泡沫トワイライト
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毎日同じ時間を過ごしていると、相手のふとした変化に気付きやすい。
会って早々、包帯が巻かれた指を目にした結衣は心配そうに尋ねる。
「その指の怪我、何があったの?」
「コテの練習してたらヘマしちゃって」
その時の記憶が頭に蘇った楓香は痛ましそうに顔を歪めた。
「今までそんな興味なかったのに珍しいじゃん。どういう心境の変化よ?」
「…何となく」
ぷいと顔を背けた後、楓香はスタスタと早歩きで登校していく。もっと深掘りをしたい結衣は追いかけて横に並んだ。
「何か隠してる?」
「隠してない」
「もしかして……ダメツナ?」
大袈裟に肩を揺らした楓香は、思わず足を止めてしまう。
「ははーん、ダメツナかぁ」
咄嗟に否定するも、あからさまな反応をしてしまったので説得力がない。全部吐きな、と凄まれて楓香はこれまでの経緯を説明した。
「へぇー、ふーん、なるほど?」
「言いたいことあるならはっきり言って」
意味深な視線に晒され、その居心地の悪さに語尾が強くなってしまう。
「沢田とたまーにアイコンタクト取り合ってるの知ってたからさ。なんか納得しちゃって」
「みっ、見てたの?」
「楓香と話してる時、アイツから視線感じることが多くてね。嫌でも気付くっつーの」
一緒に通話するようになってから、二人にしか分からない共通の話題が増えていった。それを学校で意思疎通して楽しんでいるのだ。例えば、今日の担任はカツラが前進or後退しているかなど。
「沢田と何かあったんだろうなとは予想してたけど、まさかデートする仲にまで進展してるとは」
「デートじゃないから!」
「はいはい」
「友達とイベントに行くだけ!」
「はーいはい」
どんなに主張しても軽く聞き流して適当に返事をされるので、楓香は地団駄を踏んだ。こういう揶揄われ方には慣れていない。
「それで、服は新調したの?」
「…ううん。グッズとかいっぱい買う予定だから、余計な出費は抑えたくて」
「楓香は大人しめの服ばっかで男ウケしないでしょ。仕方ない、私の服貸してあげる」
「い、いいの!?ありがとう!」
喜びのあまり、結衣の両手を握り締める。それを上下にぶんぶんと揺さぶれば「腕がもげる」とクレームが入った。
「ねぇ、やっぱりデートじゃん」
「断じて違う!」
そりゃあ、着ていく服に迷ったり、アクセサリーは何をつけようだとか、最低限のメイク用品を揃えてみたりしたけれども。
それはデートを意識した行動ではなく、女子としての身だしなみに気を遣ったまで。
「当日に芋女が来たら沢田君が可哀想じゃん。だから垢抜けようとしてるだけ。それだけなの」
「ほんと可愛いわね、アンタって子は」
「あ、ありがとう?」
天を仰いた結衣は、眉間を押さえていた。
姿見の中の自分を、角度を変えて何度も確認する。
結衣から服を貸してもらい、白を基調としたオープンショルダーのトップスとデニム生地のホットパンツ、ムサシをイメージしたスカイブルーのイヤリングという爽やかなコーディネートにした。
ゆるふわに巻いた髪を水色のリボンで結び、ハーフアップに仕上げる。コテの練習をした成果が笑顔となって現れている。
「財布、イベントのチケット、メイク直し、ティッシュにハンカチ、…沢田君のことだから一応、絆創膏持って行こう。他に忘れ物はないかな?」
ショルダーバッグに荷物を詰め込むと、手鏡を覗き込んだ。
普段よりもバサバサとした睫毛を震わせ、コーラルピンクのリップを塗る。ちゅるんと濡れた唇は、下品に見えないよう軽くティッシュオフした。
「変じゃないかな、ちゃんと脱芋したよね?」
イマドキのJKを目指してメイクの勉強をした楓香は、自分の写真を撮って親友に送った。採点してもらった結果、合格と太鼓判を押してくれた。
待ち合わせ場所は、並盛駅の改札口前。約束の時間まで少し早いが、楓香は家を出た。
切符を購入し、近くのベンチに腰を下ろす。
(……なんか見られてる?)
気のせいだろうか、やたらと周囲から視線が集まっているような。慌てて手鏡で自分の顔を確認するが、特に変わったことはない。
落ち着かなくて辺りをキョロキョロと見渡していると、馴染みのある蜂蜜色が駅にやって来た。
(私服姿、ちゃんと見たのは初めてかも。…なんか沢田君らしいなぁ)
オレンジ色の薄手のパーカーを着た彼は切符売り場で切符を購入すると、楓香が座っているベンチから一人分空けて座った。
(………あれ?)
何故か話しかけて来ない彼に戸惑う。
「あの…沢田君、こんにちは?」
ぽけっとした様子で首を傾げた沢田の目が、みるみるうちに大きく開かれる。
「えっ、な、なっ、佐倉さん!?」
「うん、佐倉です」
その反応から察するに、別人だと思われていたらしい。
「メイクしてみたけど、そんなに顔違う?」
「…えっ、と…その、」
ぱくぱくと餌を欲しがる金魚のように口を動かすも、沢田は言葉を紡げないでいた。
「沢田君のその私服、似合ってるね。…あっ、電車到着しそう。もう行こっか」
「えっ、あ、ありがとう…うん」
改札口に切符を通し、一番線ホームに足を運ぶ。並盛が発駅なので車両に先客は乗って居らず、無事シートに座れた。
ガタンゴトンと揺られ、見慣れた景色から見知らぬ景色へと変わっていく。
「会場までの道案内は任せて。下調べしておいたから」
「あっ、何もそういう準備してなかったな俺…申し訳ないけど、ありがとう佐倉さん!頼もしいや」
「ううん、私から誘ったんだから気にしないで」
最初はソワソワしていた沢田だったが、普通に会話が成立するくらいには落ち着いたらしい。
「…実はさ、あんまり眠れなかったんだ。遠足前の子供かって自分でも思うよ」
苦笑いを作った沢田は頭を掻く。
「私もそうだったから同じだね」
「えっ佐倉さんもなの?」
「眠れなくてジュゲム唱えてたもん」
「それ逆に寝れないよね!?」
いつものように時々笑い声を交えて雑談に花を咲かす。沢田と話していると時間を忘れてしまうのは、彼が話し上手だからだろうか。
あっという間に時が流れ、目的の駅に着いた。
「シャトルバス乗り場へ行く前に、トイレ済ませちゃう?」
「そうだね、会場のトイレ混んでそうだし」
二人は駅のトイレで一旦別れた。
用を済まして手を洗った後、鏡に映る自分を見詰める。まだ涼しい時期だから、目立った化粧崩れは起きてない。
(沢田君、何も言ってくれなかったな)
それなりに頑張って着飾った。普段よりも女の子らしく変身した、けど。
「…別に期待なんかしてない」
恋人でもない、ただの友達にそれを求めるなんて、烏滸がましいにも程がある。
自分の頬を軽く叩き、気を取り直した楓香は彼の元へ向かった。
既にトイレから出ていた沢田が楓香に気付く。お待たせ、と声をかけるが、その瞳はぼうっと此方を見て立ち尽くすだけで返事はない。
「…かっ、」
「か?」
心あらずな沢田が何かを口走るが、寸のところでハッと我に返る。
「な、何でもない!」
宙に彷徨わせた視線は、いつまでも楓香を捉えることはなくて。
「沢田君、今日変じゃない?」
「それは佐倉さんの方が…!」
バッと勢い良く顔を上げた沢田が言い淀む。
「あーっ、私やっぱり変だった!?なんか妙に見られてる感じがして。どこが変かな?」
「だから、か、かわ、」
「川?」
支離滅裂な言葉を何とか解読しようとするがお手上げだ。
決心した素振りで両手を握り締めた沢田が口を開く。
「………うー、あー、その…佐倉さんが…かわいくて、だから、だよ」
「…………そ、そっか、うん、アリガト」
またカタコトになってしまったが、沢田はそれにツッコミを入れず、ただ顔を伏せて地面をじっと見ている。
(駄目だ、心臓バクバクしてる)
どうか、この加速して脈打つ鼓動の音が彼に聞こえませんように。
直通のバスに乗車すること数十分、会場に到着した楓香達はゲートをくぐり、入場パスとパンフレットをもらった。
「午後一時にコラボカフェ予約入れてるから、それまで展示会ブース回る?」
「予約までしてくれてるの!?本当に頭が上がりません、佐倉さんありがとう。えーっと、展示会ブースは…あっちのエリアみたいだね」
祝日にイベントが開催されたので、そこらじゅう人でひしめき合っていた。
地図を見比べながら前を歩く沢田の背中を追っていると、人の流れを無視した数人が横から割り込んで来て、楓香は足を止めてしまう。
駄目、置いて行かないで。小さくなっていく背中へ手を伸ばした。
「さ、沢田君、待って!」
その声が届いた彼は、地図から顔を上げて振り返る。
「…あっ、勝手に行っちゃってごめん!」
楓香の元へ戻った沢田は何度も謝り倒し、今度は肩を並べて歩き出した。
群衆の合間を縫って進むので、必然的に距離が近くなる。
すると偶然、互いの手が触れた。
それは指先を掠めただけのごく軽い触れ合いだったが、二人は一瞬会話が止まる。
沢田が何かを言おうとするが、
「…うわっ」
また横から強引に強行突破しようとする人達が通り過ぎる。それをジト目で見た沢田は小さく息を吐いた。
そして、緊張した面持ちで手を差し出す。
「もし良かったら…………はぐれないように手つなぎますか」
最後の方は蚊の鳴く声になっていたが、楓香にはしっかりと聞こえていた。
「えっ、あっ、うん。そうだね迷子防止に!」
その手を控えめに握ると、沢田は顔を赤くして俯いてしまった。そんな彼を見ながら、徐々に自分の頬も熱が帯びてくるのを感じた。
「着きました」
「うん」
「取り敢えず端から見ますか」
「うん」
展示会ブースには様々なゲーム会社が出展している。
それを見て回る余裕など今の楓香にはない。だって全意識が繋がれた手へと集中しているのだから。
(知らない人の手みたい)
握った手は思ったよりも大きくて骨ばっていた。こんな仔犬の顔をしていても、立派な男の子なんだなと思わされる。
何となく余所余所しい空気を打ち消したのは、沢田が好きだという音楽ゲーム対戦だった。かなり良い勝負をして盛り上がり、勝利したのは沢田で、負けて悔しかった楓香はリベンジマッチを求めるも敗北してしまう。
「なんであんな鬼みたいな譜面で的確にノーツ打てるの?第三の目でも付いてるの?」
「俺、邪眼持ちじゃないから!慣れたら佐倉さんも出来るって」
「慣れる前に私の目がムスカになるわ」
「動体視力トレーニングすればいけるよ」
「沢田君は鍛えてるの?」
「う、うん。恐ろしいトレーナーが居るんだ」
「何それ、夢はプロゲーマー?」
「ははは…それならどれだけ良いことか」
楓香が話しかけるまで、沢田はぶつぶつと嘆きながら眉間を揉んでいた。
いろんな最新作のゲームを先行プレイしてみたりと遊び尽くしたが、お目当てのVRゲーム体験イベントは人気のあまり整理券配布となった。受け取った番号の順番が来るまでに数時間は待たなければいけない。その間にやりたいことを全て済ますことにした。
「そろそろ予約してた時間になるからカフェに行こっか」
「もうそんな時間なんだ。早いなぁ」
ちなみに二人はブースを回った時の記憶はあまりなく、握った手の温度が熱かったことしか覚えていなかったりする。
FWとコラボした店内はゲームの世界観を忠実に再現していた。内装や店員の服装に家具、あらゆる備品がゲームで見たことがあるものばかりだ。
「わぁ~、FWの世界にトリップしたみたい」
「ここが天国か…」
「ちょっ、まだ逝かないで!」
聴き馴染みのあるBGMが流れる中、楓香達はメニュー表に目を滑らせる。
「一つの注文で一枚のコースターがランダムでプレゼントされる仕様かぁ」
「推しを自引き出来なかったら辛すぎる…」
楓香はオムライスとアイスティーを、沢田はチキンカレーとメロンソーダーを注文した。
料理が運ばれるまでの間に、指名したキャストと一緒に写真撮影が出来るサービスが行われている。ムサシとコジロウをリクエストして撮影ブースに行くと、キャラクターの仮装をしたキャスト達が出迎えてくれた。
「!…り、……ディッ!?」
突然声を荒らげた沢田は片手で口元を押さえ、わなわなと震えながら驚愕の表情を浮かべている。
そんな彼に同調した楓香は頷いた。沢田が驚く気持ちは良く分かる。
キャストのクオリティーがすごく高いのだ。まるでゲームの世界からやって来た本人としか思えない。
「やぁ、ボクの可愛いキティ。指名してくれて感謝するよ」
「……はわわ…ムサシ様、かっこいい♡」
目の前に尊き推しが降臨している。楓香の目はハートに輝き、心の底から感激した。アニメーションのようにグルグルと回転しながら恍惚の世界に身を投じてしまう勢いだ。
「ちょっ、佐倉さんしっかりして!この人達はただのコスプレおじさんだよ!?」
―――チャキッ
「誰がおじさんだって?口には気を付けろよボウズ」
今まで黙っていたもう一人のキャストが、目にも留まらぬ動きで愛銃を沢田に突き付ける。
「こんなところで何やってんだよリボーンッ、それにディーノさんまで!」
「どうしたの沢田君、どこをどう見てもコジロウとムサシだけど。リボーン君がこんな所にいる訳ないじゃん」
「(…ガーン!思いっきりリボーンなのに、なんで気付かないんだ!?)」
つい楓香は口を挟んでしまったが、ただならぬ様子の沢田に何事かと成り行きを見守ることにした。
「俺はコジロウだ。あんまふざけたこと言ってると風穴開けちまうぜ」
「邪魔すんなって言ったよな?早く帰ってくれ!」
「まぁまぁ落ち着けよツナ、取り敢えず写真撮ろうぜ。キティ、おいで」
「はぁい♡」
推しに手招きされた楓香は、その腕の中へと吸い込まれていく。きゅるんと上目遣いでムサシを見詰めた。
「ディーノさん!」
「ノンノン、今のボクはムサシさ」
「……もしかして」
沢田の超直感が働く。
おかしい、部下が居ないとへなちょこになってしまうディーノがまともに動いている。
まさか、と客席を振り返った沢田は唖然としてしまった。
「(や、やっぱり居た!ロマーリオさんだ!)」
沢田と目が合った黒服の男は、人の気も知らないで飄々と手を振る。眼鏡をかけた髭面のダンディーな大人は、沢田が知る中で彼しかいない。
注意深く周りを見ると、ディーノの腹心の部下達がたくさん居るではないか。
「(どうせリボーンに付き合わされてるんだろうけど…)」
なんだこの茶番。怒りのやり場に困った沢田は内心で歯噛みをする。余計な邪魔が入らないよう、念入りに言っておいたにも関わらずこの有様だ。
「よしよし、イイコ」
「しゅき~♡♡」
「くっつきすぎだって!ほら、離れる!」
ディーノに力なくしな垂れる楓香が気に入らず、沢田は眉間を微かに曇らせた。そんな生徒の態度を観察していたリボーンは、ニヒルな笑みを浮かべる。
「(その顔が見れただけでも良しとしてやるか)」
記念撮影で撮った写真を大切に鞄へ入れた楓香は、口をへの字にした沢田なんて気付くこともなく、目の前のオムライスを一口頬張った。
特典のコースターは二人の推しが出なかったが、夢のひとときを過ごせたので結果的に大満足である。
「次はグッズ買いに行こう!」
「………うん」
フキゲン、と顔にデカデカと書いた沢田はパーカーのポケットに両手を突っ込んで歩き出す。
物販ブースには様々なグッズが陳列されていた。カゴいっぱいに入れた楓香と少しだけ入ったカゴを持つ沢田は会計の列に並ぶ。
明らかに口数が減った彼に、どうしたものかと困り果てていた楓香は直接問いかけてみることにした。
「…沢田君、私なにか気に触るようなことしちゃったかな」
「ううん、佐倉さんは何も悪くないよ。なんか自分でも不思議なんだけど、モヤモヤしちゃって…」
「モヤモヤの理由は分からないの?」
「うーん。…こっちを見てくれなかった、余所見してほしくない、俺を見ててよ、とかいろんな感情がごっちゃになってる感じ?」
沢田自身も自分が何を言っているのか理解出来ていないのだろう。難解なパズルを解くように、一つずつピースに当て嵌めていく。
「それは誰に対して?」
「………」
「沢田君?おーい」
反応がないので顔の前に手を小さく振れば、かちりと目が合う。
「佐倉さんのことだよ」
「えっ」
「友達の俺を放っておいてムサシと盛り上がってたよね。すごく楽しそうだった」
ふん、と顔を背けた沢田は素っ気なく言い放つ。
「あんな顔、初めて見たし。いくら推しだからってチョロすぎるんじゃないの。佐倉さんは女の子なんだから、赤の他人にベタベタと好き勝手に触らせちゃ駄目だよ。そういうの良くないと思う」
いじける沢田が珍しくて呆気に取られていた楓香は、ちょんとパーカーの袖を引っ張った。
「さ、沢田君」
うん、と彼はぶっきらぼうに返す。
「もしかして―――拗ねてる?」
「!」
ギクリと肩を震わせた、沢田の耳がほんのりと赤く染まっていく。喉の奥から唸り声を絞り出して「そうだよ悪い?」と、やけくそに開き直った。
「か、かわいい」
「えっ…どこが!?」
「ぜんぶ」
どさりとカゴを床に置き、両手で顔を覆った楓香はその場にしゃがみ込む。
「これは、てーてー」
「てーてー?」
「とうとい」
「だからどこが!?」
沢田の一連の流れは、チラチラと仔犬が此方の様子を伺いながら、ぷいっとしっぽを向けて不機嫌アピールをしているような、楓香の目にはそう映っていたのだ。
「うんうん、私と沢田君はズッ友だよ」
「その生暖かい目やめて!」
二人の会話を盗み聞きしていた周囲の人達も、同じような視線を沢田へ送っていた。
楓香は大量のグッズが入ったショッパーをコインロッカーに預け、沢田と共にVRゲーム体験のブースへやって来た。
スタッフから渡されたゴーグルを装着してみると、少し重たくて圧迫感がある。
(これ、メイクや髪型とか崩れないか心配だな…)
そんな余計なことを考えていた楓香を嘲笑うかの如く、これまで見えていた景色が一変する。
ゆるやかな風が木の葉を揺らし、空から鴉の鳴き声が響く。見上げると、鬱蒼と天を覆う木々の隙間から、月の光が漏れていた。
ランダムでVRの場面が変わる仕様だが、一番避けたかったステージが選ばれてしまったらしい。
「これって、もしかして…」
沢田も気付いたらしく、固唾を飲む。
コントローラーのリモコンを動かせば、ゲームの世界に連動して懐中電灯を操作出来る。適当に動かしていると、照らした先の草木が変に揺れた。
すると、視界から黒い塊が横切った。
「来る…!」
飛び出してきたナニカは、楓香に噛み付かんと大きく口を開ける。
「ひっ」
「後ろに下がって」
楓香を背中に押しやった沢田は表情を一切変えず、飛びかかる屍人を身軽に躱して距離を取る。
懲りずにまた襲おうとするので強烈な右ストレートを放ち、枯れ木へと殴り飛ばした。
タイミングを見計らっていた楓香はコントローラーを屍人に照準を合わせ、ヘッドショットをお見舞いする。
ピロリン!と軽快な音が鳴り、今度こそ屍人が消滅した。
「ナイス、佐倉さん!」
「いやいや、沢田君の咄嗟のフォローがなきゃ噛まれてた。ありがとう!」
ゾンビ・デスゲームの仮想空間を体験することになった二人はその後も順調に屍人を倒していく。沢田が接近戦で敵を引き付け、楓香が援護射撃をするという見事なコンビネーションでハイスコアを叩き出したのだった。
「おめでとうございます!本日の最高記録更新です!」
スタッフや周囲から拍手をされ、むず痒い思いをしながら楓香はゴーグルを外した。
今まで薄暗かった視界が急に明るくなったせいで、くらりと立ちくらみがして前へ倒れ込む。
(ぶつかる…!)
来るだろう衝撃に備えて身構える。が、いくら待っても痛みは無い。
その代わりに不思議な感触が走る。
ふに、と暖かい何かが、唇に触れたのだ。
「……?」
薄っすらと瞼を開ける。
睫毛が触れ合いそうな距離で、凪いだ橙の双眸が視界に飛び込んできた。
二人は視線をどちらも逸らすことなく、じっと見詰め合う。
転倒した楓香は沢田を巻き込み、そのまま倒れ込んでしまったのだ。覆い被さるように彼の上へ乗り上げていた。
「ご、ごめん」
頭が真っ白になりながらも状況を理解した楓香はすぐに沢田の上からどいて、ぺたんと床にへたり込む。
「えっと、……怪我はない?」
「うん。沢田君は頭とか打ってない?大丈夫?」
「俺は、平気」
「そっか。なら良かった」
しん、と沈黙が流れる。
その時、二人の他の誰かが咳払いをした。そこにはスタッフや野次馬が気まずそうな表情で立ち尽くしていた。
一部始終をしっかり見られていたことに、顔から火が出そうになった楓香は慌てて立ち上がる。
「「す、すみませんでした!」」
勢い良く頭を下げた二人は、逃げるようにブースから出て行った。
ガタンゴトン。
帰りの電車は帰宅ラッシュと重なり、すし詰め状態だった。小柄な楓香にとって、その圧迫感は呼吸するのも一苦労な程に息苦しい。
駅に着けば出ようとする人の波に押され、気付くとドア横の壁前に辿り着いていた。
「…あ、」
楓香の前に立った沢田は壁に両手をつき、拳一つ分の距離を空けて腕の中へ囲う。人混みに押し潰されないよう庇ってくれた。
「…ありがとう」
「あともう少しの辛抱だから」
「うん」
体幹を鍛えていないと今の状態を維持することは難しいだろうに、人の流れが押し寄せても沢田の身体はびくともしなかった。その盤石さに頼もしさを覚える一方、意外だなと思う。
動体視力のトレーニングを受けており、VRゲームでは見事な立ち振る舞いをしていた。まるで戦い慣れた格闘家だった。
(沢田君って、知れば知るほど奥が深い)
目の前にある沢田の喉仏が上下に動く。
自分より頭ひとつ分高いんだなと視線を上へ這わせれば、唇に辿り着いた。直後、脳裏にあの瞬間が過ってしまい、食い入るように見上げる。
(あれって、…つまり、そういうことだよね)
事故とは言え、楓香にとって初めてのキスだった。
まさか少女漫画のような出来事が自分に起こるなんて。嫌悪感はなく、それどころかあの感触を思い出すと心臓の鼓動が速くなる。
友達同士なのに高揚している自分に戸惑った。まして沢田には想い人がいるのに。彼からすると突然ひったくりに遭ったようなものだ。
罪悪感に駆られていると、控えめに名前を呼ばれた。目を逸らしていた沢田がちらりと楓香を見遣る。
「………見過ぎ」
ぼそりと囁かれた言葉に、ぎくっと肩が跳ねる。
「えっ、あ、ごっ、ごめん!」
唇を凝視していたことに気付かれていた。どう弁明しようか悩みに悩んだ挙句、真っ先に謝罪を口にした。
そして、その勢いに任せて余計なことを口走る。
「だって、初めてだったから!」
言ってすぐに後悔する。もし過去に戻れるならいつ?と聞かれたら間違いなく五秒前と答えるだろう。
やらかした。じわじわと全身が熱を帯びて熱くなり、沢田の顔が見れなくて楓香は目をぎゅっと閉じた。
(……何言ってんの馬鹿!沢田君はただの友達なのに、変に意識してどうするの!)
カーブに差し掛かり、車体が少し傾く。
重力には逆らえず、ぽすっと沢田の胸板に頭を預けた。
楓香の耳元で空色のイヤリングが揺れる。
そして、沢田の胸からドクンドクンと脈が速くなる鼓動が聞こえた。
「……お、俺も初めてだから」
「………うん」
「あんま見ないで」
「…ご、ごめん」
言葉尻がか細くなりながらも謝る。
見てしまった、可哀想なくらいに顔を真っ赤に染めた沢田の顔を。
自分と同じように意識している。そう思うと熱が伝染して楓香も頬が赤くなった。
「…そ、そのイヤリングってムサシをイメージしたの?」
「う、うん。よく分かったね」
「似合ってる」
「アリガト」
早く駅に着けば良いのにと思う半分、まだこのままでと願う自分が居てどうにかなりそうだ。
沢田に帰り道を送ってもらっていると、パンパンに膨れたショッパーをぶら下げていた腕が軽くなる。
代わりに持とうとしてくれるが、流石にこれ以上は迷惑かけられないと断った。
「重たいでしょ、私は大丈夫だから良いよ」
「だからこそ、だよ。重たいんだから無理しないで」
「……沢田君って本当に」
「どうしたの?」
「そういうところ、ずるい」
「えー?」
こんなにも優しい友達に、果たして自分はそれに見合うものを返せているのだろうか。
貰ってばかりで与えられるものがない空っぽな自分が嫌いだった。
彼の為に出来ることを考えていると、沢田が恐る恐る呟く。
「…そ、そういえば、初めてじゃなかった」
沢田は唇を押さえて、ぷるぷると身体を震わせる。
「えっ、そうなの?」
「男とはノーカンだよね!?」
衝撃のあまり宇宙を背負った楓香は足を止めた。
「(ガーン!シャマルが初キスの相手とか黒歴史にも程がある!)」
色濃い中学時代を思い出した沢田は頭を掻きむしる。
もし過去に戻れるならいつ?と聞かれたら真っ先に答えるだろう、変態保険医と事故チューした地獄の日、と。
(………沢田君、ソッチもいけるの!?)
両刀使いのツナ、と誤解をした楓香は己の価値観をアップデートするのであった。
会って早々、包帯が巻かれた指を目にした結衣は心配そうに尋ねる。
「その指の怪我、何があったの?」
「コテの練習してたらヘマしちゃって」
その時の記憶が頭に蘇った楓香は痛ましそうに顔を歪めた。
「今までそんな興味なかったのに珍しいじゃん。どういう心境の変化よ?」
「…何となく」
ぷいと顔を背けた後、楓香はスタスタと早歩きで登校していく。もっと深掘りをしたい結衣は追いかけて横に並んだ。
「何か隠してる?」
「隠してない」
「もしかして……ダメツナ?」
大袈裟に肩を揺らした楓香は、思わず足を止めてしまう。
「ははーん、ダメツナかぁ」
咄嗟に否定するも、あからさまな反応をしてしまったので説得力がない。全部吐きな、と凄まれて楓香はこれまでの経緯を説明した。
「へぇー、ふーん、なるほど?」
「言いたいことあるならはっきり言って」
意味深な視線に晒され、その居心地の悪さに語尾が強くなってしまう。
「沢田とたまーにアイコンタクト取り合ってるの知ってたからさ。なんか納得しちゃって」
「みっ、見てたの?」
「楓香と話してる時、アイツから視線感じることが多くてね。嫌でも気付くっつーの」
一緒に通話するようになってから、二人にしか分からない共通の話題が増えていった。それを学校で意思疎通して楽しんでいるのだ。例えば、今日の担任はカツラが前進or後退しているかなど。
「沢田と何かあったんだろうなとは予想してたけど、まさかデートする仲にまで進展してるとは」
「デートじゃないから!」
「はいはい」
「友達とイベントに行くだけ!」
「はーいはい」
どんなに主張しても軽く聞き流して適当に返事をされるので、楓香は地団駄を踏んだ。こういう揶揄われ方には慣れていない。
「それで、服は新調したの?」
「…ううん。グッズとかいっぱい買う予定だから、余計な出費は抑えたくて」
「楓香は大人しめの服ばっかで男ウケしないでしょ。仕方ない、私の服貸してあげる」
「い、いいの!?ありがとう!」
喜びのあまり、結衣の両手を握り締める。それを上下にぶんぶんと揺さぶれば「腕がもげる」とクレームが入った。
「ねぇ、やっぱりデートじゃん」
「断じて違う!」
そりゃあ、着ていく服に迷ったり、アクセサリーは何をつけようだとか、最低限のメイク用品を揃えてみたりしたけれども。
それはデートを意識した行動ではなく、女子としての身だしなみに気を遣ったまで。
「当日に芋女が来たら沢田君が可哀想じゃん。だから垢抜けようとしてるだけ。それだけなの」
「ほんと可愛いわね、アンタって子は」
「あ、ありがとう?」
天を仰いた結衣は、眉間を押さえていた。
姿見の中の自分を、角度を変えて何度も確認する。
結衣から服を貸してもらい、白を基調としたオープンショルダーのトップスとデニム生地のホットパンツ、ムサシをイメージしたスカイブルーのイヤリングという爽やかなコーディネートにした。
ゆるふわに巻いた髪を水色のリボンで結び、ハーフアップに仕上げる。コテの練習をした成果が笑顔となって現れている。
「財布、イベントのチケット、メイク直し、ティッシュにハンカチ、…沢田君のことだから一応、絆創膏持って行こう。他に忘れ物はないかな?」
ショルダーバッグに荷物を詰め込むと、手鏡を覗き込んだ。
普段よりもバサバサとした睫毛を震わせ、コーラルピンクのリップを塗る。ちゅるんと濡れた唇は、下品に見えないよう軽くティッシュオフした。
「変じゃないかな、ちゃんと脱芋したよね?」
イマドキのJKを目指してメイクの勉強をした楓香は、自分の写真を撮って親友に送った。採点してもらった結果、合格と太鼓判を押してくれた。
待ち合わせ場所は、並盛駅の改札口前。約束の時間まで少し早いが、楓香は家を出た。
切符を購入し、近くのベンチに腰を下ろす。
(……なんか見られてる?)
気のせいだろうか、やたらと周囲から視線が集まっているような。慌てて手鏡で自分の顔を確認するが、特に変わったことはない。
落ち着かなくて辺りをキョロキョロと見渡していると、馴染みのある蜂蜜色が駅にやって来た。
(私服姿、ちゃんと見たのは初めてかも。…なんか沢田君らしいなぁ)
オレンジ色の薄手のパーカーを着た彼は切符売り場で切符を購入すると、楓香が座っているベンチから一人分空けて座った。
(………あれ?)
何故か話しかけて来ない彼に戸惑う。
「あの…沢田君、こんにちは?」
ぽけっとした様子で首を傾げた沢田の目が、みるみるうちに大きく開かれる。
「えっ、な、なっ、佐倉さん!?」
「うん、佐倉です」
その反応から察するに、別人だと思われていたらしい。
「メイクしてみたけど、そんなに顔違う?」
「…えっ、と…その、」
ぱくぱくと餌を欲しがる金魚のように口を動かすも、沢田は言葉を紡げないでいた。
「沢田君のその私服、似合ってるね。…あっ、電車到着しそう。もう行こっか」
「えっ、あ、ありがとう…うん」
改札口に切符を通し、一番線ホームに足を運ぶ。並盛が発駅なので車両に先客は乗って居らず、無事シートに座れた。
ガタンゴトンと揺られ、見慣れた景色から見知らぬ景色へと変わっていく。
「会場までの道案内は任せて。下調べしておいたから」
「あっ、何もそういう準備してなかったな俺…申し訳ないけど、ありがとう佐倉さん!頼もしいや」
「ううん、私から誘ったんだから気にしないで」
最初はソワソワしていた沢田だったが、普通に会話が成立するくらいには落ち着いたらしい。
「…実はさ、あんまり眠れなかったんだ。遠足前の子供かって自分でも思うよ」
苦笑いを作った沢田は頭を掻く。
「私もそうだったから同じだね」
「えっ佐倉さんもなの?」
「眠れなくてジュゲム唱えてたもん」
「それ逆に寝れないよね!?」
いつものように時々笑い声を交えて雑談に花を咲かす。沢田と話していると時間を忘れてしまうのは、彼が話し上手だからだろうか。
あっという間に時が流れ、目的の駅に着いた。
「シャトルバス乗り場へ行く前に、トイレ済ませちゃう?」
「そうだね、会場のトイレ混んでそうだし」
二人は駅のトイレで一旦別れた。
用を済まして手を洗った後、鏡に映る自分を見詰める。まだ涼しい時期だから、目立った化粧崩れは起きてない。
(沢田君、何も言ってくれなかったな)
それなりに頑張って着飾った。普段よりも女の子らしく変身した、けど。
「…別に期待なんかしてない」
恋人でもない、ただの友達にそれを求めるなんて、烏滸がましいにも程がある。
自分の頬を軽く叩き、気を取り直した楓香は彼の元へ向かった。
既にトイレから出ていた沢田が楓香に気付く。お待たせ、と声をかけるが、その瞳はぼうっと此方を見て立ち尽くすだけで返事はない。
「…かっ、」
「か?」
心あらずな沢田が何かを口走るが、寸のところでハッと我に返る。
「な、何でもない!」
宙に彷徨わせた視線は、いつまでも楓香を捉えることはなくて。
「沢田君、今日変じゃない?」
「それは佐倉さんの方が…!」
バッと勢い良く顔を上げた沢田が言い淀む。
「あーっ、私やっぱり変だった!?なんか妙に見られてる感じがして。どこが変かな?」
「だから、か、かわ、」
「川?」
支離滅裂な言葉を何とか解読しようとするがお手上げだ。
決心した素振りで両手を握り締めた沢田が口を開く。
「………うー、あー、その…佐倉さんが…かわいくて、だから、だよ」
「…………そ、そっか、うん、アリガト」
またカタコトになってしまったが、沢田はそれにツッコミを入れず、ただ顔を伏せて地面をじっと見ている。
(駄目だ、心臓バクバクしてる)
どうか、この加速して脈打つ鼓動の音が彼に聞こえませんように。
直通のバスに乗車すること数十分、会場に到着した楓香達はゲートをくぐり、入場パスとパンフレットをもらった。
「午後一時にコラボカフェ予約入れてるから、それまで展示会ブース回る?」
「予約までしてくれてるの!?本当に頭が上がりません、佐倉さんありがとう。えーっと、展示会ブースは…あっちのエリアみたいだね」
祝日にイベントが開催されたので、そこらじゅう人でひしめき合っていた。
地図を見比べながら前を歩く沢田の背中を追っていると、人の流れを無視した数人が横から割り込んで来て、楓香は足を止めてしまう。
駄目、置いて行かないで。小さくなっていく背中へ手を伸ばした。
「さ、沢田君、待って!」
その声が届いた彼は、地図から顔を上げて振り返る。
「…あっ、勝手に行っちゃってごめん!」
楓香の元へ戻った沢田は何度も謝り倒し、今度は肩を並べて歩き出した。
群衆の合間を縫って進むので、必然的に距離が近くなる。
すると偶然、互いの手が触れた。
それは指先を掠めただけのごく軽い触れ合いだったが、二人は一瞬会話が止まる。
沢田が何かを言おうとするが、
「…うわっ」
また横から強引に強行突破しようとする人達が通り過ぎる。それをジト目で見た沢田は小さく息を吐いた。
そして、緊張した面持ちで手を差し出す。
「もし良かったら…………はぐれないように手つなぎますか」
最後の方は蚊の鳴く声になっていたが、楓香にはしっかりと聞こえていた。
「えっ、あっ、うん。そうだね迷子防止に!」
その手を控えめに握ると、沢田は顔を赤くして俯いてしまった。そんな彼を見ながら、徐々に自分の頬も熱が帯びてくるのを感じた。
「着きました」
「うん」
「取り敢えず端から見ますか」
「うん」
展示会ブースには様々なゲーム会社が出展している。
それを見て回る余裕など今の楓香にはない。だって全意識が繋がれた手へと集中しているのだから。
(知らない人の手みたい)
握った手は思ったよりも大きくて骨ばっていた。こんな仔犬の顔をしていても、立派な男の子なんだなと思わされる。
何となく余所余所しい空気を打ち消したのは、沢田が好きだという音楽ゲーム対戦だった。かなり良い勝負をして盛り上がり、勝利したのは沢田で、負けて悔しかった楓香はリベンジマッチを求めるも敗北してしまう。
「なんであんな鬼みたいな譜面で的確にノーツ打てるの?第三の目でも付いてるの?」
「俺、邪眼持ちじゃないから!慣れたら佐倉さんも出来るって」
「慣れる前に私の目がムスカになるわ」
「動体視力トレーニングすればいけるよ」
「沢田君は鍛えてるの?」
「う、うん。恐ろしいトレーナーが居るんだ」
「何それ、夢はプロゲーマー?」
「ははは…それならどれだけ良いことか」
楓香が話しかけるまで、沢田はぶつぶつと嘆きながら眉間を揉んでいた。
いろんな最新作のゲームを先行プレイしてみたりと遊び尽くしたが、お目当てのVRゲーム体験イベントは人気のあまり整理券配布となった。受け取った番号の順番が来るまでに数時間は待たなければいけない。その間にやりたいことを全て済ますことにした。
「そろそろ予約してた時間になるからカフェに行こっか」
「もうそんな時間なんだ。早いなぁ」
ちなみに二人はブースを回った時の記憶はあまりなく、握った手の温度が熱かったことしか覚えていなかったりする。
FWとコラボした店内はゲームの世界観を忠実に再現していた。内装や店員の服装に家具、あらゆる備品がゲームで見たことがあるものばかりだ。
「わぁ~、FWの世界にトリップしたみたい」
「ここが天国か…」
「ちょっ、まだ逝かないで!」
聴き馴染みのあるBGMが流れる中、楓香達はメニュー表に目を滑らせる。
「一つの注文で一枚のコースターがランダムでプレゼントされる仕様かぁ」
「推しを自引き出来なかったら辛すぎる…」
楓香はオムライスとアイスティーを、沢田はチキンカレーとメロンソーダーを注文した。
料理が運ばれるまでの間に、指名したキャストと一緒に写真撮影が出来るサービスが行われている。ムサシとコジロウをリクエストして撮影ブースに行くと、キャラクターの仮装をしたキャスト達が出迎えてくれた。
「!…り、……ディッ!?」
突然声を荒らげた沢田は片手で口元を押さえ、わなわなと震えながら驚愕の表情を浮かべている。
そんな彼に同調した楓香は頷いた。沢田が驚く気持ちは良く分かる。
キャストのクオリティーがすごく高いのだ。まるでゲームの世界からやって来た本人としか思えない。
「やぁ、ボクの可愛いキティ。指名してくれて感謝するよ」
「……はわわ…ムサシ様、かっこいい♡」
目の前に尊き推しが降臨している。楓香の目はハートに輝き、心の底から感激した。アニメーションのようにグルグルと回転しながら恍惚の世界に身を投じてしまう勢いだ。
「ちょっ、佐倉さんしっかりして!この人達はただのコスプレおじさんだよ!?」
―――チャキッ
「誰がおじさんだって?口には気を付けろよボウズ」
今まで黙っていたもう一人のキャストが、目にも留まらぬ動きで愛銃を沢田に突き付ける。
「こんなところで何やってんだよリボーンッ、それにディーノさんまで!」
「どうしたの沢田君、どこをどう見てもコジロウとムサシだけど。リボーン君がこんな所にいる訳ないじゃん」
「(…ガーン!思いっきりリボーンなのに、なんで気付かないんだ!?)」
つい楓香は口を挟んでしまったが、ただならぬ様子の沢田に何事かと成り行きを見守ることにした。
「俺はコジロウだ。あんまふざけたこと言ってると風穴開けちまうぜ」
「邪魔すんなって言ったよな?早く帰ってくれ!」
「まぁまぁ落ち着けよツナ、取り敢えず写真撮ろうぜ。キティ、おいで」
「はぁい♡」
推しに手招きされた楓香は、その腕の中へと吸い込まれていく。きゅるんと上目遣いでムサシを見詰めた。
「ディーノさん!」
「ノンノン、今のボクはムサシさ」
「……もしかして」
沢田の超直感が働く。
おかしい、部下が居ないとへなちょこになってしまうディーノがまともに動いている。
まさか、と客席を振り返った沢田は唖然としてしまった。
「(や、やっぱり居た!ロマーリオさんだ!)」
沢田と目が合った黒服の男は、人の気も知らないで飄々と手を振る。眼鏡をかけた髭面のダンディーな大人は、沢田が知る中で彼しかいない。
注意深く周りを見ると、ディーノの腹心の部下達がたくさん居るではないか。
「(どうせリボーンに付き合わされてるんだろうけど…)」
なんだこの茶番。怒りのやり場に困った沢田は内心で歯噛みをする。余計な邪魔が入らないよう、念入りに言っておいたにも関わらずこの有様だ。
「よしよし、イイコ」
「しゅき~♡♡」
「くっつきすぎだって!ほら、離れる!」
ディーノに力なくしな垂れる楓香が気に入らず、沢田は眉間を微かに曇らせた。そんな生徒の態度を観察していたリボーンは、ニヒルな笑みを浮かべる。
「(その顔が見れただけでも良しとしてやるか)」
記念撮影で撮った写真を大切に鞄へ入れた楓香は、口をへの字にした沢田なんて気付くこともなく、目の前のオムライスを一口頬張った。
特典のコースターは二人の推しが出なかったが、夢のひとときを過ごせたので結果的に大満足である。
「次はグッズ買いに行こう!」
「………うん」
フキゲン、と顔にデカデカと書いた沢田はパーカーのポケットに両手を突っ込んで歩き出す。
物販ブースには様々なグッズが陳列されていた。カゴいっぱいに入れた楓香と少しだけ入ったカゴを持つ沢田は会計の列に並ぶ。
明らかに口数が減った彼に、どうしたものかと困り果てていた楓香は直接問いかけてみることにした。
「…沢田君、私なにか気に触るようなことしちゃったかな」
「ううん、佐倉さんは何も悪くないよ。なんか自分でも不思議なんだけど、モヤモヤしちゃって…」
「モヤモヤの理由は分からないの?」
「うーん。…こっちを見てくれなかった、余所見してほしくない、俺を見ててよ、とかいろんな感情がごっちゃになってる感じ?」
沢田自身も自分が何を言っているのか理解出来ていないのだろう。難解なパズルを解くように、一つずつピースに当て嵌めていく。
「それは誰に対して?」
「………」
「沢田君?おーい」
反応がないので顔の前に手を小さく振れば、かちりと目が合う。
「佐倉さんのことだよ」
「えっ」
「友達の俺を放っておいてムサシと盛り上がってたよね。すごく楽しそうだった」
ふん、と顔を背けた沢田は素っ気なく言い放つ。
「あんな顔、初めて見たし。いくら推しだからってチョロすぎるんじゃないの。佐倉さんは女の子なんだから、赤の他人にベタベタと好き勝手に触らせちゃ駄目だよ。そういうの良くないと思う」
いじける沢田が珍しくて呆気に取られていた楓香は、ちょんとパーカーの袖を引っ張った。
「さ、沢田君」
うん、と彼はぶっきらぼうに返す。
「もしかして―――拗ねてる?」
「!」
ギクリと肩を震わせた、沢田の耳がほんのりと赤く染まっていく。喉の奥から唸り声を絞り出して「そうだよ悪い?」と、やけくそに開き直った。
「か、かわいい」
「えっ…どこが!?」
「ぜんぶ」
どさりとカゴを床に置き、両手で顔を覆った楓香はその場にしゃがみ込む。
「これは、てーてー」
「てーてー?」
「とうとい」
「だからどこが!?」
沢田の一連の流れは、チラチラと仔犬が此方の様子を伺いながら、ぷいっとしっぽを向けて不機嫌アピールをしているような、楓香の目にはそう映っていたのだ。
「うんうん、私と沢田君はズッ友だよ」
「その生暖かい目やめて!」
二人の会話を盗み聞きしていた周囲の人達も、同じような視線を沢田へ送っていた。
楓香は大量のグッズが入ったショッパーをコインロッカーに預け、沢田と共にVRゲーム体験のブースへやって来た。
スタッフから渡されたゴーグルを装着してみると、少し重たくて圧迫感がある。
(これ、メイクや髪型とか崩れないか心配だな…)
そんな余計なことを考えていた楓香を嘲笑うかの如く、これまで見えていた景色が一変する。
ゆるやかな風が木の葉を揺らし、空から鴉の鳴き声が響く。見上げると、鬱蒼と天を覆う木々の隙間から、月の光が漏れていた。
ランダムでVRの場面が変わる仕様だが、一番避けたかったステージが選ばれてしまったらしい。
「これって、もしかして…」
沢田も気付いたらしく、固唾を飲む。
コントローラーのリモコンを動かせば、ゲームの世界に連動して懐中電灯を操作出来る。適当に動かしていると、照らした先の草木が変に揺れた。
すると、視界から黒い塊が横切った。
「来る…!」
飛び出してきたナニカは、楓香に噛み付かんと大きく口を開ける。
「ひっ」
「後ろに下がって」
楓香を背中に押しやった沢田は表情を一切変えず、飛びかかる屍人を身軽に躱して距離を取る。
懲りずにまた襲おうとするので強烈な右ストレートを放ち、枯れ木へと殴り飛ばした。
タイミングを見計らっていた楓香はコントローラーを屍人に照準を合わせ、ヘッドショットをお見舞いする。
ピロリン!と軽快な音が鳴り、今度こそ屍人が消滅した。
「ナイス、佐倉さん!」
「いやいや、沢田君の咄嗟のフォローがなきゃ噛まれてた。ありがとう!」
ゾンビ・デスゲームの仮想空間を体験することになった二人はその後も順調に屍人を倒していく。沢田が接近戦で敵を引き付け、楓香が援護射撃をするという見事なコンビネーションでハイスコアを叩き出したのだった。
「おめでとうございます!本日の最高記録更新です!」
スタッフや周囲から拍手をされ、むず痒い思いをしながら楓香はゴーグルを外した。
今まで薄暗かった視界が急に明るくなったせいで、くらりと立ちくらみがして前へ倒れ込む。
(ぶつかる…!)
来るだろう衝撃に備えて身構える。が、いくら待っても痛みは無い。
その代わりに不思議な感触が走る。
ふに、と暖かい何かが、唇に触れたのだ。
「……?」
薄っすらと瞼を開ける。
睫毛が触れ合いそうな距離で、凪いだ橙の双眸が視界に飛び込んできた。
二人は視線をどちらも逸らすことなく、じっと見詰め合う。
転倒した楓香は沢田を巻き込み、そのまま倒れ込んでしまったのだ。覆い被さるように彼の上へ乗り上げていた。
「ご、ごめん」
頭が真っ白になりながらも状況を理解した楓香はすぐに沢田の上からどいて、ぺたんと床にへたり込む。
「えっと、……怪我はない?」
「うん。沢田君は頭とか打ってない?大丈夫?」
「俺は、平気」
「そっか。なら良かった」
しん、と沈黙が流れる。
その時、二人の他の誰かが咳払いをした。そこにはスタッフや野次馬が気まずそうな表情で立ち尽くしていた。
一部始終をしっかり見られていたことに、顔から火が出そうになった楓香は慌てて立ち上がる。
「「す、すみませんでした!」」
勢い良く頭を下げた二人は、逃げるようにブースから出て行った。
ガタンゴトン。
帰りの電車は帰宅ラッシュと重なり、すし詰め状態だった。小柄な楓香にとって、その圧迫感は呼吸するのも一苦労な程に息苦しい。
駅に着けば出ようとする人の波に押され、気付くとドア横の壁前に辿り着いていた。
「…あ、」
楓香の前に立った沢田は壁に両手をつき、拳一つ分の距離を空けて腕の中へ囲う。人混みに押し潰されないよう庇ってくれた。
「…ありがとう」
「あともう少しの辛抱だから」
「うん」
体幹を鍛えていないと今の状態を維持することは難しいだろうに、人の流れが押し寄せても沢田の身体はびくともしなかった。その盤石さに頼もしさを覚える一方、意外だなと思う。
動体視力のトレーニングを受けており、VRゲームでは見事な立ち振る舞いをしていた。まるで戦い慣れた格闘家だった。
(沢田君って、知れば知るほど奥が深い)
目の前にある沢田の喉仏が上下に動く。
自分より頭ひとつ分高いんだなと視線を上へ這わせれば、唇に辿り着いた。直後、脳裏にあの瞬間が過ってしまい、食い入るように見上げる。
(あれって、…つまり、そういうことだよね)
事故とは言え、楓香にとって初めてのキスだった。
まさか少女漫画のような出来事が自分に起こるなんて。嫌悪感はなく、それどころかあの感触を思い出すと心臓の鼓動が速くなる。
友達同士なのに高揚している自分に戸惑った。まして沢田には想い人がいるのに。彼からすると突然ひったくりに遭ったようなものだ。
罪悪感に駆られていると、控えめに名前を呼ばれた。目を逸らしていた沢田がちらりと楓香を見遣る。
「………見過ぎ」
ぼそりと囁かれた言葉に、ぎくっと肩が跳ねる。
「えっ、あ、ごっ、ごめん!」
唇を凝視していたことに気付かれていた。どう弁明しようか悩みに悩んだ挙句、真っ先に謝罪を口にした。
そして、その勢いに任せて余計なことを口走る。
「だって、初めてだったから!」
言ってすぐに後悔する。もし過去に戻れるならいつ?と聞かれたら間違いなく五秒前と答えるだろう。
やらかした。じわじわと全身が熱を帯びて熱くなり、沢田の顔が見れなくて楓香は目をぎゅっと閉じた。
(……何言ってんの馬鹿!沢田君はただの友達なのに、変に意識してどうするの!)
カーブに差し掛かり、車体が少し傾く。
重力には逆らえず、ぽすっと沢田の胸板に頭を預けた。
楓香の耳元で空色のイヤリングが揺れる。
そして、沢田の胸からドクンドクンと脈が速くなる鼓動が聞こえた。
「……お、俺も初めてだから」
「………うん」
「あんま見ないで」
「…ご、ごめん」
言葉尻がか細くなりながらも謝る。
見てしまった、可哀想なくらいに顔を真っ赤に染めた沢田の顔を。
自分と同じように意識している。そう思うと熱が伝染して楓香も頬が赤くなった。
「…そ、そのイヤリングってムサシをイメージしたの?」
「う、うん。よく分かったね」
「似合ってる」
「アリガト」
早く駅に着けば良いのにと思う半分、まだこのままでと願う自分が居てどうにかなりそうだ。
沢田に帰り道を送ってもらっていると、パンパンに膨れたショッパーをぶら下げていた腕が軽くなる。
代わりに持とうとしてくれるが、流石にこれ以上は迷惑かけられないと断った。
「重たいでしょ、私は大丈夫だから良いよ」
「だからこそ、だよ。重たいんだから無理しないで」
「……沢田君って本当に」
「どうしたの?」
「そういうところ、ずるい」
「えー?」
こんなにも優しい友達に、果たして自分はそれに見合うものを返せているのだろうか。
貰ってばかりで与えられるものがない空っぽな自分が嫌いだった。
彼の為に出来ることを考えていると、沢田が恐る恐る呟く。
「…そ、そういえば、初めてじゃなかった」
沢田は唇を押さえて、ぷるぷると身体を震わせる。
「えっ、そうなの?」
「男とはノーカンだよね!?」
衝撃のあまり宇宙を背負った楓香は足を止めた。
「(ガーン!シャマルが初キスの相手とか黒歴史にも程がある!)」
色濃い中学時代を思い出した沢田は頭を掻きむしる。
もし過去に戻れるならいつ?と聞かれたら真っ先に答えるだろう、変態保険医と事故チューした地獄の日、と。
(………沢田君、ソッチもいけるの!?)
両刀使いのツナ、と誤解をした楓香は己の価値観をアップデートするのであった。