泡沫トワイライト
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今朝から沢田の機嫌はすこぶる良かった。
悪戯っ子なランボから飴玉を髪に付けられても気にせず朝食を済ませ、喧嘩する子供達の仲裁に入るとイーピンが手を滑らし餃子拳を見事に食らって失神したがそれも快く許し、今一番有頂天な人ランキングで上位に入賞したとフゥ太から報告されるくらいには浮かれていた。
「なんか今日のツナ、ぺカーッと輝いてね?」
「何言ってやがる。十代目は常に神々しい後光が差してるだろーが」
言葉を吐き捨てた獄寺は眉を釣り上げ、沢田を挟んだ隣の山本を一睨する。
「うーん、きっと夢見が良かったからかな」
洗面台の前に立った時、確かに心做しか肌ツヤが輝いて見えた。幸せホルモンというものだろうか。
早く彼女に会いたい。その気持ちが先走り、学校までの道のりを歩く足取りはいつになく軽やかなものになっていた。
「もしかして、佐倉となんかあったのか?」
ギクリと身体が固まって、足が止まった。
心を見透かされた気がして、息を呑みながら山本を見上げる。
「その反応は図星だな」
つん、と額を小突かれ、また大袈裟に反応してしまった。
(山本って普段は天然なのに、こういう時は鋭いんだよな…)
目立つのが苦手な楓香は、自分達が付き合い始めたことをクラスメイトに知られたくないと嫌がっていた。
沢田も余計な野次が飛んだり茶化されるのは避けたかったので、信頼のおける人物のみ話すことに決めた。
「はぁ?んで、あのど根性女の名前が出てくるんだよ」
仲間であり友達でもある二人には伝えようと思っていたが、問題は獄寺だ。
間違いなく、ややこしいことになる。これは超直感がなくても分かり切っていた。
彼らには申し訳ないが暫くの間は黙っていようと結論が出たので、肯定も否定もせず言葉を濁すしかなかった。
「……ふーん?」
適当に取り繕う沢田に、山本は懐疑的な視線を投げる。
どうやって切り抜けようか悩んでいると、後ろから溌剌とした声が飛んで来た。
「みなさーーん、おはようございます!」
声の主は目をキラキラと輝かせながら、沢田に突進する。その勢いは猪にも勝っていた。
「ぐへっ」
内蔵が口から出そうな圧迫感に白目を剥く。獄寺が三浦を引き剥がしたことで、一瞬飛んだ意識が戻った。
「こんッッッの、アホ女!十代目を殺人ミサイルでお逝きにする気か!」
「だって恋は走り出したらノンストップなんですもん!」
「お前は暴走列車かッ!」
「まぁまぁ、朝から元気なのは良いことじゃねーか」
きゃっと顔に両手を当てた恋する少女の頭を、獄寺が容赦なく鷲掴もうとするので後ろから山本が羽交い締めして止めに入る。
それは沢田の日常を切り取った光景なのだが、昨日ビアンキに釘を刺されたことが頭に過ぎった。
あぁ、このままじゃいけない。そうなることを選んだのは自分自身なのだから。しっかり向き合ってケジメを付けなければ彼女に失礼だ。
「ハル、まだ時間大丈夫?ちょっと話したいことがあるんだ」
先に獄寺達を学校に向かわせて、その場に残った両者は顔を見合わせた。
「どうしたんですか、ツナさん」
出会ってから今に至るまで、こんなにも三浦に真剣な眼差しを向けたことはあっただろうか。
沢田は手のひらを握り締めた。
「付き合っている子が居るんだ」
好きな人が出来た、でもなく、もう既に恋人が居るという事後報告が少女の心にグサリと突き刺さる。
「だから、ハルの気持ちは受け取れない。ごめん」
出来るだけ深々と頭を垂れた。何せ彼の人生上、あんなにも真っ直ぐな好意を向けてくれた女子は三浦が初めてだった。
「こんな俺を好きになってくれて、本当にありがとう」
三浦は明るくて愛嬌があり、無鉄砲なところもあるがそこが魅力的なのだ。
その笑顔はビタミン剤のようで、今までたくさんの元気を与えてくれた、かけがえのない存在だ。
でも、それは全て友達として向けたものである。そこに恋という色は染まっていなかった。
「……相手は、楓香ちゃんですよね」
言い当てられて動揺しているのが簡単に読み取られてしまい、やっぱりと言いたげに三浦は目を伏せた。
「何となく気付いてました。楓香ちゃんが送ってくれる写真は、私の知らないツナさんばかりでしたから」
初めて見た時、三浦はとても衝撃を覚えた。
どの写真もまるで愛おしいものを見るような蕩けた瞳をしていて、本当に彼なのかと二度見した程である。
その表情を自分も引き出してみたいと何度か試してみたが、あの熱い眼差しが向けられることはなかった。
だから、気付かない振りをした。現実から目を背けて逃げることを選んだ。
何よりも、この恋が終わってしまうことが怖かった。でも、沢田の心を掴んだのが自分じゃなくて他の子ならば、もうお終いにしよう。
それは一度きりの最高の恋だった。
「ずっと、ずっと貴方のことが心から大好きでした。ツナさんのおかげで毎日がハッピーでした。ツナさんに恋して良かった。…本当にありがとうございました!」
特別な人になりたかった、他の子に渡したくなかった、あの優しい笑顔を独り占めしたかった。だけど、それは叶わない。
きらりと光る涙の粒が三浦の笑顔を殊更に輝かせていた。
「どうか、お幸せに…!」
綺麗だ、と沢田は目を奪われた。
もうあの頃のような友達には戻れないのだろうか。涙を堪えて走り去る少女の背中が遠くなっていく。
あんなにも軽かった足取りが、どこか重く感じた。
昼食前の四時限目。男子はグラウンドでサッカー、女子は調理実習となっていた。
今回は創作おにぎりを題材に、生徒達が各々とキッチンへ向かう。
楓香は自炊こそすれども料理を得手としている訳ではない。人並みに、と言ったところだ。
創作料理なんて出来るくらいのセンスもなく、悩みに悩んでムサシの推しにぎりを作ることにした。
彼の髪と瞳は水色なので着色料を混ぜ、好物である紅白なますとみじん切りにした少量の柚をお米の中へとトッピングした。
海苔を切り抜いてムサシの顔に仕上げれば、推しにぎりの出来上がりだ。
「中々の自信作になった」
パシャパシャと写真を撮っていれば、もうおにぎりを作って食べ終えた結衣が隣に立つ。
「推し活楽しそうね…普通は彼氏の為におにぎり作るんだけど」
「えっ、あ…そういう…」
「思いっきり忘れてたっていう顔ね、それ」
今まで恋人が出来たことがない楓香は彼女としての自覚が低い。結衣から彼女力がゴミと厳しい評価をされて、耳が痛いとばかりに顔を歪ませた。
何とも言えない気持ちを抱えつつ、推しにぎりを食べる。味は意外と美味しかった。
家庭科室を出て、教室に入ると賑やかな声で溢れ返っていた。
「ほらボケっとしてるとアンタの男、横取りされるわよ」
くい、と顎が動いた先を見遣ると、男子生徒達がグラウンドから教室へと戻って来た。
両腕を組んだ黒川が何かを伝えると、沢田は頬を赤らめて言い返している。
笹川が沢田へおにぎりを差し出したことで、男子達からの大ブーイングが響き渡り、その圧に怯えた沢田は後退りをした。
(付き合っていることを公にしてないから、こういうことがあるのも仕方ない)
そう頭の中では理解していても、沢田が若干嬉しそうに頬を緩ませていたのは少し、かなり気に入らない。あれは明らかにデレッとしていた。
好きだった女の子からおにぎりを貰って嬉しくなるのは分かるが、仮にも恋人が居るのにその態度は如何なものか。
ついムッとしてしまう。それが顔に出ないよう、ぐっと気持ちを押し殺して一部始終を見守っていれば、ぽんと優しく頭を叩かれた。
「えっ…」
此方にひらひらと手を振った彼、山本が背中を向けて沢田達の元へ歩く。笹川の手からおにぎりを奪い、大きな口を開けてパクリと食べた。
また阿鼻叫喚が木霊するが、沢田だと許せないがあの山本なら仕方ないかと男子達が渋々納得したことで騒ぎが丸く収まる。
(もしかして山本君、付き合っていることに気付いてる?)
空気を読めと黒川に叱られている彼は、白い歯を覗かせて朗らかに笑っていた。おかげで沢田がおにぎりを食べずに済んだけれども。
呆然と見ていれば、不意に山本と目が合った。
口元に人差し指を立て、しーっというジェスチャーをしたことで、楓香達の関係に気付いていることを知る。口パクでお礼を伝えると、山本は片目を閉じて親指を立てた。
流石モテ男、気遣いのプロだ。楓香は感謝の念を抱いて頭を下げる。
「もうさ、ダメツナから山本君に乗り換えれば?」
いつもの冗談かと思って笑い飛ばそうとしたが、結衣の表情はいつになく真剣だった。
「いやいや私は綱吉君一筋ですから。それに山本君は気になってる子が居るんでしょ」
「うん。居るのよ」
含みを持ったというか、形容しがたい視線が隣から注がれる。
先程から様子が変な友人に、楓香は違和感を覚えた。
「な、なに」
「気になってる子、知りたい?……ふふっ、なーんちゃって。言ってみただけよ。本気にしないで」
困惑する楓香の肩を叩いて、ひょうきんに首を竦めた。ぺろっと舌を出して揶揄う姿に何故かホッとする。
いつもの調子に戻った結衣は、両手を後ろに組んで目線を一瞬宙に投げた後、穏やかな口調で語った。
「振られた時は、どうして私じゃないんだろうって嘆いた。山本君に選ばれた子が羨ましくて妬ましかった。私に興味ない彼なんてこっちから願い下げだと強がって否定した。そうやって傷付かないように自分の心を守っていたけど」
私を好きになってとは言わない、と結衣は目を伏せた。
「もう、素直になろう。好きな人の幸せを願う自分が居るの。それは私じゃ役不足だから…うん、今決めた。アイツには悪いけど、山本君の味方になる」
好きな人の幸せを叶えると自分の幸せはない。それでも好きな人の幸せを祈れるようになった時、紛れもない、それは愛だ。
慈愛に満ちた微笑みを浮かべる結衣は、とても美しくてかっこよかった。
今夜もまた通話を繋げて、二人は同じ夜を過ごしていた。
ㅤ調理実習で作ったムサシをイメージしたおにぎりの写真を見せると、オタクの心に火がついた沢田が今度一緒に推しにぎりを作りたいと強請り、週末彼の家で推し活をすることになった。
ㅤついでに学校では直接言えなかった不満を遠慮なくぶつけてみる。
「もし綱吉君が愛人を作ったら、私も作るから」
<なっ!?そもそも愛人なんて必要ないし、楓香ちゃんさえ傍に居てくれたら他は何もいらないよ>
「…でも、笹川さんからおにぎり差し出されて鼻の下伸ばしてた」
<あ、あれは、その…>
上手く言葉が出て来ない沢田は分かりやすく言い淀んでしまった。
そのまま何も答えられないでいるので、楓香は唇を尖らせる。
「私だけを見てくれるんじゃなかったの。ねぇ、綱吉君」
怒ったような拗ねたような、甘えた声で紡ぐ。
「余所見しないで」
ぽすりと枕に顔を押し当てると俯せになる。だが、すぐに苦しくなって鼻の位置をずらした。
少し間を置いてから、優しい声が楓香を包み込む。
<今日、ちゃんとハルに伝えたんだ。付き合ってるって>
その言葉に、切なげに胸の内を明かしてくれた結衣の顔が思い浮かぶ。
選ばれた未来と選ばれなかった未来。そんな鏡合わせの世界に楓香は揺らいでいたが、沢田に手を引かれて幸せを掴んだ。
もし、彼が他の誰かを選んでいたら、結衣のように好きな人の幸せを願えるのだろうか。
(…想像してみたけど、私にはきっと耐えられない)
そして、また三浦はあの元気な笑顔を向けてくれるだろうか。
どう声をかければいいのか、何を言っても嫌味に聞こえるに違いない。
ㅤ好意的に思っていた三浦に嫌われたくなくて、合わせる顔がなかった。
ㅤ選ばれた側の人間には、選ばれなかった側の気持ちなど一生分かり合えないのだ。どうしようもなく楓香は無力だった。
やるせなくなって息を吐き、目を閉じた。
<俺が好きなのは楓香ちゃんだから。おにぎりの件は嫌な気持ちにさせて…ごめん>
「うん」
<…だけど、嫉妬してる楓香ちゃん可愛くて、なんか嬉しくなっちゃった>
「……ばか」
また枕に顔を突っ込んで、ぼそりと言葉を漏らした。
ㅤそういえば、とあの時フォローしてくれた爽やかな救世主を思い出す。
「山本君、私達の関係に気付いてる」
<えっ、本当に!?>
「ほら、笹川さんのおにぎり食べてたでしょ。あれは私に気遣って綱吉君の代わりに食べてくれたんだ」
<……そうだったんだ>
「優しいよね山本君、よく人のこと見てるというか…そういうところもモテる要因の一つなんだろうなぁ」
ㅤ勉強になるよ、と言葉を付け足すと少しの間沈黙が流れたので呼びかけるが、沢田から何も応答がなかった。
エラーが発生して通話が繋がらなくなったのかと焦っていれば、沢田が小声で何かを呟いていた。
「綱吉君?」
<…なんか俺ってやっぱりダメツナだなぁって思った。大切な楓香ちゃんを不安にさせて何してるんだろう。本当にごめん>
通話越しからでも伝わるジメジメとした雰囲気は、大量の茸が発生しそうな程の鬱屈さだった。
「あのね、よく聞いて。私はダメツナなところも含めて、ありのままの綱吉君が好きなの。…そして、誰よりもかっこいいことを私は知ってるよ」
そうやって自分を卑下して自信がなくなってしまうところさえも愛おしくて、本当に彼のことが好きなのだと実感する。
「いくら君でも、私の大好きな綱吉君を否定することは絶対許さないんだから」
<……うん。ありがとう、楓香ちゃん。何か俺にして欲しいこととかある?何でも言って、力になりたいんだ>
少し声に明るさが戻ったことに一安心した楓香は、横向けになっていた身体を仰向けにして天井を見上げた。
「うーんと、そうだなぁ。私の好きところ百回言って」
<そんなの簡単だよ>
ふざけて言ったつもりだっが、沢田は真面目に楓香の好きなところを一つずつ挙げていく。
<駄目な俺をいつも助けてくれる、ウジウジしてる俺に呆れず接してくれる、すごく優しい、一緒に居ると楽しくて時間を忘れる、ゲームが上手、透き通った声が綺麗、俺を呼ぶ声がすごく好き、笑顔が可愛い、もちろん普段も可愛い、不意に見える旋毛が可愛くて指で押したくなる、通話してる時は少し甘えたになる、フィーリングが合う、ちゅうすると俺に食べて欲しそうな目をして見詰めてくる、抱き締めると楓香ちゃんの匂いがして安心する、とろんとした、>
「あーもういいです満足しました恥ずかしいからもう止めてーーッ!」
羞恥心に耐え切れず沢田の声を遮ると、ごろんごろんとベットの上を転がり回った。
<えー?まだ挙げてないのいっぱいあるけど>
「……勘弁して下さい」
熱くなった頬にパタパタと手で仰いで風を送る。
そんなにも思ってくれているのは嬉しいけれど、それよりも恥ずかしさの気持ちの方が上回っていた。
<どんどん楓香ちゃんの好きなところを発見するから、たくさんあり過ぎて切りがないんだよなぁ>
よく日本人は好き同士なのに愛してると頻繁に伝えないなんて言われているが、沢田は惜しみなくスラスラと言葉にするので心臓に悪い。
きっと日本だけじゃなく、外国の血も入っているんじゃないかと何となくそう思った。
静寂が支配し、風が不気味な音を運ぶ。
チョコレートを口に運びながら読書に耽っていた六道が、ふと顔を上げた。
通路の先から一切の気配を消して現れると、かちりと目が合う。胸元にぶら下げたおしゃぶりが光った。
「おや、これはまた珍しい。小さな客人のお出ましだ」
椅子に腰を下ろしていた六道は、組んでいた足をゆっくりと解く。本に栞を挟み、机の上に置いた。
「ちゃおっス、骸」
リボーンは向かい合わせに設置された椅子へ、ぴょこんと飛び乗った。
普段のような軽口を叩くことなく視線を此方に投げて催促するので、余計な御託を並べず本題に入る。
「単刀直入に言う。楓香の監視の妨害行為はお前の仕業か」
彼女が十年後バズーカによって未来へ飛んだ日から監視役を付けていた。それは沢田にも言っていない。
しかし、所々で監視役の記憶が欠如していた。まるで、何者かの手によって記憶を抜き取られたかのように。
「突然何を言い出すかと思えば、見当違いも甚だしい。僕は何もしていませんよ。あの娘を監視していたことも初耳だ」
お互いの視線が交差した。その瞳の奥にある、真実を汲み取る。
どうやら嘘は吐いていないらしい。リボーンは六道の言葉を信じることにして、次の疑問を口にした。
「なら、例の競売所に参加していた顧客達の記憶を弄ったのは?」
「それも僕ではありません。信じるか信じないかはお任せします」
有力な情報が得られず、リボーンは内心舌打ちを飛ばした。
あの日何が起きたのか。それを暴くべく顧客達に洗い浚い白状してもらう計画を立てていたが、どいつもこいつも「知らない」の一点張りだった。
「僕が手を回す前にはもう顧客達は木偶の坊になっていた。彼女が沢田綱吉と親交関係にあるということを知り、ボンゴレが介入したのかとダメ弟子を潜らせましたが…白だと判明したのでその線は薄い」
現に僕の元へ訪ねて来たことによりボンゴレの可能性は完全に消えた、と骸は言う。
「我々以外の第三者が裏で暗躍しているのではないかと睨み、凪達にその影を追わせていますが、未だその足取りは掴めず。僕もいい加減気になっていまして、一体何者なんでしょう」
第三者の存在はリボーンも薄々感じていたので、大して驚きはない。
だが、あの六道をそこまで動かしている原動力の正体が気になった。
「やたらと楓香に執着している理由は何だ」
「クフフフ…一目惚れ、ですかね」
「フン。お前程の男が夢見がちなティーンエイジャーみてぇなことを言うなんざ、飛んだ笑い話だな」
目の前に座っている男の瞳には、恋なんて柔なものでなく、虎視眈々と獲物を狙う獰猛な獣が潜んでいた。食い殺さんとばかりの血に飢えた狂気を宿している。
「もう知っているだろーが楓香はツナの女だぞ。手出したらボンゴレが黙っちゃいねーからな。覚悟しとけ」
一瞬で懐から愛銃を取り出し、引き金に手をかけて構える。
ㅤ脅しという名の牽制をすると、六道はすんなりと両手を上げて白旗を振った。
「ボンゴレを敵に回すのは厄介だ。残念ながらこの恋は勝ち目が無いらしい」
ㅤ溜め息を吐いて肩を落としているが、そのわざとらしい芝居にリボーンはピクリと眉を上げる。
ㅤ期待していなかったが、最後まで真意を明かすことはなかった。掴んでは消える霧のような、食えない男だと改めて再認識をする。
銃を仕舞ったリボーンは「邪魔したな」と椅子から飛び降りて着地すると、足早に去っていった。
ㅤまたこの空間に静寂が舞い戻る。すっかり冷めてしまった紅茶を啜った。
ㅤ香りは飛んでしまったが気品ある風味が口の中に広がる。
「あまり詮索されると困るんですよ。あの娘の価値を知る者は僕だけで良い」
ㅤティーカップをソーサーの上に戻すと、陶器の硬い音が小さく響いた。
「誤算は彼女がドン・ボンゴレの恋人だということ。沢田綱吉、君はつくづく僕の邪魔をするのが好きなようだ」
ㅤ颯爽と前に立ちはだかっては、六道の行手を阻む目障りな存在であった。
「だが、あの娘はいずれ僕の元へ墜ちる」
ㅤ開いた手のひらを見下ろすと、藍炎を纏った蝶が羽を休めている。閉じ込めるようにゆっくりと両手で囲んで握り潰した後、その拳に唇を落とした。
ㅤドン・ボンゴレの恋人など知ったことじゃない。謎の第三者の目的がどうであれ、彼女は他の誰にも渡してなるものか。
「………君は、僕の愛しい玩具になる運命なのだから」
ㅤその仄暗い感情は決して表には出さず、道化師の仮面を被った六道はそっと口角を吊り上げた。
悪戯っ子なランボから飴玉を髪に付けられても気にせず朝食を済ませ、喧嘩する子供達の仲裁に入るとイーピンが手を滑らし餃子拳を見事に食らって失神したがそれも快く許し、今一番有頂天な人ランキングで上位に入賞したとフゥ太から報告されるくらいには浮かれていた。
「なんか今日のツナ、ぺカーッと輝いてね?」
「何言ってやがる。十代目は常に神々しい後光が差してるだろーが」
言葉を吐き捨てた獄寺は眉を釣り上げ、沢田を挟んだ隣の山本を一睨する。
「うーん、きっと夢見が良かったからかな」
洗面台の前に立った時、確かに心做しか肌ツヤが輝いて見えた。幸せホルモンというものだろうか。
早く彼女に会いたい。その気持ちが先走り、学校までの道のりを歩く足取りはいつになく軽やかなものになっていた。
「もしかして、佐倉となんかあったのか?」
ギクリと身体が固まって、足が止まった。
心を見透かされた気がして、息を呑みながら山本を見上げる。
「その反応は図星だな」
つん、と額を小突かれ、また大袈裟に反応してしまった。
(山本って普段は天然なのに、こういう時は鋭いんだよな…)
目立つのが苦手な楓香は、自分達が付き合い始めたことをクラスメイトに知られたくないと嫌がっていた。
沢田も余計な野次が飛んだり茶化されるのは避けたかったので、信頼のおける人物のみ話すことに決めた。
「はぁ?んで、あのど根性女の名前が出てくるんだよ」
仲間であり友達でもある二人には伝えようと思っていたが、問題は獄寺だ。
間違いなく、ややこしいことになる。これは超直感がなくても分かり切っていた。
彼らには申し訳ないが暫くの間は黙っていようと結論が出たので、肯定も否定もせず言葉を濁すしかなかった。
「……ふーん?」
適当に取り繕う沢田に、山本は懐疑的な視線を投げる。
どうやって切り抜けようか悩んでいると、後ろから溌剌とした声が飛んで来た。
「みなさーーん、おはようございます!」
声の主は目をキラキラと輝かせながら、沢田に突進する。その勢いは猪にも勝っていた。
「ぐへっ」
内蔵が口から出そうな圧迫感に白目を剥く。獄寺が三浦を引き剥がしたことで、一瞬飛んだ意識が戻った。
「こんッッッの、アホ女!十代目を殺人ミサイルでお逝きにする気か!」
「だって恋は走り出したらノンストップなんですもん!」
「お前は暴走列車かッ!」
「まぁまぁ、朝から元気なのは良いことじゃねーか」
きゃっと顔に両手を当てた恋する少女の頭を、獄寺が容赦なく鷲掴もうとするので後ろから山本が羽交い締めして止めに入る。
それは沢田の日常を切り取った光景なのだが、昨日ビアンキに釘を刺されたことが頭に過ぎった。
あぁ、このままじゃいけない。そうなることを選んだのは自分自身なのだから。しっかり向き合ってケジメを付けなければ彼女に失礼だ。
「ハル、まだ時間大丈夫?ちょっと話したいことがあるんだ」
先に獄寺達を学校に向かわせて、その場に残った両者は顔を見合わせた。
「どうしたんですか、ツナさん」
出会ってから今に至るまで、こんなにも三浦に真剣な眼差しを向けたことはあっただろうか。
沢田は手のひらを握り締めた。
「付き合っている子が居るんだ」
好きな人が出来た、でもなく、もう既に恋人が居るという事後報告が少女の心にグサリと突き刺さる。
「だから、ハルの気持ちは受け取れない。ごめん」
出来るだけ深々と頭を垂れた。何せ彼の人生上、あんなにも真っ直ぐな好意を向けてくれた女子は三浦が初めてだった。
「こんな俺を好きになってくれて、本当にありがとう」
三浦は明るくて愛嬌があり、無鉄砲なところもあるがそこが魅力的なのだ。
その笑顔はビタミン剤のようで、今までたくさんの元気を与えてくれた、かけがえのない存在だ。
でも、それは全て友達として向けたものである。そこに恋という色は染まっていなかった。
「……相手は、楓香ちゃんですよね」
言い当てられて動揺しているのが簡単に読み取られてしまい、やっぱりと言いたげに三浦は目を伏せた。
「何となく気付いてました。楓香ちゃんが送ってくれる写真は、私の知らないツナさんばかりでしたから」
初めて見た時、三浦はとても衝撃を覚えた。
どの写真もまるで愛おしいものを見るような蕩けた瞳をしていて、本当に彼なのかと二度見した程である。
その表情を自分も引き出してみたいと何度か試してみたが、あの熱い眼差しが向けられることはなかった。
だから、気付かない振りをした。現実から目を背けて逃げることを選んだ。
何よりも、この恋が終わってしまうことが怖かった。でも、沢田の心を掴んだのが自分じゃなくて他の子ならば、もうお終いにしよう。
それは一度きりの最高の恋だった。
「ずっと、ずっと貴方のことが心から大好きでした。ツナさんのおかげで毎日がハッピーでした。ツナさんに恋して良かった。…本当にありがとうございました!」
特別な人になりたかった、他の子に渡したくなかった、あの優しい笑顔を独り占めしたかった。だけど、それは叶わない。
きらりと光る涙の粒が三浦の笑顔を殊更に輝かせていた。
「どうか、お幸せに…!」
綺麗だ、と沢田は目を奪われた。
もうあの頃のような友達には戻れないのだろうか。涙を堪えて走り去る少女の背中が遠くなっていく。
あんなにも軽かった足取りが、どこか重く感じた。
昼食前の四時限目。男子はグラウンドでサッカー、女子は調理実習となっていた。
今回は創作おにぎりを題材に、生徒達が各々とキッチンへ向かう。
楓香は自炊こそすれども料理を得手としている訳ではない。人並みに、と言ったところだ。
創作料理なんて出来るくらいのセンスもなく、悩みに悩んでムサシの推しにぎりを作ることにした。
彼の髪と瞳は水色なので着色料を混ぜ、好物である紅白なますとみじん切りにした少量の柚をお米の中へとトッピングした。
海苔を切り抜いてムサシの顔に仕上げれば、推しにぎりの出来上がりだ。
「中々の自信作になった」
パシャパシャと写真を撮っていれば、もうおにぎりを作って食べ終えた結衣が隣に立つ。
「推し活楽しそうね…普通は彼氏の為におにぎり作るんだけど」
「えっ、あ…そういう…」
「思いっきり忘れてたっていう顔ね、それ」
今まで恋人が出来たことがない楓香は彼女としての自覚が低い。結衣から彼女力がゴミと厳しい評価をされて、耳が痛いとばかりに顔を歪ませた。
何とも言えない気持ちを抱えつつ、推しにぎりを食べる。味は意外と美味しかった。
家庭科室を出て、教室に入ると賑やかな声で溢れ返っていた。
「ほらボケっとしてるとアンタの男、横取りされるわよ」
くい、と顎が動いた先を見遣ると、男子生徒達がグラウンドから教室へと戻って来た。
両腕を組んだ黒川が何かを伝えると、沢田は頬を赤らめて言い返している。
笹川が沢田へおにぎりを差し出したことで、男子達からの大ブーイングが響き渡り、その圧に怯えた沢田は後退りをした。
(付き合っていることを公にしてないから、こういうことがあるのも仕方ない)
そう頭の中では理解していても、沢田が若干嬉しそうに頬を緩ませていたのは少し、かなり気に入らない。あれは明らかにデレッとしていた。
好きだった女の子からおにぎりを貰って嬉しくなるのは分かるが、仮にも恋人が居るのにその態度は如何なものか。
ついムッとしてしまう。それが顔に出ないよう、ぐっと気持ちを押し殺して一部始終を見守っていれば、ぽんと優しく頭を叩かれた。
「えっ…」
此方にひらひらと手を振った彼、山本が背中を向けて沢田達の元へ歩く。笹川の手からおにぎりを奪い、大きな口を開けてパクリと食べた。
また阿鼻叫喚が木霊するが、沢田だと許せないがあの山本なら仕方ないかと男子達が渋々納得したことで騒ぎが丸く収まる。
(もしかして山本君、付き合っていることに気付いてる?)
空気を読めと黒川に叱られている彼は、白い歯を覗かせて朗らかに笑っていた。おかげで沢田がおにぎりを食べずに済んだけれども。
呆然と見ていれば、不意に山本と目が合った。
口元に人差し指を立て、しーっというジェスチャーをしたことで、楓香達の関係に気付いていることを知る。口パクでお礼を伝えると、山本は片目を閉じて親指を立てた。
流石モテ男、気遣いのプロだ。楓香は感謝の念を抱いて頭を下げる。
「もうさ、ダメツナから山本君に乗り換えれば?」
いつもの冗談かと思って笑い飛ばそうとしたが、結衣の表情はいつになく真剣だった。
「いやいや私は綱吉君一筋ですから。それに山本君は気になってる子が居るんでしょ」
「うん。居るのよ」
含みを持ったというか、形容しがたい視線が隣から注がれる。
先程から様子が変な友人に、楓香は違和感を覚えた。
「な、なに」
「気になってる子、知りたい?……ふふっ、なーんちゃって。言ってみただけよ。本気にしないで」
困惑する楓香の肩を叩いて、ひょうきんに首を竦めた。ぺろっと舌を出して揶揄う姿に何故かホッとする。
いつもの調子に戻った結衣は、両手を後ろに組んで目線を一瞬宙に投げた後、穏やかな口調で語った。
「振られた時は、どうして私じゃないんだろうって嘆いた。山本君に選ばれた子が羨ましくて妬ましかった。私に興味ない彼なんてこっちから願い下げだと強がって否定した。そうやって傷付かないように自分の心を守っていたけど」
私を好きになってとは言わない、と結衣は目を伏せた。
「もう、素直になろう。好きな人の幸せを願う自分が居るの。それは私じゃ役不足だから…うん、今決めた。アイツには悪いけど、山本君の味方になる」
好きな人の幸せを叶えると自分の幸せはない。それでも好きな人の幸せを祈れるようになった時、紛れもない、それは愛だ。
慈愛に満ちた微笑みを浮かべる結衣は、とても美しくてかっこよかった。
今夜もまた通話を繋げて、二人は同じ夜を過ごしていた。
ㅤ調理実習で作ったムサシをイメージしたおにぎりの写真を見せると、オタクの心に火がついた沢田が今度一緒に推しにぎりを作りたいと強請り、週末彼の家で推し活をすることになった。
ㅤついでに学校では直接言えなかった不満を遠慮なくぶつけてみる。
「もし綱吉君が愛人を作ったら、私も作るから」
<なっ!?そもそも愛人なんて必要ないし、楓香ちゃんさえ傍に居てくれたら他は何もいらないよ>
「…でも、笹川さんからおにぎり差し出されて鼻の下伸ばしてた」
<あ、あれは、その…>
上手く言葉が出て来ない沢田は分かりやすく言い淀んでしまった。
そのまま何も答えられないでいるので、楓香は唇を尖らせる。
「私だけを見てくれるんじゃなかったの。ねぇ、綱吉君」
怒ったような拗ねたような、甘えた声で紡ぐ。
「余所見しないで」
ぽすりと枕に顔を押し当てると俯せになる。だが、すぐに苦しくなって鼻の位置をずらした。
少し間を置いてから、優しい声が楓香を包み込む。
<今日、ちゃんとハルに伝えたんだ。付き合ってるって>
その言葉に、切なげに胸の内を明かしてくれた結衣の顔が思い浮かぶ。
選ばれた未来と選ばれなかった未来。そんな鏡合わせの世界に楓香は揺らいでいたが、沢田に手を引かれて幸せを掴んだ。
もし、彼が他の誰かを選んでいたら、結衣のように好きな人の幸せを願えるのだろうか。
(…想像してみたけど、私にはきっと耐えられない)
そして、また三浦はあの元気な笑顔を向けてくれるだろうか。
どう声をかければいいのか、何を言っても嫌味に聞こえるに違いない。
ㅤ好意的に思っていた三浦に嫌われたくなくて、合わせる顔がなかった。
ㅤ選ばれた側の人間には、選ばれなかった側の気持ちなど一生分かり合えないのだ。どうしようもなく楓香は無力だった。
やるせなくなって息を吐き、目を閉じた。
<俺が好きなのは楓香ちゃんだから。おにぎりの件は嫌な気持ちにさせて…ごめん>
「うん」
<…だけど、嫉妬してる楓香ちゃん可愛くて、なんか嬉しくなっちゃった>
「……ばか」
また枕に顔を突っ込んで、ぼそりと言葉を漏らした。
ㅤそういえば、とあの時フォローしてくれた爽やかな救世主を思い出す。
「山本君、私達の関係に気付いてる」
<えっ、本当に!?>
「ほら、笹川さんのおにぎり食べてたでしょ。あれは私に気遣って綱吉君の代わりに食べてくれたんだ」
<……そうだったんだ>
「優しいよね山本君、よく人のこと見てるというか…そういうところもモテる要因の一つなんだろうなぁ」
ㅤ勉強になるよ、と言葉を付け足すと少しの間沈黙が流れたので呼びかけるが、沢田から何も応答がなかった。
エラーが発生して通話が繋がらなくなったのかと焦っていれば、沢田が小声で何かを呟いていた。
「綱吉君?」
<…なんか俺ってやっぱりダメツナだなぁって思った。大切な楓香ちゃんを不安にさせて何してるんだろう。本当にごめん>
通話越しからでも伝わるジメジメとした雰囲気は、大量の茸が発生しそうな程の鬱屈さだった。
「あのね、よく聞いて。私はダメツナなところも含めて、ありのままの綱吉君が好きなの。…そして、誰よりもかっこいいことを私は知ってるよ」
そうやって自分を卑下して自信がなくなってしまうところさえも愛おしくて、本当に彼のことが好きなのだと実感する。
「いくら君でも、私の大好きな綱吉君を否定することは絶対許さないんだから」
<……うん。ありがとう、楓香ちゃん。何か俺にして欲しいこととかある?何でも言って、力になりたいんだ>
少し声に明るさが戻ったことに一安心した楓香は、横向けになっていた身体を仰向けにして天井を見上げた。
「うーんと、そうだなぁ。私の好きところ百回言って」
<そんなの簡単だよ>
ふざけて言ったつもりだっが、沢田は真面目に楓香の好きなところを一つずつ挙げていく。
<駄目な俺をいつも助けてくれる、ウジウジしてる俺に呆れず接してくれる、すごく優しい、一緒に居ると楽しくて時間を忘れる、ゲームが上手、透き通った声が綺麗、俺を呼ぶ声がすごく好き、笑顔が可愛い、もちろん普段も可愛い、不意に見える旋毛が可愛くて指で押したくなる、通話してる時は少し甘えたになる、フィーリングが合う、ちゅうすると俺に食べて欲しそうな目をして見詰めてくる、抱き締めると楓香ちゃんの匂いがして安心する、とろんとした、>
「あーもういいです満足しました恥ずかしいからもう止めてーーッ!」
羞恥心に耐え切れず沢田の声を遮ると、ごろんごろんとベットの上を転がり回った。
<えー?まだ挙げてないのいっぱいあるけど>
「……勘弁して下さい」
熱くなった頬にパタパタと手で仰いで風を送る。
そんなにも思ってくれているのは嬉しいけれど、それよりも恥ずかしさの気持ちの方が上回っていた。
<どんどん楓香ちゃんの好きなところを発見するから、たくさんあり過ぎて切りがないんだよなぁ>
よく日本人は好き同士なのに愛してると頻繁に伝えないなんて言われているが、沢田は惜しみなくスラスラと言葉にするので心臓に悪い。
きっと日本だけじゃなく、外国の血も入っているんじゃないかと何となくそう思った。
静寂が支配し、風が不気味な音を運ぶ。
チョコレートを口に運びながら読書に耽っていた六道が、ふと顔を上げた。
通路の先から一切の気配を消して現れると、かちりと目が合う。胸元にぶら下げたおしゃぶりが光った。
「おや、これはまた珍しい。小さな客人のお出ましだ」
椅子に腰を下ろしていた六道は、組んでいた足をゆっくりと解く。本に栞を挟み、机の上に置いた。
「ちゃおっス、骸」
リボーンは向かい合わせに設置された椅子へ、ぴょこんと飛び乗った。
普段のような軽口を叩くことなく視線を此方に投げて催促するので、余計な御託を並べず本題に入る。
「単刀直入に言う。楓香の監視の妨害行為はお前の仕業か」
彼女が十年後バズーカによって未来へ飛んだ日から監視役を付けていた。それは沢田にも言っていない。
しかし、所々で監視役の記憶が欠如していた。まるで、何者かの手によって記憶を抜き取られたかのように。
「突然何を言い出すかと思えば、見当違いも甚だしい。僕は何もしていませんよ。あの娘を監視していたことも初耳だ」
お互いの視線が交差した。その瞳の奥にある、真実を汲み取る。
どうやら嘘は吐いていないらしい。リボーンは六道の言葉を信じることにして、次の疑問を口にした。
「なら、例の競売所に参加していた顧客達の記憶を弄ったのは?」
「それも僕ではありません。信じるか信じないかはお任せします」
有力な情報が得られず、リボーンは内心舌打ちを飛ばした。
あの日何が起きたのか。それを暴くべく顧客達に洗い浚い白状してもらう計画を立てていたが、どいつもこいつも「知らない」の一点張りだった。
「僕が手を回す前にはもう顧客達は木偶の坊になっていた。彼女が沢田綱吉と親交関係にあるということを知り、ボンゴレが介入したのかとダメ弟子を潜らせましたが…白だと判明したのでその線は薄い」
現に僕の元へ訪ねて来たことによりボンゴレの可能性は完全に消えた、と骸は言う。
「我々以外の第三者が裏で暗躍しているのではないかと睨み、凪達にその影を追わせていますが、未だその足取りは掴めず。僕もいい加減気になっていまして、一体何者なんでしょう」
第三者の存在はリボーンも薄々感じていたので、大して驚きはない。
だが、あの六道をそこまで動かしている原動力の正体が気になった。
「やたらと楓香に執着している理由は何だ」
「クフフフ…一目惚れ、ですかね」
「フン。お前程の男が夢見がちなティーンエイジャーみてぇなことを言うなんざ、飛んだ笑い話だな」
目の前に座っている男の瞳には、恋なんて柔なものでなく、虎視眈々と獲物を狙う獰猛な獣が潜んでいた。食い殺さんとばかりの血に飢えた狂気を宿している。
「もう知っているだろーが楓香はツナの女だぞ。手出したらボンゴレが黙っちゃいねーからな。覚悟しとけ」
一瞬で懐から愛銃を取り出し、引き金に手をかけて構える。
ㅤ脅しという名の牽制をすると、六道はすんなりと両手を上げて白旗を振った。
「ボンゴレを敵に回すのは厄介だ。残念ながらこの恋は勝ち目が無いらしい」
ㅤ溜め息を吐いて肩を落としているが、そのわざとらしい芝居にリボーンはピクリと眉を上げる。
ㅤ期待していなかったが、最後まで真意を明かすことはなかった。掴んでは消える霧のような、食えない男だと改めて再認識をする。
銃を仕舞ったリボーンは「邪魔したな」と椅子から飛び降りて着地すると、足早に去っていった。
ㅤまたこの空間に静寂が舞い戻る。すっかり冷めてしまった紅茶を啜った。
ㅤ香りは飛んでしまったが気品ある風味が口の中に広がる。
「あまり詮索されると困るんですよ。あの娘の価値を知る者は僕だけで良い」
ㅤティーカップをソーサーの上に戻すと、陶器の硬い音が小さく響いた。
「誤算は彼女がドン・ボンゴレの恋人だということ。沢田綱吉、君はつくづく僕の邪魔をするのが好きなようだ」
ㅤ颯爽と前に立ちはだかっては、六道の行手を阻む目障りな存在であった。
「だが、あの娘はいずれ僕の元へ墜ちる」
ㅤ開いた手のひらを見下ろすと、藍炎を纏った蝶が羽を休めている。閉じ込めるようにゆっくりと両手で囲んで握り潰した後、その拳に唇を落とした。
ㅤドン・ボンゴレの恋人など知ったことじゃない。謎の第三者の目的がどうであれ、彼女は他の誰にも渡してなるものか。
「………君は、僕の愛しい玩具になる運命なのだから」
ㅤその仄暗い感情は決して表には出さず、道化師の仮面を被った六道はそっと口角を吊り上げた。