泡沫トワイライト
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ㅤ楓香が六道の手伝いをすることに、あまりいい顔をしていなかった沢田は一つの条件を飲むことで妥協する。それは、六道に会いに行く時は沢田の送迎が必須であるというものだった。
ㅤ黒曜ランドへ仲良く向かった二人は名残惜しくも別れると、楓香は門扉をくぐった。
ㅤすっかり慣れた足取りで施設の広間に到着すれば、ソファの背もたれに寄りかかって腕を組み瞑想している男が居た。
「こんばんは、楓香」
ㅤ六道は目を閉じているにも拘らず、あたかも楓香を視界に入れたかのように挨拶をした。
「六道さん、こんばんは。よく私だと気付きましたね」
「君の足音は分りやすい」
「えっ、どんな足音ですか?」
「猫の前の鼠、もしくは猛禽類に捕獲される寸前の野兎ですかね」
「…そんなに生命脅かされてますか私」
ㅤすると、目蓋を開けた六道は意味ありげな笑みを口元に浮かばせて腰を上げる。
ㅤその無言の笑顔が不気味だったので変な汗が出そうになり、これ以上の問答は諦めた。
ㅤ広間を出ると建物の裏側に到着した六道は足を止め、振り返る。
「今回は此方の処分をお願いします」
ㅤその場所は辺り一帯が廃材や瓦礫で埋め尽くされていた。まるで荒廃した世界へ迷い込んだ気持ちになり、キョロキョロと見渡す。
「現段階で検証が可能なものは全て終えていますので、そのまま消してしまって構いません」
「了解です」
ㅤ今日に至るまで六道の協力の下たくさんの異能調査を重ねていき、敷地内の草を全て一掃した頃にはある程度理解出来た。
ㅤ念じれば異能が発動して対象のものを完全に消失させ、楓香との距離が離れる程にその効果は薄くなり、その分体力も削られる。
ㅤだが指輪を嵌めると、リミッターが解除され無限に力を使えるので、広範囲に適用することが出来るというチート特性だった。
ㅤつまり、指輪さえあれば異能は使い放題だが、無装備の状態で発動すると命を落とす危険があるということだ。
ㅤ楓香は指輪を嵌めている間、無意識の内に消失のバリアを展開し、危害が及ぶのを防いでいることも判明した。
(もうこの指輪は私のお守りみたいなものだよね)
ㅤ消失の力はありとあらゆる生物や無機質、そして怪我の傷さえも対象となる。
ㅤ他人の記憶も消せるのかと六道は試したがっていたが、何かの手違いで全ての記憶を失ってしまった場合の責任が取れないので、一旦保留となった。
「これでよしっと」
ㅤ山積みになっていた廃材を片っ端から消していき、最後のコンクリート塊も無くなって仕事を終えると、それまで後ろで観察していた六道が歩み寄って来た。
「ご苦労様でした。此方が本日の報酬です」
ㅤパンパンに膨らんだ茶封筒を受け取り、ちらりと中身を確認した楓香は「わァ」と思わず歓喜する。
「あの、こんなに頂いて良いんでしょうか」
「そう言いつつ懐に仕舞うその素直さ、ダメ弟子にも見習って欲しいものだ」
ㅤその大金の重さが心地良くて、楓香は小躍りしたい気持ちを抑えながら「フッ」と笑った。
ㅤスマホで現在時刻を確認すると、沢田が迎えに来るまでにたっぷりと時間がある。
ㅤならば、と正面に佇む彼を見上げる。楓香の思考を読んだ六道は言葉を交わすことなく頷いた。
ㅤ楓香から距離を取り、少し離れた所に立った六道は三叉槍を手に持つ。
「確かにその力は素晴らしい。ただ、使い手次第では宝の持ち腐れにもなり得る」
ㅤ豚に真珠だと遠回しに言われている気がするが、楓香を選んだのは指輪の方だ。
ㅤ手元に視線を落とす。指輪は夕焼けに照らされて茜色に輝いていた。
「難点を挙げるならば、君は感情に振り回され衝動的に力を行使してしまう嫌いがある。非常に危ういことです。それを自覚するべきだ」
ㅤ確かにその通りなので、ぐうの音も出ない。指摘された内容に心当たりがあった。
ㅤ正々堂々と戦わず山本の自転車に細工しようとした彼ら、猫を虐待していた畜生な男達などを前にして頭に血が上り、カッとなった楓香は怒りに身を任せて異能を発動した。
ㅤもし、あの場に無関係の第三者が居たら?楓香の力に巻き込まれ、取り返しのつかない事態に陥ってしまったら?
(ミイラ取りがミイラになるように、私も彼らと同じく加害者になっていたかも知れない)
ㅤ誰かを守る為に力を使ったと正当化しても、暴力は暴力を生む。
ㅤそんな不毛の連鎖を断ち切るには、どんなことが起きようとも冷静に物事を判断し最善の行動を取る精神力が必要だ。
「正しく力を扱えない者は、その力を持つ資格などありません」
ㅤその六道の教えに楓香は力強く首を縦に振った。
「はい、師匠!」
ㅤ時間が余っている時は、こうして異能の特訓に付き合ってもらうのが恒例となっている。
ㅤ弟子は取らないと拒んでいたが、楓香の強い押しに負けた六道は渋々流されてくれた。
ㅤ師匠と呼べば、六道の澄ました顔が一瞬崩れる。微妙な目付きで楓香を見遣るのがクセになり何度も呼んでしまった結果、特訓中だけ師匠呼びすることを限定された。
ㅤなので今だけは思う存分、師匠と呼んでやる。
「では、始めましょうか」
ㅤ三叉槍が地を突いた途端、霧が視界を覆った。だんだんと夕日の光が弱まり、薄暗くなっていく。
ㅤ鴉の鳴き声も届かない、静寂に包まれた世界にぽつんと楓香は立っていた。
ㅤ六道も姿をくらませたのか見当たらない。周辺を警戒していると、突然地面から手が生えた。
(ひぃっ…師匠の幻覚ってCGよりもリアルだから本物みたい。映画製作会社に就職したら絶対重宝されるだろうな)
ㅤ薄気味悪く蠢きながら土から現れたのは、理性を感じさせない白濁の目をした屍だった。腐敗が進んでいるのか身体の至るところに骨が浮き出ており、嫌な生々しさを感じた。
(無駄に再現性高いのやめて欲しい…)
ㅤずずずと這い出て来た屍の群れは、ゆっくりと此方に近寄る。
ㅤ楓香は逃げ出したい気持ちを必死に抑えているが、その顔は引き攣っていた。
ㅤもたついた足取りの屍が、不意にぐるんと顔を上げた。目が合った瞬間、大きな口を開けて噛み付かんばかりの勢いで接近する。
「…来ないで!」
ㅤ手を振り翳すと一瞬で屍が消滅した。そのまま群れごと消し去り、楓香の荒い呼吸だけがその場に残った。
ㅤ暴れる鼓動が耳元で鳴り響き、緊張と恐怖が血液と共に全身を駆け巡っていたが、目の前の脅威が無くなると次第に落ち着いていく。
ㅤすると、何処からか六道の駄目出しが降って来た。
「やれやれ。屍の群れの中に人間が紛れていたにも拘わらず力を行使するとは。…たった今、君は無関係の者を巻き込み、存在を消してしまった。こうして衝動に駆られ異能を使えば、いずれ遠くない未来でも同じことが起きますよ」
ㅤその未来を想像した楓香は震える手を握り締めて、先程の行いを反省する。
「己を守りながらも、屍から人間を助けなさい」
「…はい」
ㅤ恐怖心によって正常な判断が出来ず、人の存在に気付く余裕などなかった。ただ、迫り来る危険から身を守ることに必死だった。
ㅤまたぞろぞろと四方八方から沸いて出てきた屍を前に、楓香は深呼吸をする。
ㅤ今度こそと気合いを入れ直した。
(確かによく見ると群れの中に人が居る。それなのに私は消してしまったんだ。…幻で本当に良かった)
ㅤ理不尽に誰かの命を奪うなんてことは、絶対にしたくない。
ㅤ飛びかかる屍を消していくが、余裕のない楓香は屍の身体の一部をくり抜く消し方をしてしまった。屍は四肢が欠損しようがお構いなく、本能のままに再び楓香を狙う。
(人を助けるのに集中していると、自分に襲いかかる屍の対処が遅れて思うように消せない…!)
ㅤそれでも諦めずに力を使っていれば、群れの数は徐々に減っていった。
ㅤ手に汗を握りながら屍を討伐するのに没頭していると、死角から奇襲を仕掛けられる。
ㅤ完全に油断していた楓香は、その不意打ちに思考が停止してしまった。
(あ、終わった)
ㅤ頭の中でゲームオーバーの文字が浮かんで諦めかけた時、一瞬の閃光が走った。
ㅤ楓香と屍の間に割って入った、その蜂蜜の髪に目を見開く。
「楓香ちゃん、下がって!」
ㅤ屍を後方へ殴り飛ばした彼は此方を一瞥し安否を確認すると、再び前を向いた。
「ど、どうして綱吉君が此処に…」
「胸騒ぎがして、早めに迎えに来たんだ」
ㅤ思いもよらない沢田の登場に、この状況をどう説明したものかと頭を抱えた。
「俺から離れないで」
「う、うん」
ㅤ彼の手前、大っぴらに異能は使えないので中々援護が出来ず、足手まといな自分がもどかしい。
ㅤ沢田は攻め込む敵を狂戦士の如く次々に蹴散らしていく。普段の彼はへなちょこなのに、格闘センスは異常に高いというギャップがあることを思い出した。
(綱吉君の振り幅どうなってるの。いや、すごくかっこいいけど!ずっと拝んでいたいけど!見惚れている場合じゃないぞ私!どう言い訳しよう、全然思い付かない)
ㅤいっそのこと六道に全て丸投げするか。彼なら何とかしてくれるだろう、と師匠の姿を探すが一向に見付からず。
ㅤいつまでこの茶番は続くのか、げっそりとやつれた楓香は溜め息を吐いた。
ㅤ苦戦していた屍の群れが沢田の助太刀により、あっという間に一掃されると、彼は楓香の方へ足を向ける。
「怪我してない?」
「う、うん。助けてくれてありがとう」
ㅤ疲れ知らずなのか、あれだけ暴れ回ったのに彼は一切呼吸を乱さず平然としていた。その様子に頼もしさを覚えるが、何故か楓香の胸の中で僅かな違和感がくすぶった。
ㅤにっこりと沢田が微笑めば、喉に小骨が引っかかった気持ち悪さが残る。
ㅤ何か、おかしい。しっくりこない。
(……あ。そうだ、目だ)
ㅤ楓香は沢田の橙色の瞳が好きだ。あの何処までも優しい眼差しが自分を柔らかく包み込んでくれる、そんな橙が好きなのだ。
ㅤそれなのに、今はその瞳に温かさが全く感じられない。
ㅤ目の前の人物に見詰められると、冷たい海の底に沈んでしまいそうで、恐ろしかった。
ㅤそして、楓香はハッと息を呑む。
「…貴方は、」
ㅤ一歩、また一歩と彼から距離を取り、
「楓香ちゃん、どうしたの?」
ㅤ伸ばされた手を振り払った。
「貴方は、誰ですか」
ㅤそれは沢田綱吉の皮を被った、精巧な偽者だった。
ㅤ消えて、と念じると彼の輪郭が朧げに溶けていき、やがて消滅した。
「まさか見破られるとは」
ㅤ音もなく姿を見せた六道は驚嘆を漏らす。乾いた拍手の音が響くと同時に幻覚が解かれ、景色が元に戻った。
ㅤ混沌とした世界から解放された楓香は、安堵からふらりと身体の力が抜ける。重心が傾きそうになったが、六道に支えられる形で抱き留められた。
「おっと」
「すみません…ありがとうございます」
ㅤ日が暮れた黒曜ランドはおどろおどろしい雰囲気を醸し出していて、怪奇映画のロケ地にピッタリである。
「まずまずの及第点といったところでしょうか。よく沢田綱吉が幻覚だと気付きましたね」
ㅤいい子だ、と頭を撫でられる。
ㅤ六道の瞳は氷のように冷ややかで苦手だが、それに反して手の方は暖かい。楓香は彼に頭を撫でられるのが好きだった。
ㅤ不思議と心の奥がむずむずして、くすぐったい。
「どうしましたか」
ㅤじっと六道を見上げていると、視線に気付いた彼は手を離す。
「…私、幼い頃から両親が居ないんです。だから、こうして誰かに褒められる機会があまり無くて」
ㅤ下ろされた手を掬い上げ、もう一度自分の頭上に乗せた。
「きっと母が居たら、こんな感じなのかなって想像しちゃいました」
ㅤ少しの間、口を閉ざしていた六道は肩を竦ませると、再び頭を撫で始める。
「…僕は、君のような甘えん坊を育てた覚えはないのですが」
「お母さんと呼んでも良いですか」
「おやめなさい」
ㅤ容赦なくペチッと額を叩かれた。
数日間みっちりと感情のコントロールを含めた異能の特訓をしたことにより、衝動的にならず冷静に力を使いこなせるようになっていた。
特訓を終えて広間に戻った二人は向かい合わせで椅子に座り、お茶会を楽しむ。湯気に混じったアールグレイの心地良い香りが疲れた心身を癒す。
楓香は沢田に異能のことを告白する決心をした。いつまでも彼を待たせてしまっている後ろめたさもあったが、何よりも沢田を信じたいという気持ちが日々大きくなっていた。
お世話になった六道にそのことを伝えれば、ぴくりと片眉を動かし、楓香を眺めて暫く視線を合わせた。何かを思案しているらしく、腕組みをすると人差し指でトントンとリズムを刻んだ。
すると、彼の周囲を取り巻くように薄い藍霧が包み込み、見覚えのあるツンツンのシルエットが浮かび上がる。霧が晴れると、そこには沢田が座っていた。
「えっ……ろ、六道さん?」
クフフフ、という特徴的な笑い方は確かに六道だったが、沢田の顔をしているので違和感しかない。
「あの時、何故偽者だと気付いたのか、今後の参考にしたいので是非ご教授願いたい」
コツ、コツと靴の奏でる足音が楓香の前で止まる。
「ねっ、教えてよ」
沢田に化けた六道は、身を屈めて無遠慮に顔を覗き込んだ。
どんなに姿形を再現しようとも、その瞳にはやっぱりあの大好きな橙は宿っていない。
「…綱吉君は、優しい…温かな目で私を見詰めてくれるんです」
「ふうん。それで?」
また狭まった距離に戸惑うが、六道の両手は既に楓香が腰掛けている椅子の背もたれに置かれている。逃げ場はない。
「……声も二人きりの時は、甘い響きになって、」
「えっと、こんな感じかな。―――楓香ちゃん、好きだよ」
至近距離で呟かれて、戸惑いは更に大きくなった。楓香の知っている沢田の声とは似ても似つかないが、ざわざわと嫌な予感がした。
一度六道から外した視線が、何処にも持っていきようがないと気付いて恐る恐る戻すと、更に顔が近付く。橙に映る楓香は悚然としていた。
「でも、ごめん。その力のこと知ってから気持ちが変わったんだ」
後退ろうにも逃げ場を断たれて、それならばせめてもと首を竦めるが、六道は嫌がる楓香の頬に添わせて囁く。
「正直、怖い。だって、楓香ちゃんを少しでも怒らせたら…俺、消されるのかなって不安になるし」
「……やめて」
「俺達、もう一緒には居られないよ。君は普通じゃない、化け物なんだから」
ただただ、絶望が何度も襲う。嫌だ、と心が悲鳴を上げた。
聞きたくない言葉をつらつらと紡ぐその人物は沢田本人ではない。そう理解しているのに、それでも虚しさが苛む。
「さようなら、楓香ちゃん」
待って、置いて行かないで、私を一人にしないで。
「……つ、なよしくん」
行き場を失った感情が奔流となって、ぽつりと雫が頬を伝った。
霞んだ視界は、どうすることも出来なくて。涙が止まらず嗚咽に喉が塞がり、声にならない。
ㅤすると、
「僕を見なさい」
ㅤ顔を両手で挟むように掴まれ、濡れた瞳がオッドアイに囚われる。
ㅤそれを合図に、楓香の意識がゆらゆらと深く、冷たい海の底に沈んでいった。
ㅤ彼女の人生は、常に孤独が付き纏っていた。
ㅤ物心が付く前に両親が他界し、親戚へ預けられることになったが、誰もが楓香を引き取ることを拒んだ。
ㅤ結果的に遺産目当ての叔母の元で暮らすようになるものの、子供が苦手という理由で厄介者扱いされながら育つ。
ㅤ家族に憧れていた楓香は勇気を出して「お母さん」と呼んだことがあったが、期待していた反応は返って来なかった。
ㅤしかし、そんな叔母も結婚をして出産すると人が変わったように我が子を溺愛した。
ㅤ惜しみなく一心に注がれる愛情は、楓香がどれだけ切望しても手に入らないものだった。
ㅤ彼女が中学に入ると、叔母夫婦から余所者という線引きをされることが多くなる。この頃から、家に居ると周囲の酸素が薄くなって息苦しさを覚え始めた。
ㅤそれでも彼女は、いつか自分も愛される日が来るのを夢見て、家事を手伝ったり、頼まれ事を快く引き受けては必死に機嫌を取ってきた。
ㅤテストの点数が良かったと褒められる弟が羨ましくて、ひたすら勉強に打ち込んだ。
ㅤクラスで上位の成績を取ったが、関心が自分に向けられることはなく、どうでも良さげな目をした叔母はただ一言「そう」と相槌を打った。
ㅤその時、楓香は悟る。
ㅤこの人にとって自分はどこまでも赤の他人であり、家族には一生なれないのだ、と。
ㅤ心に空いた穴は、いつまでも埋まることはなかった。
ㅤ進路の話をした時、全寮制の高校を勧められた。このまま厄介払いをしたいという意図を察した楓香は、仮初の家族ごっこから自立することを選び、遠く離れた並盛町で一人暮らしを始めたのだ。
「あーあ。みんな、お母さんとお父さんがいて楽しそう。…いいなぁ」
ㅤ緑の絨毯に小さな身体が寝転がる。
ㅤ何処までも澄み渡っている青空を憂鬱そうに見上げた。太陽の光が眩しくて目を眇めた少女の顔に、影が差しかかった。
「こんにちは。楓香」
ㅤひょこっと現れた謎の怪しい人物に、楓香は怪訝な面持ちで睨む。変質者かどうか見定めているのだ。
「…おにーちゃん、どうしてわたしの名前知ってるの?」
「雇用主ですから」
「こよーぬし?おっことぬしの仲間?」
「違います」
ㅤたくさんの疑問符を頭上に浮かばせていると、青年は気にした素振りもなく楓香の隣に腰を下ろした。
「僕の名前は骸です」
「むくろー?なんか変な名前!」
ㅤ口元に手を当てて茶化すと、ぐにっと頬を横に引っ張られて、涙目の楓香はすぐに謝った。
「おとなげないおにーちゃんだ」
ㅤまた指が此方に向かってくるので、咄嗟に横へ転がって距離を取るが、腕を掴まれて身体を引き上げられる。楓香が暴れると、その拍子にごつんと額同士がぶつかった。
「いっったい!」
「……この石頭め」
ㅤ六道の膝の上に乗せられた楓香は、目の前にある眉目秀麗な男の瞳に見惚れた。
「おにーちゃん、おめめきれー!ルビーとサファイアみたい!」
「僕の瞳は好きですか」
「うん」
ㅤ小枝の指先が六道の目元をそっとなぞる。
「それは、沢田綱吉よりも?」
ㅤその名前に肩が跳ねた楓香は、何か大切なものを忘れている気がして首を傾げた。
(つなよし、ってだれだっけ)
ㅤむむむと唸り、暫く考え込んでいたが、六道に頭を撫でられて意識が逸れる。
「己が望んでいるものを最初から全て手に入れている。そんな人々を疎ましく思う気持ちは、僕も家族が居ないので良く分かります」
ㅤ一人ぼっちは誰だって寂しい。心にぽっかりと空いた穴を満たせるのは、ずっと焦がれていた家族という存在だけだ。
「何も与えられずに生きてきた、持たざる者同士にしか分かり合えないことがたくさんある。僕には楓香が必要なんです。…だから、君の孤独に触れても良いですか」
ㅤ一陣の風が草原を駆け抜ける。
ㅤ花弁が舞い、ふわりと髪が巻き上がった。
「僕こそが楓香の唯一の理解者だ。化け物であろうと、ありのままの君を受け入れる」
ㅤ幼子から本来の姿に戻った楓香は、ストンと六道の膝の上に座り込み、夢うつつに見上げる。
「それに、僕だって化け物だ。君は、他者に憑依したり幻覚を扱える僕が怖いですか」
その問いかけに、迷いなく首を横に振った。
「…私は、六道さんを否定したりしない。だって、他人がどう思おうとも、それが貴方の在り方だもの」
予想通りの答えだったのか、満足そうに六道は瞼を瞑った。
そして、ゆっくりと瞳を開いて、再び楓香を映す。
「家族になりましょう」
虚を衝かれるが、その言葉を何度も咀嚼して、ようやく理解した楓香はわなわなと唇を震わせた。
「……本気、ですか」
ふっと笑った六道は、こくりと頷く。
彼女の目は、また涙を溜めて揺らぐと大粒の雫がぽろぽろと頬を伝った。
「ずっと、誰かに認められたかった。必要とされたかった。頑張ったねって、褒められたかった」
柔らかな感触が額に降りて、楓香は瞬きをした。
「これからは僕がたくさん褒めてあげます。もちろん、いい子にしていればの話ですが」
そっと指先で涙を拭われる。くしゃりと顔を歪めた下手くそな笑みを作ると、六道の肩口に頭を抱え込まれた。
まるで我が子を慈しむ手付きで髪を撫でられ、思わず言葉が漏れる。
「…お母さん」
「おやめなさい」
「む、…骸さん」
「それで宜しい」
楓香が落ち着くのを見計らった彼は、精神世界に干渉する能力を使って心の中に潜り込んだことを説明し、勝手な行動を謝罪する。
特に不快感はなかったので、規格外な能力をたくさん持っていてすごいなと感嘆の息を吐けば、「能天気な娘だ」と呆れられた。何故だ。
優しく髪を梳かれ、うとうとと船を漕ぐと、六道の手が止まった。
「君は沢田綱吉を信じたい気持ちはあるが、信じている訳ではない。やはり心の奥では彼に否定されるのを恐れている。そんな状態で異能のことを告げるのはお勧めしません」
「……はい」
大切だからこそ伝えられなくて、でも苦しくて、見えなくなる。
自分は、どこまでも臆病者だった。
約束の時間になり黒曜ランドへ足を踏み入れた沢田は、眼前の光景に既視感を覚えた。
「だから何でそうなる!?」
六道の膝上でぐっすりと寝息を立てている恋人の姿に、ガーン!とショックを受ける。
最近はすっかり悪夢に魘されなくなったと嬉しそうに報告していたのに。しつこく問い詰めると、
「アニマルセラピーというものですよ」
「意味が分からない!」
「クフフフ…野兎に懐かれるのも悪くないですね」
真面目に答える気がないと察した沢田は頭を抱え込み、やけくそに髪を掻き毟ると、その場に力なく蹲ってしまった。
「おや、そうしていると本物の屍のようだ」
「…もう楓香ちゃんが骸と会うの禁止にしてやる」
「僕は構いませんよ。出来るものなら、ね」
六道の謎めいた狡猾な口調と涼しい顔は余裕に満ち溢れており、少しの嘲笑が込められていた。
「その言い方だと、楓香ちゃんが骸に会いたがっているみたいじゃんか」
すると、それはもう愉悦や愉快を顕にした笑みを浮かべて、六道は言い放った。
「君のご想像にお任せします」
その指が楓香の髪に触れて、流れるように頬を撫でると、彼女は気持ち良さそうに六道の手へ擦り寄る。
「この娘は随分と甘えたですね。困った子だ」
今度こそ、沢田の堪忍袋の緒が切れるのであった。
ㅤ黒曜ランドへ仲良く向かった二人は名残惜しくも別れると、楓香は門扉をくぐった。
ㅤすっかり慣れた足取りで施設の広間に到着すれば、ソファの背もたれに寄りかかって腕を組み瞑想している男が居た。
「こんばんは、楓香」
ㅤ六道は目を閉じているにも拘らず、あたかも楓香を視界に入れたかのように挨拶をした。
「六道さん、こんばんは。よく私だと気付きましたね」
「君の足音は分りやすい」
「えっ、どんな足音ですか?」
「猫の前の鼠、もしくは猛禽類に捕獲される寸前の野兎ですかね」
「…そんなに生命脅かされてますか私」
ㅤすると、目蓋を開けた六道は意味ありげな笑みを口元に浮かばせて腰を上げる。
ㅤその無言の笑顔が不気味だったので変な汗が出そうになり、これ以上の問答は諦めた。
ㅤ広間を出ると建物の裏側に到着した六道は足を止め、振り返る。
「今回は此方の処分をお願いします」
ㅤその場所は辺り一帯が廃材や瓦礫で埋め尽くされていた。まるで荒廃した世界へ迷い込んだ気持ちになり、キョロキョロと見渡す。
「現段階で検証が可能なものは全て終えていますので、そのまま消してしまって構いません」
「了解です」
ㅤ今日に至るまで六道の協力の下たくさんの異能調査を重ねていき、敷地内の草を全て一掃した頃にはある程度理解出来た。
ㅤ念じれば異能が発動して対象のものを完全に消失させ、楓香との距離が離れる程にその効果は薄くなり、その分体力も削られる。
ㅤだが指輪を嵌めると、リミッターが解除され無限に力を使えるので、広範囲に適用することが出来るというチート特性だった。
ㅤつまり、指輪さえあれば異能は使い放題だが、無装備の状態で発動すると命を落とす危険があるということだ。
ㅤ楓香は指輪を嵌めている間、無意識の内に消失のバリアを展開し、危害が及ぶのを防いでいることも判明した。
(もうこの指輪は私のお守りみたいなものだよね)
ㅤ消失の力はありとあらゆる生物や無機質、そして怪我の傷さえも対象となる。
ㅤ他人の記憶も消せるのかと六道は試したがっていたが、何かの手違いで全ての記憶を失ってしまった場合の責任が取れないので、一旦保留となった。
「これでよしっと」
ㅤ山積みになっていた廃材を片っ端から消していき、最後のコンクリート塊も無くなって仕事を終えると、それまで後ろで観察していた六道が歩み寄って来た。
「ご苦労様でした。此方が本日の報酬です」
ㅤパンパンに膨らんだ茶封筒を受け取り、ちらりと中身を確認した楓香は「わァ」と思わず歓喜する。
「あの、こんなに頂いて良いんでしょうか」
「そう言いつつ懐に仕舞うその素直さ、ダメ弟子にも見習って欲しいものだ」
ㅤその大金の重さが心地良くて、楓香は小躍りしたい気持ちを抑えながら「フッ」と笑った。
ㅤスマホで現在時刻を確認すると、沢田が迎えに来るまでにたっぷりと時間がある。
ㅤならば、と正面に佇む彼を見上げる。楓香の思考を読んだ六道は言葉を交わすことなく頷いた。
ㅤ楓香から距離を取り、少し離れた所に立った六道は三叉槍を手に持つ。
「確かにその力は素晴らしい。ただ、使い手次第では宝の持ち腐れにもなり得る」
ㅤ豚に真珠だと遠回しに言われている気がするが、楓香を選んだのは指輪の方だ。
ㅤ手元に視線を落とす。指輪は夕焼けに照らされて茜色に輝いていた。
「難点を挙げるならば、君は感情に振り回され衝動的に力を行使してしまう嫌いがある。非常に危ういことです。それを自覚するべきだ」
ㅤ確かにその通りなので、ぐうの音も出ない。指摘された内容に心当たりがあった。
ㅤ正々堂々と戦わず山本の自転車に細工しようとした彼ら、猫を虐待していた畜生な男達などを前にして頭に血が上り、カッとなった楓香は怒りに身を任せて異能を発動した。
ㅤもし、あの場に無関係の第三者が居たら?楓香の力に巻き込まれ、取り返しのつかない事態に陥ってしまったら?
(ミイラ取りがミイラになるように、私も彼らと同じく加害者になっていたかも知れない)
ㅤ誰かを守る為に力を使ったと正当化しても、暴力は暴力を生む。
ㅤそんな不毛の連鎖を断ち切るには、どんなことが起きようとも冷静に物事を判断し最善の行動を取る精神力が必要だ。
「正しく力を扱えない者は、その力を持つ資格などありません」
ㅤその六道の教えに楓香は力強く首を縦に振った。
「はい、師匠!」
ㅤ時間が余っている時は、こうして異能の特訓に付き合ってもらうのが恒例となっている。
ㅤ弟子は取らないと拒んでいたが、楓香の強い押しに負けた六道は渋々流されてくれた。
ㅤ師匠と呼べば、六道の澄ました顔が一瞬崩れる。微妙な目付きで楓香を見遣るのがクセになり何度も呼んでしまった結果、特訓中だけ師匠呼びすることを限定された。
ㅤなので今だけは思う存分、師匠と呼んでやる。
「では、始めましょうか」
ㅤ三叉槍が地を突いた途端、霧が視界を覆った。だんだんと夕日の光が弱まり、薄暗くなっていく。
ㅤ鴉の鳴き声も届かない、静寂に包まれた世界にぽつんと楓香は立っていた。
ㅤ六道も姿をくらませたのか見当たらない。周辺を警戒していると、突然地面から手が生えた。
(ひぃっ…師匠の幻覚ってCGよりもリアルだから本物みたい。映画製作会社に就職したら絶対重宝されるだろうな)
ㅤ薄気味悪く蠢きながら土から現れたのは、理性を感じさせない白濁の目をした屍だった。腐敗が進んでいるのか身体の至るところに骨が浮き出ており、嫌な生々しさを感じた。
(無駄に再現性高いのやめて欲しい…)
ㅤずずずと這い出て来た屍の群れは、ゆっくりと此方に近寄る。
ㅤ楓香は逃げ出したい気持ちを必死に抑えているが、その顔は引き攣っていた。
ㅤもたついた足取りの屍が、不意にぐるんと顔を上げた。目が合った瞬間、大きな口を開けて噛み付かんばかりの勢いで接近する。
「…来ないで!」
ㅤ手を振り翳すと一瞬で屍が消滅した。そのまま群れごと消し去り、楓香の荒い呼吸だけがその場に残った。
ㅤ暴れる鼓動が耳元で鳴り響き、緊張と恐怖が血液と共に全身を駆け巡っていたが、目の前の脅威が無くなると次第に落ち着いていく。
ㅤすると、何処からか六道の駄目出しが降って来た。
「やれやれ。屍の群れの中に人間が紛れていたにも拘わらず力を行使するとは。…たった今、君は無関係の者を巻き込み、存在を消してしまった。こうして衝動に駆られ異能を使えば、いずれ遠くない未来でも同じことが起きますよ」
ㅤその未来を想像した楓香は震える手を握り締めて、先程の行いを反省する。
「己を守りながらも、屍から人間を助けなさい」
「…はい」
ㅤ恐怖心によって正常な判断が出来ず、人の存在に気付く余裕などなかった。ただ、迫り来る危険から身を守ることに必死だった。
ㅤまたぞろぞろと四方八方から沸いて出てきた屍を前に、楓香は深呼吸をする。
ㅤ今度こそと気合いを入れ直した。
(確かによく見ると群れの中に人が居る。それなのに私は消してしまったんだ。…幻で本当に良かった)
ㅤ理不尽に誰かの命を奪うなんてことは、絶対にしたくない。
ㅤ飛びかかる屍を消していくが、余裕のない楓香は屍の身体の一部をくり抜く消し方をしてしまった。屍は四肢が欠損しようがお構いなく、本能のままに再び楓香を狙う。
(人を助けるのに集中していると、自分に襲いかかる屍の対処が遅れて思うように消せない…!)
ㅤそれでも諦めずに力を使っていれば、群れの数は徐々に減っていった。
ㅤ手に汗を握りながら屍を討伐するのに没頭していると、死角から奇襲を仕掛けられる。
ㅤ完全に油断していた楓香は、その不意打ちに思考が停止してしまった。
(あ、終わった)
ㅤ頭の中でゲームオーバーの文字が浮かんで諦めかけた時、一瞬の閃光が走った。
ㅤ楓香と屍の間に割って入った、その蜂蜜の髪に目を見開く。
「楓香ちゃん、下がって!」
ㅤ屍を後方へ殴り飛ばした彼は此方を一瞥し安否を確認すると、再び前を向いた。
「ど、どうして綱吉君が此処に…」
「胸騒ぎがして、早めに迎えに来たんだ」
ㅤ思いもよらない沢田の登場に、この状況をどう説明したものかと頭を抱えた。
「俺から離れないで」
「う、うん」
ㅤ彼の手前、大っぴらに異能は使えないので中々援護が出来ず、足手まといな自分がもどかしい。
ㅤ沢田は攻め込む敵を狂戦士の如く次々に蹴散らしていく。普段の彼はへなちょこなのに、格闘センスは異常に高いというギャップがあることを思い出した。
(綱吉君の振り幅どうなってるの。いや、すごくかっこいいけど!ずっと拝んでいたいけど!見惚れている場合じゃないぞ私!どう言い訳しよう、全然思い付かない)
ㅤいっそのこと六道に全て丸投げするか。彼なら何とかしてくれるだろう、と師匠の姿を探すが一向に見付からず。
ㅤいつまでこの茶番は続くのか、げっそりとやつれた楓香は溜め息を吐いた。
ㅤ苦戦していた屍の群れが沢田の助太刀により、あっという間に一掃されると、彼は楓香の方へ足を向ける。
「怪我してない?」
「う、うん。助けてくれてありがとう」
ㅤ疲れ知らずなのか、あれだけ暴れ回ったのに彼は一切呼吸を乱さず平然としていた。その様子に頼もしさを覚えるが、何故か楓香の胸の中で僅かな違和感がくすぶった。
ㅤにっこりと沢田が微笑めば、喉に小骨が引っかかった気持ち悪さが残る。
ㅤ何か、おかしい。しっくりこない。
(……あ。そうだ、目だ)
ㅤ楓香は沢田の橙色の瞳が好きだ。あの何処までも優しい眼差しが自分を柔らかく包み込んでくれる、そんな橙が好きなのだ。
ㅤそれなのに、今はその瞳に温かさが全く感じられない。
ㅤ目の前の人物に見詰められると、冷たい海の底に沈んでしまいそうで、恐ろしかった。
ㅤそして、楓香はハッと息を呑む。
「…貴方は、」
ㅤ一歩、また一歩と彼から距離を取り、
「楓香ちゃん、どうしたの?」
ㅤ伸ばされた手を振り払った。
「貴方は、誰ですか」
ㅤそれは沢田綱吉の皮を被った、精巧な偽者だった。
ㅤ消えて、と念じると彼の輪郭が朧げに溶けていき、やがて消滅した。
「まさか見破られるとは」
ㅤ音もなく姿を見せた六道は驚嘆を漏らす。乾いた拍手の音が響くと同時に幻覚が解かれ、景色が元に戻った。
ㅤ混沌とした世界から解放された楓香は、安堵からふらりと身体の力が抜ける。重心が傾きそうになったが、六道に支えられる形で抱き留められた。
「おっと」
「すみません…ありがとうございます」
ㅤ日が暮れた黒曜ランドはおどろおどろしい雰囲気を醸し出していて、怪奇映画のロケ地にピッタリである。
「まずまずの及第点といったところでしょうか。よく沢田綱吉が幻覚だと気付きましたね」
ㅤいい子だ、と頭を撫でられる。
ㅤ六道の瞳は氷のように冷ややかで苦手だが、それに反して手の方は暖かい。楓香は彼に頭を撫でられるのが好きだった。
ㅤ不思議と心の奥がむずむずして、くすぐったい。
「どうしましたか」
ㅤじっと六道を見上げていると、視線に気付いた彼は手を離す。
「…私、幼い頃から両親が居ないんです。だから、こうして誰かに褒められる機会があまり無くて」
ㅤ下ろされた手を掬い上げ、もう一度自分の頭上に乗せた。
「きっと母が居たら、こんな感じなのかなって想像しちゃいました」
ㅤ少しの間、口を閉ざしていた六道は肩を竦ませると、再び頭を撫で始める。
「…僕は、君のような甘えん坊を育てた覚えはないのですが」
「お母さんと呼んでも良いですか」
「おやめなさい」
ㅤ容赦なくペチッと額を叩かれた。
数日間みっちりと感情のコントロールを含めた異能の特訓をしたことにより、衝動的にならず冷静に力を使いこなせるようになっていた。
特訓を終えて広間に戻った二人は向かい合わせで椅子に座り、お茶会を楽しむ。湯気に混じったアールグレイの心地良い香りが疲れた心身を癒す。
楓香は沢田に異能のことを告白する決心をした。いつまでも彼を待たせてしまっている後ろめたさもあったが、何よりも沢田を信じたいという気持ちが日々大きくなっていた。
お世話になった六道にそのことを伝えれば、ぴくりと片眉を動かし、楓香を眺めて暫く視線を合わせた。何かを思案しているらしく、腕組みをすると人差し指でトントンとリズムを刻んだ。
すると、彼の周囲を取り巻くように薄い藍霧が包み込み、見覚えのあるツンツンのシルエットが浮かび上がる。霧が晴れると、そこには沢田が座っていた。
「えっ……ろ、六道さん?」
クフフフ、という特徴的な笑い方は確かに六道だったが、沢田の顔をしているので違和感しかない。
「あの時、何故偽者だと気付いたのか、今後の参考にしたいので是非ご教授願いたい」
コツ、コツと靴の奏でる足音が楓香の前で止まる。
「ねっ、教えてよ」
沢田に化けた六道は、身を屈めて無遠慮に顔を覗き込んだ。
どんなに姿形を再現しようとも、その瞳にはやっぱりあの大好きな橙は宿っていない。
「…綱吉君は、優しい…温かな目で私を見詰めてくれるんです」
「ふうん。それで?」
また狭まった距離に戸惑うが、六道の両手は既に楓香が腰掛けている椅子の背もたれに置かれている。逃げ場はない。
「……声も二人きりの時は、甘い響きになって、」
「えっと、こんな感じかな。―――楓香ちゃん、好きだよ」
至近距離で呟かれて、戸惑いは更に大きくなった。楓香の知っている沢田の声とは似ても似つかないが、ざわざわと嫌な予感がした。
一度六道から外した視線が、何処にも持っていきようがないと気付いて恐る恐る戻すと、更に顔が近付く。橙に映る楓香は悚然としていた。
「でも、ごめん。その力のこと知ってから気持ちが変わったんだ」
後退ろうにも逃げ場を断たれて、それならばせめてもと首を竦めるが、六道は嫌がる楓香の頬に添わせて囁く。
「正直、怖い。だって、楓香ちゃんを少しでも怒らせたら…俺、消されるのかなって不安になるし」
「……やめて」
「俺達、もう一緒には居られないよ。君は普通じゃない、化け物なんだから」
ただただ、絶望が何度も襲う。嫌だ、と心が悲鳴を上げた。
聞きたくない言葉をつらつらと紡ぐその人物は沢田本人ではない。そう理解しているのに、それでも虚しさが苛む。
「さようなら、楓香ちゃん」
待って、置いて行かないで、私を一人にしないで。
「……つ、なよしくん」
行き場を失った感情が奔流となって、ぽつりと雫が頬を伝った。
霞んだ視界は、どうすることも出来なくて。涙が止まらず嗚咽に喉が塞がり、声にならない。
ㅤすると、
「僕を見なさい」
ㅤ顔を両手で挟むように掴まれ、濡れた瞳がオッドアイに囚われる。
ㅤそれを合図に、楓香の意識がゆらゆらと深く、冷たい海の底に沈んでいった。
ㅤ彼女の人生は、常に孤独が付き纏っていた。
ㅤ物心が付く前に両親が他界し、親戚へ預けられることになったが、誰もが楓香を引き取ることを拒んだ。
ㅤ結果的に遺産目当ての叔母の元で暮らすようになるものの、子供が苦手という理由で厄介者扱いされながら育つ。
ㅤ家族に憧れていた楓香は勇気を出して「お母さん」と呼んだことがあったが、期待していた反応は返って来なかった。
ㅤしかし、そんな叔母も結婚をして出産すると人が変わったように我が子を溺愛した。
ㅤ惜しみなく一心に注がれる愛情は、楓香がどれだけ切望しても手に入らないものだった。
ㅤ彼女が中学に入ると、叔母夫婦から余所者という線引きをされることが多くなる。この頃から、家に居ると周囲の酸素が薄くなって息苦しさを覚え始めた。
ㅤそれでも彼女は、いつか自分も愛される日が来るのを夢見て、家事を手伝ったり、頼まれ事を快く引き受けては必死に機嫌を取ってきた。
ㅤテストの点数が良かったと褒められる弟が羨ましくて、ひたすら勉強に打ち込んだ。
ㅤクラスで上位の成績を取ったが、関心が自分に向けられることはなく、どうでも良さげな目をした叔母はただ一言「そう」と相槌を打った。
ㅤその時、楓香は悟る。
ㅤこの人にとって自分はどこまでも赤の他人であり、家族には一生なれないのだ、と。
ㅤ心に空いた穴は、いつまでも埋まることはなかった。
ㅤ進路の話をした時、全寮制の高校を勧められた。このまま厄介払いをしたいという意図を察した楓香は、仮初の家族ごっこから自立することを選び、遠く離れた並盛町で一人暮らしを始めたのだ。
「あーあ。みんな、お母さんとお父さんがいて楽しそう。…いいなぁ」
ㅤ緑の絨毯に小さな身体が寝転がる。
ㅤ何処までも澄み渡っている青空を憂鬱そうに見上げた。太陽の光が眩しくて目を眇めた少女の顔に、影が差しかかった。
「こんにちは。楓香」
ㅤひょこっと現れた謎の怪しい人物に、楓香は怪訝な面持ちで睨む。変質者かどうか見定めているのだ。
「…おにーちゃん、どうしてわたしの名前知ってるの?」
「雇用主ですから」
「こよーぬし?おっことぬしの仲間?」
「違います」
ㅤたくさんの疑問符を頭上に浮かばせていると、青年は気にした素振りもなく楓香の隣に腰を下ろした。
「僕の名前は骸です」
「むくろー?なんか変な名前!」
ㅤ口元に手を当てて茶化すと、ぐにっと頬を横に引っ張られて、涙目の楓香はすぐに謝った。
「おとなげないおにーちゃんだ」
ㅤまた指が此方に向かってくるので、咄嗟に横へ転がって距離を取るが、腕を掴まれて身体を引き上げられる。楓香が暴れると、その拍子にごつんと額同士がぶつかった。
「いっったい!」
「……この石頭め」
ㅤ六道の膝の上に乗せられた楓香は、目の前にある眉目秀麗な男の瞳に見惚れた。
「おにーちゃん、おめめきれー!ルビーとサファイアみたい!」
「僕の瞳は好きですか」
「うん」
ㅤ小枝の指先が六道の目元をそっとなぞる。
「それは、沢田綱吉よりも?」
ㅤその名前に肩が跳ねた楓香は、何か大切なものを忘れている気がして首を傾げた。
(つなよし、ってだれだっけ)
ㅤむむむと唸り、暫く考え込んでいたが、六道に頭を撫でられて意識が逸れる。
「己が望んでいるものを最初から全て手に入れている。そんな人々を疎ましく思う気持ちは、僕も家族が居ないので良く分かります」
ㅤ一人ぼっちは誰だって寂しい。心にぽっかりと空いた穴を満たせるのは、ずっと焦がれていた家族という存在だけだ。
「何も与えられずに生きてきた、持たざる者同士にしか分かり合えないことがたくさんある。僕には楓香が必要なんです。…だから、君の孤独に触れても良いですか」
ㅤ一陣の風が草原を駆け抜ける。
ㅤ花弁が舞い、ふわりと髪が巻き上がった。
「僕こそが楓香の唯一の理解者だ。化け物であろうと、ありのままの君を受け入れる」
ㅤ幼子から本来の姿に戻った楓香は、ストンと六道の膝の上に座り込み、夢うつつに見上げる。
「それに、僕だって化け物だ。君は、他者に憑依したり幻覚を扱える僕が怖いですか」
その問いかけに、迷いなく首を横に振った。
「…私は、六道さんを否定したりしない。だって、他人がどう思おうとも、それが貴方の在り方だもの」
予想通りの答えだったのか、満足そうに六道は瞼を瞑った。
そして、ゆっくりと瞳を開いて、再び楓香を映す。
「家族になりましょう」
虚を衝かれるが、その言葉を何度も咀嚼して、ようやく理解した楓香はわなわなと唇を震わせた。
「……本気、ですか」
ふっと笑った六道は、こくりと頷く。
彼女の目は、また涙を溜めて揺らぐと大粒の雫がぽろぽろと頬を伝った。
「ずっと、誰かに認められたかった。必要とされたかった。頑張ったねって、褒められたかった」
柔らかな感触が額に降りて、楓香は瞬きをした。
「これからは僕がたくさん褒めてあげます。もちろん、いい子にしていればの話ですが」
そっと指先で涙を拭われる。くしゃりと顔を歪めた下手くそな笑みを作ると、六道の肩口に頭を抱え込まれた。
まるで我が子を慈しむ手付きで髪を撫でられ、思わず言葉が漏れる。
「…お母さん」
「おやめなさい」
「む、…骸さん」
「それで宜しい」
楓香が落ち着くのを見計らった彼は、精神世界に干渉する能力を使って心の中に潜り込んだことを説明し、勝手な行動を謝罪する。
特に不快感はなかったので、規格外な能力をたくさん持っていてすごいなと感嘆の息を吐けば、「能天気な娘だ」と呆れられた。何故だ。
優しく髪を梳かれ、うとうとと船を漕ぐと、六道の手が止まった。
「君は沢田綱吉を信じたい気持ちはあるが、信じている訳ではない。やはり心の奥では彼に否定されるのを恐れている。そんな状態で異能のことを告げるのはお勧めしません」
「……はい」
大切だからこそ伝えられなくて、でも苦しくて、見えなくなる。
自分は、どこまでも臆病者だった。
約束の時間になり黒曜ランドへ足を踏み入れた沢田は、眼前の光景に既視感を覚えた。
「だから何でそうなる!?」
六道の膝上でぐっすりと寝息を立てている恋人の姿に、ガーン!とショックを受ける。
最近はすっかり悪夢に魘されなくなったと嬉しそうに報告していたのに。しつこく問い詰めると、
「アニマルセラピーというものですよ」
「意味が分からない!」
「クフフフ…野兎に懐かれるのも悪くないですね」
真面目に答える気がないと察した沢田は頭を抱え込み、やけくそに髪を掻き毟ると、その場に力なく蹲ってしまった。
「おや、そうしていると本物の屍のようだ」
「…もう楓香ちゃんが骸と会うの禁止にしてやる」
「僕は構いませんよ。出来るものなら、ね」
六道の謎めいた狡猾な口調と涼しい顔は余裕に満ち溢れており、少しの嘲笑が込められていた。
「その言い方だと、楓香ちゃんが骸に会いたがっているみたいじゃんか」
すると、それはもう愉悦や愉快を顕にした笑みを浮かべて、六道は言い放った。
「君のご想像にお任せします」
その指が楓香の髪に触れて、流れるように頬を撫でると、彼女は気持ち良さそうに六道の手へ擦り寄る。
「この娘は随分と甘えたですね。困った子だ」
今度こそ、沢田の堪忍袋の緒が切れるのであった。