泡沫トワイライト
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「さくらーふぶーきのー♪」
マイクを握り締めて十八番の曲を歌い上げていると、扉の向こうからガラス越しに山本とばっちり目が合った。どうして此処に、と素っ頓狂な声が上がる。
結衣が椅子から立ち上がり、悪びれもなくウィンクをした。
「野球部と何人かで勝利のプチ打ち上げ会するから」
そんな話は聞いていない。放課後、遊ぼうという友人の誘いに乗ってカラオケへ足を運んだ筈なのに。
呆気に取られる楓香を置いて結衣が出迎えると、四人の生徒が部屋に入ってきた。
一気に密になり縮こまっていれば、隣にストンと山本が腰を下ろしたので軽く挨拶をする。
「よっ。歌ってる途中に邪魔しちまったな」
「ううん、気にしないで。それよりも、試合おめでとうございます」
サンキュ、と誇らしげに指でVサインを作る姿は、そのまま映画のポスターになってもおかしくない。それが期待の新星、山本武だ。
並盛高校野球部は地方大会の二回戦に勝利し、三日後に三回戦を控えている。部活が終わってから此処へ直行したのだろう、ほんの少し制汗剤の匂いがした。
「なぁ、何か頼もうぜ。お腹空いてるっしょ」
木全と名乗る生徒が山本の肩に手を置き、タブレット端末を見せてきた。
既に全員がドリンクバーで飲み物を手にしているので、フードのメニューをタップした。各々の要望を聞いた木全は手馴れた様子で注文する。
「ポテトとピザ、サラダ、パフェにラーメン…っと。これで全部か」
その間に他の男子は流行りの曲を熱唱する。気持ち良さそうに歌っているだけはあり、中々の歌唱力だった。採点で97点を叩き出し盛り上がる。
「山本君もカラオケとか行くんですね。ちょっと意外でした」
「アイツには負けるけど、俺もそれなりに歌上手いんだぜ」
隣で話を聞いていた木全が、調子良く山本の背中を叩いた。
クラスの人気者は野球部員の仲間にも慕われているらしい。
「よっし、うちの新星かましたれー!」
マイクを渡された山本はニカッと無邪気に笑うと、伴奏が流れて歌い始める。
アイドル顔負けの容姿に相応しい爽やかな歌声は、楓香達をうっとりと魅了し歌い終わる頃には自然と拍手していた。
「流石山本ナイスー!次、佐倉さん歌う?」
向けられたマイクを思わず受け取ってしまったが、すぐに後悔する。
いくら知り合いとはいえ、いきなり大勢の前で歌うのは初めての経験で、緊張から顔が強ばった。
楓香は音痴ではないが上手くもないといった並の歌唱力なので、歌が上手い人が続いている状況で自分がマイクを握ることにプレッシャーを感じた。
選曲だって何を歌えば最善なのか分からない。いっそネタに走ってはじめてのチュウでも歌ってやろうかと自棄になっていると、見兼ねた山本が助け舟を出す。
「この曲知ってるか?俺と歌おーぜ」
それは国民的アイドルの大ヒット曲だった。一人で歌うよりデュエットの方がずっと気が楽だったので、藁にも縋る思いでこくこくと頷く。
山本のおかげで音程を外さず、始終リラックスして歌い切ることが出来た。採点も上々の評価で、盛り下がることなくマイクを他の人に繋げて肩の荷が下りる。
「フォローしてくれてありがとう」
最悪の事態を回避し、こそっと隣へ感謝の言葉を伝えた。彼にはこういった場面でたくさん助けられているので頭が上がらない。
「気にすんな。佐倉も歌上手いじゃん」
「どこが。山本君の耳が心配です」
「お前の歌声、なんか透き通ってて俺は好きだけどな」
「……これは重症だ。今すぐ耳鼻科行きましょう」
「ははっ、本当おもしれーな佐倉って」
からっとした眩しい笑顔に目が潰れる感覚がして、顔を両手で覆った。
イケメンのキラキラ光線、恐ろしや。彼らは存在そのものが発光しているので、間近で直視すると火傷してしまうのだ。
暫くしてから店員がやって来て、注文していた品々が机の上に並べられていく。しっかりとお礼を言って、店員が帰っていくのを見届けた。
歌うのを一旦止めて「二回戦突破おめでとう!かんぱーい!」と、グラスを掲げて口にする。
それから皆は運ばれてきた料理にありついた。
「味噌うめーな、時代は味噌だぜ」
「いやいや豚骨でしょ」
「味噌も豚骨も若すぎる。究極は塩だから。結局はシンプルが一番良いんだよ」
思ったよりも空腹だったのか、彼らは飲み込むようにラーメンを啜っていた。楓香がちまちまとポテトを食べていると、制服のポケットに入れておいたスマホが振動する。
送り主は結衣からだった。彼女は楓香の視線を受け流し、パフェをスプーンで掬っている。
トーク画面を開くと、一枚の写真が届いていた。楓香と山本が笑い合いながらデュエットをしている場面を切り取ったものだ。
思い出になればという意図で撮ってくれたのかと自己完結し、取り敢えずお辞儀のスタンプを送った。
その画面が視界に入ったのだろう、山本が一声かけてスマホを覗き込んだ。
「なぁその写真、俺にもくれよ」
「あっ、うん」
写真を送るには連絡先を交換しないといけない訳で、楓香はファンクラブ会員からの死亡フラグが立った気がして悪寒に震える。
“武”と追加された野球帽とバットのアイコンは山本らしくて、野球愛を感じた。
彼が写真をまじまじと眺めているので、変な顔をしていないか気になった楓香は再度自分のスマホを見下ろす。至って普通の写真だ。
「そんな凝視して、まさか心霊的なものでも写ってました?」
「あー、いや…可愛いなって」
「へ」
照れ臭そうに人差し指で鼻の下を擦る彼に、目が点になった。
きっと空耳だろうと結論付けつつ、こういう聞き間違いは両者共に良くないなとやっぱりまた隣を伺ったが、その優しげな表情はどこをどう見ても勘違いだとは思えなくて。
(……本当に、空耳…?)
妙な引っかかりを覚えながらも気が付けばお開きとなった。
まだ歌い足りない男子達を両脇に引き連れた結衣が、楓香と山本へ振り返る。
「私は彼らに送ってもらうから、アンタは山本君に送ってもらいなさい」
「えっ…ちょっと、待ってよ」
「じゃあねー」
「また明日な!」
有無を言わさず、さっさと帰っていく結衣達の背中を見送る。
山本と二人きりになって、一気に心細くなった楓香は鞄を持つ手に力を入れた。
「じゃあ、俺らも帰ろーぜ」
「…はい。よろしくお願いします」
おどおどと頭を下げた楓香に、彼は親指を後ろにさした。
背負ったバットケースと肩掛けの野球バッグを一瞥した山本が、ふわりと笑いかける。
「なぁ、バッセン寄って行かね?」
並盛ボールという看板が掲げられたバッティング場では、楓香達以外にもカップルが何組か遊んでいて、そのほとんどは彼氏がバッターボックスに立ち、彼女が外で応援しているか興味なさそうにスマホを触っていた。
だが、カキーンと爽快にボールをかっ飛ばす好青年の存在に気付くと、暇を持て余していた女子達が徐々に釘付けになっていく。
そんな周囲の視線が集まるのを肌で感じた楓香は、預けられた帽子を深く被った。
(こんな間近で山本君のフルスイングを拝めるなんて…特等席すぎる)
楓香には山本の打つボールをしっかり目で捉えることすら出来なかった。快音が響くと同時にボールが高く打ち上がる。
素人目に見ても彼の凄さがひしひしと伝わり、メジャーリーガーになって世界で活躍している英雄の姿が今にも目に浮かんで来そうだ。
「山本君、有名になっても同窓会とか参加して下さいね。変な占いやギャンブルとか興味持っちゃ駄目ですよ。一生そのままで居て」
「ははっ、なんかよく分かんねーけど了解!」
その純真無垢な心が、いつの日か悪い大人の手によって薄汚れてしまうことが心配だった楓香は、つい身内目線で語ってしまう。
何回かゲームを終えると、満足した山本が振り返った。
「楓香もやってみるか?」
二人きりになった途端、名前を呼び捨てにされてドキリとした。そうすることを頼んだのは自分だけれど。
平然を装いながら、楓香は首を横に振る。
「うーん、私はど素人だし、打てないから遠慮しておきます」
「俺が教えてやっから、一回バット握ってみろよ。こうズバッと振ればいいからさ」
そう言って百四十キロの球を軽々と打ち返す姿に楓香は慄く。せめて球速を落として欲しいと頼み込むと、揶揄わずに了承してくれた。
初心者でも打てる八十キロ設定のレーンに移動し、まずバットの持ち方や打つタイミングのコツを指導してもらう。しかし、感覚派の山本の説明は正直に言うと分かりにくい。
本当に打てるのかという不安を抱きながら、一度打ってみることになった。
バッターボックスに立ち、見よう見まねでバットを構える。
「ふんッ」
数瞬後、投げられたボールはそのまま真っ直ぐバックネットに吸い込まれた。
大振りにスイングしたが気持ち良いくらいに空振ってしまい、背後で山本が笑いを堪えているのが分かる。かちっと、楓香の心の中に負けず嫌いの炎が灯った。
バットを両手で縦に持ち、ぐるんと振り返る。
「もう一回!」
その後、何度も挑戦してみるがバットが球を捕らえることはなかった。
ぜーはーと荒い呼吸を整える楓香に、バットを構えるよう伝えた山本は後ろにぴったりと立った。
いきなり密着されてカチコチに全身が固まる。が、そんなことは露知らず、彼は楓香の腰に両手を添えて姿勢を正した。
「力任せに振るんじゃなくて、体重移動を心掛けるんだ。ほら腰を真横に動かすとバットが内側から出せるようになるから」
その大きな背を屈め、楓香の顔を覗き込むものだから、また距離が近くなる。極度の緊張により、楓香は目をぐるぐると回して意識が遠のきそうになった。
「も、もう理解したから大丈夫です」
「おー」
密着していた体勢から身体を離そうとしたが、何かに気付いた山本の手が止まる。
「…腰…ほっそ」
驚きの混じった声が思わずといった風に漏れて、その吐息が楓香の頭上に吹きかかった。確かめるようにくびれを撫でられ、その甘い疼きにゾクリとする。
縫い取められて動けなかった楓香の身体が反射的に震えると、パッと距離を取るように山本が後退りをした。
「わ、悪い」
楓香の髪がはらりと揺れた。
流石にこれは居た堪れない。山本は居心地悪そうに首の後ろを掻いた。
楓香を避けて視線をあっちへこっちへとやっていたが、沈黙に耐え切れなかったのか、ゆっくりと彼女の正面に回る。
「………ッ」
眉尻をへにょんと下げて唇を噛んでいた楓香は山本と目が合うと、握っていたバットを両手で抱えて俯く。その顔は今にでも湯気が出てきそうなくらい真っ赤だ。
何だか拍子抜けした様子の山本はその反応に息を呑む。
少しの間、目を丸くさせていた彼は徐々に苦い表情へ変わり、くしゃりと前髪を握り締めて低く声を吐き出した。
「…そんな顔すんな。ドキドキしちまうから」
楓香が被っていた野球帽を取った山本はそのまま自分の頭へと被る。
先程まで目深く帽子を被っていた楓香は、突然視界が開き驚いて前を見上げた。
深々とツバを下げた影で彼の表情は読み取れないが、耳朶がほんのりと赤く染まっている。
「あー、セクハラだよな、さっきの。本当に悪かった」
「う、ううん。大丈夫、平気」
「…ツナにも申し訳ねーな」
どことなく気まずい空気か立ち込める中、それを打破したのはスマホの通知音だった。
表示された送り主の名前に、楓香の心臓が跳ねる。
「……もしかして、ツナか?」
画面を見た途端に罰の悪い顔をしたので、すぐに山本は察した。
「今夜、綱吉君と通話することになってたから、その連絡が来ました」
まだ約束の時間まで余裕はあるが、これ以上長居するのは気が引けたので二人は帰ることにした。
山本に送られながら楓香は帰り道を歩き、家に着く頃にはすっかり元の空気に戻っていたが、それでもあまり目は合わなかった。
ベッドに寝転んだ楓香は天井をぼうっと見上げた。
山本と一緒にバッティングセンターへ行った記憶を思い巡らす。
「浮気ってどこからが浮気?」
お互いに疚しい気持ちがない異性と二人きりで遊ぶことは、セーフとアウトのどちらに当て嵌るんだろうか。
ただ、もし沢田が笹川と…なんて逆の立場で考えると、嫌な気持ちになったのは事実だ。彼も同じような感情を抱くかも知れない。
「やっぱり正直に言おう」
いずれこういうことは黙っていても後からふとしたきっかけで本人の耳に入るし、隠されていたと知れば余計に落ち込む筈だ。
他意はないと前置きし、放課後のことを本人に直接話すとツーショットの写真も送った。
返ってきた反応は大して普段と変わらないもので心配無用だった。
胸のつかえが取れた楓香は沢田との会話を純粋に楽しむ。
<俺も楓香ちゃんの歌声聴きたかったなぁ。ワンコーラスで良いから歌ってよ、お願い>
「うーん、アカペラは流石に恥ずかしいかも。まぁ、はじめてのチュウなら歌うけど」
<あっ、歌うんだ>
眠れない夜~♪と口ずさめば、彼の笑い声が聞こえた。
本家に似せて歌ったが、地味に似ていたらしくて笑いのツボに入った沢田はひーひーと息を切らせていた。
「私も綱吉君の歌、聴きたい」
どんな風に歌うのか想像もつかないが、誰だって好きな人の歌声は特別で聖歌よりも尊いものである。
<俺…そんなに歌上手くないよ?蛙化するかも>
「蛙化を気にする綱吉君可愛いし、きっと蛙化になっても可愛いから安心して」
沢田が蛙化現象のことを知っているのが意外だったが、ネット記事の恋愛特集で得た知識らしい。カップルが長続きする秘訣など色々学んでいると恥ずかしそうに教えてくれた。
楓香の知らないところで、そういった行動を取っているのが嬉しくてキュンと胸がときめく。
<…じゃあ今度カラオケ行きますか>
「うん。ところで、どうして敬語なの」
<なんか緊張してきちゃって>
「えっ、早くない!?」
彼のことだから死ぬ気で歌の練習をして披露するんだろうな、と楓香はその日が来るのを待ち遠しく思った。
真っ暗になったスマホの画面に映る自分は、眉間に皺を寄せて口を引き結んだ顰め面をしていた。
「……カラオケにバッティング場かぁ」
送ってくれた画像には仲良くデュエットしている楓香と山本の姿が写し出されていて、二人が一緒に遊んでいるのは何だか面白くなかった。
「でもいちいち俺が口出すのも違うよなー。楓香ちゃんには楓香ちゃんの時間がある訳で、その全てを俺が独占出来るとは思ってないし。彼女が楽しそうに過ごしていればそれで充分なのに、なんで俺、」
こんなにもムカムカとした気持ちになっているんだろう。
本当は嫌味の一つでも言ってしまいたかった。二人で楽しそうだね、とか。でも、嫌われるのを恐れて我慢した。
心に巣食う感情の正体は分かっている。これは、嫉妬だ。
笹川に妬いていた楓香はとても可愛くて愛おしかったが、いざ自分が嫉妬する側になると話は別である。
「楓香ちゃんにこんな気持ちさせてたなんて、俺…最低だ」
自己嫌悪に陥った沢田は、ぶつぶつと呪詛でも唱えるかのように言葉を吐き出していく。
「ただでさえ骸という謎に距離感バグってる厄介な奴が居るのに、非の打ちどころがない山本とか気が気じゃないよ。…もちろん楓香ちゃんのことは信じているけどさ。そうじゃなくて、彼女が俺以外の人と一緒に居ること自体が嫌なんだ」
自分がこんなにも独占欲が強かったなんて初めて知った。
「俺って余裕がない、ちっぽけな男だよな…」
頭を抱えて悶々とベッドで転がっていると、いきなり後背部に衝撃が走った。
「へぶっ」
息が詰まって、目の前に星が飛ぶ。
「うるせーぞ、ツナ。夜更かしはお肌の天敵だ、さっさと寝やがれ」
沢田の背中を紅葉の足が容赦なく踏み付けた。
シルクのナイトキャップを揺らしながら、リボーンがぴょんぴょんと飛び跳ねる度に「ぐへっ」と呻き声を上げる。
物理的に沢田の意識を沈めた小さな悪魔は軽やかに一回転すると、ベッドから床へ着地した。
「惚れた女の前じゃ誰もが余裕なんてなくなるもんだぞ。だが、それを悟られねーように平然を装って生きてんだ。男ってのはいつだってカッコつけたい生き物だからな」
枕にめり込んでいたツンツン頭が少しだけ動き、前髪の隙間から片目だけが覗く。
「嫉妬も大事な恋愛のスパイスだが、まだお子ちゃまには早いか」
そう語るリボーンの姿は幼い子供ではなく、何故か立派な成人男性になっていた。まさかと二度見すると、ぷにっとした頬っぺたの見慣れた幼児が居たので気のせいのようだ。浮かせた顔を枕に沈める。
「…変だよな、お前が一瞬大人の男に見えたよ」
すると、リボーンはニッと悪戯っぽく笑った。
汗をかいたグラスの中で、ひとかけらの氷河がカランと揺れる。
その音色に、彼女は伏せていた目を上げた。
「楓香ちゃん、貴女にお伝えしたいことがあります」
三浦からREBOが届いたのは昨夜のことであった。会いたい、という誘いを受けた楓香は放課後に喫茶店で落ち合うことになった。
彼女からすると、中学の頃から熱狂的な思いを寄せていた沢田をぽっと出の女に奪われてしまったのだ。
もし、やるせないを通り越して精神の均衡を保てなくなる程の喪失感に三浦が襲われていたとしたら。そう思うと後ろめたさを感じた。
だから、その気持ちを真正面から受け入れることに決めた。何を言われても耐えられるように身構える。
机の下で拳を握り締めていると、三浦がゆっくり口を開いた。
「ツナさんへのガチ恋は卒業しました。だけど、ごめんなさい!気持ちを断ち切ろうと努力しましたが、どうしても推し変が出来ませんでした!」
心なしか涙声の三浦は、きっと楓香には想像もつかないくらいにたくさんの葛藤をしたのだろう。
「推しのハッピーはマイハッピーです!二人の邪魔はしません!ただ、これからもツナさんを推す許可を頂きたくて、今日はガールフレンドである楓香ちゃんにそのお願いをしに来たんです」
テーブルにぶつかりそうな勢いで、がばりと頭が下げられた。三浦のポニーテールがしゅんと垂れている。
てっきり泥棒猫などの罵倒と顔面に水がぶち撒けられ昼ドラの展開になると思っていたので、楓香は拍子抜けした。彼女の気が済むならと一発ビンタの覚悟もしていたのに。
三浦に懇願されている状況に理解が追いつかず、ぽかんと呆けていたが我に返る。
「…ハルちゃんは、私のこと憎くないの?」
「いいえ!ツナさんが選んだ人なら、それって素敵な人に違いないですから。どうして憎まないといけないんですか。ハルにはないものを楓香ちゃんは持っていて、それをツナさんに与えてハッピーにしてくれているのだから感謝の気持ちでいっぱいです」
固唾を呑んで見守っていた楓香は、予想外の展開に瞬きを繰り返す。
(あぁ、そうだ。彼女は本当に綱吉君のことが好きなんだ)
そんな三浦に心ないことを言われると勝手に思い込んでいた失礼な己を恥じた。
数秒の沈黙の後、楓香は手を差し伸べる。
「ハルちゃん、私と一緒に綱吉君の推し活をしましょう」
「はひっ、良いんですか!?すっごく嬉しいです!今日から楓香ちゃんと私は推しフレンドですね!」
「うん、綱吉君を崇め奉ろう!」
「キャー!ぜひぜひです!ガールフレンド公認ツナさんオタクとして毎日エンジョイします!」
今、此処に“沢田しか勝たん同盟”が結ばれたのである。平和的解決をした二人はがっしりと熱い握手を交わした。推しへの愛は地球を救う。
にっこりとはにかむ三浦は結衣と同じく、自分の幸せよりも好きな人の幸せを願っていた。その無償の愛が眩しかった。
マイクを握り締めて十八番の曲を歌い上げていると、扉の向こうからガラス越しに山本とばっちり目が合った。どうして此処に、と素っ頓狂な声が上がる。
結衣が椅子から立ち上がり、悪びれもなくウィンクをした。
「野球部と何人かで勝利のプチ打ち上げ会するから」
そんな話は聞いていない。放課後、遊ぼうという友人の誘いに乗ってカラオケへ足を運んだ筈なのに。
呆気に取られる楓香を置いて結衣が出迎えると、四人の生徒が部屋に入ってきた。
一気に密になり縮こまっていれば、隣にストンと山本が腰を下ろしたので軽く挨拶をする。
「よっ。歌ってる途中に邪魔しちまったな」
「ううん、気にしないで。それよりも、試合おめでとうございます」
サンキュ、と誇らしげに指でVサインを作る姿は、そのまま映画のポスターになってもおかしくない。それが期待の新星、山本武だ。
並盛高校野球部は地方大会の二回戦に勝利し、三日後に三回戦を控えている。部活が終わってから此処へ直行したのだろう、ほんの少し制汗剤の匂いがした。
「なぁ、何か頼もうぜ。お腹空いてるっしょ」
木全と名乗る生徒が山本の肩に手を置き、タブレット端末を見せてきた。
既に全員がドリンクバーで飲み物を手にしているので、フードのメニューをタップした。各々の要望を聞いた木全は手馴れた様子で注文する。
「ポテトとピザ、サラダ、パフェにラーメン…っと。これで全部か」
その間に他の男子は流行りの曲を熱唱する。気持ち良さそうに歌っているだけはあり、中々の歌唱力だった。採点で97点を叩き出し盛り上がる。
「山本君もカラオケとか行くんですね。ちょっと意外でした」
「アイツには負けるけど、俺もそれなりに歌上手いんだぜ」
隣で話を聞いていた木全が、調子良く山本の背中を叩いた。
クラスの人気者は野球部員の仲間にも慕われているらしい。
「よっし、うちの新星かましたれー!」
マイクを渡された山本はニカッと無邪気に笑うと、伴奏が流れて歌い始める。
アイドル顔負けの容姿に相応しい爽やかな歌声は、楓香達をうっとりと魅了し歌い終わる頃には自然と拍手していた。
「流石山本ナイスー!次、佐倉さん歌う?」
向けられたマイクを思わず受け取ってしまったが、すぐに後悔する。
いくら知り合いとはいえ、いきなり大勢の前で歌うのは初めての経験で、緊張から顔が強ばった。
楓香は音痴ではないが上手くもないといった並の歌唱力なので、歌が上手い人が続いている状況で自分がマイクを握ることにプレッシャーを感じた。
選曲だって何を歌えば最善なのか分からない。いっそネタに走ってはじめてのチュウでも歌ってやろうかと自棄になっていると、見兼ねた山本が助け舟を出す。
「この曲知ってるか?俺と歌おーぜ」
それは国民的アイドルの大ヒット曲だった。一人で歌うよりデュエットの方がずっと気が楽だったので、藁にも縋る思いでこくこくと頷く。
山本のおかげで音程を外さず、始終リラックスして歌い切ることが出来た。採点も上々の評価で、盛り下がることなくマイクを他の人に繋げて肩の荷が下りる。
「フォローしてくれてありがとう」
最悪の事態を回避し、こそっと隣へ感謝の言葉を伝えた。彼にはこういった場面でたくさん助けられているので頭が上がらない。
「気にすんな。佐倉も歌上手いじゃん」
「どこが。山本君の耳が心配です」
「お前の歌声、なんか透き通ってて俺は好きだけどな」
「……これは重症だ。今すぐ耳鼻科行きましょう」
「ははっ、本当おもしれーな佐倉って」
からっとした眩しい笑顔に目が潰れる感覚がして、顔を両手で覆った。
イケメンのキラキラ光線、恐ろしや。彼らは存在そのものが発光しているので、間近で直視すると火傷してしまうのだ。
暫くしてから店員がやって来て、注文していた品々が机の上に並べられていく。しっかりとお礼を言って、店員が帰っていくのを見届けた。
歌うのを一旦止めて「二回戦突破おめでとう!かんぱーい!」と、グラスを掲げて口にする。
それから皆は運ばれてきた料理にありついた。
「味噌うめーな、時代は味噌だぜ」
「いやいや豚骨でしょ」
「味噌も豚骨も若すぎる。究極は塩だから。結局はシンプルが一番良いんだよ」
思ったよりも空腹だったのか、彼らは飲み込むようにラーメンを啜っていた。楓香がちまちまとポテトを食べていると、制服のポケットに入れておいたスマホが振動する。
送り主は結衣からだった。彼女は楓香の視線を受け流し、パフェをスプーンで掬っている。
トーク画面を開くと、一枚の写真が届いていた。楓香と山本が笑い合いながらデュエットをしている場面を切り取ったものだ。
思い出になればという意図で撮ってくれたのかと自己完結し、取り敢えずお辞儀のスタンプを送った。
その画面が視界に入ったのだろう、山本が一声かけてスマホを覗き込んだ。
「なぁその写真、俺にもくれよ」
「あっ、うん」
写真を送るには連絡先を交換しないといけない訳で、楓香はファンクラブ会員からの死亡フラグが立った気がして悪寒に震える。
“武”と追加された野球帽とバットのアイコンは山本らしくて、野球愛を感じた。
彼が写真をまじまじと眺めているので、変な顔をしていないか気になった楓香は再度自分のスマホを見下ろす。至って普通の写真だ。
「そんな凝視して、まさか心霊的なものでも写ってました?」
「あー、いや…可愛いなって」
「へ」
照れ臭そうに人差し指で鼻の下を擦る彼に、目が点になった。
きっと空耳だろうと結論付けつつ、こういう聞き間違いは両者共に良くないなとやっぱりまた隣を伺ったが、その優しげな表情はどこをどう見ても勘違いだとは思えなくて。
(……本当に、空耳…?)
妙な引っかかりを覚えながらも気が付けばお開きとなった。
まだ歌い足りない男子達を両脇に引き連れた結衣が、楓香と山本へ振り返る。
「私は彼らに送ってもらうから、アンタは山本君に送ってもらいなさい」
「えっ…ちょっと、待ってよ」
「じゃあねー」
「また明日な!」
有無を言わさず、さっさと帰っていく結衣達の背中を見送る。
山本と二人きりになって、一気に心細くなった楓香は鞄を持つ手に力を入れた。
「じゃあ、俺らも帰ろーぜ」
「…はい。よろしくお願いします」
おどおどと頭を下げた楓香に、彼は親指を後ろにさした。
背負ったバットケースと肩掛けの野球バッグを一瞥した山本が、ふわりと笑いかける。
「なぁ、バッセン寄って行かね?」
並盛ボールという看板が掲げられたバッティング場では、楓香達以外にもカップルが何組か遊んでいて、そのほとんどは彼氏がバッターボックスに立ち、彼女が外で応援しているか興味なさそうにスマホを触っていた。
だが、カキーンと爽快にボールをかっ飛ばす好青年の存在に気付くと、暇を持て余していた女子達が徐々に釘付けになっていく。
そんな周囲の視線が集まるのを肌で感じた楓香は、預けられた帽子を深く被った。
(こんな間近で山本君のフルスイングを拝めるなんて…特等席すぎる)
楓香には山本の打つボールをしっかり目で捉えることすら出来なかった。快音が響くと同時にボールが高く打ち上がる。
素人目に見ても彼の凄さがひしひしと伝わり、メジャーリーガーになって世界で活躍している英雄の姿が今にも目に浮かんで来そうだ。
「山本君、有名になっても同窓会とか参加して下さいね。変な占いやギャンブルとか興味持っちゃ駄目ですよ。一生そのままで居て」
「ははっ、なんかよく分かんねーけど了解!」
その純真無垢な心が、いつの日か悪い大人の手によって薄汚れてしまうことが心配だった楓香は、つい身内目線で語ってしまう。
何回かゲームを終えると、満足した山本が振り返った。
「楓香もやってみるか?」
二人きりになった途端、名前を呼び捨てにされてドキリとした。そうすることを頼んだのは自分だけれど。
平然を装いながら、楓香は首を横に振る。
「うーん、私はど素人だし、打てないから遠慮しておきます」
「俺が教えてやっから、一回バット握ってみろよ。こうズバッと振ればいいからさ」
そう言って百四十キロの球を軽々と打ち返す姿に楓香は慄く。せめて球速を落として欲しいと頼み込むと、揶揄わずに了承してくれた。
初心者でも打てる八十キロ設定のレーンに移動し、まずバットの持ち方や打つタイミングのコツを指導してもらう。しかし、感覚派の山本の説明は正直に言うと分かりにくい。
本当に打てるのかという不安を抱きながら、一度打ってみることになった。
バッターボックスに立ち、見よう見まねでバットを構える。
「ふんッ」
数瞬後、投げられたボールはそのまま真っ直ぐバックネットに吸い込まれた。
大振りにスイングしたが気持ち良いくらいに空振ってしまい、背後で山本が笑いを堪えているのが分かる。かちっと、楓香の心の中に負けず嫌いの炎が灯った。
バットを両手で縦に持ち、ぐるんと振り返る。
「もう一回!」
その後、何度も挑戦してみるがバットが球を捕らえることはなかった。
ぜーはーと荒い呼吸を整える楓香に、バットを構えるよう伝えた山本は後ろにぴったりと立った。
いきなり密着されてカチコチに全身が固まる。が、そんなことは露知らず、彼は楓香の腰に両手を添えて姿勢を正した。
「力任せに振るんじゃなくて、体重移動を心掛けるんだ。ほら腰を真横に動かすとバットが内側から出せるようになるから」
その大きな背を屈め、楓香の顔を覗き込むものだから、また距離が近くなる。極度の緊張により、楓香は目をぐるぐると回して意識が遠のきそうになった。
「も、もう理解したから大丈夫です」
「おー」
密着していた体勢から身体を離そうとしたが、何かに気付いた山本の手が止まる。
「…腰…ほっそ」
驚きの混じった声が思わずといった風に漏れて、その吐息が楓香の頭上に吹きかかった。確かめるようにくびれを撫でられ、その甘い疼きにゾクリとする。
縫い取められて動けなかった楓香の身体が反射的に震えると、パッと距離を取るように山本が後退りをした。
「わ、悪い」
楓香の髪がはらりと揺れた。
流石にこれは居た堪れない。山本は居心地悪そうに首の後ろを掻いた。
楓香を避けて視線をあっちへこっちへとやっていたが、沈黙に耐え切れなかったのか、ゆっくりと彼女の正面に回る。
「………ッ」
眉尻をへにょんと下げて唇を噛んでいた楓香は山本と目が合うと、握っていたバットを両手で抱えて俯く。その顔は今にでも湯気が出てきそうなくらい真っ赤だ。
何だか拍子抜けした様子の山本はその反応に息を呑む。
少しの間、目を丸くさせていた彼は徐々に苦い表情へ変わり、くしゃりと前髪を握り締めて低く声を吐き出した。
「…そんな顔すんな。ドキドキしちまうから」
楓香が被っていた野球帽を取った山本はそのまま自分の頭へと被る。
先程まで目深く帽子を被っていた楓香は、突然視界が開き驚いて前を見上げた。
深々とツバを下げた影で彼の表情は読み取れないが、耳朶がほんのりと赤く染まっている。
「あー、セクハラだよな、さっきの。本当に悪かった」
「う、ううん。大丈夫、平気」
「…ツナにも申し訳ねーな」
どことなく気まずい空気か立ち込める中、それを打破したのはスマホの通知音だった。
表示された送り主の名前に、楓香の心臓が跳ねる。
「……もしかして、ツナか?」
画面を見た途端に罰の悪い顔をしたので、すぐに山本は察した。
「今夜、綱吉君と通話することになってたから、その連絡が来ました」
まだ約束の時間まで余裕はあるが、これ以上長居するのは気が引けたので二人は帰ることにした。
山本に送られながら楓香は帰り道を歩き、家に着く頃にはすっかり元の空気に戻っていたが、それでもあまり目は合わなかった。
ベッドに寝転んだ楓香は天井をぼうっと見上げた。
山本と一緒にバッティングセンターへ行った記憶を思い巡らす。
「浮気ってどこからが浮気?」
お互いに疚しい気持ちがない異性と二人きりで遊ぶことは、セーフとアウトのどちらに当て嵌るんだろうか。
ただ、もし沢田が笹川と…なんて逆の立場で考えると、嫌な気持ちになったのは事実だ。彼も同じような感情を抱くかも知れない。
「やっぱり正直に言おう」
いずれこういうことは黙っていても後からふとしたきっかけで本人の耳に入るし、隠されていたと知れば余計に落ち込む筈だ。
他意はないと前置きし、放課後のことを本人に直接話すとツーショットの写真も送った。
返ってきた反応は大して普段と変わらないもので心配無用だった。
胸のつかえが取れた楓香は沢田との会話を純粋に楽しむ。
<俺も楓香ちゃんの歌声聴きたかったなぁ。ワンコーラスで良いから歌ってよ、お願い>
「うーん、アカペラは流石に恥ずかしいかも。まぁ、はじめてのチュウなら歌うけど」
<あっ、歌うんだ>
眠れない夜~♪と口ずさめば、彼の笑い声が聞こえた。
本家に似せて歌ったが、地味に似ていたらしくて笑いのツボに入った沢田はひーひーと息を切らせていた。
「私も綱吉君の歌、聴きたい」
どんな風に歌うのか想像もつかないが、誰だって好きな人の歌声は特別で聖歌よりも尊いものである。
<俺…そんなに歌上手くないよ?蛙化するかも>
「蛙化を気にする綱吉君可愛いし、きっと蛙化になっても可愛いから安心して」
沢田が蛙化現象のことを知っているのが意外だったが、ネット記事の恋愛特集で得た知識らしい。カップルが長続きする秘訣など色々学んでいると恥ずかしそうに教えてくれた。
楓香の知らないところで、そういった行動を取っているのが嬉しくてキュンと胸がときめく。
<…じゃあ今度カラオケ行きますか>
「うん。ところで、どうして敬語なの」
<なんか緊張してきちゃって>
「えっ、早くない!?」
彼のことだから死ぬ気で歌の練習をして披露するんだろうな、と楓香はその日が来るのを待ち遠しく思った。
真っ暗になったスマホの画面に映る自分は、眉間に皺を寄せて口を引き結んだ顰め面をしていた。
「……カラオケにバッティング場かぁ」
送ってくれた画像には仲良くデュエットしている楓香と山本の姿が写し出されていて、二人が一緒に遊んでいるのは何だか面白くなかった。
「でもいちいち俺が口出すのも違うよなー。楓香ちゃんには楓香ちゃんの時間がある訳で、その全てを俺が独占出来るとは思ってないし。彼女が楽しそうに過ごしていればそれで充分なのに、なんで俺、」
こんなにもムカムカとした気持ちになっているんだろう。
本当は嫌味の一つでも言ってしまいたかった。二人で楽しそうだね、とか。でも、嫌われるのを恐れて我慢した。
心に巣食う感情の正体は分かっている。これは、嫉妬だ。
笹川に妬いていた楓香はとても可愛くて愛おしかったが、いざ自分が嫉妬する側になると話は別である。
「楓香ちゃんにこんな気持ちさせてたなんて、俺…最低だ」
自己嫌悪に陥った沢田は、ぶつぶつと呪詛でも唱えるかのように言葉を吐き出していく。
「ただでさえ骸という謎に距離感バグってる厄介な奴が居るのに、非の打ちどころがない山本とか気が気じゃないよ。…もちろん楓香ちゃんのことは信じているけどさ。そうじゃなくて、彼女が俺以外の人と一緒に居ること自体が嫌なんだ」
自分がこんなにも独占欲が強かったなんて初めて知った。
「俺って余裕がない、ちっぽけな男だよな…」
頭を抱えて悶々とベッドで転がっていると、いきなり後背部に衝撃が走った。
「へぶっ」
息が詰まって、目の前に星が飛ぶ。
「うるせーぞ、ツナ。夜更かしはお肌の天敵だ、さっさと寝やがれ」
沢田の背中を紅葉の足が容赦なく踏み付けた。
シルクのナイトキャップを揺らしながら、リボーンがぴょんぴょんと飛び跳ねる度に「ぐへっ」と呻き声を上げる。
物理的に沢田の意識を沈めた小さな悪魔は軽やかに一回転すると、ベッドから床へ着地した。
「惚れた女の前じゃ誰もが余裕なんてなくなるもんだぞ。だが、それを悟られねーように平然を装って生きてんだ。男ってのはいつだってカッコつけたい生き物だからな」
枕にめり込んでいたツンツン頭が少しだけ動き、前髪の隙間から片目だけが覗く。
「嫉妬も大事な恋愛のスパイスだが、まだお子ちゃまには早いか」
そう語るリボーンの姿は幼い子供ではなく、何故か立派な成人男性になっていた。まさかと二度見すると、ぷにっとした頬っぺたの見慣れた幼児が居たので気のせいのようだ。浮かせた顔を枕に沈める。
「…変だよな、お前が一瞬大人の男に見えたよ」
すると、リボーンはニッと悪戯っぽく笑った。
汗をかいたグラスの中で、ひとかけらの氷河がカランと揺れる。
その音色に、彼女は伏せていた目を上げた。
「楓香ちゃん、貴女にお伝えしたいことがあります」
三浦からREBOが届いたのは昨夜のことであった。会いたい、という誘いを受けた楓香は放課後に喫茶店で落ち合うことになった。
彼女からすると、中学の頃から熱狂的な思いを寄せていた沢田をぽっと出の女に奪われてしまったのだ。
もし、やるせないを通り越して精神の均衡を保てなくなる程の喪失感に三浦が襲われていたとしたら。そう思うと後ろめたさを感じた。
だから、その気持ちを真正面から受け入れることに決めた。何を言われても耐えられるように身構える。
机の下で拳を握り締めていると、三浦がゆっくり口を開いた。
「ツナさんへのガチ恋は卒業しました。だけど、ごめんなさい!気持ちを断ち切ろうと努力しましたが、どうしても推し変が出来ませんでした!」
心なしか涙声の三浦は、きっと楓香には想像もつかないくらいにたくさんの葛藤をしたのだろう。
「推しのハッピーはマイハッピーです!二人の邪魔はしません!ただ、これからもツナさんを推す許可を頂きたくて、今日はガールフレンドである楓香ちゃんにそのお願いをしに来たんです」
テーブルにぶつかりそうな勢いで、がばりと頭が下げられた。三浦のポニーテールがしゅんと垂れている。
てっきり泥棒猫などの罵倒と顔面に水がぶち撒けられ昼ドラの展開になると思っていたので、楓香は拍子抜けした。彼女の気が済むならと一発ビンタの覚悟もしていたのに。
三浦に懇願されている状況に理解が追いつかず、ぽかんと呆けていたが我に返る。
「…ハルちゃんは、私のこと憎くないの?」
「いいえ!ツナさんが選んだ人なら、それって素敵な人に違いないですから。どうして憎まないといけないんですか。ハルにはないものを楓香ちゃんは持っていて、それをツナさんに与えてハッピーにしてくれているのだから感謝の気持ちでいっぱいです」
固唾を呑んで見守っていた楓香は、予想外の展開に瞬きを繰り返す。
(あぁ、そうだ。彼女は本当に綱吉君のことが好きなんだ)
そんな三浦に心ないことを言われると勝手に思い込んでいた失礼な己を恥じた。
数秒の沈黙の後、楓香は手を差し伸べる。
「ハルちゃん、私と一緒に綱吉君の推し活をしましょう」
「はひっ、良いんですか!?すっごく嬉しいです!今日から楓香ちゃんと私は推しフレンドですね!」
「うん、綱吉君を崇め奉ろう!」
「キャー!ぜひぜひです!ガールフレンド公認ツナさんオタクとして毎日エンジョイします!」
今、此処に“沢田しか勝たん同盟”が結ばれたのである。平和的解決をした二人はがっしりと熱い握手を交わした。推しへの愛は地球を救う。
にっこりとはにかむ三浦は結衣と同じく、自分の幸せよりも好きな人の幸せを願っていた。その無償の愛が眩しかった。