泡沫トワイライト
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鮮魚コーナーを通ると、ポポーポポポポ♪と軽快な音色が耳に届く。呼び込み君のアップテンポな曲調に合わせて、心の中で小躍りする程に楓香は嬉しさを噛み締めていた。
カートを押す彼の背中を見詰め、無意識に口元が緩んでしまうのをグッと堪えた。熱い視線が注がれた背中はそろそろ穴が空いてしまいそうだ。いい加減視線をベラリと剥すが、すぐにその後ろ姿に惹き付けられる。
そんなことを何度か繰り返していると、ツンツン頭が振り返った。
「海苔の売り場って向こうだっけ?」
「う、うん。そうだよ」
買い物カゴには胡瓜や人参、ツナ缶等が顔を覗かせていた。これらは全て推しにぎりの材料である。
土曜日のお昼時、楓香と沢田は推し活をするべくスーパーへ買い出しに来ていた。
「これで全部…っと」
手にした焼き海苔をカゴに入れた沢田は、買い物リストが書かれたメモから視線を上げる。
「楓香ちゃん、さっきからずーっとニヤけてるけど何かあった?」
彼の後ろに立っていたので気付かれていないと思っていたが、違ったようだ。誤魔化そうにも、相手に見られていたのだから言い訳の仕様がない。
言葉を濁す楓香を静かに見守っている沢田の笑みは、素直に白状するまで一歩も動くまいという意志を感じる。その無言の圧力に屈した楓香は両手の人差し指を突き合わせて、もじもじと俯いた。
「そ、想像しちゃったんだ。綱吉君と結婚したら、こんな感じでお買い物するのかなって」
「えっ…」
その戸惑う声に、自分の発言をすぐ後悔して羞恥心が一気に迫り上がる。
「ごめん重たくて引いたよね!結婚とか勝手に妄想して浮かれて、あぁもう恥ずかしい」
スーパーを利用していると、子供連れの親や仲睦まじい夫婦を見かけることが多く、一人で買い物していると何だか寂しい気持ちになるので店内に居るのが少し苦痛だった。
だけど、今は傍に沢田が居る。彼と一緒に買い物をするのが楽しくて、調子に乗った楓香はこの先の未来を思い描いてしまった―――子供を連れた沢田と自分の姿を。
「あっ、そうだ。フゥ太君達のお菓子も買おう、そうしよう!」
強引に話を変えた楓香は沢田の反応を待たずにカートを奪うと、急ぎ足で歩き出す。背後から名を呼ぶ声が聞こえるが、足を止めることはなかった。
たくさんのお菓子に囲まれながら、その場で身体をしゃがませて子供達が喜びそうなものを吟味していると、同じように身を屈めた沢田が顔を覗き込む。
「最近ランボはブドウ味のわたあめにハマってるんだ」
「そうなんだ!じゃあそれとイチゴ味とレモン味も買っていこっか」
「うん。楓香ちゃんって将来良いお母さんになりそうだよね。子供思いなところとかさ」
つい手に取ったわたあめの袋を落としそうになったが、寸前で沢田が受け止めた。
「俺も想像しちゃった」
思わず隣を見ようとする前に、沢田が立ち上がってカートを押しながら足早に歩く。表情は伺えなかったが、耳朶がほんのりと薄紅色に色付いていた。
紳士的な沢田は荷物持ちを自ら申し出たが、買い物の支払いを奢ってもらったのもあり楓香は譲らなかった。話し合った結果、エコバッグの持ち手を分け合うことになった。
道端には楓香達とその二人の間にぶら下がっている荷物の影が伸びている。まるで子供の手を繋いだ三人家族のようだ。照れ臭くなった楓香が持ち手をゆらゆらと揺らせば「こら」と軽く叱られた。
ふわふわとした心地良い時間が流れる。角を曲がると沢田の家が視界に入り、もう少しこのまま一緒に歩きたかったなと楓香は名残惜しく思った。
「今日、母さんと子供達はスイパラに出掛けてて不在なんだ。帰って来たらお菓子渡しておくね」
ピタリと楓香の足が止まる。その拍子に持ち手を掴んでいた沢田が引っ張られて、後ろへつんのめってしまった。
よろける身体を何とか踏ん張り耐えると「楓香ちゃん?」と振り返った。
「…今、家に誰も居ないの?」
てっきり居候の子達とわいわい推しにぎりを作るものだと思い込んでいた。沢田と二人きりだなんて、いろんな意味で心臓に悪い。楓香が気まずそうに目を逸らすと、そこでようやく察した沢田が慌ただしく首を横に振った。
「えっ、あぁ、違う違う!ビアンキとリボーンは居るよ!」
「…そっか」
ほっと息を吐き、ゆっくりと楓香の緊張が解けた。しかし、お互いが妙に意識をしてしまい、会話が続かなくなり沈黙が包み込む。
この状況を打破する為に話題を探していた沢田の脳内にとある疑問が浮かんだ。それは、前々から気になっていた楓香と六道の関係である。
「……楓香ちゃんって、骸のことどう思ってるの?」
今度は沢田の足が止まった。意外な人物の名前が出てきて、楓香は瞬きをした。
「えっ、骸さん?」
「だって前までは六道さんって呼んでたのに、いつの間にか名前で呼んでるし…何だか仲良くなってるから気になって」
不貞腐れた声音が沢田の口から零れる。楓香と視線が重なると、バツが悪そうに目尻を垂れさせた。
「骸さんは私にとって」
聞きたくないと言いたげに橙がぎゅっと閉じられる。
「お母さんだよ」
「………え゙っ」
伏せられた目がぎょっとして見開かれる。予想外の回答に言葉を失った沢田は呆然と立ち尽くしていた。
「私も骸さんも両親が居ないんだ。同じような境遇なら、ないもの同士で家族になろうって言ってくれて」
最初こそ冗談だと思っていた沢田だったが、楓香の様子が本気だと分かると顔色を変えた。
「本当に骸がそう言ったの?」
「うん。ずっと家族に憧れていたから嬉しかった。私がいい子にしてると褒めてくれて、頭を撫でる手が優しいんだ。だからお母さんって呼んでる。本人はすごく嫌がってるけど」
「この世で骸をお母さん呼びするのは楓香ちゃんだけだよ…」
異性として惹かれている訳じゃないと分かり、沢田は肩の力を抜いた。
だが、六道骸は底の見えない幻影に包まれた男だ。最後に見たあの意味深な笑みが引っかかり、直感が告げる。楓香に近付いたのには裏があると、沢田は眉を寄せた。それは、彼女がまだ言えずにいる秘密と関連している気がした。そう、骸はきっと何かを知り、楓香を利用しようとしている。
「どうしたの?」
口を閉ざした沢田だったが、おずおずと名前を呼ばれて俯いていた顔を上げた。
「………なんでもない」
ぐぬぬと歯を食いしばる顔は、あらゆる感情を必死に押し殺そうとしているようだ。明らかに態度が可笑しい沢田に「えー」と楓香は苦笑する。
「なんでもないって顔じゃないよ、それ」
「気にしないで」
六道に心を許すな、警戒しろ。そう伝えたいのに、楓香の嬉しそうな笑顔を前にすると憚られてしまう。六道を信頼している彼女を傷付けたくはないというジレンマに苛まれて、沢田は頭を抱え込みたくなった。
「変な綱吉君だー」
人の気も知らないで呑気にエコバッグを揺らす楓香を見詰める。彼女には穏やかに笑って過ごして欲しい、ただそれだけなんだと沢田は拳を握った。
家に到着してリビングに案内された楓香を待ち構えていたのは、海外のファッション雑誌の表紙から飛び出してきたような美しい女性だった。リボーンは用事があるらしく外出中だ。沢田から紹介され、ビアンキという居候のイタリア人にぺこりと頭を下げる。
「初めまして、佐倉楓香です」
「貴女がツナの恋人ね。…ふうん、なるほど」
頭のてっぺんから爪先までじっとりと観察され、強い視線に晒された楓香は身体が竦んだ。まさに蛇に睨まれた蛙になった気分だ。
ビアンキは鼻すじの通った美しい小顔があいまって九頭身に近いスタイルだ。手足は長く、それでいて豊満なバスト、文句なしの完璧なプロポーションは誰もが目を奪われるだろう。それは沢田とて例外ではない。
己の貧相な胸と見比べた楓香は「無い…」と溜め息を吐いた。良く言えば、お尻も腰も慎ましやかである。
「まだ成長途中なんだから落ち込まなくて良いわよ。ツナに大きくしてもらいなさい」
「なっ、何言ってんだよビアンキッ!?」
突然出てきた自分の名前に驚くと同時に意味を理解した沢田は、顔から火が出そうなくらい頬が熱くなり、隣に居る楓香を直視出来なかった。
しかし、肝心の彼女は特に気にした様子もなく、ジト目で沢田を見上げた。
「綱吉君、こんな歩いているだけでランウェイの幻覚が見えるパリコレモデル級の美しい人と同じ屋根の下で暮らしてて恋が始まらない訳ないよね?怒らないから正直に答えて」
「そ、そりゃあ確かにビアンキは綺麗だけど…って近い近い!」
ぐいぐいと距離を詰める勢いに圧倒されて、数歩後退りをした沢田は目の前に迫る彼女の唇を凝視する。
ぷるん、と艶のある柔らかな感触が蘇った瞬間、やっとのことで声を絞り出した。
「そんなに顔を近付けたら、ちゅーしたくなるだろ!」
静まり返ったリビングで沢田の声だけが木霊する。
ぽかんと口を開けていた楓香はその言葉を何度か咀嚼し、我に返ると口元に両手をやって沢田から飛び跳ねるように離れた。
「ゴ、ゴメンナサイ」
「…あっ、いや俺も変なこと言って、ご、ごめんなさい」
俯く両者の赤面した顔は熟したチェリーのようだ。ティーンの恋愛は甘酸っぱくて癒される。そんなことを思ったビアンキはふっと笑みを零すと、楓香の肩に手を置いた。
「安心しなさい。私が愛を誓うのはリボーンだけよ」
ぱちぱちと瞬きを繰り返す楓香が疑問符を浮かばせていると、沢田が口を開く。
「ビアンキはリボーンの四番目の愛人なんだ」
「あ、愛人!?……でも不思議と違和感がないような、リボーン君とビアンキさんお似合いかも」
全く幼児らしくないミステリアスなリボーンと妖艶で美麗なビアンキの組み合わせは、アダルトな雰囲気が相乗効果して絵になる。ただ、四番目の愛人について触れていいのか分からなかった。価値観は人それぞれなのだ。
楓香の肩に置かれたビアンキの手が頭に伸びて、そのまま髪を梳き、さらさらと白く細い指から黒が滑り落ちた。
「あら、いい子じゃない。気に入ったわ。今度女子会するんだけど良かったら来る?」
「良いんですか!はい、是非!」
年上の包容力に当てられ、人見知りを発動することなく楓香はビアンキに心を開く。もう連絡先を交換している女子達に、沢田は「打ち解け合うのはえー」と感心した。
シュコー、シュコー。
ガスマスク越しから聞こえる呼吸音がキッチンに響き渡る。どうしてこうなったんだろう、と楓香は遠い目で天井を見上げた。
予定していた通りに推しにぎりを作ろうとしたが、興味を持ったビアンキが「私も作りたい」と言ったのが全ての始まりである。
何故あの時、沢田が全力で拒否していたのか今になって分かった。
「す、すごい色の推しにぎりですね」
「うふふ…先日捕獲したツチノコのエキスと河童の甲羅を粉々にした特性のふりかけよ」
(あの幻の生き物達って存在してたんだ…)
沢田によると、ビアンキは料理をすると何故か毒入りの暗黒物質になってしまう能力の持ち主らしい。初めて聞いた時は、そんな馬鹿なと軽く受け流していた楓香だったが、マジだったのかと沢田にアイコンタクトを送った。
「だから言ったじゃん。とんでもないことになるって」
「まさか本当に闇堕ちしたジャムおじさんみたいな能力があるとは思わなくて」
完成した禍々しい推しにぎりをスマホで写真に収めているビアンキから距離を取った二人は小声で言葉を交わす。
室内は有毒ガスに覆われて危険なのでガスマスクを装着することになった。この異様な光景に慣れている沢田は、出来上がったコジロウの推しにぎりを見下ろした。毒に汚染されたソレはどこからどう見ても悪魔の兵器だった。
「あー、せっかく作ったのにやっぱり駄目だったかぁ…」
ビアンキの推しにぎりから放たれる毒ガスによって、沢田達の推しにぎりは見事に腐敗してしまった。
心から残念がる声がガスマスクから漏れる。どうにかしてあげたいが自分ではどうにも出来ない、と小さく溜め息を吐いた瞬間、楓香の頭の中に何かが閃いた。
(もしかして消失の力で毒素を消せるんじゃ…?)
物は試しに、この混沌の根源であるビアンキの推しにぎりに向かって念じてみた。指輪は嵌めていないが、これくらいなら問題ないだろう。
(なんとかなれーッ!)
すると、暗黒物質だった兵器が本来のおにぎりへと姿を変えていく。ブシュアアッと泡立っていた毒が消えていく光景に、浄化作業みたいだなと楓香は乾いた笑みで見守った。自分の異能が役に立ち、胸を撫で下ろす。
「……まぁ!」
写真を撮っていたビアンキが驚きの声を上げた。その推しにぎりに気付いた沢田が二度見、いや五度見をして目を丸くした。
「…なんかノーポイズンになってるーーッ!?」
とても信じられず綺麗になったビアンキの推しにぎりの元へ駆け寄る沢田の背中を見送り、楓香は空気中に漂う毒ガスを消すことに集中する。
(人間空気清浄機、いったれー!)
紫に覆われていた視界はたちまちに元通りになり、室内の毒ガスは完全に消えた。
「ど、どうなってるんだ?」
戸惑いながらもガスマスクを外した沢田は、推しにぎりを連写して撮っているビアンキに問いかける。
「これは全てビアンキがやったの?」
「分からない。私は何もしていないわ」
「じゃあどうして急に…」
難解なパズルを解くように頭を悩ませている沢田の手を取り、楓香はキッチンへと指を向けた。
「もう毒の心配はないんだったら、もう一度推しにぎり挑戦してみない?」
「う、うん!そうだね」
謎は残るが今は推し活をしよう。沢田は一旦思考を中断すると、楓香に手を引かれてキッチンへ歩み寄った。
今度こそ理想の推しにぎりを前にした沢田は、感動で目をキラキラと光らせた。たくさん写真を撮った後、実食をしてみる。
コジロウをイメージした推しにぎりは、スライスした胡瓜や人参、塩コショウをまぶしたツナマヨを酢飯で包んだサラダ風のおにぎりだ。焼き海苔をくり抜いてコジロウの顔を再現するのに手間がかかったが納得の仕上がりとなった。味は予想していたよりも美味だった。
三人で後片付けをしていると、インターホンが鳴った。突然の来客に首を傾げた沢田は玄関へと足を運ぶ。ドアを開けると、雲の隙間から覗く太陽に照らされて透き通った金髪が目に入る。
「よう、ツナ!」
いつもの明るい調子の声で挨拶をしたのは、沢田の兄弟子だった。
「ディーノさんッ!?」
塀の外にはキャバッローネファミリーの一員達がずらりと並んでいた。うげぇっと顔を顰めた沢田の肩に腕を回し、ディーノは朗らかに笑う。
「リボーンから聞いたぞ、あの子と恋人になったんだって?同盟ファミリーのボスとして、将来のボンゴレ婦人に挨拶しねーとな」
「頼むから帰ってくれーーッ!?」
沢田には何が何でもディーノを家に上がらせる訳にはいかない理由があった。
「今ちょっと取り込んでるから、また後日改めて…」
「んなこと言うなって、水臭いじゃねーか」
「お引き取りをーーッ!」
バタバタと両手を振ってディーノの前に立ち塞がった。沢田が拒めば拒む程にディーノの好奇心がうずうずと疼き、笑みが深まる。お互いに両手を掴んで押し相撲に発展しそうになった時、小さな影が二人の横を通り過ぎた。
「おい、楓香。客人が呼んでるぞ」
不在だった家庭教師の姿に虚を突かれ、一瞬沢田の反応が遅れた。
「なっ!?リボーン、お前がディーノさんを連れて来たのか?」
「そうだぞ。そろそろちゃんと顔合わせしねーとな」
家の奥から楓香の声が聞こえると、此方に向かう足音が徐々に大きくなる。最悪だ、と沢田は嘆いた。この胸に渦巻くのは、これから起こるであろう未来に対しての煮え切らない感情だった。
「リボーン君おかえりなさい。お客さんって誰………えっ?」
玄関から顔を出した楓香とディーノの視線がかち合う。ニカッと白い歯を見せて微笑んだディーノが鳶色の瞳を細めると、楓香の頬がぽっと赤く染まった。
沢田はディーノから手を放し、壁際に身体を預けてがっくりと肩を落とす。
「(これだから楓香ちゃんとディーノさんを会わせたくなかったんだ)」
楓香の推しであるムサシはディーノにそっくりな外見をしており、髪と目の色が違う亜種だと言われたら納得する程に似ていた。オタクならば推しの分身のような存在に出会ったら胸をときめかせるだろう。自分じゃない誰かに夢中になる恋人を見るのは少しモヤモヤするが、気持ちは理解出来るので複雑だった。
「初めまして。弟が世話になってるな、俺はツナの兄貴分ディーノだ」
「は…初めまして、いつも綱吉君のお世話をしております佐倉楓香です」
「二人共やめてよその紹介!」
どこか既視感のあるやり取りを済ますと、リボーンが「さっさと家に上がりやがれ」と沢田達へ飛び蹴りを食らわす。たくさんの部下に見送られながら、ディーノは沢田家に足を踏み入れた。
「ツナの恋人ってことは俺の妹になるのか。こんな可愛い妹が出来て嬉しいぜ。なぁ楓香、ディーノお兄ちゃんって呼んでくれよ」
「……は、はいっディーノお兄ちゃん♡」
「まずい、楓香ちゃんの目がハートに!?」
「おもしれーことになってるな」
「笑い事じゃないから!楓香ちゃんが骨抜きにされちゃった…どうするんだよお前のせいだぞリボーン!」
不意に廊下を歩いていたディーノが足をもたつかせたかと思うと、ぐらりと身体が楓香の方へ傾く。
「(そうだ!この人、部下が居ないとへんてこになるんだった!?)」
少女と青年の体格差は歴然としており、楓香は半ばディーノに押し倒される形で倒れ込んだ。
「いててて……悪い、大丈夫か」
ディーノはほとんど馬乗り状態で片手を床に突き立てて、辛うじて楓香を押し潰さずにいた。もう一方の腕の行方はと視線で追うと、それは慎ましやかな胸へと辿り着いた。
あっ、と思ったがもう遅い。慌てて沢田が駆け寄るが、楓香はすっかり白目を剥いて意識を飛ばしていた。チーンというおりんの音が相応しいと言わんばかりの気絶っぷりである。
ふと重たい瞼を持ち上げると、真っ先に見慣れない天井が視界に飛び込んできた。それをぼんやり眺めていれば、ふわふわとした意識が次第にはっきりしていく。
「……そうだ、思い出した」
廊下を歩いていたら急に衝撃が走って、そこから記憶はない。覚えているのは、推し活をするために沢田の家にやって来て―――見慣れない筈の、見覚えがあるような不思議な天井に楓香は目を丸くさせた。
「もしかして此処は綱吉君の部屋?」
上体を起こして室内をぐるりと見渡す。壁時計の針は午後三時を指していた。そんなに時間は経過していないらしい。
青色のシンプルなカーペット、小さな机と座布団が中央に配置され、ウォールシェルフにはFWのイベントで買った楓香とお揃いの写真立てがあった。コラボカフェで記念撮影をした写真が飾られている。この部屋の主は沢田で確定だ。
「じゃあ、私が座っているこのベッドは彼の…!?」
ゴクリと生唾を呑み込んだ。部屋には自分一人しか居ないのを確認すると、音を立てずにゆっくり寝転んだ。使っている枕の高さは低めで高反発タイプなんだ、寝落ち通話している時の沢田の視界はこんな感じなんだと次々に新たな発見があって、嬉しくなった楓香はついパタパタと足を動かした。
そして、枕に顔を沈ませてタオルケットにくるまる。そのまま肺に空気を入れようと息を吸い込んだ。ほんの微かに石鹸の匂いがして鼻腔を蕩かす。
(……なんか全身が綱吉君に包まれているみたいで幸せ)
すん、と鼻を鳴らした楓香は目を閉じて、うっとりと囁いた。
「綱吉君の匂いだ」
深呼吸をした後くの字に身体を丸め、ミノムシと化した楓香の身体が突然揺すられる。驚いた彼女は目を見開いた。
「おはよ、楓香ちゃん」
「…いつから見てたの」
その問いには答えず、沢田はベッドに片膝をついて乗せると、ギシリとバネが軋む音が鳴った。
「本人が目の前に居るんだから直接嗅いで良いんだよ」
「ダイジョーブ、デス」
あの変態じみた奇行を全て見られていたのだろうか。無性に恥ずかしくなった楓香は身体ごと背けるが、追いかけるように沢田が顔を覗き込む。
「こっち向いて、楓香ちゃん」
柔らかな声が耳元で鳴った。思いのほか沢田の顔は近く、息の掛かる程であった。
「俺の匂いでそんな可愛くなって、一体どうしたいの?食べちゃうぞ」
楓香が身動ぎすると、髪に隠れていた項が露になる。その艶めかしさに沢田は無意識の内に喉を鳴らした。
「楓香ちゃんの匂いは甘くて、くらくらするんだ」
短く吐き出された吐息が鼓膜を刺激し、タオルケットを持つ楓香の手が震えた。
すると、生温かい感触が耳に走る。
「ひゃっ」
リップ音が聴覚にダイレクトに響き、楓香は自分でも驚く程に身体が跳ねた。
両手で恥じらうように顔を隠し、いやいやと首を横に振るが「だーめ」と優しく窘められる。
「楓香ちゃんだって俺の耳食べたでしょ。仕返しだよ」
「そ、…んなのしらない」
沢田は押し退けようとする手を奪い、ゆっくりと指を絡ませてベッドに縫い付けた。
「酷いよ。あんなに味わっておいて当の本人は覚えてないなんて」
耳輪に歯を立てられながら囁かれる。
普段と違う沢田の様子に楓香は戸惑うばかりだった。訳も分からず、じわりと目の端に涙が浮かんだ。
「耳元で喋んないで」
「……かわいい」
濡れた耳にかかる息はくすぐったさとは別に熱を帯び、声が至近距離で吹き込まれる。
「ディーノさんとのアレは事故だって理解しているけど、楓香ちゃんが他の人に触られるのはすごく嫌だ。お願いだから、あんまり隙を見せないで。次は本当に食べちゃうからね。分かった?」
その脅迫めいた言葉は、沢田が言うと甘い響きに聞こえた。火照った顔の楓香はこくこくと頷く。
「楓香ちゃんの恋人は俺なのに」
じっと見下ろした後、眉根を寄せて声を落とす沢田は明らかにいじけていた。
「綱吉君、もしかして…」
言い終わる前に顎をそっと持ち上げられ、沢田の顔が迫り一瞬にして唇を奪われる。すぐに温もりが離れ、橙が楓香を映した。
「うるさい」
ぷいっと顔を横に向ける。沢田はご丁寧に図星だという意思表示をしてくれた。
(やっぱり妬いてたんだ…可愛い)
いきなり耳を舐めてきたのも嫉妬故の行動なのだろう。嬉しい反面、心臓に悪い。パタパタと熱くなった顔を仰いでいると、急に沢田がぐるんと首を回した。視線の先には、ニヨニヨと口元を歪めている野次馬が居た。
「いい加減、見物料取るからな」
少しだけ開けたドアの隙間から串団子のようにリボーン達が覗き見している。
最初から気付いていたのか、狼狽える楓香と違って沢田の目は呆れの色が混じっていた。
「別に良いだろ、減るもんじゃねーし」
「俺達のことは気にせず続けてくれ」
「ほら楓香、ツナに大きくしてもらいなさい」
恥ずかしさに耐え切れなくなった楓香がタオルケットを頭まで深く被ったのは言うまでもない。
晩御飯を食べ終えた沢田は部屋に戻ると、ベッドにごろんと仰向けになった。時間が経ち、もう楓香の温もりはないが匂いは微かに残っていた。
丸めたタオルケットを抱き締めて、思い切り顔を埋めた。甘い匂いをたっぷり堪能した沢田は、へにゃりと口角を緩ませた。
「なんつー顔してんだ、ツナ」
「気配消して部屋に入って来るの本当好きだよなお前ッ!?」
タオルケットを隠すように壁際へと押しやる。ぴょんとベッドに飛び乗ったリボーンがやれやれと肩を竦ませた。それを気まずい思いで見ていると、くりくりとした大きな瞳が少し細められる。
「食べる食べるって脅しておきながら、いざとなったら怖気づいて手出さねーだろ」
「…そっ……んなこと、あるかも」
悔しいが否定は出来ない。情けなくて下唇を噛むと、リボーンが鼻を鳴らし「ビビりが」と愉快げに悪態をつく。
「まっ、お前みたいなお子ちゃまの方が伸びしろがあるっていうもんだ。将来に期待だな」
これは彼なりにフォローしてくれているのだろうか。頬を掻いた沢田は小さく相槌を打った。
そして「話は変わるが」とリボーンが前置きを口にした。神妙な表情を浮かべているので首を傾げるが、差し出された例の推しにぎりを目にして頬杖をついていた手を離す。
「確認するが、これは本当にビアンキが作ったのか?」
「うん。ポイズンクッキングで毒塊になってたのに、何故か普通のおにぎりに戻ったんだ」
ふむ、と言って顎に手を添えたリボーンは暫し考え込んだ後、再び口を開いた。
「その時、楓香は何をしていた?」
「えっ、キッチンの前に立ってたよ。楓香ちゃんが関係していると思ってるのか?」
「あくまで可能性の話だ。断定するには根拠が乏しい」
ビアンキの了承の元、おにぎりはとある専門機関で精密調査することになった。
思いがけず大事になったなと苦笑いを浮かべている沢田に、スマホが着信を知らせる。山本からであった。
「もしもし、どうしたの?」
だが、電話に出たのは彼の父親だった。その告げられた衝撃の内容に言葉を失う。
「………山本が事故に遭って、意識不明の重体…?」
動揺して身体の力が抜けた沢田の手から、スマホが転がり落ちた。
カートを押す彼の背中を見詰め、無意識に口元が緩んでしまうのをグッと堪えた。熱い視線が注がれた背中はそろそろ穴が空いてしまいそうだ。いい加減視線をベラリと剥すが、すぐにその後ろ姿に惹き付けられる。
そんなことを何度か繰り返していると、ツンツン頭が振り返った。
「海苔の売り場って向こうだっけ?」
「う、うん。そうだよ」
買い物カゴには胡瓜や人参、ツナ缶等が顔を覗かせていた。これらは全て推しにぎりの材料である。
土曜日のお昼時、楓香と沢田は推し活をするべくスーパーへ買い出しに来ていた。
「これで全部…っと」
手にした焼き海苔をカゴに入れた沢田は、買い物リストが書かれたメモから視線を上げる。
「楓香ちゃん、さっきからずーっとニヤけてるけど何かあった?」
彼の後ろに立っていたので気付かれていないと思っていたが、違ったようだ。誤魔化そうにも、相手に見られていたのだから言い訳の仕様がない。
言葉を濁す楓香を静かに見守っている沢田の笑みは、素直に白状するまで一歩も動くまいという意志を感じる。その無言の圧力に屈した楓香は両手の人差し指を突き合わせて、もじもじと俯いた。
「そ、想像しちゃったんだ。綱吉君と結婚したら、こんな感じでお買い物するのかなって」
「えっ…」
その戸惑う声に、自分の発言をすぐ後悔して羞恥心が一気に迫り上がる。
「ごめん重たくて引いたよね!結婚とか勝手に妄想して浮かれて、あぁもう恥ずかしい」
スーパーを利用していると、子供連れの親や仲睦まじい夫婦を見かけることが多く、一人で買い物していると何だか寂しい気持ちになるので店内に居るのが少し苦痛だった。
だけど、今は傍に沢田が居る。彼と一緒に買い物をするのが楽しくて、調子に乗った楓香はこの先の未来を思い描いてしまった―――子供を連れた沢田と自分の姿を。
「あっ、そうだ。フゥ太君達のお菓子も買おう、そうしよう!」
強引に話を変えた楓香は沢田の反応を待たずにカートを奪うと、急ぎ足で歩き出す。背後から名を呼ぶ声が聞こえるが、足を止めることはなかった。
たくさんのお菓子に囲まれながら、その場で身体をしゃがませて子供達が喜びそうなものを吟味していると、同じように身を屈めた沢田が顔を覗き込む。
「最近ランボはブドウ味のわたあめにハマってるんだ」
「そうなんだ!じゃあそれとイチゴ味とレモン味も買っていこっか」
「うん。楓香ちゃんって将来良いお母さんになりそうだよね。子供思いなところとかさ」
つい手に取ったわたあめの袋を落としそうになったが、寸前で沢田が受け止めた。
「俺も想像しちゃった」
思わず隣を見ようとする前に、沢田が立ち上がってカートを押しながら足早に歩く。表情は伺えなかったが、耳朶がほんのりと薄紅色に色付いていた。
紳士的な沢田は荷物持ちを自ら申し出たが、買い物の支払いを奢ってもらったのもあり楓香は譲らなかった。話し合った結果、エコバッグの持ち手を分け合うことになった。
道端には楓香達とその二人の間にぶら下がっている荷物の影が伸びている。まるで子供の手を繋いだ三人家族のようだ。照れ臭くなった楓香が持ち手をゆらゆらと揺らせば「こら」と軽く叱られた。
ふわふわとした心地良い時間が流れる。角を曲がると沢田の家が視界に入り、もう少しこのまま一緒に歩きたかったなと楓香は名残惜しく思った。
「今日、母さんと子供達はスイパラに出掛けてて不在なんだ。帰って来たらお菓子渡しておくね」
ピタリと楓香の足が止まる。その拍子に持ち手を掴んでいた沢田が引っ張られて、後ろへつんのめってしまった。
よろける身体を何とか踏ん張り耐えると「楓香ちゃん?」と振り返った。
「…今、家に誰も居ないの?」
てっきり居候の子達とわいわい推しにぎりを作るものだと思い込んでいた。沢田と二人きりだなんて、いろんな意味で心臓に悪い。楓香が気まずそうに目を逸らすと、そこでようやく察した沢田が慌ただしく首を横に振った。
「えっ、あぁ、違う違う!ビアンキとリボーンは居るよ!」
「…そっか」
ほっと息を吐き、ゆっくりと楓香の緊張が解けた。しかし、お互いが妙に意識をしてしまい、会話が続かなくなり沈黙が包み込む。
この状況を打破する為に話題を探していた沢田の脳内にとある疑問が浮かんだ。それは、前々から気になっていた楓香と六道の関係である。
「……楓香ちゃんって、骸のことどう思ってるの?」
今度は沢田の足が止まった。意外な人物の名前が出てきて、楓香は瞬きをした。
「えっ、骸さん?」
「だって前までは六道さんって呼んでたのに、いつの間にか名前で呼んでるし…何だか仲良くなってるから気になって」
不貞腐れた声音が沢田の口から零れる。楓香と視線が重なると、バツが悪そうに目尻を垂れさせた。
「骸さんは私にとって」
聞きたくないと言いたげに橙がぎゅっと閉じられる。
「お母さんだよ」
「………え゙っ」
伏せられた目がぎょっとして見開かれる。予想外の回答に言葉を失った沢田は呆然と立ち尽くしていた。
「私も骸さんも両親が居ないんだ。同じような境遇なら、ないもの同士で家族になろうって言ってくれて」
最初こそ冗談だと思っていた沢田だったが、楓香の様子が本気だと分かると顔色を変えた。
「本当に骸がそう言ったの?」
「うん。ずっと家族に憧れていたから嬉しかった。私がいい子にしてると褒めてくれて、頭を撫でる手が優しいんだ。だからお母さんって呼んでる。本人はすごく嫌がってるけど」
「この世で骸をお母さん呼びするのは楓香ちゃんだけだよ…」
異性として惹かれている訳じゃないと分かり、沢田は肩の力を抜いた。
だが、六道骸は底の見えない幻影に包まれた男だ。最後に見たあの意味深な笑みが引っかかり、直感が告げる。楓香に近付いたのには裏があると、沢田は眉を寄せた。それは、彼女がまだ言えずにいる秘密と関連している気がした。そう、骸はきっと何かを知り、楓香を利用しようとしている。
「どうしたの?」
口を閉ざした沢田だったが、おずおずと名前を呼ばれて俯いていた顔を上げた。
「………なんでもない」
ぐぬぬと歯を食いしばる顔は、あらゆる感情を必死に押し殺そうとしているようだ。明らかに態度が可笑しい沢田に「えー」と楓香は苦笑する。
「なんでもないって顔じゃないよ、それ」
「気にしないで」
六道に心を許すな、警戒しろ。そう伝えたいのに、楓香の嬉しそうな笑顔を前にすると憚られてしまう。六道を信頼している彼女を傷付けたくはないというジレンマに苛まれて、沢田は頭を抱え込みたくなった。
「変な綱吉君だー」
人の気も知らないで呑気にエコバッグを揺らす楓香を見詰める。彼女には穏やかに笑って過ごして欲しい、ただそれだけなんだと沢田は拳を握った。
家に到着してリビングに案内された楓香を待ち構えていたのは、海外のファッション雑誌の表紙から飛び出してきたような美しい女性だった。リボーンは用事があるらしく外出中だ。沢田から紹介され、ビアンキという居候のイタリア人にぺこりと頭を下げる。
「初めまして、佐倉楓香です」
「貴女がツナの恋人ね。…ふうん、なるほど」
頭のてっぺんから爪先までじっとりと観察され、強い視線に晒された楓香は身体が竦んだ。まさに蛇に睨まれた蛙になった気分だ。
ビアンキは鼻すじの通った美しい小顔があいまって九頭身に近いスタイルだ。手足は長く、それでいて豊満なバスト、文句なしの完璧なプロポーションは誰もが目を奪われるだろう。それは沢田とて例外ではない。
己の貧相な胸と見比べた楓香は「無い…」と溜め息を吐いた。良く言えば、お尻も腰も慎ましやかである。
「まだ成長途中なんだから落ち込まなくて良いわよ。ツナに大きくしてもらいなさい」
「なっ、何言ってんだよビアンキッ!?」
突然出てきた自分の名前に驚くと同時に意味を理解した沢田は、顔から火が出そうなくらい頬が熱くなり、隣に居る楓香を直視出来なかった。
しかし、肝心の彼女は特に気にした様子もなく、ジト目で沢田を見上げた。
「綱吉君、こんな歩いているだけでランウェイの幻覚が見えるパリコレモデル級の美しい人と同じ屋根の下で暮らしてて恋が始まらない訳ないよね?怒らないから正直に答えて」
「そ、そりゃあ確かにビアンキは綺麗だけど…って近い近い!」
ぐいぐいと距離を詰める勢いに圧倒されて、数歩後退りをした沢田は目の前に迫る彼女の唇を凝視する。
ぷるん、と艶のある柔らかな感触が蘇った瞬間、やっとのことで声を絞り出した。
「そんなに顔を近付けたら、ちゅーしたくなるだろ!」
静まり返ったリビングで沢田の声だけが木霊する。
ぽかんと口を開けていた楓香はその言葉を何度か咀嚼し、我に返ると口元に両手をやって沢田から飛び跳ねるように離れた。
「ゴ、ゴメンナサイ」
「…あっ、いや俺も変なこと言って、ご、ごめんなさい」
俯く両者の赤面した顔は熟したチェリーのようだ。ティーンの恋愛は甘酸っぱくて癒される。そんなことを思ったビアンキはふっと笑みを零すと、楓香の肩に手を置いた。
「安心しなさい。私が愛を誓うのはリボーンだけよ」
ぱちぱちと瞬きを繰り返す楓香が疑問符を浮かばせていると、沢田が口を開く。
「ビアンキはリボーンの四番目の愛人なんだ」
「あ、愛人!?……でも不思議と違和感がないような、リボーン君とビアンキさんお似合いかも」
全く幼児らしくないミステリアスなリボーンと妖艶で美麗なビアンキの組み合わせは、アダルトな雰囲気が相乗効果して絵になる。ただ、四番目の愛人について触れていいのか分からなかった。価値観は人それぞれなのだ。
楓香の肩に置かれたビアンキの手が頭に伸びて、そのまま髪を梳き、さらさらと白く細い指から黒が滑り落ちた。
「あら、いい子じゃない。気に入ったわ。今度女子会するんだけど良かったら来る?」
「良いんですか!はい、是非!」
年上の包容力に当てられ、人見知りを発動することなく楓香はビアンキに心を開く。もう連絡先を交換している女子達に、沢田は「打ち解け合うのはえー」と感心した。
シュコー、シュコー。
ガスマスク越しから聞こえる呼吸音がキッチンに響き渡る。どうしてこうなったんだろう、と楓香は遠い目で天井を見上げた。
予定していた通りに推しにぎりを作ろうとしたが、興味を持ったビアンキが「私も作りたい」と言ったのが全ての始まりである。
何故あの時、沢田が全力で拒否していたのか今になって分かった。
「す、すごい色の推しにぎりですね」
「うふふ…先日捕獲したツチノコのエキスと河童の甲羅を粉々にした特性のふりかけよ」
(あの幻の生き物達って存在してたんだ…)
沢田によると、ビアンキは料理をすると何故か毒入りの暗黒物質になってしまう能力の持ち主らしい。初めて聞いた時は、そんな馬鹿なと軽く受け流していた楓香だったが、マジだったのかと沢田にアイコンタクトを送った。
「だから言ったじゃん。とんでもないことになるって」
「まさか本当に闇堕ちしたジャムおじさんみたいな能力があるとは思わなくて」
完成した禍々しい推しにぎりをスマホで写真に収めているビアンキから距離を取った二人は小声で言葉を交わす。
室内は有毒ガスに覆われて危険なのでガスマスクを装着することになった。この異様な光景に慣れている沢田は、出来上がったコジロウの推しにぎりを見下ろした。毒に汚染されたソレはどこからどう見ても悪魔の兵器だった。
「あー、せっかく作ったのにやっぱり駄目だったかぁ…」
ビアンキの推しにぎりから放たれる毒ガスによって、沢田達の推しにぎりは見事に腐敗してしまった。
心から残念がる声がガスマスクから漏れる。どうにかしてあげたいが自分ではどうにも出来ない、と小さく溜め息を吐いた瞬間、楓香の頭の中に何かが閃いた。
(もしかして消失の力で毒素を消せるんじゃ…?)
物は試しに、この混沌の根源であるビアンキの推しにぎりに向かって念じてみた。指輪は嵌めていないが、これくらいなら問題ないだろう。
(なんとかなれーッ!)
すると、暗黒物質だった兵器が本来のおにぎりへと姿を変えていく。ブシュアアッと泡立っていた毒が消えていく光景に、浄化作業みたいだなと楓香は乾いた笑みで見守った。自分の異能が役に立ち、胸を撫で下ろす。
「……まぁ!」
写真を撮っていたビアンキが驚きの声を上げた。その推しにぎりに気付いた沢田が二度見、いや五度見をして目を丸くした。
「…なんかノーポイズンになってるーーッ!?」
とても信じられず綺麗になったビアンキの推しにぎりの元へ駆け寄る沢田の背中を見送り、楓香は空気中に漂う毒ガスを消すことに集中する。
(人間空気清浄機、いったれー!)
紫に覆われていた視界はたちまちに元通りになり、室内の毒ガスは完全に消えた。
「ど、どうなってるんだ?」
戸惑いながらもガスマスクを外した沢田は、推しにぎりを連写して撮っているビアンキに問いかける。
「これは全てビアンキがやったの?」
「分からない。私は何もしていないわ」
「じゃあどうして急に…」
難解なパズルを解くように頭を悩ませている沢田の手を取り、楓香はキッチンへと指を向けた。
「もう毒の心配はないんだったら、もう一度推しにぎり挑戦してみない?」
「う、うん!そうだね」
謎は残るが今は推し活をしよう。沢田は一旦思考を中断すると、楓香に手を引かれてキッチンへ歩み寄った。
今度こそ理想の推しにぎりを前にした沢田は、感動で目をキラキラと光らせた。たくさん写真を撮った後、実食をしてみる。
コジロウをイメージした推しにぎりは、スライスした胡瓜や人参、塩コショウをまぶしたツナマヨを酢飯で包んだサラダ風のおにぎりだ。焼き海苔をくり抜いてコジロウの顔を再現するのに手間がかかったが納得の仕上がりとなった。味は予想していたよりも美味だった。
三人で後片付けをしていると、インターホンが鳴った。突然の来客に首を傾げた沢田は玄関へと足を運ぶ。ドアを開けると、雲の隙間から覗く太陽に照らされて透き通った金髪が目に入る。
「よう、ツナ!」
いつもの明るい調子の声で挨拶をしたのは、沢田の兄弟子だった。
「ディーノさんッ!?」
塀の外にはキャバッローネファミリーの一員達がずらりと並んでいた。うげぇっと顔を顰めた沢田の肩に腕を回し、ディーノは朗らかに笑う。
「リボーンから聞いたぞ、あの子と恋人になったんだって?同盟ファミリーのボスとして、将来のボンゴレ婦人に挨拶しねーとな」
「頼むから帰ってくれーーッ!?」
沢田には何が何でもディーノを家に上がらせる訳にはいかない理由があった。
「今ちょっと取り込んでるから、また後日改めて…」
「んなこと言うなって、水臭いじゃねーか」
「お引き取りをーーッ!」
バタバタと両手を振ってディーノの前に立ち塞がった。沢田が拒めば拒む程にディーノの好奇心がうずうずと疼き、笑みが深まる。お互いに両手を掴んで押し相撲に発展しそうになった時、小さな影が二人の横を通り過ぎた。
「おい、楓香。客人が呼んでるぞ」
不在だった家庭教師の姿に虚を突かれ、一瞬沢田の反応が遅れた。
「なっ!?リボーン、お前がディーノさんを連れて来たのか?」
「そうだぞ。そろそろちゃんと顔合わせしねーとな」
家の奥から楓香の声が聞こえると、此方に向かう足音が徐々に大きくなる。最悪だ、と沢田は嘆いた。この胸に渦巻くのは、これから起こるであろう未来に対しての煮え切らない感情だった。
「リボーン君おかえりなさい。お客さんって誰………えっ?」
玄関から顔を出した楓香とディーノの視線がかち合う。ニカッと白い歯を見せて微笑んだディーノが鳶色の瞳を細めると、楓香の頬がぽっと赤く染まった。
沢田はディーノから手を放し、壁際に身体を預けてがっくりと肩を落とす。
「(これだから楓香ちゃんとディーノさんを会わせたくなかったんだ)」
楓香の推しであるムサシはディーノにそっくりな外見をしており、髪と目の色が違う亜種だと言われたら納得する程に似ていた。オタクならば推しの分身のような存在に出会ったら胸をときめかせるだろう。自分じゃない誰かに夢中になる恋人を見るのは少しモヤモヤするが、気持ちは理解出来るので複雑だった。
「初めまして。弟が世話になってるな、俺はツナの兄貴分ディーノだ」
「は…初めまして、いつも綱吉君のお世話をしております佐倉楓香です」
「二人共やめてよその紹介!」
どこか既視感のあるやり取りを済ますと、リボーンが「さっさと家に上がりやがれ」と沢田達へ飛び蹴りを食らわす。たくさんの部下に見送られながら、ディーノは沢田家に足を踏み入れた。
「ツナの恋人ってことは俺の妹になるのか。こんな可愛い妹が出来て嬉しいぜ。なぁ楓香、ディーノお兄ちゃんって呼んでくれよ」
「……は、はいっディーノお兄ちゃん♡」
「まずい、楓香ちゃんの目がハートに!?」
「おもしれーことになってるな」
「笑い事じゃないから!楓香ちゃんが骨抜きにされちゃった…どうするんだよお前のせいだぞリボーン!」
不意に廊下を歩いていたディーノが足をもたつかせたかと思うと、ぐらりと身体が楓香の方へ傾く。
「(そうだ!この人、部下が居ないとへんてこになるんだった!?)」
少女と青年の体格差は歴然としており、楓香は半ばディーノに押し倒される形で倒れ込んだ。
「いててて……悪い、大丈夫か」
ディーノはほとんど馬乗り状態で片手を床に突き立てて、辛うじて楓香を押し潰さずにいた。もう一方の腕の行方はと視線で追うと、それは慎ましやかな胸へと辿り着いた。
あっ、と思ったがもう遅い。慌てて沢田が駆け寄るが、楓香はすっかり白目を剥いて意識を飛ばしていた。チーンというおりんの音が相応しいと言わんばかりの気絶っぷりである。
ふと重たい瞼を持ち上げると、真っ先に見慣れない天井が視界に飛び込んできた。それをぼんやり眺めていれば、ふわふわとした意識が次第にはっきりしていく。
「……そうだ、思い出した」
廊下を歩いていたら急に衝撃が走って、そこから記憶はない。覚えているのは、推し活をするために沢田の家にやって来て―――見慣れない筈の、見覚えがあるような不思議な天井に楓香は目を丸くさせた。
「もしかして此処は綱吉君の部屋?」
上体を起こして室内をぐるりと見渡す。壁時計の針は午後三時を指していた。そんなに時間は経過していないらしい。
青色のシンプルなカーペット、小さな机と座布団が中央に配置され、ウォールシェルフにはFWのイベントで買った楓香とお揃いの写真立てがあった。コラボカフェで記念撮影をした写真が飾られている。この部屋の主は沢田で確定だ。
「じゃあ、私が座っているこのベッドは彼の…!?」
ゴクリと生唾を呑み込んだ。部屋には自分一人しか居ないのを確認すると、音を立てずにゆっくり寝転んだ。使っている枕の高さは低めで高反発タイプなんだ、寝落ち通話している時の沢田の視界はこんな感じなんだと次々に新たな発見があって、嬉しくなった楓香はついパタパタと足を動かした。
そして、枕に顔を沈ませてタオルケットにくるまる。そのまま肺に空気を入れようと息を吸い込んだ。ほんの微かに石鹸の匂いがして鼻腔を蕩かす。
(……なんか全身が綱吉君に包まれているみたいで幸せ)
すん、と鼻を鳴らした楓香は目を閉じて、うっとりと囁いた。
「綱吉君の匂いだ」
深呼吸をした後くの字に身体を丸め、ミノムシと化した楓香の身体が突然揺すられる。驚いた彼女は目を見開いた。
「おはよ、楓香ちゃん」
「…いつから見てたの」
その問いには答えず、沢田はベッドに片膝をついて乗せると、ギシリとバネが軋む音が鳴った。
「本人が目の前に居るんだから直接嗅いで良いんだよ」
「ダイジョーブ、デス」
あの変態じみた奇行を全て見られていたのだろうか。無性に恥ずかしくなった楓香は身体ごと背けるが、追いかけるように沢田が顔を覗き込む。
「こっち向いて、楓香ちゃん」
柔らかな声が耳元で鳴った。思いのほか沢田の顔は近く、息の掛かる程であった。
「俺の匂いでそんな可愛くなって、一体どうしたいの?食べちゃうぞ」
楓香が身動ぎすると、髪に隠れていた項が露になる。その艶めかしさに沢田は無意識の内に喉を鳴らした。
「楓香ちゃんの匂いは甘くて、くらくらするんだ」
短く吐き出された吐息が鼓膜を刺激し、タオルケットを持つ楓香の手が震えた。
すると、生温かい感触が耳に走る。
「ひゃっ」
リップ音が聴覚にダイレクトに響き、楓香は自分でも驚く程に身体が跳ねた。
両手で恥じらうように顔を隠し、いやいやと首を横に振るが「だーめ」と優しく窘められる。
「楓香ちゃんだって俺の耳食べたでしょ。仕返しだよ」
「そ、…んなのしらない」
沢田は押し退けようとする手を奪い、ゆっくりと指を絡ませてベッドに縫い付けた。
「酷いよ。あんなに味わっておいて当の本人は覚えてないなんて」
耳輪に歯を立てられながら囁かれる。
普段と違う沢田の様子に楓香は戸惑うばかりだった。訳も分からず、じわりと目の端に涙が浮かんだ。
「耳元で喋んないで」
「……かわいい」
濡れた耳にかかる息はくすぐったさとは別に熱を帯び、声が至近距離で吹き込まれる。
「ディーノさんとのアレは事故だって理解しているけど、楓香ちゃんが他の人に触られるのはすごく嫌だ。お願いだから、あんまり隙を見せないで。次は本当に食べちゃうからね。分かった?」
その脅迫めいた言葉は、沢田が言うと甘い響きに聞こえた。火照った顔の楓香はこくこくと頷く。
「楓香ちゃんの恋人は俺なのに」
じっと見下ろした後、眉根を寄せて声を落とす沢田は明らかにいじけていた。
「綱吉君、もしかして…」
言い終わる前に顎をそっと持ち上げられ、沢田の顔が迫り一瞬にして唇を奪われる。すぐに温もりが離れ、橙が楓香を映した。
「うるさい」
ぷいっと顔を横に向ける。沢田はご丁寧に図星だという意思表示をしてくれた。
(やっぱり妬いてたんだ…可愛い)
いきなり耳を舐めてきたのも嫉妬故の行動なのだろう。嬉しい反面、心臓に悪い。パタパタと熱くなった顔を仰いでいると、急に沢田がぐるんと首を回した。視線の先には、ニヨニヨと口元を歪めている野次馬が居た。
「いい加減、見物料取るからな」
少しだけ開けたドアの隙間から串団子のようにリボーン達が覗き見している。
最初から気付いていたのか、狼狽える楓香と違って沢田の目は呆れの色が混じっていた。
「別に良いだろ、減るもんじゃねーし」
「俺達のことは気にせず続けてくれ」
「ほら楓香、ツナに大きくしてもらいなさい」
恥ずかしさに耐え切れなくなった楓香がタオルケットを頭まで深く被ったのは言うまでもない。
晩御飯を食べ終えた沢田は部屋に戻ると、ベッドにごろんと仰向けになった。時間が経ち、もう楓香の温もりはないが匂いは微かに残っていた。
丸めたタオルケットを抱き締めて、思い切り顔を埋めた。甘い匂いをたっぷり堪能した沢田は、へにゃりと口角を緩ませた。
「なんつー顔してんだ、ツナ」
「気配消して部屋に入って来るの本当好きだよなお前ッ!?」
タオルケットを隠すように壁際へと押しやる。ぴょんとベッドに飛び乗ったリボーンがやれやれと肩を竦ませた。それを気まずい思いで見ていると、くりくりとした大きな瞳が少し細められる。
「食べる食べるって脅しておきながら、いざとなったら怖気づいて手出さねーだろ」
「…そっ……んなこと、あるかも」
悔しいが否定は出来ない。情けなくて下唇を噛むと、リボーンが鼻を鳴らし「ビビりが」と愉快げに悪態をつく。
「まっ、お前みたいなお子ちゃまの方が伸びしろがあるっていうもんだ。将来に期待だな」
これは彼なりにフォローしてくれているのだろうか。頬を掻いた沢田は小さく相槌を打った。
そして「話は変わるが」とリボーンが前置きを口にした。神妙な表情を浮かべているので首を傾げるが、差し出された例の推しにぎりを目にして頬杖をついていた手を離す。
「確認するが、これは本当にビアンキが作ったのか?」
「うん。ポイズンクッキングで毒塊になってたのに、何故か普通のおにぎりに戻ったんだ」
ふむ、と言って顎に手を添えたリボーンは暫し考え込んだ後、再び口を開いた。
「その時、楓香は何をしていた?」
「えっ、キッチンの前に立ってたよ。楓香ちゃんが関係していると思ってるのか?」
「あくまで可能性の話だ。断定するには根拠が乏しい」
ビアンキの了承の元、おにぎりはとある専門機関で精密調査することになった。
思いがけず大事になったなと苦笑いを浮かべている沢田に、スマホが着信を知らせる。山本からであった。
「もしもし、どうしたの?」
だが、電話に出たのは彼の父親だった。その告げられた衝撃の内容に言葉を失う。
「………山本が事故に遭って、意識不明の重体…?」
動揺して身体の力が抜けた沢田の手から、スマホが転がり落ちた。