泡沫トワイライト
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週末のラセーヌ並盛は客足が絶えず、鬼のような忙しさだった。余裕がない時、人は失敗を犯す。幸いなことに過不足を出すことなく、無事に精算処理を終わらせた。
売り物にならないスポンジの切れ端を店長からたくさん頂き、楓香はほくほくと満足顔になる。
普段よりも軽い足取りは、スキップでもしそうな勢いだ。自宅へ向かっていると、ゲームセンターが見えた。いつもならば、通り過ぎるのだが今日の楓香は一味違った。
(寄り道してみようかな)
踏み入れると、あちらこちらからひっきりなしに鳴るテンポの速い音楽が異空間へと誘う。数秒置きに四方八方から耳に飛び込んでくる、無駄に明るいファンファーレ。
このガヤガヤとしたゲームセンターの雰囲気に慣れる日は来るのだろうか。
クレーンゲームやアーケードゲームに人が密集しているが、それには目もくれず通り抜けると壁際にぎっしりと横一列に並んだガチャのコーナーがあった。
いろんなジャンルがラインナップされている中、楓香はとあるガチャの前に足を止める。
(…ムサシのマスコットキーホルダーだ!)
それは楓香が愛してやまないオープンワールドのオンラインRPG"ファンタジーワールド"、通称FWのガチャだった。
よし回そう。即決した楓香は握り締めていた硬貨を投入口に入れる。時計回りに回すとガコンとカプセルが転がり落ちた。
「クッ…物欲センサーめ!」
出てきたのはコジロウだった。
金欠の楓香は結果がどうであれ回すのは一回だけと決めていたが、気が付けば両替機で千円札を百円玉に交換していた。
(今度こそ…あれ?誰か居る)
急ぎ足で戻るが、目を離した隙にやって来た先客が歯車のレバーを回していた。
すごく見覚えのある個性的なフォルムの髪型は、知り合いにそっくりそのまま当てはまっていた。歩み寄ると、気配を察知した彼が振り向く。
「さ、佐倉さん!」
「こんにちわ、愛人千人囲ってるモテツナ君」
「百人から千人に増えてるーーッ!?」
昨日ぶりの顔が驚きで固まっていた。ガコン。その音にピクッと反応した沢田は落ちたカプセルを拾う。
半透明越しから見えるシルエットは沢田のお目当てのものじゃないようだ。また百円玉を入れる素振りをするので、楓香は待ったをかけた。
「沢田君もFW好きなんだね。私もハマってる」
「えっ、佐倉さんも!?」
まさか同志だとは思わなかった。二人は少し興奮した様子で顔を合わせた。楓香は先程出てきたキーホルダーを取り出す。
「さっきガチャ回したらコジロウ引いたよ。沢田君はどのキャラクター推しなの?」
「コジロウ当てたの!?いいなぁ、俺コジロウ推し。でも回して出てきたのはムサシだった。やっぱ俺ツイてないなぁ」
「ム、ムサシ!?沢田君ムサシ出たの!?」
尋常じゃない楓香の食い付きっぷりに、沢田の超直感が働く。もしやと期待に目を輝かせ、ムサシのキーホルダーを見せた。
「私ムサシ推し!もし良かったら交換しない?しよ!」
「えっ、すごい!もちろんする、交換して下さい!お互いの推しを引くなんて、そんな偶然ある?俺ツイてた!」
なんて平和な世界なんだ。手に入った推しを見詰め、もう一度沢田に感謝の気持ちを伝えた。成り行きで「少し話そうよ」と誘い、公園のベンチに腰を下ろす。
「どの役職でプレイしてる?私は魔法使い」
「俺は王国騎士だよ。最近このゲームやり始めたばかりだから、まだレベルは低いんだ。佐倉さんはやり込んでるの?」
「発売当初からプレイしてるよ。レベルはカンスト」
「うわぁ、すげー!」
同じオタクだと分かれば打ち解けるのもあっという間なもので、二人は時間を忘れて意気投合した。
「これ、一緒に食べよ。従業員の特権です」
スポンジの切れ端が入った紙袋を開ける。甘い匂いが鼻腔を掠めた。
「わぁ、いいの?ありがとう!……うまっ」
「もうコレ実質、飲み物だよ。手が止まんない」
「あはっ、佐倉さん食べるの早すぎ!」
売り物にならないおすそ分けを頂く。それはラセーヌ並盛を選んだ理由でもあった。
「経験値稼ぎ、協力しようか?」
「えっ、いいの!?是非お願いします!」
神様、仏様、佐倉様。沢田は合掌し、楓香に向かって拝む。
「じゃあ、…連絡先交換しますか」
「はい!」
REBOの友達リストに沢田が加わる。彼のアイコンは額に27と書かれたロボットだった。なんだか沢田らしくて良いと思った。
楓香のアイコンは魚肉ソーセージのロゴで、ブームが変わればまた別の画像へと更新される。この土日で三浦と沢田、二人が連絡先に追加された。楓香はなんだか不思議な気持ちになるのだった。
「もう夜の七時だ。時間が経つの早いなぁ」
「こんなに話が盛り上がるなんて思わなかった。夜道は危ないから家まで送るよ」
また女の子扱いされた楓香はベンチから立ち上がり、風で揺れた髪を耳に掛ける。
「…あ、ありがとう、沢田君」
「今度はカタコトじゃないんだ」
「ちょっ、いじるの禁止!」
「あははっ」
二人の距離は自然と縮まり、軽口を叩くまでの間柄に進展した。沢田と話していると居心地の良さを感じ始めた楓香は、チラリと隣を見る。
(流石ボス、相手の懐に入るのが上手い)
彼は人の上に立つべき人物だ。社会人になったら、こんな上司の元で働きたいとさえ思った。
「沢田君、起業するなら声掛けてね」
「何をどうしたらそんな発言が出てくるの!?」
瞑目する彼を置いて、楓香は将来の沢田を頭に思い描く。うん、素晴らしいリーダーになるに違いない。
「沢田君は私が育てた、って言ってもいいかな」
「さっきから会話が噛み合ってないと思うのは俺だけ!?」
沢田の悲痛な叫びが夜空へと消えていった。
いつもの予習と課題を済ませた楓香は、歯磨きを終えるとベッドの上に寝転んだ。時計の針が時を刻むのを、食い入るように見上げる。
午後八時四十分。あと二十分で約束の時間になる。
「初めて男子と通話するからって、別に緊張なんかしてない」
誰に向けた弁明なのか。苦い気持ちで携帯用のゲーム機を手に取った。
「一緒にゲームするだけ、だし」
FWにログインして軽く遊んでいると、ぴょこんと音が鳴った。既にフレンド登録しておいたので、沢田のログイン通知が入ったのだ。
よく遅刻を繰り返すので時間にルーズだと思い込んでいたが、そうじゃないらしい。約束をしていたので、流石にすっぽかされるとは考えてないが、ちょっぴり嬉しい。
すると、今度はREBOが届く。送り主の名前はツナと書かれていた。
>もう準備出来たけど、佐倉さんはどう?
楓香は急いでトイレを済まし、リビングに向かうとラグマットに座った。テレビを付けて、ゲーム機の本体に電源を入れる。
>こっちもスタンバイおーけー。いつでもどうぞ
何度か咳払いをして、水を飲む。テーブルの上に置いてあるスタンドにスマホを立てた。数秒後、スマホが点灯し着信画面に切り替わる。
深呼吸をした楓香は、震える指で音声通話ボタンを押した。
<こ、こんばんわ>
両膝を抱え、にやける口を膝に押し付ける。
「…こんばんわ」
人見知りな楓香にとって、ネット上の顔も知らない人と協力してゲームするのはハードルが高い。せっかくオンラインで遊べるのに全く利用していなかった。
だが、沢田という同志が出来たことでパーティーを組める。それがとても嬉しかった。今回、初めて彼と遊ぶということで、今日という日を心待ちにしていたのだ。
「FWのユーザーネーム、ツナなんだ。そのままじゃん」
<俺、名前考えるの苦手なんだもん。って、そういう佐倉さんだって佐倉じゃん!>
「私ってネーミングセンス皆無だから」
<あ、なんか分かるかも>
「分かるなよ」
あまり男子と話す機会がなかったので妙に身構えてしまったが、途切れることなくポンポンと会話のラリーが続く。
沢田のレベルに合わせて何回かクエストを達成する頃には、阿吽の呼吸で手際よく連携が取れるようになった。
「ちょっ、沢田君死にすぎ。私、ポーションかけ女じゃないんだけど」
<あははっ、なにその砂かけババアの亜種>
「笑う暇あったら、さっさと止め刺す…あ、また死んだ!」
<ふふっ、だって佐倉さんが笑かすから。仕事して、ポーションかけ女さん!>
「誰がポーションかけ女だっつーの!」
スピーカーから忍び笑いが聞こえる。全くもう、と楓香はボヤくけれど満更でもない顔をしていた。
楓香のおかけでたっぷりと経験値が溜まった沢田は「手伝ってくれてありがとう」と礼を言う。
「カンストまでの道はまだまだ遠いけど、飲み込みは早いから沢田君なら大丈夫だよ。もう教えることないし、あとは頑張れ」
<えっ、もう一緒にパーティー組んでくれないの?>
てっきり今回限りだと、そう思っていたのは楓香だけだった。ある程度レベルが上がれば用済みとばかりに考えていたので、沢田の反応は予想外だ。
「わ、私はまた沢田君と遊びたいと思ってるけど」
<はぁ、良かった~。じゃあ、これからもたくさん遊ぼう>
「…う、ん」
目を伏せて、喜びを噛み締める。
<また明日、学校で会おうね>
「うん。おやすみなさい、沢田君」
<佐倉さんも、おやすみなさい>
ぷつんと暗くなったスマホの画面に映った自分の顔が、分かりやすく緩んでいた。
一人でプレイするよりも、沢田と遊ぶゲームはとても楽しい。また一緒にやろうと言ってもらえた。それが楓香は嬉しかった。
寝室に入り、ベットにぽすんと力なく沈み込む。
眠る前、誰かにおやすみと言われたのは随分と久しぶりな気がして。楓香は少し幸せな気持ちで眠りについた。
三者面談の日程確認表と書かれた紙をじっと見詰め、椅子の背もたれに身体を預ける。
佐倉楓香と名前を記入してシャープペンシルを置く。同伴する保護者名の欄は空白になったまま、その紙は朝のSHRで回収された。
沢田と交換したムサシのキーホルダーをペンケースに付けた。それに気付いた彼は「俺も!」と声を弾ませる。
「家の鍵に付けたよ、コジロウ」
「なくさないようにね。沢田君ってうっかり屋さんだから」
「うっ…善処します」
苦虫を噛み潰した顔で言われても説得力がない。どうか、ドジっ子属性が発動してキーホルダーを紛失しませんように。
授業が終わると、沢田の席にいつもの顔ぶれがやってくる。
「なぁツナ、部活終わった後にバッセン行かね?」
「ごめん、今夜はちょっと…」
「最近付き合い悪いよなー。なんかあったか?」
「今、ゲームに没頭しちゃってさ。早くレベル上げたいんだ」
「おい野球バカ、十代目の貴重な時間を奪うんじゃねェ。テメェは今度の試合だけに集中してればいいんだよ」
「ハハッ。応援してくれてるのな、サンキュ獄寺」
「誰が応援なんざするか気色悪ィ!」
非凡トリオの会話にこっそり聞き耳を立てていた楓香は、両肘を机の上に立て、両手を口元で組んだ。
(これはまずい、非常にまずい)
崇拝している沢田の貴重な時間を奪っている正体が自分だと判明したら、もう並盛高校に足を踏み入れることなど出来ないだろう。唯でさえ獄寺に目を付けられているというのに。
沢田とは二人きりの時だけ話すことにした。彼が誰かと一緒に居れば距離を取るし、話しかけられてもすぐに切り上げる。
目立ちたくない楓香はそうやって自己防衛した。そのことに沢田は最初だけ不満げだったが、楓香の気持ちを尊重することに決めて受け入れた。
通話をしながら誰かとゲームをする。
自分がそんな風に遊ぶとは、ほんの少し前までは想像出来なかった。今では、一人でFWをするなんて楽しさが半減してしまうとさえ思っている。
近頃ではゲームが終わっても、引き続き沢田と雑談などをして楽しんでいた。学校ではあまり話せない分、この時間は楓香にとって、かけがえのないものとなっている。
「えっ、ハルちゃん助けた時もパンイチだったの?」
<…う、うん>
「やっぱりそういう性癖のお方」
<やめてェーーッ!>
「まぁ、並高って個性が強い生徒多いから、そういう時代なのかもねぇ」
<あー確かに。みんなすごいよね>
「何言ってんの。沢田君が一番、個性爆発してるよ。あと髪も」
<えぇッそうなの!?全然嬉しくないんだけど…今コソッと髪もとか言わなかった?>
「やーい、沢田君の地獄耳」
<この髪は俺のアイデンティティだから!>
会話の内容は世間話やたわいもないものばかりだが、好き嫌いやアニメと漫画にドラマ、音楽の話などお互いのことを深く知るようになった。
机の上に置いてあるチラシを見た楓香はゆっくりと深呼吸する。もう遅い時間だ、そろそろ通話を切らないといけない。だけど、沢田にどうしても言いたいことがあった。
改まって名前を呼べば、ふわぁと大きな欠伸をしながら返事が来る。
通話越しに聞こえないよう深呼吸をした。肺が新しい空気を取り込むと共に、脈が落ち着く。
「…今週の日曜日、予定ある?」
拳を握り締め、勇気を出して言葉を発した。
驚いた声がスピーカーの向こうから聞こえる。
<ツナなら暇だぞ。デートの誘いか?>
その時、どこからか物音が響いて同時に通話が切れた。
通話時間が表示されたスマホの液晶画面を見る。先程の割って入った可愛らしい声はリボーンだろう。居候がたくさん居る沢田の家は賑やかで、通話している最中にも声が入ったりしていた。
暫く呆然としていると、着信音が鳴る。発信者は沢田だった。
<ご、ごめん。リボーンの奴が勝手に出ちゃってさ。ほら邪魔すんな、あっちいけって>
沢田の声が少し遠くなる。スマホから距離を取ったのだろうか、彼はリボーンに何か訴えていた。
<えーっと、その日は空いてるよ。ど、どうしたの?>
「実はFWのイベントがあるんだけど、…沢田君、一緒に行かない?」
<えっ、…行く!>
意外にもあっさり承諾されて、拍子抜けになる。二人きりで行くなんてデートかよと思われそうで嫌だったが、沢田はそんなこと意識していないらしい。
「来場者限定の配布アイテムがあるんだけど、それが超レアアイテムなんだ」
<それは絶対に手に入れないと。佐倉さん、誘ってくれてありがとう!>
本当はもっと早くに誘う筈だった。だが、断られた時のことを考えてしまい、勇気が出なくて中々踏み切れずにいた。
グイグイ距離縮めすぎ、引くんだけど。そんな否定の言葉を、あの優しい青年が吐く訳ないのに。
楓香は、沢田に拒絶されるのが怖かった。
「楽しみ、だなぁ」
しみじみと呟く。その声が沢田の耳へ届いてしまっていることに後から気付き、口を押さえた。
<……俺も>
それは深い意味なんてない、ただイベントが楽しみというだけの感情しか込められていない。
そう頭の中で理解していても、その日の夜は何故か心がざわついて寝付くのに時間がかかった。
数日前から三者面談が始まり、今日で三日目を迎えた。
教室前の廊下には椅子が並べられ、自分の順番が来るまで待機することになっている。鞄を膝上に置いて座っていると、聞き覚えのある声が近付いて来た。
「佐倉さんも三者面談、今日なんだ」
「うん。そういえば言ってなかったね」
そのまま話をしていると、沢田の肩からひょっこりと優しげな女性の顔が出てきた。
「あらぁ~ツっ君、もしかしてこの子が例の?」
「か、母さん。隣の席の佐倉さんだよ」
楓香の予想通り、この女性は沢田の母親だった。男子は母に似るのは本当のようだ。笑った顔がそっくりである。
「どうも。いつも沢田君のお世話をしております佐倉楓香です」
「まぁ、うちのツっ君がお世話になっております。ツっ君のママンです」
「二人共やめてよその紹介!」
羞恥心で顔を赤らめた沢田のツッコミが廊下に響き渡る。
「そんな恥ずかしがることないじゃない。今いい感じなんでしょ?」
「な、何言ってるんだよ母さん!佐倉さんは友達だから!」
「またまた~」
つんつん、と人差し指で突く沢田の母は完全に息子を揶揄っているのだろう。
(…絵に描いた、完璧な親子)
開かれた窓から入った風が、肩に垂れた髪を冷たく持ち上げる。
それは確かに肌を撫ぜた筈だったのに、風は楓香の中に入って来て、じくじくと痛みを訴え始める。
その時、自分の心にぽっかりと穴が空いてることを思い出した。無意識のうちに抱えた鞄をぎゅっと抱き締める。
三者面談を終えた笹川とその親が教室から出てきた。
沢田と楓香に目を向けた彼女が口を開く前に、大きく声を上げた。
「私と沢田君は友達ではありません。同志です!」
「ど、同志…?」
「はい、同じ志を持つ者で、それ以上でもそれ以下でもない関係です」
それは沢田の母に対して言っているが、楓香の意識は完全に笹川へ向いていた。
彼女に変な誤解を与えてしまうことだけは避けたかった。だって、沢田は笹川が好きなのだから。
自分が水を差すようなことをして邪魔をしてしまったら、あの優しい彼は悲しむ。それは駄目だ。
「笹川さんの方が私なんかよりもずっと沢田君と親密ですよ」
「ちょっ、佐倉さん!?」
自分の名前が出てきて、笹川はきょとんとする。
「そうですよね、笹川さん」
「うん。ツナ君とはお友達だよ!」
「……お友達」
じゃあねと立ち去っていく想い人に、がくりと肩を落とした沢田は乾いた笑みを浮かべる。 彼の母は「ふふふっ」と目を細めた。
また教室のドアが開き、担任がリストを確認した後に声をかける。
「笹川の次は佐倉だな。入っていいぞ」
沢田は、順番待ちしているのが楓香しか居ないことを不思議に思う。
「佐倉さんの親はまだなの?」
その質問に沢田の母がクイッと息子の制服の袖を引っ張った。その行動の意図が分からず、沢田が目を瞬きしていると、
「これも言ってなかったよね。私、両親居ないんだ」
さらりと言われたので、沢田は理解するのが一瞬遅れた。
両親が居ない。死別か、別居か、いろんな意味があるだろう。しかし、突っ込んで聞いていいものか。いやその前に、
「ご、ごめん。えっと、」
真っ先に沢田は謝罪を口にした。人の数だけいろんな家庭事情がある。自分の常識は他人の常識ではない。
「気にしなくていいよ。言わなかった私が悪い」
「いや、あの…ごめん」
続く言葉は声にならなず、喉の奥でくぐもり泡となって消える。
「同情はやめて。私、沢田君に可哀想な人って思われたくない」
楓香は沢田と視線を交えることなく、教室の中へと入っていった。
気まずい空気が漂うこと十分、三者面談を終えた楓香が教室から出る。何か言いたげな沢田とその母親に一礼をし、投げかけられた言葉を拾うことなく下校した。
道中に見付けた小石を蹴り飛ばす。
(私の馬鹿…何やってんの)
楓香は重たい溜め息を吐く。沢田に八つ当たりしてしまった。後悔しても遅い。謝れば許してくれるだろうが、以前のような関係に戻れるかは分からない。
単純に羨ましかった。仲睦まじい親子の姿は、楓香にとって永遠に手に入らないものだから。
「もう小さい子供じゃないんだから。いい加減、大人にならないと」
転がった小石を見下ろし、また蹴ろうと片足を軽く上げた途端、遠くから銃声のような音が響いた。
ドドドと地鳴りを供わせながら、途轍もない速さで人影が此方へ向かってくる。
「な、何!?」
接近するにつれて、逆光で見えなかった姿が徐々に顕になる。
「うおおおおーーッ!」
「さ、沢田君!?」
半裸の沢田が目の前に立っていた。額に炎が灯っているのは錯覚だろうか。
「俺は佐倉楓香に死ぬ気で友達宣言をする!!」
「えっ!?」
パンイチで何を言うのかと思えば、全く意味が分からない。沢田の豹変ぷりにど肝を抜かした楓香は、腰が引けてしまった。
「可哀想とか同情とかそんなこと思ってない!俺はお前に寂しそうな顔をして欲しくない、一人にさせたくないだけだ!」
両肩を掴まれるが、その力はあまり入っておらず、振り払おうと思えば簡単に出来る。だけど、そうしなかった。
彼の瞳に映る自分はどんな顔をしているんだろう。それを見るのが怖くて、俯いた楓香は消え入りそうな声で呟く。
「どうして、そこまで」
親が居ないと知った人達は、楓香を不幸だと勝手に決め付ける。一方的に憐れみ、可哀想な人だと見下すのだ。なのに、彼は、
「だって、友達だから」
何でもないように返される言葉に、楓香は一瞬息を止めた。
「友達っていうのは、助け合ったり、慰め合ったり、時にケンカしたり、笑い合ったりするものなんだよ。俺は佐倉さんの笑顔が見たい」
ゆっくりと顔を上げる。
その橙は一点の曇りもなく真っ直ぐ楓香を貫いた。
「同志も良いけどさ、やっぱり俺は佐倉さんと友達になりたいんだ」
―――だから、俺と友達になって下さい
差し出された手はどこまでも暖かく、優しさが指先から流れ込むようで、楓香の心はふわりと軽くなった気がした。
二人の様子をスコープ越しに見守っていた小さな教師は「よくやったぞツナ」と生徒に花丸をあげるのだった。
さぁさぁと風が吹き抜ける。服を着ていない沢田は身体を震わせて、盛大にくしゃみをした。
「ところで何故パンイチ」
「も、黙秘権を使います」
あの炎は見間違いだったようだ。沢田の額に炎は宿ってないし、前髪は焼け焦げた跡も何もなかったから。
「あっ、さっき銃声が聞こえたんだけど知らない?」
「な、何のことかさっぱり」
「あれも気のせいだったのかな」
「ははは…」
視線を逸らす沢田に、楓香は疑問符を浮かべるのだった。
売り物にならないスポンジの切れ端を店長からたくさん頂き、楓香はほくほくと満足顔になる。
普段よりも軽い足取りは、スキップでもしそうな勢いだ。自宅へ向かっていると、ゲームセンターが見えた。いつもならば、通り過ぎるのだが今日の楓香は一味違った。
(寄り道してみようかな)
踏み入れると、あちらこちらからひっきりなしに鳴るテンポの速い音楽が異空間へと誘う。数秒置きに四方八方から耳に飛び込んでくる、無駄に明るいファンファーレ。
このガヤガヤとしたゲームセンターの雰囲気に慣れる日は来るのだろうか。
クレーンゲームやアーケードゲームに人が密集しているが、それには目もくれず通り抜けると壁際にぎっしりと横一列に並んだガチャのコーナーがあった。
いろんなジャンルがラインナップされている中、楓香はとあるガチャの前に足を止める。
(…ムサシのマスコットキーホルダーだ!)
それは楓香が愛してやまないオープンワールドのオンラインRPG"ファンタジーワールド"、通称FWのガチャだった。
よし回そう。即決した楓香は握り締めていた硬貨を投入口に入れる。時計回りに回すとガコンとカプセルが転がり落ちた。
「クッ…物欲センサーめ!」
出てきたのはコジロウだった。
金欠の楓香は結果がどうであれ回すのは一回だけと決めていたが、気が付けば両替機で千円札を百円玉に交換していた。
(今度こそ…あれ?誰か居る)
急ぎ足で戻るが、目を離した隙にやって来た先客が歯車のレバーを回していた。
すごく見覚えのある個性的なフォルムの髪型は、知り合いにそっくりそのまま当てはまっていた。歩み寄ると、気配を察知した彼が振り向く。
「さ、佐倉さん!」
「こんにちわ、愛人千人囲ってるモテツナ君」
「百人から千人に増えてるーーッ!?」
昨日ぶりの顔が驚きで固まっていた。ガコン。その音にピクッと反応した沢田は落ちたカプセルを拾う。
半透明越しから見えるシルエットは沢田のお目当てのものじゃないようだ。また百円玉を入れる素振りをするので、楓香は待ったをかけた。
「沢田君もFW好きなんだね。私もハマってる」
「えっ、佐倉さんも!?」
まさか同志だとは思わなかった。二人は少し興奮した様子で顔を合わせた。楓香は先程出てきたキーホルダーを取り出す。
「さっきガチャ回したらコジロウ引いたよ。沢田君はどのキャラクター推しなの?」
「コジロウ当てたの!?いいなぁ、俺コジロウ推し。でも回して出てきたのはムサシだった。やっぱ俺ツイてないなぁ」
「ム、ムサシ!?沢田君ムサシ出たの!?」
尋常じゃない楓香の食い付きっぷりに、沢田の超直感が働く。もしやと期待に目を輝かせ、ムサシのキーホルダーを見せた。
「私ムサシ推し!もし良かったら交換しない?しよ!」
「えっ、すごい!もちろんする、交換して下さい!お互いの推しを引くなんて、そんな偶然ある?俺ツイてた!」
なんて平和な世界なんだ。手に入った推しを見詰め、もう一度沢田に感謝の気持ちを伝えた。成り行きで「少し話そうよ」と誘い、公園のベンチに腰を下ろす。
「どの役職でプレイしてる?私は魔法使い」
「俺は王国騎士だよ。最近このゲームやり始めたばかりだから、まだレベルは低いんだ。佐倉さんはやり込んでるの?」
「発売当初からプレイしてるよ。レベルはカンスト」
「うわぁ、すげー!」
同じオタクだと分かれば打ち解けるのもあっという間なもので、二人は時間を忘れて意気投合した。
「これ、一緒に食べよ。従業員の特権です」
スポンジの切れ端が入った紙袋を開ける。甘い匂いが鼻腔を掠めた。
「わぁ、いいの?ありがとう!……うまっ」
「もうコレ実質、飲み物だよ。手が止まんない」
「あはっ、佐倉さん食べるの早すぎ!」
売り物にならないおすそ分けを頂く。それはラセーヌ並盛を選んだ理由でもあった。
「経験値稼ぎ、協力しようか?」
「えっ、いいの!?是非お願いします!」
神様、仏様、佐倉様。沢田は合掌し、楓香に向かって拝む。
「じゃあ、…連絡先交換しますか」
「はい!」
REBOの友達リストに沢田が加わる。彼のアイコンは額に27と書かれたロボットだった。なんだか沢田らしくて良いと思った。
楓香のアイコンは魚肉ソーセージのロゴで、ブームが変わればまた別の画像へと更新される。この土日で三浦と沢田、二人が連絡先に追加された。楓香はなんだか不思議な気持ちになるのだった。
「もう夜の七時だ。時間が経つの早いなぁ」
「こんなに話が盛り上がるなんて思わなかった。夜道は危ないから家まで送るよ」
また女の子扱いされた楓香はベンチから立ち上がり、風で揺れた髪を耳に掛ける。
「…あ、ありがとう、沢田君」
「今度はカタコトじゃないんだ」
「ちょっ、いじるの禁止!」
「あははっ」
二人の距離は自然と縮まり、軽口を叩くまでの間柄に進展した。沢田と話していると居心地の良さを感じ始めた楓香は、チラリと隣を見る。
(流石ボス、相手の懐に入るのが上手い)
彼は人の上に立つべき人物だ。社会人になったら、こんな上司の元で働きたいとさえ思った。
「沢田君、起業するなら声掛けてね」
「何をどうしたらそんな発言が出てくるの!?」
瞑目する彼を置いて、楓香は将来の沢田を頭に思い描く。うん、素晴らしいリーダーになるに違いない。
「沢田君は私が育てた、って言ってもいいかな」
「さっきから会話が噛み合ってないと思うのは俺だけ!?」
沢田の悲痛な叫びが夜空へと消えていった。
いつもの予習と課題を済ませた楓香は、歯磨きを終えるとベッドの上に寝転んだ。時計の針が時を刻むのを、食い入るように見上げる。
午後八時四十分。あと二十分で約束の時間になる。
「初めて男子と通話するからって、別に緊張なんかしてない」
誰に向けた弁明なのか。苦い気持ちで携帯用のゲーム機を手に取った。
「一緒にゲームするだけ、だし」
FWにログインして軽く遊んでいると、ぴょこんと音が鳴った。既にフレンド登録しておいたので、沢田のログイン通知が入ったのだ。
よく遅刻を繰り返すので時間にルーズだと思い込んでいたが、そうじゃないらしい。約束をしていたので、流石にすっぽかされるとは考えてないが、ちょっぴり嬉しい。
すると、今度はREBOが届く。送り主の名前はツナと書かれていた。
>もう準備出来たけど、佐倉さんはどう?
楓香は急いでトイレを済まし、リビングに向かうとラグマットに座った。テレビを付けて、ゲーム機の本体に電源を入れる。
>こっちもスタンバイおーけー。いつでもどうぞ
何度か咳払いをして、水を飲む。テーブルの上に置いてあるスタンドにスマホを立てた。数秒後、スマホが点灯し着信画面に切り替わる。
深呼吸をした楓香は、震える指で音声通話ボタンを押した。
<こ、こんばんわ>
両膝を抱え、にやける口を膝に押し付ける。
「…こんばんわ」
人見知りな楓香にとって、ネット上の顔も知らない人と協力してゲームするのはハードルが高い。せっかくオンラインで遊べるのに全く利用していなかった。
だが、沢田という同志が出来たことでパーティーを組める。それがとても嬉しかった。今回、初めて彼と遊ぶということで、今日という日を心待ちにしていたのだ。
「FWのユーザーネーム、ツナなんだ。そのままじゃん」
<俺、名前考えるの苦手なんだもん。って、そういう佐倉さんだって佐倉じゃん!>
「私ってネーミングセンス皆無だから」
<あ、なんか分かるかも>
「分かるなよ」
あまり男子と話す機会がなかったので妙に身構えてしまったが、途切れることなくポンポンと会話のラリーが続く。
沢田のレベルに合わせて何回かクエストを達成する頃には、阿吽の呼吸で手際よく連携が取れるようになった。
「ちょっ、沢田君死にすぎ。私、ポーションかけ女じゃないんだけど」
<あははっ、なにその砂かけババアの亜種>
「笑う暇あったら、さっさと止め刺す…あ、また死んだ!」
<ふふっ、だって佐倉さんが笑かすから。仕事して、ポーションかけ女さん!>
「誰がポーションかけ女だっつーの!」
スピーカーから忍び笑いが聞こえる。全くもう、と楓香はボヤくけれど満更でもない顔をしていた。
楓香のおかけでたっぷりと経験値が溜まった沢田は「手伝ってくれてありがとう」と礼を言う。
「カンストまでの道はまだまだ遠いけど、飲み込みは早いから沢田君なら大丈夫だよ。もう教えることないし、あとは頑張れ」
<えっ、もう一緒にパーティー組んでくれないの?>
てっきり今回限りだと、そう思っていたのは楓香だけだった。ある程度レベルが上がれば用済みとばかりに考えていたので、沢田の反応は予想外だ。
「わ、私はまた沢田君と遊びたいと思ってるけど」
<はぁ、良かった~。じゃあ、これからもたくさん遊ぼう>
「…う、ん」
目を伏せて、喜びを噛み締める。
<また明日、学校で会おうね>
「うん。おやすみなさい、沢田君」
<佐倉さんも、おやすみなさい>
ぷつんと暗くなったスマホの画面に映った自分の顔が、分かりやすく緩んでいた。
一人でプレイするよりも、沢田と遊ぶゲームはとても楽しい。また一緒にやろうと言ってもらえた。それが楓香は嬉しかった。
寝室に入り、ベットにぽすんと力なく沈み込む。
眠る前、誰かにおやすみと言われたのは随分と久しぶりな気がして。楓香は少し幸せな気持ちで眠りについた。
三者面談の日程確認表と書かれた紙をじっと見詰め、椅子の背もたれに身体を預ける。
佐倉楓香と名前を記入してシャープペンシルを置く。同伴する保護者名の欄は空白になったまま、その紙は朝のSHRで回収された。
沢田と交換したムサシのキーホルダーをペンケースに付けた。それに気付いた彼は「俺も!」と声を弾ませる。
「家の鍵に付けたよ、コジロウ」
「なくさないようにね。沢田君ってうっかり屋さんだから」
「うっ…善処します」
苦虫を噛み潰した顔で言われても説得力がない。どうか、ドジっ子属性が発動してキーホルダーを紛失しませんように。
授業が終わると、沢田の席にいつもの顔ぶれがやってくる。
「なぁツナ、部活終わった後にバッセン行かね?」
「ごめん、今夜はちょっと…」
「最近付き合い悪いよなー。なんかあったか?」
「今、ゲームに没頭しちゃってさ。早くレベル上げたいんだ」
「おい野球バカ、十代目の貴重な時間を奪うんじゃねェ。テメェは今度の試合だけに集中してればいいんだよ」
「ハハッ。応援してくれてるのな、サンキュ獄寺」
「誰が応援なんざするか気色悪ィ!」
非凡トリオの会話にこっそり聞き耳を立てていた楓香は、両肘を机の上に立て、両手を口元で組んだ。
(これはまずい、非常にまずい)
崇拝している沢田の貴重な時間を奪っている正体が自分だと判明したら、もう並盛高校に足を踏み入れることなど出来ないだろう。唯でさえ獄寺に目を付けられているというのに。
沢田とは二人きりの時だけ話すことにした。彼が誰かと一緒に居れば距離を取るし、話しかけられてもすぐに切り上げる。
目立ちたくない楓香はそうやって自己防衛した。そのことに沢田は最初だけ不満げだったが、楓香の気持ちを尊重することに決めて受け入れた。
通話をしながら誰かとゲームをする。
自分がそんな風に遊ぶとは、ほんの少し前までは想像出来なかった。今では、一人でFWをするなんて楽しさが半減してしまうとさえ思っている。
近頃ではゲームが終わっても、引き続き沢田と雑談などをして楽しんでいた。学校ではあまり話せない分、この時間は楓香にとって、かけがえのないものとなっている。
「えっ、ハルちゃん助けた時もパンイチだったの?」
<…う、うん>
「やっぱりそういう性癖のお方」
<やめてェーーッ!>
「まぁ、並高って個性が強い生徒多いから、そういう時代なのかもねぇ」
<あー確かに。みんなすごいよね>
「何言ってんの。沢田君が一番、個性爆発してるよ。あと髪も」
<えぇッそうなの!?全然嬉しくないんだけど…今コソッと髪もとか言わなかった?>
「やーい、沢田君の地獄耳」
<この髪は俺のアイデンティティだから!>
会話の内容は世間話やたわいもないものばかりだが、好き嫌いやアニメと漫画にドラマ、音楽の話などお互いのことを深く知るようになった。
机の上に置いてあるチラシを見た楓香はゆっくりと深呼吸する。もう遅い時間だ、そろそろ通話を切らないといけない。だけど、沢田にどうしても言いたいことがあった。
改まって名前を呼べば、ふわぁと大きな欠伸をしながら返事が来る。
通話越しに聞こえないよう深呼吸をした。肺が新しい空気を取り込むと共に、脈が落ち着く。
「…今週の日曜日、予定ある?」
拳を握り締め、勇気を出して言葉を発した。
驚いた声がスピーカーの向こうから聞こえる。
<ツナなら暇だぞ。デートの誘いか?>
その時、どこからか物音が響いて同時に通話が切れた。
通話時間が表示されたスマホの液晶画面を見る。先程の割って入った可愛らしい声はリボーンだろう。居候がたくさん居る沢田の家は賑やかで、通話している最中にも声が入ったりしていた。
暫く呆然としていると、着信音が鳴る。発信者は沢田だった。
<ご、ごめん。リボーンの奴が勝手に出ちゃってさ。ほら邪魔すんな、あっちいけって>
沢田の声が少し遠くなる。スマホから距離を取ったのだろうか、彼はリボーンに何か訴えていた。
<えーっと、その日は空いてるよ。ど、どうしたの?>
「実はFWのイベントがあるんだけど、…沢田君、一緒に行かない?」
<えっ、…行く!>
意外にもあっさり承諾されて、拍子抜けになる。二人きりで行くなんてデートかよと思われそうで嫌だったが、沢田はそんなこと意識していないらしい。
「来場者限定の配布アイテムがあるんだけど、それが超レアアイテムなんだ」
<それは絶対に手に入れないと。佐倉さん、誘ってくれてありがとう!>
本当はもっと早くに誘う筈だった。だが、断られた時のことを考えてしまい、勇気が出なくて中々踏み切れずにいた。
グイグイ距離縮めすぎ、引くんだけど。そんな否定の言葉を、あの優しい青年が吐く訳ないのに。
楓香は、沢田に拒絶されるのが怖かった。
「楽しみ、だなぁ」
しみじみと呟く。その声が沢田の耳へ届いてしまっていることに後から気付き、口を押さえた。
<……俺も>
それは深い意味なんてない、ただイベントが楽しみというだけの感情しか込められていない。
そう頭の中で理解していても、その日の夜は何故か心がざわついて寝付くのに時間がかかった。
数日前から三者面談が始まり、今日で三日目を迎えた。
教室前の廊下には椅子が並べられ、自分の順番が来るまで待機することになっている。鞄を膝上に置いて座っていると、聞き覚えのある声が近付いて来た。
「佐倉さんも三者面談、今日なんだ」
「うん。そういえば言ってなかったね」
そのまま話をしていると、沢田の肩からひょっこりと優しげな女性の顔が出てきた。
「あらぁ~ツっ君、もしかしてこの子が例の?」
「か、母さん。隣の席の佐倉さんだよ」
楓香の予想通り、この女性は沢田の母親だった。男子は母に似るのは本当のようだ。笑った顔がそっくりである。
「どうも。いつも沢田君のお世話をしております佐倉楓香です」
「まぁ、うちのツっ君がお世話になっております。ツっ君のママンです」
「二人共やめてよその紹介!」
羞恥心で顔を赤らめた沢田のツッコミが廊下に響き渡る。
「そんな恥ずかしがることないじゃない。今いい感じなんでしょ?」
「な、何言ってるんだよ母さん!佐倉さんは友達だから!」
「またまた~」
つんつん、と人差し指で突く沢田の母は完全に息子を揶揄っているのだろう。
(…絵に描いた、完璧な親子)
開かれた窓から入った風が、肩に垂れた髪を冷たく持ち上げる。
それは確かに肌を撫ぜた筈だったのに、風は楓香の中に入って来て、じくじくと痛みを訴え始める。
その時、自分の心にぽっかりと穴が空いてることを思い出した。無意識のうちに抱えた鞄をぎゅっと抱き締める。
三者面談を終えた笹川とその親が教室から出てきた。
沢田と楓香に目を向けた彼女が口を開く前に、大きく声を上げた。
「私と沢田君は友達ではありません。同志です!」
「ど、同志…?」
「はい、同じ志を持つ者で、それ以上でもそれ以下でもない関係です」
それは沢田の母に対して言っているが、楓香の意識は完全に笹川へ向いていた。
彼女に変な誤解を与えてしまうことだけは避けたかった。だって、沢田は笹川が好きなのだから。
自分が水を差すようなことをして邪魔をしてしまったら、あの優しい彼は悲しむ。それは駄目だ。
「笹川さんの方が私なんかよりもずっと沢田君と親密ですよ」
「ちょっ、佐倉さん!?」
自分の名前が出てきて、笹川はきょとんとする。
「そうですよね、笹川さん」
「うん。ツナ君とはお友達だよ!」
「……お友達」
じゃあねと立ち去っていく想い人に、がくりと肩を落とした沢田は乾いた笑みを浮かべる。 彼の母は「ふふふっ」と目を細めた。
また教室のドアが開き、担任がリストを確認した後に声をかける。
「笹川の次は佐倉だな。入っていいぞ」
沢田は、順番待ちしているのが楓香しか居ないことを不思議に思う。
「佐倉さんの親はまだなの?」
その質問に沢田の母がクイッと息子の制服の袖を引っ張った。その行動の意図が分からず、沢田が目を瞬きしていると、
「これも言ってなかったよね。私、両親居ないんだ」
さらりと言われたので、沢田は理解するのが一瞬遅れた。
両親が居ない。死別か、別居か、いろんな意味があるだろう。しかし、突っ込んで聞いていいものか。いやその前に、
「ご、ごめん。えっと、」
真っ先に沢田は謝罪を口にした。人の数だけいろんな家庭事情がある。自分の常識は他人の常識ではない。
「気にしなくていいよ。言わなかった私が悪い」
「いや、あの…ごめん」
続く言葉は声にならなず、喉の奥でくぐもり泡となって消える。
「同情はやめて。私、沢田君に可哀想な人って思われたくない」
楓香は沢田と視線を交えることなく、教室の中へと入っていった。
気まずい空気が漂うこと十分、三者面談を終えた楓香が教室から出る。何か言いたげな沢田とその母親に一礼をし、投げかけられた言葉を拾うことなく下校した。
道中に見付けた小石を蹴り飛ばす。
(私の馬鹿…何やってんの)
楓香は重たい溜め息を吐く。沢田に八つ当たりしてしまった。後悔しても遅い。謝れば許してくれるだろうが、以前のような関係に戻れるかは分からない。
単純に羨ましかった。仲睦まじい親子の姿は、楓香にとって永遠に手に入らないものだから。
「もう小さい子供じゃないんだから。いい加減、大人にならないと」
転がった小石を見下ろし、また蹴ろうと片足を軽く上げた途端、遠くから銃声のような音が響いた。
ドドドと地鳴りを供わせながら、途轍もない速さで人影が此方へ向かってくる。
「な、何!?」
接近するにつれて、逆光で見えなかった姿が徐々に顕になる。
「うおおおおーーッ!」
「さ、沢田君!?」
半裸の沢田が目の前に立っていた。額に炎が灯っているのは錯覚だろうか。
「俺は佐倉楓香に死ぬ気で友達宣言をする!!」
「えっ!?」
パンイチで何を言うのかと思えば、全く意味が分からない。沢田の豹変ぷりにど肝を抜かした楓香は、腰が引けてしまった。
「可哀想とか同情とかそんなこと思ってない!俺はお前に寂しそうな顔をして欲しくない、一人にさせたくないだけだ!」
両肩を掴まれるが、その力はあまり入っておらず、振り払おうと思えば簡単に出来る。だけど、そうしなかった。
彼の瞳に映る自分はどんな顔をしているんだろう。それを見るのが怖くて、俯いた楓香は消え入りそうな声で呟く。
「どうして、そこまで」
親が居ないと知った人達は、楓香を不幸だと勝手に決め付ける。一方的に憐れみ、可哀想な人だと見下すのだ。なのに、彼は、
「だって、友達だから」
何でもないように返される言葉に、楓香は一瞬息を止めた。
「友達っていうのは、助け合ったり、慰め合ったり、時にケンカしたり、笑い合ったりするものなんだよ。俺は佐倉さんの笑顔が見たい」
ゆっくりと顔を上げる。
その橙は一点の曇りもなく真っ直ぐ楓香を貫いた。
「同志も良いけどさ、やっぱり俺は佐倉さんと友達になりたいんだ」
―――だから、俺と友達になって下さい
差し出された手はどこまでも暖かく、優しさが指先から流れ込むようで、楓香の心はふわりと軽くなった気がした。
二人の様子をスコープ越しに見守っていた小さな教師は「よくやったぞツナ」と生徒に花丸をあげるのだった。
さぁさぁと風が吹き抜ける。服を着ていない沢田は身体を震わせて、盛大にくしゃみをした。
「ところで何故パンイチ」
「も、黙秘権を使います」
あの炎は見間違いだったようだ。沢田の額に炎は宿ってないし、前髪は焼け焦げた跡も何もなかったから。
「あっ、さっき銃声が聞こえたんだけど知らない?」
「な、何のことかさっぱり」
「あれも気のせいだったのかな」
「ははは…」
視線を逸らす沢田に、楓香は疑問符を浮かべるのだった。