならば、対策としては自己肯定感を爆上げして勝利した時のイメージを積み重ねていけば良いのだ。
「山本君はすごい!なんたって高校一年でレギュラー入りした期待の新星!彼の打席になったら、この人はきっと勝利に導いてくれるってワクワクする!どんなに悪い流れでもカキーンって一発でひっくり返してくれる、無限の可能性を秘めた選手だ!」
「な、なんかすげー目がキラキラしてるのな」
食い気味に語る楓香に圧倒され、山本は首を垂れて後頭部をガシガシと掻く。
「この前の練習試合だってすごい活躍でした。最後の逆転満塁ホームランは熱かった!ここで打席が回ってくるのか、そしてホームラン打つのかって野球マンガの主人公かと思いました!神様を見たことある?って聞かれたら球場で見たって答える自信あります。あと、…うわっ」
ぽすりと、急に視界が半分遮られる。
手で頭上を触ると少し曲がったツバのキャップのようで、恐らく野球帽だろう。
そう思い、隣を見上げるが目深に被せられたのも相まって山本の表情が見えない。
「それ被ってろ。あんま目立ちたくないんだろ?」
「よ、良く分かりましたね」
「赤マルチェックしてっからな」
(なにそれボスに近付く要注意人物リストってこと!?)
こうして山本と一緒に居るのを他の生徒に目撃され、デタラメな噂が流れるのは避けたかった。結衣の好きな人なら尚更だ。
相手のことを良く見て気遣いが出来るのもモテる理由の一つなんだろう。
素直に甘えることにした楓香はツバを少し下げた。
「ありがとな、なんか自信出たわ。最近ちょびっと弱気だったからさ」
端正な顔立ちで人柄も文句なし、運動神経抜群、人望もあって欠点がない完璧な男の子だと思っていた。
そんな山本でも不安になることがある。同じ人間なんだなと分かって少し嬉しかった。
「周りの期待に応えようとか余計なものは背負わないで、全てを手放しましょう。大切なのは自分がどうしたいか、です」
静かに山本は天を仰ぐ。無数の星が輝いている中、一番の煌めきを放つ星があった。
「……俺は、勝ちたい」
新星、か。彼は突き上げた手に力を入れて拳を作る。
「今まで頑張って努力してきた自分を信じてあげて下さい。誰よりもすごいと一番よく分かっているのは自分自身ですから。山本君は絶対勝ちます!」
もう大丈夫だ。その瞳には勝利に焦がれる一番星が宿っていた。
「おー。そうだな……絶対、勝つ!」
お互いに拳を合わせ、勝ち気に微笑んだ。
スポ根アニメのワンシーンみたいなことをした楓香だったが、後から冷静になり頭を抱える。
(私なんかが生意気にも山本君とグータッチとかしてごめんなさい!ファンにコロサレル…!)
沢田には申し訳ないがぽっくり死亡フラグが立ってしまった。
「あのさ、佐倉に興味持っちまった。教えてくれよ、お前のこと」
これは幻聴かと両耳を叩いて目を強く閉じて開くも、彼はのんびりと楓香を眺めているので、どうやらマジと書いて本気らしい。
「俺あんま佐倉と話したことないから、どんな奴なのか興味がある」
「ソウナンデスカ」
楓香の受け答えが面白かったのか、笑顔をきらりと輝かせて「カタコトおもろっ」と野球帽を軽くチョップした。
ズレた帽子を一瞥して、楓香は目深に被り直す。
「なー、なんで敬語なんだよ。俺達タメだろ」
「え、と、人見知りなので」
少し距離を取る楓香だったが、そんなことはお構いなしに彼はグイグイと来る。切実に止めてほしい。
「下の名前呼んでいいか?」
「殺されるのでやめて下さい」
「前から思ってたけど、楓香って名前可愛いよな」
「私を確実に殺ろうとしてます?」
楓香は真顔で尋ねてしまった。
(前からって何?以前から私の名前を可愛いと思ってたってこと!?)
人たらしは恐ろしい。山本は何の底意もなく言っているが、これ程のイケメンにそんな思わせぶりな発言をされたら勘違いしてしまうだろう。
「なぁ、楓香って呼ぶぜ」
「…せめて二人きりの時だけにして下さい。命がいくつあっても足りないので」
「おう、よく分かんねーけど分かった!んじゃ早速、」
帽子のツバの下に隠された顔を覗き込むようにして、山本は前のめりになる。
「楓香」
目が合って、視線が絡む。
思わず吸い込まれそうな気がした。
「みっ」
「み?」
「見詰め合うと素直にお喋り出来ない」
イケメンは鑑賞するに限る。致死量の触れ合いに楓香は涙目になった。
(もう距離感バグりすぎ一軍男子怖い心臓に悪い殺しにきてる)
ツボに入った山本は自転車のハンドルに寄りかかり、ひーひーと息を切らして笑っていた。
「やっぱり俺の勘が当たってた」
「その勘ズレてますね担任のカツラよりズレてますよ」
「いや当たってた」
「どこがやねん」
「あははっ、やっぱりおもしれー」
(おもしれー女、認定された!?)
もしかしてこのフレッシュ王子様は、冴えないモブ女を弄んで…と一瞬考えるが山本に限ってそれはない。
これは単純に楓香の挙動不審な反応がお気に召した、と言うべきか。
そんなまじまじと見詰められると、そうじゃないと分かっていても誰だって照れてしまうだろう。
それを隠すように楓香は野球帽をもっと深く被った。
「買い被りすぎです。私なんて気に掛けてもらえるような人間じゃないです」
「それはこっちの台詞だっつーの。俺なんか過大評価の塊だし」
ぽり、と頬を掻いて呟かれた言葉の意味が分からず、首を捻った。
いやいやと手を横に振ると、山本も同じように真似をした。二人していやいやと押し問答の末に、一呼吸を置いてから「それ本気で言ってます?」と念押しに問う。
「マジマジ」
「山本君はもっと評価されるべき人間です、国宝の自覚を持って下さい」
「ははっ、どんな自覚だよ」
意外というか、山本は話してみるとこんな感じなんだと楓香は驚く。
(なんか思っていたよりも話しやすい、かも。イケメンだからって身構え過ぎてたのかな)
「楓香は自分のこと過小評価しすぎじゃね」
「それはない」
「すっげー即答」
今更だが、クラスの人気者と普通に会話しているのが未だ信じられず、楓香は本当にこれは現実かと頬を抓る。
「どうした?」
「夢だけど夢じゃなかった」
「俺はトトロか」
そこでお互いに目を合わせ、二人は同時に吹き出した。
人見知りしていた楓香は徐々に慣れて、山本との会話を楽しむ余裕が出来た頃。
曲がり角を曲がった先にある光景に、二人は緊張の色が走る。
(さ、沢田君!?)
たくさんの不良に囲まれた沢田の後ろ姿がそこにあった。彼は気丈にも泣き出すことなく恐怖に耐えている。
警察に通報しようとした楓香の手を止め、山本が首を横に振る。
「心配すんな。まぁ、見とけって」
「…でも」
確かに沢田は意外と体が頑丈で反射神経が鋭く、格闘家のように俊敏な動きをしていたが、それでも一般の高校生だ。
不良に痛めつけられる彼を想像してしまい、恐怖で顔が引き攣った。
「ツナは強い男だぞ、俺よりもな」
ぽんと野球帽の上から撫でられる。大丈夫だというような、安心させる優しい笑みが、楓香の冷えた心を解かしていく。
お金をせびられていることから沢田はカツアゲに遭っているらしい。脅して金銭を奪おうとする不良のお家芸だ。
「ほら、さっさと財布よこせよクソガキ」
「すみません、財布忘れてて…」
「嘘つけや!金額次第でボコらないでやるよ」
「ヒィッ!そ、そんなぁ…」
次第に沢田との距離を詰めていく不良達。それはまるで狼の群れに取り残された仔羊だ。
自分よりも体格の劣る沢田を脅し、不適な笑みを浮かべる不良達は自分を強者と思い上がっている。
しかし、その傲慢な態度と思い上がりはそう長く続くことはなかった。
「さっさと渡さねぇお前が悪いんだからな。オラァ!」
「うわぁ!」
不良が渾身の一撃を振るうも、沢田は軽々と避けた。
躱されたことでバランスを崩し、不良が間抜けに転ぶ。
「…やるじゃねぇかボウズ。次は本気でいくぜ」
「や、やめて下さいーーッ!」
ちんちくりんな学生に初撃をあっさり避けられて腹が立ったのか、真っ赤な顔で不良が再度拳を振るった。
手の動きから狙いが頭の辺りだと察して、沢田は身を屈めて回避する。
「チッ…まぐれも大概にしろよ」
更にプライドを傷付けられた不良は怒り任せに殴りかかった。
その単調で大振りな打撃を沢田は悲鳴を上げながらも、軽やかに難なく躱し続ける。
「クソッ!お前ら、やっちまえ!」
なりふり構っていられなくなった不良達は一斉に沢田へ殴りかかった。
多勢に無勢という不利な状況だが、それでもその拳は彼へと届くことはない。
数分も経過せずに不良達の体力が尽き、呼吸が乱れ打撃にキレや威力が無くなった。
「…な、何なんだよ…お前」
何度攻撃しても当たらない。得体の知れない怪物と対峙した気分になり、不良達は戦慄した。
沢田は超直感でひたすら攻撃を避けただけだが、彼らから恐怖と怪訝な視線を浴びてきょとんとする。
「今日は、この辺で勘弁してやらぁ」
「あ、ありがとうございました?」
すっかり戦意喪失した不良達は、蜘蛛の子を散らすように逃げ出していった。
どうだ、と山本が自信満々に沢田を見るように促すから、楓香は肩の力を抜く。
怪我一つなくケロッとした沢田がくるりと振り返った。
「よぉ、ツナ」
「あれ?山本と…佐倉さん!?」
ずっと張り詰めていた緊張の糸が切れて、膝が崩れ落ちる。
「ちょっ、大丈夫?」
「うん平気。ちょっと気が抜けただけ。膝、爆笑しちゃってる」
「ははっ、これは暫く筋肉痛かー?」
それは勘弁してほしい。楓香はストレッチや筋トレでも始めてみようか悩んだ。
今までにない組み合わせの二人に、沢田が次々に質問攻めをする。
これまでの経緯を山本が説明すると、そっかと素っ気なく返すので、楓香が間を取り持つように話題を変えた。
「沢田君って喧嘩強いんだね。驚いた」
「そんなことないよ、ただ躱してただけだから。山本の方が強いし」
「何言ってんだよツナ。お前が一番強いだろ」
カラカラと自転車の車輪が音を奏でる。それに合わせて、さわさわと木々の葉が揺れた。そよぐ風が三人の髪を揺らす。
「ツナにはタメなのに俺には敬語かよー」
「沢田君は別枠です」
「ちぇっ。でも呼び捨てで呼んでもいいんだよな」
「それは二人きりの時だけですから」
「あー、そうだっけ?」
「私の命が掛かっているので忘れないで下さい!」
さして強い関心を示すでもなく、浮かない顔で二人の話に耳を傾けていた沢田が足を止める。
「その野球帽どうしたの」
押し黙っていた沢田がチラッと楓香の頭に被ってある帽子を一瞥した。
「山本君が気遣って貸してくれたの。ほら、私って目立つのが苦手だから」
「似合ってるぜ。なぁツナ」
「……」
口を閉ざす彼に気付き、楓香と山本が顔を見合わせて首を傾げた。
怪我をした訳ではないのに、何故か沢田の顔は傷付いたような表情だった。
「佐倉さんの顔がよく見えないから、俺は被ってほしくない…かな」
そう言って彼はまた歩き始める。
その後ろ姿を呆然と見ていた楓香は、無言で頭から野球帽を取ると山本のバットケースに吊り下げた。
「ちょっと歩くの早いよ沢田君、待ってってば」
「待たない」
「せっかち」
「うるさい」
沢田の隣に並んだ楓香の耳は熱が集まり赤くなっていた。
二人の様子を見守っていた山本は優しげに目を細める。
楓香を家まで送った二人は、途中まで帰り道が一緒なので二人乗りで自転車に跨る。
河原を通ると、虫の鳴き声とせせらぎの音が響き、かえって静寂を深めた。
「ツナはさ、佐倉のことどう思ってんの?」
その問いかけに少し間を置いてから言葉を紡ぐ。
「……どうって、友達だけど」
「ふーん?」
野球で鍛えられた広い背中にコテンと額を当てる。
「ただの友達、だよ」
その声は自分自身に言い聞かせているように聞こえた。
山本と別れて、家に着いた沢田は自室へ向かうなりスマホと睨めっこをする。
意を決してタップすると、発信画面に切り替わった。それを確認した後に耳へスマホを持っていく。呼び出し音が鳴り、後は繋がるのを待つだけである。
<…もしもし、沢田君?>
先程まで会っていた楓香の声が鼓膜を揺らす。
「あ、はい。沢田です。今いい?」
<うん>
「……その、あー…おやすみ。楓香、ちゃん」
微かに声が震えて、スマホを握る力が強くなった。
「ふ、二人きりの時は呼び捨てして良いって言ってた、から」
彼女が山本と打ち解け合うのを見て胸が苦しくなった。名前だって先に呼びたかった。
自分の知らない楓香が増えていくのは嫌だった。どんどん自分から離れていってしまう気がして、沢田はそれがすごく怖かった。
<…つ、…綱吉君なら、いつでもいいよ>
その上擦った声に肩が跳ねる。
楓香の口から自分の名前が紡がれ、どくんと心臓の音がやけに大きく響いた。
「!…あ、ありがとう」
<…おっ、おやすみ!>
ぶつんと通話が切られる。だらりと下げた手は緊張のせいか汗で湿っていた。
ただ名前を呼ばれただけなのに、心がそわそわして落ち着かない。
沢田はその場でくるくると踊るように回っていると、にちょりと笑う声が耳に入る。
「楽しそうだな、ツナ」
「り、リボーン!いつから見て…!?」
「んなもん最初からに決まってんだろ」
「居たなら声かけろよな!?」
羞恥のあまり真っ赤に熟した林檎と化した沢田は、部屋から飛び出して行った。
絶賛青春を送っている最中の教え子に水を差すのは憚られ、リボーンは一枚の紙を懐に仕舞った。
>例の指輪らしき情報が手に入った。突如、謎の遺跡から発掘された所有者不明の指輪だ。
>調査の為に考古学者の元へ渡る筈だったが、輸送中にマフィアが強奪し現在は行方不明となっている。