泡沫トワイライト
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鞄に付けていた野球部の必勝祈願のお守りが紛失した。糸が切れて何処かへ落としてしまったようだ。今思うと、それは虫の知らせだったのかも知れない。
その連絡が入ったのは楓香が夜食を終えた直後のことである。沢田のやけに落ち着いている、むしろ感情を削ぎ落した抑揚のない声が告げたのは、あまりに受け入れがたい現実だった。
山本が事故に遭った。飲酒運転のトラックに轢かれそうになった通行人を庇い、重傷を負った。本来ならば命を落としてもおかしくない程の事故だったが、山本が咄嗟に受け身を取ったことで全治数ヶ月の怪我で済んだ。
絶句する楓香を気遣った沢田がゆっくりと言葉を並べる。
<安心して、手術は無事に成功したよ。暫くはリハビリ生活になっちゃうけど>
山本は全身打撲に脳震盪、内蔵を損傷し腕と足を骨折したが一命を取り留めた。沢田との通話を終えた楓香は、最悪の事態にならず良かったと胸を撫で下ろしたが、すぐに顔を曇らせる。
(本当に山本君が無事で安心した。……だけど、明日の試合は…)
チームの主砲である山本が欠場すれば、戦力が大幅に低下するのは明らかだ。ただ勝つことだけを焦がれた、挑戦者の瞳を宿す山本の姿が脳裏に過ぎり、楓香の口からふと声が漏れた。
「………そんなの、だめ」
徐々に思考が働き始めた楓香は、あることに思いが及ぶ。
(私なら山本君の怪我を治せる。この力を使って、救える…!)
それからはもう、なり振り構わずに家を出た。
山本が運ばれた病院へ向かう為に橋を渡ろうとしたが、楓香の足が止まる。眼前でゆらりと闇が揺れたように映った。恐る恐る近付くと、靄の中から一人の男が現れた。
(何なのこの人…怪しい、不審者?)
市松模様の柄が入った鉄の帽子に季節外れのトレンチコート、顔を覆っている奇抜な仮面が何よりの証拠だ。楓香の行く手を塞ぐ形で橋の中央に立っている。
関わりたくないと急ぎ足で通り過ぎようとした時、男が口を開いた。
「その選択の先に未来はない、待ち受けるのは破滅のみ」
重々しい声が静寂を切り裂く。
「今ならまだ間に合う。引き返せ」
ただならぬ雰囲気に押され、つい身が竦んだ。何故か足が止まったまま動かない。まるで警告しているかのような物言いだが、さっぱり意味が分からず先程まであった緊張が困惑に塗り替えられた。
「…貴方は一体何者なんですか?」
「同胞、とだけ言っておこう」
「えっ?それってどういう…」
謎が謎を呼ぶ不気味な男は素直に答える気がないらしく、戸惑う楓香を置いて話を始めた。
「世界中に消失の力の存在が知れ渡ったら、お前はどうなると思う」
そんなことは今まで考えもしなかった。それにどうして異能のことを知っているのだろう。目を見張った楓香に、男は何処か諭す口調で続ける。
「傀儡にしようと目論む者達から永遠に狙われる。そして、その末路が平穏であった例は、古今東西を通じて私は知らない。お前がそのように力を使い続ければ世界に知られるのも時間の問題だ。それでも行くと言うのか」
力を使えば使う程、日常が壊れていく気がして恐ろしかった。だが、楓香は異能と向き合う覚悟をしたのだ。
もう高校生なのに将来の夢なんて真面目に考えたことがなかった。毎日を生きるのに必死だった。そんな楓香が憧れたのは、あの橙色の瞳をした優しいヒーローだった。
「例え世界を敵に回したとしても、誰かを救う為にこの力を使いたい。そう決めたんです。だから、私…行かなきゃ」
胸元にぶら下げていた指輪のチェーンを引っ張り、指に嵌める。氷漬けされたように重たかった足が軽くなった。男が何らかの力を使い、その場に楓香を縫い止めていたのだろう。
指輪による消失のバリアが働き、自由の身になったことで一歩足を踏み出した。
「そうか。ならば仕方あるまい」
男は持っていた杖を掲げると、大きく一振りした。すると、楓香の指輪が眩い光を放ち、幾千の流星が渦を巻いて杖へと吸い込まれていく。
「な、何をして…」
「指輪の力を封じた。これで力を無限に使えないだろう」
指輪に鎮座していた石はかつての輝きを失い、抜け殻となっていた。動揺を隠せず、楓香は声を荒げた。
「どうして!?」
「お前の利用価値を無くす為だ」
「そんなこと頼んでなんかいない!」
勝手な行動に怒りを露にするが、聞く耳を持たないとばかりにコートを靡かせて背中を向けた。ゆらりと闇に溶け込むシルエットを掴もうと手を伸ばしたが、しなやかな動きで躱される。
無情にも男は目の前から姿を消したのだった。
(どうしよう、指輪の力がないと山本君の怪我を治すのは難しい)
行き場のない焦燥を抑え、楓香は懸命に考えを巡らせる。答えの出ない問いを繰り返し、やがて一つの最善策を取った。
男も楓香と同じく異能持ちだった。能力者に出会ったのは六道以来だが、男の佇まいは異質さを纏っており、不思議な感覚がした。
「きっと今も何処かで見ているんでしょう。貴方は同胞だと言った。少なくとも、私に危害が及ぶことを快く思っていない。なら、」
橋の手すりを掴み、身体を橋の外側へと乗り越える。ぺたりと手すりに背中をくっ付けて、爪先立った。
「指輪の力を戻さないなら、此処で飛び降りてやる」
見下ろした川の水面は黒々としてうねり、一切の光を飲み込んでいる。地獄に繋がる入口みたいで、ゴクリと喉を鳴らした。
しかし、飛び降りる度胸なんてないと高を括っているのだろう、どんなに待ってもあの男は現れなかった。
「私は本気なんだから」
一歩でも足を踏み外したら真っ逆さまに落ちる。川の流れが急なので、まず助からない。それでも今はやるしかないのだ。
強張った身体の力を抜き、ゆっくりと前に倒れ始めると「ガウッ」と獣の鳴き声が聞こえた。瞬間、後ろから襟ぐりを引っ張られる。
「えっ」
ふわりと、首元に温もりが触れた。
気が付くと、片脚のみを橋から泳がせたまま、立ち尽くしていた。そのままグイグイと引っ張り上げられて、橋の内側に戻った楓香は地べたに座り込む。
「ガウ~!」
低い唸り声が聞こえた先を振り返ると、謎の小動物が此方を見上げていた。ふわふわな炎の鬣を揺らす様はライオンに似ている。トトロに出会ったような衝撃に、まじまじと凝視した楓香は詠嘆した。並盛町には世にも珍しいUMAというものがよく出現するらしい。
ライオンもどきは、唖然とする楓香をジッと睨んで吠えた。どうやらさっきの行動を咎めているようだ。
「…そんな目で見ないでよ。だって、これしか方法が思い付かなかったんだもん」
「ガ~ウ!」
言葉が通じているのだろうか、ライオンもどきは先っぽに炎が灯った尻尾をタンタンと地に叩き付けている。これが最善策だと思っていたのに、沢田を彷彿させる橙の瞳に責められて、楓香の涙腺がじわりと緩んだ。
確かに一か八かの賭けだったかも知れない。本当にあのまま橋から転落していたら、どざえもんになり三途の川に流されていた可能性もあった。
「もうどうすれば良いのか分からない。……助けて、綱吉君」
膝を抱えて、ぐすぐすと鼻を鳴らしながら泣き言を漏らす。助けを求めたところで沢田には異能のことを伝えられないし、まして六道には口が裂けても言えない。師であり、母でもある彼には失望されたくなかった。
涙を零す楓香の周りをあたふたと行ったり来たりしていたライオンもどきは、慰めるように手をペロペロと舐める。楓香が顔を上げると、心配げに眉間を寄せて此方の様子を伺っていた。
「ふふっ。その顔、綱吉君にそっくり」
「ガウ~♪」
堪らず吹き出すと、つられてライオンもどきも機嫌の良い鳴き声を上げる。少し気が紛れた楓香は涙を拭い、両頬を叩いて喝を入れた。
頼れる人が居ない中、自分一人でどうにかするしかない。こうなれば自力で治せるところまで治そう。
「早く山本君の所に行かなきゃ」
楓香が立ち上がるのと同時にライオンもどきがくるりと一回転し、その小柄な体が焔に包まれた瞬間、成獣の大きさに進化した。
「ガウッ!」
立派な炎の鬣がごうごうと揺れる。呆気に取られた楓香に背中を向けると吠えた。乗れ、と言っているらしい。
(……ライオンもどきじゃなくて、まさかのネコバスだった?)
この突然現れた謎の生き物は、最初から楓香に対する好感度が高かった。もしかすると野良ではなくペットとして飼われているから人に懐きやすいのかも知れない。飼い主が居るなら早く返してあげた方が良いのでは?自分の勝手な都合で巻き込むのはどうなんだと、うだうだ考え込んで躊躇する。
だが、俺を頼れと言わんばかりにライオンもどきが再び吠えた。
「…いいの?」
「ガウ」
黄金の毛並みを撫でた楓香は「し、失礼します」と伝え、おずおずと背に跨った。その際に鬣が手に当たり、すぐに引っ込めたが火傷もなく無傷だった。炎なのにじんわりと温かくて柔らかい、触ったことのない未知の感触だ。撫でる手を止めれば、ぐんと浮遊感に襲われる。
反射的に瞑った瞼を持ち上げると、視界いっぱいに広がったのは星々が煌めく夜空の光景だった。その中で満月が一際大きく楓香達を照らしていた。これは夢ではない、確かに自分は空を飛んでいる。
ライオンもどきが駆け抜けた周辺は一陣の風が吹き込み、草木や電線が大きく音を立てる。まるで彗星になった気分だった。
ものすごい勢いで疾走する為、髪がバサバサと波打つが風に乱れる髪を直すことも押さえることもせず、楓香は目の前を真っ直ぐに見詰めた。
そして、瞬く間に並盛総合病院へ辿り着いた。ライオンもどきは山本のことを知っているらしく、クンクンと鼻を鳴らしながら四階のとある病室の窓辺まで飛ぶと小さく吠えた。カーテンに遮られて室内の中は見えないが、此処に山本が居るようだ。
(…ごめんなさい、えいっ)
施錠された鍵を消してゆっくりと窓を開ければ、ツンと独特な消毒液の匂いが鼻をついた。なるべく音を立てずに部屋へ入ったつもりだったが、窓を開けた際に舞い込んだ風がカーテンを大きくはためかせた。
決して悪事を働いている訳ではないのに、ドキリとして慌てて窓を閉める。ライオンもどきは元の大きさに戻り、楓香の肩にちょこんと乗っていた。
(……大丈夫、私なら出来る)
静かな暗い部屋で細い寝息が僅かに響く。ベッドの脇に立った楓香は、眠っている山本を見下ろした。包帯で巻かれた手足や頭が痛々しくて、唇を噛む。やがて深呼吸を一つすると、強く念じた。
彼の怪我を消すことに没頭していると一筋の汗が額を伝った。少しずつ山本の表情が和らぐにつれて、楓香の顔は険しくなる。ズキズキと頭が痛みを訴え始めた。呼吸も荒くなって、身体が鉛のように重く感じる。
指輪がなければ思うように力を発揮出来ず、それがすごく情けなかった。
「…ガウ」
だんだんと楓香の顔色が悪くなるので、ライオンもどきの瞳が不安の色を濃くする。
(まだ、やれる)
やがて悪寒が全身を包み手足が痺れるが、それでも怪我を全て消すまで耐えねば。
すると、力強くて温かな手が、冷え切った楓香の腕を掴んだ。
「…山本君!」
「わりぃ、心配かけちまったな」
意識を取り戻した山本は確かめるように身動きをすると「すげー」と目を輝かせた。
「なんか身体が軽くなった気がする。ありがとな。これ、お前のおかげなんだろ」
彼に異能のことを知られてしまうのは承知の上で、楓香は山本の怪我を消しに来た。言い訳をすることもなく、素直に頷くと「やっぱりそうか」とからりと笑う。何となく、最初から山本は楓香が特別な力を持っていることを分かっていた気がした。
不意にふらりと倒れ込みそうになるが踏ん張る。そのまま力を発動し続けていると、山本が首を横に振った。
「やめろ、もういい」
「…駄目です、明日の試合はどうなるんですか。皆が山本君を必要としています。優勝を目指してたくさん頑張ってきたのに、このままじゃ…」
拳を握り締めて俯いていると、山本が名前を呼んだ。
「俺が一番大切にしているのは優勝じゃなくて友達だ。例え明日の試合に出て勝ったとしても、そこに楓香が居なかったらきっと後悔すると思う。お前の犠牲で成り立つ勝利なんていらねーよ」
そうだ、山本は大事な試合が控えているのになりふり構わず体を張って人を助けるくらい優しい人なのだ。そんな彼が自分のせいで他人が傷付くのを良しとする訳がなかった。
(…結局、私は指輪の力がなければ誰かを救えないんだ)
どうしようもない無力さが楓香を襲った。握り締めていた拳を力なくゆるりと解く。
「んな顔すんなって。まだ試合は始まってねーだろ?勝つ可能性だってあるしな。それにまた来年、優勝を目指せばいいだけの話だ」
ニカッと笑みを浮かべた山本は俯いている顔を覗き込むと、その額を中指で軽く弾いた。結構いい音がして、楓香は額を片手で押さえる。おかげで出てきそうになった涙が引っ込んだ。
「なぁ、楓香に言って欲しい台詞があるんだけど良いか?」
その声は期待に満ちて楽しそうだ。無論断る理由はない。お願いされた言葉を口にした。
「…来年、私を甲子園に連れてって」
大きく息を吐いた山本は楓香に向かって親指を立てた。
「おう、任せとけ」
大怪我を負っているとは思えないくらいの元気の良い返事だった。そんな山本の笑顔を目にすると、暗い気持ちも忘れてしまった。
「たっちゃんって呼んでもいいですか」
「……おー」
冗談で言ったつもりが、すんなりと返されてしまい楓香は目を見張る。
「えっと、あの…ツッコミ待ちなんですけど」
思っていた反応が返って来ず、何度も話しかけるが「たっちゃんかー」と山本は何やら心あらずでまともに会話が成り立たなかった。
「…ガウ」
そんな二人をライオンもどきがジト目で眺めていた。
楓香を乗せたライオンもどきは彼女の自宅に向かっていたが、その案内の途中で楓香か寝落ちしてしまい家の場所が分からなくなった。限界まで異能を発動したせいで体力が底を突いたのだ。
どうするべきか、と頭を悩ませたライオンもどきはピンと耳を立てると、ぐるりと踵を返した。
あぁ、とても甘い匂いがする。もっと堪能したい。そのふにふにしたものを胸元まで引き寄せた沢田は、抱き枕のように抱えた。それはすっぽりと腕の中に収まり、温かな感触が心地良い。意識が少し浮上した。
(何だろうこれ、ナッツかな)
ずっとこうして癒されたくて両腕に力を込めたが、そろそろ起きないと目覚まし時計がけたたましく鳴り響いてしまう。名残惜しく、それをすりすりと頬擦りした。
(ナッツってこんなにすべすべだっけ?サイズ感も違うような…)
違和感を覚えた沢田は重たい瞼を無理矢理こじ開ける。そして、目の前に飛び込んできた光景に開いた口が塞がらなくなってしまった。
楓香が穏やかな寝息を立てて、眠っていた。
「〇×△□※#♢ーーッ!?」
早朝の沢田家に騒音レベルの叫びが木霊するのだった。
その連絡が入ったのは楓香が夜食を終えた直後のことである。沢田のやけに落ち着いている、むしろ感情を削ぎ落した抑揚のない声が告げたのは、あまりに受け入れがたい現実だった。
山本が事故に遭った。飲酒運転のトラックに轢かれそうになった通行人を庇い、重傷を負った。本来ならば命を落としてもおかしくない程の事故だったが、山本が咄嗟に受け身を取ったことで全治数ヶ月の怪我で済んだ。
絶句する楓香を気遣った沢田がゆっくりと言葉を並べる。
<安心して、手術は無事に成功したよ。暫くはリハビリ生活になっちゃうけど>
山本は全身打撲に脳震盪、内蔵を損傷し腕と足を骨折したが一命を取り留めた。沢田との通話を終えた楓香は、最悪の事態にならず良かったと胸を撫で下ろしたが、すぐに顔を曇らせる。
(本当に山本君が無事で安心した。……だけど、明日の試合は…)
チームの主砲である山本が欠場すれば、戦力が大幅に低下するのは明らかだ。ただ勝つことだけを焦がれた、挑戦者の瞳を宿す山本の姿が脳裏に過ぎり、楓香の口からふと声が漏れた。
「………そんなの、だめ」
徐々に思考が働き始めた楓香は、あることに思いが及ぶ。
(私なら山本君の怪我を治せる。この力を使って、救える…!)
それからはもう、なり振り構わずに家を出た。
山本が運ばれた病院へ向かう為に橋を渡ろうとしたが、楓香の足が止まる。眼前でゆらりと闇が揺れたように映った。恐る恐る近付くと、靄の中から一人の男が現れた。
(何なのこの人…怪しい、不審者?)
市松模様の柄が入った鉄の帽子に季節外れのトレンチコート、顔を覆っている奇抜な仮面が何よりの証拠だ。楓香の行く手を塞ぐ形で橋の中央に立っている。
関わりたくないと急ぎ足で通り過ぎようとした時、男が口を開いた。
「その選択の先に未来はない、待ち受けるのは破滅のみ」
重々しい声が静寂を切り裂く。
「今ならまだ間に合う。引き返せ」
ただならぬ雰囲気に押され、つい身が竦んだ。何故か足が止まったまま動かない。まるで警告しているかのような物言いだが、さっぱり意味が分からず先程まであった緊張が困惑に塗り替えられた。
「…貴方は一体何者なんですか?」
「同胞、とだけ言っておこう」
「えっ?それってどういう…」
謎が謎を呼ぶ不気味な男は素直に答える気がないらしく、戸惑う楓香を置いて話を始めた。
「世界中に消失の力の存在が知れ渡ったら、お前はどうなると思う」
そんなことは今まで考えもしなかった。それにどうして異能のことを知っているのだろう。目を見張った楓香に、男は何処か諭す口調で続ける。
「傀儡にしようと目論む者達から永遠に狙われる。そして、その末路が平穏であった例は、古今東西を通じて私は知らない。お前がそのように力を使い続ければ世界に知られるのも時間の問題だ。それでも行くと言うのか」
力を使えば使う程、日常が壊れていく気がして恐ろしかった。だが、楓香は異能と向き合う覚悟をしたのだ。
もう高校生なのに将来の夢なんて真面目に考えたことがなかった。毎日を生きるのに必死だった。そんな楓香が憧れたのは、あの橙色の瞳をした優しいヒーローだった。
「例え世界を敵に回したとしても、誰かを救う為にこの力を使いたい。そう決めたんです。だから、私…行かなきゃ」
胸元にぶら下げていた指輪のチェーンを引っ張り、指に嵌める。氷漬けされたように重たかった足が軽くなった。男が何らかの力を使い、その場に楓香を縫い止めていたのだろう。
指輪による消失のバリアが働き、自由の身になったことで一歩足を踏み出した。
「そうか。ならば仕方あるまい」
男は持っていた杖を掲げると、大きく一振りした。すると、楓香の指輪が眩い光を放ち、幾千の流星が渦を巻いて杖へと吸い込まれていく。
「な、何をして…」
「指輪の力を封じた。これで力を無限に使えないだろう」
指輪に鎮座していた石はかつての輝きを失い、抜け殻となっていた。動揺を隠せず、楓香は声を荒げた。
「どうして!?」
「お前の利用価値を無くす為だ」
「そんなこと頼んでなんかいない!」
勝手な行動に怒りを露にするが、聞く耳を持たないとばかりにコートを靡かせて背中を向けた。ゆらりと闇に溶け込むシルエットを掴もうと手を伸ばしたが、しなやかな動きで躱される。
無情にも男は目の前から姿を消したのだった。
(どうしよう、指輪の力がないと山本君の怪我を治すのは難しい)
行き場のない焦燥を抑え、楓香は懸命に考えを巡らせる。答えの出ない問いを繰り返し、やがて一つの最善策を取った。
男も楓香と同じく異能持ちだった。能力者に出会ったのは六道以来だが、男の佇まいは異質さを纏っており、不思議な感覚がした。
「きっと今も何処かで見ているんでしょう。貴方は同胞だと言った。少なくとも、私に危害が及ぶことを快く思っていない。なら、」
橋の手すりを掴み、身体を橋の外側へと乗り越える。ぺたりと手すりに背中をくっ付けて、爪先立った。
「指輪の力を戻さないなら、此処で飛び降りてやる」
見下ろした川の水面は黒々としてうねり、一切の光を飲み込んでいる。地獄に繋がる入口みたいで、ゴクリと喉を鳴らした。
しかし、飛び降りる度胸なんてないと高を括っているのだろう、どんなに待ってもあの男は現れなかった。
「私は本気なんだから」
一歩でも足を踏み外したら真っ逆さまに落ちる。川の流れが急なので、まず助からない。それでも今はやるしかないのだ。
強張った身体の力を抜き、ゆっくりと前に倒れ始めると「ガウッ」と獣の鳴き声が聞こえた。瞬間、後ろから襟ぐりを引っ張られる。
「えっ」
ふわりと、首元に温もりが触れた。
気が付くと、片脚のみを橋から泳がせたまま、立ち尽くしていた。そのままグイグイと引っ張り上げられて、橋の内側に戻った楓香は地べたに座り込む。
「ガウ~!」
低い唸り声が聞こえた先を振り返ると、謎の小動物が此方を見上げていた。ふわふわな炎の鬣を揺らす様はライオンに似ている。トトロに出会ったような衝撃に、まじまじと凝視した楓香は詠嘆した。並盛町には世にも珍しいUMAというものがよく出現するらしい。
ライオンもどきは、唖然とする楓香をジッと睨んで吠えた。どうやらさっきの行動を咎めているようだ。
「…そんな目で見ないでよ。だって、これしか方法が思い付かなかったんだもん」
「ガ~ウ!」
言葉が通じているのだろうか、ライオンもどきは先っぽに炎が灯った尻尾をタンタンと地に叩き付けている。これが最善策だと思っていたのに、沢田を彷彿させる橙の瞳に責められて、楓香の涙腺がじわりと緩んだ。
確かに一か八かの賭けだったかも知れない。本当にあのまま橋から転落していたら、どざえもんになり三途の川に流されていた可能性もあった。
「もうどうすれば良いのか分からない。……助けて、綱吉君」
膝を抱えて、ぐすぐすと鼻を鳴らしながら泣き言を漏らす。助けを求めたところで沢田には異能のことを伝えられないし、まして六道には口が裂けても言えない。師であり、母でもある彼には失望されたくなかった。
涙を零す楓香の周りをあたふたと行ったり来たりしていたライオンもどきは、慰めるように手をペロペロと舐める。楓香が顔を上げると、心配げに眉間を寄せて此方の様子を伺っていた。
「ふふっ。その顔、綱吉君にそっくり」
「ガウ~♪」
堪らず吹き出すと、つられてライオンもどきも機嫌の良い鳴き声を上げる。少し気が紛れた楓香は涙を拭い、両頬を叩いて喝を入れた。
頼れる人が居ない中、自分一人でどうにかするしかない。こうなれば自力で治せるところまで治そう。
「早く山本君の所に行かなきゃ」
楓香が立ち上がるのと同時にライオンもどきがくるりと一回転し、その小柄な体が焔に包まれた瞬間、成獣の大きさに進化した。
「ガウッ!」
立派な炎の鬣がごうごうと揺れる。呆気に取られた楓香に背中を向けると吠えた。乗れ、と言っているらしい。
(……ライオンもどきじゃなくて、まさかのネコバスだった?)
この突然現れた謎の生き物は、最初から楓香に対する好感度が高かった。もしかすると野良ではなくペットとして飼われているから人に懐きやすいのかも知れない。飼い主が居るなら早く返してあげた方が良いのでは?自分の勝手な都合で巻き込むのはどうなんだと、うだうだ考え込んで躊躇する。
だが、俺を頼れと言わんばかりにライオンもどきが再び吠えた。
「…いいの?」
「ガウ」
黄金の毛並みを撫でた楓香は「し、失礼します」と伝え、おずおずと背に跨った。その際に鬣が手に当たり、すぐに引っ込めたが火傷もなく無傷だった。炎なのにじんわりと温かくて柔らかい、触ったことのない未知の感触だ。撫でる手を止めれば、ぐんと浮遊感に襲われる。
反射的に瞑った瞼を持ち上げると、視界いっぱいに広がったのは星々が煌めく夜空の光景だった。その中で満月が一際大きく楓香達を照らしていた。これは夢ではない、確かに自分は空を飛んでいる。
ライオンもどきが駆け抜けた周辺は一陣の風が吹き込み、草木や電線が大きく音を立てる。まるで彗星になった気分だった。
ものすごい勢いで疾走する為、髪がバサバサと波打つが風に乱れる髪を直すことも押さえることもせず、楓香は目の前を真っ直ぐに見詰めた。
そして、瞬く間に並盛総合病院へ辿り着いた。ライオンもどきは山本のことを知っているらしく、クンクンと鼻を鳴らしながら四階のとある病室の窓辺まで飛ぶと小さく吠えた。カーテンに遮られて室内の中は見えないが、此処に山本が居るようだ。
(…ごめんなさい、えいっ)
施錠された鍵を消してゆっくりと窓を開ければ、ツンと独特な消毒液の匂いが鼻をついた。なるべく音を立てずに部屋へ入ったつもりだったが、窓を開けた際に舞い込んだ風がカーテンを大きくはためかせた。
決して悪事を働いている訳ではないのに、ドキリとして慌てて窓を閉める。ライオンもどきは元の大きさに戻り、楓香の肩にちょこんと乗っていた。
(……大丈夫、私なら出来る)
静かな暗い部屋で細い寝息が僅かに響く。ベッドの脇に立った楓香は、眠っている山本を見下ろした。包帯で巻かれた手足や頭が痛々しくて、唇を噛む。やがて深呼吸を一つすると、強く念じた。
彼の怪我を消すことに没頭していると一筋の汗が額を伝った。少しずつ山本の表情が和らぐにつれて、楓香の顔は険しくなる。ズキズキと頭が痛みを訴え始めた。呼吸も荒くなって、身体が鉛のように重く感じる。
指輪がなければ思うように力を発揮出来ず、それがすごく情けなかった。
「…ガウ」
だんだんと楓香の顔色が悪くなるので、ライオンもどきの瞳が不安の色を濃くする。
(まだ、やれる)
やがて悪寒が全身を包み手足が痺れるが、それでも怪我を全て消すまで耐えねば。
すると、力強くて温かな手が、冷え切った楓香の腕を掴んだ。
「…山本君!」
「わりぃ、心配かけちまったな」
意識を取り戻した山本は確かめるように身動きをすると「すげー」と目を輝かせた。
「なんか身体が軽くなった気がする。ありがとな。これ、お前のおかげなんだろ」
彼に異能のことを知られてしまうのは承知の上で、楓香は山本の怪我を消しに来た。言い訳をすることもなく、素直に頷くと「やっぱりそうか」とからりと笑う。何となく、最初から山本は楓香が特別な力を持っていることを分かっていた気がした。
不意にふらりと倒れ込みそうになるが踏ん張る。そのまま力を発動し続けていると、山本が首を横に振った。
「やめろ、もういい」
「…駄目です、明日の試合はどうなるんですか。皆が山本君を必要としています。優勝を目指してたくさん頑張ってきたのに、このままじゃ…」
拳を握り締めて俯いていると、山本が名前を呼んだ。
「俺が一番大切にしているのは優勝じゃなくて友達だ。例え明日の試合に出て勝ったとしても、そこに楓香が居なかったらきっと後悔すると思う。お前の犠牲で成り立つ勝利なんていらねーよ」
そうだ、山本は大事な試合が控えているのになりふり構わず体を張って人を助けるくらい優しい人なのだ。そんな彼が自分のせいで他人が傷付くのを良しとする訳がなかった。
(…結局、私は指輪の力がなければ誰かを救えないんだ)
どうしようもない無力さが楓香を襲った。握り締めていた拳を力なくゆるりと解く。
「んな顔すんなって。まだ試合は始まってねーだろ?勝つ可能性だってあるしな。それにまた来年、優勝を目指せばいいだけの話だ」
ニカッと笑みを浮かべた山本は俯いている顔を覗き込むと、その額を中指で軽く弾いた。結構いい音がして、楓香は額を片手で押さえる。おかげで出てきそうになった涙が引っ込んだ。
「なぁ、楓香に言って欲しい台詞があるんだけど良いか?」
その声は期待に満ちて楽しそうだ。無論断る理由はない。お願いされた言葉を口にした。
「…来年、私を甲子園に連れてって」
大きく息を吐いた山本は楓香に向かって親指を立てた。
「おう、任せとけ」
大怪我を負っているとは思えないくらいの元気の良い返事だった。そんな山本の笑顔を目にすると、暗い気持ちも忘れてしまった。
「たっちゃんって呼んでもいいですか」
「……おー」
冗談で言ったつもりが、すんなりと返されてしまい楓香は目を見張る。
「えっと、あの…ツッコミ待ちなんですけど」
思っていた反応が返って来ず、何度も話しかけるが「たっちゃんかー」と山本は何やら心あらずでまともに会話が成り立たなかった。
「…ガウ」
そんな二人をライオンもどきがジト目で眺めていた。
楓香を乗せたライオンもどきは彼女の自宅に向かっていたが、その案内の途中で楓香か寝落ちしてしまい家の場所が分からなくなった。限界まで異能を発動したせいで体力が底を突いたのだ。
どうするべきか、と頭を悩ませたライオンもどきはピンと耳を立てると、ぐるりと踵を返した。
あぁ、とても甘い匂いがする。もっと堪能したい。そのふにふにしたものを胸元まで引き寄せた沢田は、抱き枕のように抱えた。それはすっぽりと腕の中に収まり、温かな感触が心地良い。意識が少し浮上した。
(何だろうこれ、ナッツかな)
ずっとこうして癒されたくて両腕に力を込めたが、そろそろ起きないと目覚まし時計がけたたましく鳴り響いてしまう。名残惜しく、それをすりすりと頬擦りした。
(ナッツってこんなにすべすべだっけ?サイズ感も違うような…)
違和感を覚えた沢田は重たい瞼を無理矢理こじ開ける。そして、目の前に飛び込んできた光景に開いた口が塞がらなくなってしまった。
楓香が穏やかな寝息を立てて、眠っていた。
「〇×△□※#♢ーーッ!?」
早朝の沢田家に騒音レベルの叫びが木霊するのだった。