泡沫トワイライト
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どんぶらこどんぶらこと、立派な桃が川に流され楓香の前へ運ばれてきた。
じゅるりと垂れる涎を飲み込み、両手で水面から掬い上げる。
「はぁ、なんて美味しそうな桃なんだろう」
くんくんと鼻を鳴らし、芳醇な香りにうっとりと目を閉じた。
皮のままぺろりとひと舐めすると、何故か桃がビクついた。
「…う、動いた?」
また舌でちょんと軽く突いたら、ぷるぷると震え始めて楓香は怖々と目を丸くさせる。
「もしかしてこの桃、意思がある?」
何度か話しかけてみるが、桃はうんともすんとも言わない。やっぱり気のせいか。
その瑞々しい桃に唇を当てて柔らかな感触を楽しんだ後に、むちゅうと吸い付く。
すると、遠くから誰かに名前を呼ばれた気がしたが、はっきりとは聞こえず。
ちゅうちゅうと甘い果汁を味わうのに夢中になっていた楓香は、その声が次第に大きくなっていることに気付かない。
かぷっと桃を甘噛みした瞬間、
「ッ楓香ちゃん!」
くっきりとした声が響き渡る。
目の前の桃が遠くへ薄れていき、ふわふわとした何かが頬を擽った。
「……あれ?」
ぱちくり。
瞬きをすると、いきなり蜂蜜が視界に広がった。
「…はぁ、やっと起きてくれた。おはよう楓香ちゃん」
くるりと振り返った横顔が、至近距離にある。
熱を孕んだ瞳が潤んでいて、何だか色っぽい。ドキリと、心臓の鼓動が跳ねた。
沢田が深く息を吐くと、それに伴い楓香の身体も揺れ動く。
自分の手が彼の首へ回され、全身を預けていた。状況を把握すると、ぼんやりとした意識が瞬時に覚醒する。
「なっ、どうして、おんぶ…!?」
その背中の温もりを感じながら問うと、疲労感を漂わせた沢田が一から説明をした。
六道の能力によって悪夢を見ることなく昏々と眠る楓香を、迎えに来た沢田が背負い、今はその帰路の途にあるらしい。
「そっか…あのまま寝ちゃったんだ。綱吉君、迎えに来てくれてありがとう。あと、おんぶもありがとう」
「ぐっすり眠れたようで良かったよ、安心した」
かなり心配をかけてしまっていたので再度謝罪すれば「謝らないで」と顔が横に振られる。その際に沢田の片耳が湿っているように見えた。
耳朶も真っ赤に染まっているのでまじまじと凝視した楓香は、そっと耳元で囁く。
「ねぇ、耳濡れてる」
「…っ(誰のせいだと…)」
「綱吉君?」
その場で体操選手のように俊敏な動作で飛び跳ねた彼は、体勢を崩して楓香を背負ったままドテンと転んだ。
地べたに五体投地した沢田の上から慌てて退くが、ぴくりとも動かず屍と化していた。
「だっ、大丈夫!?」
ぐったりとしているので上体を起こしてあげるが、沢田は無言のまま立ち上がる。その鼻からは赤い液体が垂れていた。
「ちょっと、血!鼻血出てる!」
「えっ、あ、ほんとだ」
ごしごしと手の甲で鼻の下を擦った沢田は、心あらずといった雰囲気で砂埃を払っている。幸いにもちょろっと出ただけなので、すぐに血は止まった。
「どうしたの、何か変なこと言っちゃったかな」
「ううん。これは、その、俺の個人的な問題だから…(言えない、熱い吐息が耳に当たって全身の力が抜けそうになったなんて、とても言えない!)」
よく分からない返答に楓香がきょとんとしていれば、人の気も知らないでと小声でぼやいた沢田が気まずげに視線を逸らし「起きる直前、夢を見た?」と話を変える。
「うん、美味しそうな桃を食べる夢を見たよ。すごくリアルだったなぁ」
「そ、そっか、桃…(それ桃じゃなくて俺の耳ーーッ!)」
がっくりと肩を落とす沢田を、楓香は不思議そうに見詰めた。
二人は肩を並べて帰り道を歩く。
車のヘッドライトが行き交う交差点を眺めた。信号待ちで足を止めた楓香は隣を覗き込むと、小さく笑った。
「どうしたの?」
「んー、ふふっ。綱吉君だなぁと思って」
「えー?」
風で揺れる蜂蜜の髪も、優しげに細められる橙の瞳も、二人きりだと少し甘くなる声音も、沢田を形取る全てのものが愛おしくて、ただただ眩しかった。
「不思議だよね、好きな人と一緒に居る時間がこんなにも幸せだなんて…知らなかった。いつも私に初めての感情を与えてくれて、ありがとう」
空っぽだったロボットが心を手に入れた時のような台詞を口にしてしまい、楓香は照れ臭くなり、手持ち無沙汰に髪を耳にかけた。
あまりにも綺麗に笑うから、その横顔に釘付けになった沢田は衝動的に楓香の手を引く。
「どうしたの、つな…」
その言葉は、降りてきた唇に塞がれて飲み込んでしまった。
そっと啄んでから甘噛みされて、柔和だが徐々に深くなっていく口付けに、心地良さを隠し切れない楓香の声が漏れる。
(…なにこれ、気持ちいい)
いっそこのまま一つに溶けてしまいたい。
ゆっくり目を開けると、視界の端で通行人が横断歩道を渡るのが映り込む。そうだ、此処は外だ。
通りかかった野次馬からヒューと口笛を吹かれ、それを聞いた二人は我に返った。
熱を帯びた唇を離して距離を取り、沢田が小さな声で謝る。
「……ご、めん」
「…いっ、いきなり…人前でするのは、だめ」
「…じゃあ二人きりの時は、」
未だ頬が紅潮したまま落ち着きすら取り戻せていないが、楓香は静かに頷いた。
青に点灯していた横断歩道の信号がまた赤へと変わる。
「……つらい」
ずるずるとしゃがんだ沢田は両手で顔を覆って悶えていた。
「楓香ちゃんのこと好き過ぎて、つらい」
気持ちを押し殺すように呟かれた言葉に、ぎゅんっと心臓が射抜かれて撃沈した楓香は、彼と同じようにしゃがみ込む。
声にならない声を上げて顔を伏せた。
「……もしかして綱吉君、キス好き?」
「好きとかよく分からないけど、楓香ちゃんを見てると、こう…ムズムズして、ついしたくなっちゃうんだ」
そのド直球な言葉に顔を上げると、沢田の視線が楓香の目から唇へと注がれる。堪らず口元を両手で隠した。
「あ、あんまり見ないで」
「ごめん。でも、楓香ちゃんだって、すごく見てたよね。電車の中で…」
それはFWイベントの帰りの電車で、楓香が沢田の唇を凝視していた時のことである。
「あっ、あれはその、初めてだったから、つい…。てか、よく覚えてるね」
「だって…楓香ちゃんと初めてちゅうした日だもん」
歯切れ悪くもごもごと口篭る沢田に、鼓動が高鳴り両手で胸を押さえた。
頭のどこかで、はじめてのチュウ~♪と曲が流れる。
「……言おうか迷ってたけど、綱吉君、キスのことちゅうっていうの可愛い」
「………今度からはキスって言う」
「えっ、どうして」
「彼女から可愛いとか言われても嬉しくない。男心は複雑なんです」
ぐっと眉を寄せて拗ねた様子で唸る沢田は、あのポンデライオンのスタンプを連想させた。
「そっかぁ。でも、私の言う可愛いって文字通りの意味じゃなくて、愛おしさ故の可愛いっていうか、可愛い=好き、なんだよね」
「…つまり、キスのことをちゅうって言う俺が好きってこと?」
「うん、好き!」
ふーん、と沢田は満更でもなさそうに口角を上げた。男心は複雑だが単純でもあるので、すぐに機嫌が直る。
信号機が青になったので今度こそ横断歩道を渡ると、楓香は名前を呼ばれた。
「今夜、一緒に寝よう」
前置きもなく唐突に言われて、ぽかんと口を開ける。
呆気に取られて楓香が立ち尽くすと、言った本人である沢田も何故か動揺して必死に言い募った。
「あ、ちが…そうじゃなくて!俺が言いたいのは…通話を繋いだまま、一緒に寝たいってこと、です」
それは俗に言う“寝落ち通話”のお誘いだった。
帰宅した楓香は無心で晩御飯のねぎトロ丼を食べると、さっと入浴と歯磨きを済ませる。
朝まで通話をするのでスマホをしっかりと充電しておいた。
もう真夜中だがその目はやけに冴えており、バックライトの眩しい明かりに照らされながらスマホ画面を見詰めた。
今まで沢田とはたくさん通話をしてきたが、寝落ち通話というのは初めての試みだ。
約束の時間になると、端末が振動して着信を知らせる。緊張気味に通話開始をタップして、スピーカーホンに切り替えた。
「こ…こんばんは、綱吉君」
<楓香ちゃん、こんばんは>
いつもは椅子に座っていたのでベッドの上でする通話は新鮮だったが、スマホから流れる声が普段よりも違って聞こえる。
「ちょっと声が籠ってるような…?」
<あっ、ごめん。皆、寝てるから布団被って話してるんだ。聞き取り辛い?>
「そうなんだね。ううん、聞こえるから問題ないよ」
<ありがとう>
声を落として喋っているのが、まるで沢田に耳元で囁かれている気分になる。
<そっちも少し声が違う気がする>
「えっ、そうかな。どんな風に聞こえるの?」
ガサゴソと衣擦れの音とくぐもった声が通話口から響いた。
<……なんていうか、その…食べたい…>
「綱吉君、お腹空いてるの?」
<そ、そうじゃなくて、…楓香ちゃんを食べたくなる、っていう意味>
「…今日たくさん、…キスしたのに。欲しがり屋さんめ」
スピーカーの向こうは一瞬黙ってから、思わずと言った風にぼそりと漏らす。
<…あれでも我慢した方なんだけど>
何気なく放たれたその言葉に、楓香の顔が熱くなった。
ぼすぼすと枕に顔を埋めて、胸の疼きを噛み締める。足をじたばたさせて身悶えていれば、笑いを含んだ声が部屋に響いた。
「……手加減して」
<やだ。だって楓香ちゃんすごく可愛いんだもん>
チクタクと進む時計の針よりも、心臓の鼓動の方が早い気がする。
「あんなに夜が来るの怖かったのに、綱吉君と話してたらそんな憂鬱な気分もどっか行っちゃった」
<良かった。骸と違って俺が出来ることは限られているから、少しでも楓香ちゃんが楽になったなら本望だよ>
楓香を支えたいという沢田の真っ直ぐな気持ちが伝わり、心が温かくなった。じんと目頭が熱くなるのを感じつつ、顔が綻ぶ。
「本当にありがとう、綱吉君」
やっぱり彼はヒーローだ。
夜遅いというのに時間を忘れて会話を楽しんでいた二人に、ゆっくりと睡魔が訪れる。
「もう、悪夢なんてこわくない。綱吉君がそばにいてくれるから」
自分はひとりじゃないと分かった。沢田のおかげで満たされ、ちっとも寂しさを感じない。
「……夢のなかでも、こうして、いっしょに、」
<うん、ずっと一緒だよ>
「…ありがとう」
ふわふわと微睡む舌足らずな楓香の声が徐々に寝息へと変わり、その無防備な様子に彼は愛おしさを感じた。
そして、夢の世界へ意識が落ちる寸前に沢田が囁く。
<おやすみ、ふうかちゃん>
願わくばこの先君に幸あらんことを。
楓香が眠る部屋を、窓の外から見詰める一つの影があった。
「―――アナスタシア…」
その仮面の奥に覗く瞳が僅かに細められ、回顧の色を宿す。
やがて男は静かに闇へと溶け込むように消えた。
まだ薄暗い部屋に、遠くから小鳥達の合唱が届いて朝を告げる。
微睡みから浮上した楓香は欠伸を零した。
最近は悪夢で飛び起きることが多かったので、こんなにも落ち着いた朝を迎えたのは久しぶりだった。
まだ起床するのには早く再び瞼を下ろすと、後ろからすぅすぅと規則正しい呼吸音が小さく響く。
(……!)
横向きになっていた楓香がくるりと振り返れば、枕の隣にスマホが置かれていた。
それを目にして、昨夜寝落ち通話をしていたこと思い出す。
(…これ、隣に綱吉君が寝てるみたいで、なんか恥ずかしくなってきた)
普段聞くことのない寝息に耳を澄ましてしまうのは仕方のないことである。
どんな夢を見ているのだろうか。
「…わたしの夢をみてくれてたらいいなぁ」
すると、とろりと柔らかな声音がスピーカーから流れた。
<……楓香ちゃんの夢みたよ>
うとうとと夢の狭間に漂っていた意識が、ぐんと現実へ引き戻される。
「…お、おきてたの?おはよう」
<楓香ちゃんの声でおきた。おはよ>
寝起きだからか、甘く掠れた声がそのまま楓香へと届く。
「モニコしちゃった」
<おかげさまで、さいこうの目覚めです>
瞳を閉じたまま囁くように紡がれた言葉が、鼓膜を心地良く擽った。
「…朝のつなよしくんって、いいね」
<えー?>
「……素をかんじられて、うれしいかも」
<朝の楓香ちゃんは、赤ちゃんみたいでかわいいよ>
「ふふっ、なにそれ」
新しい一面を知れて嬉しかった。これからも色んな沢田を見付けていきたいな、と楓香は心の中でそう思った。
<こわい夢みた?>
「ううん。とてもすてきな夢をみた気がする」
<その夢におれがいたらいいな>
「うん。つなよしくんはずっといっしょにいてくれたよ」
愛おしさが溢れて止まらない。それは沢田も同じだった。
<……楓香ちゃん>
ゆっくりとスマホ越しから声が近付いた。
<すき>
吐息混じりに囁かれる。
それはまるで沢田に抱き締められているようで、
「わたしも、すき」
二人は幸せと温もりに満ち溢れた朝を迎える。
じゅるりと垂れる涎を飲み込み、両手で水面から掬い上げる。
「はぁ、なんて美味しそうな桃なんだろう」
くんくんと鼻を鳴らし、芳醇な香りにうっとりと目を閉じた。
皮のままぺろりとひと舐めすると、何故か桃がビクついた。
「…う、動いた?」
また舌でちょんと軽く突いたら、ぷるぷると震え始めて楓香は怖々と目を丸くさせる。
「もしかしてこの桃、意思がある?」
何度か話しかけてみるが、桃はうんともすんとも言わない。やっぱり気のせいか。
その瑞々しい桃に唇を当てて柔らかな感触を楽しんだ後に、むちゅうと吸い付く。
すると、遠くから誰かに名前を呼ばれた気がしたが、はっきりとは聞こえず。
ちゅうちゅうと甘い果汁を味わうのに夢中になっていた楓香は、その声が次第に大きくなっていることに気付かない。
かぷっと桃を甘噛みした瞬間、
「ッ楓香ちゃん!」
くっきりとした声が響き渡る。
目の前の桃が遠くへ薄れていき、ふわふわとした何かが頬を擽った。
「……あれ?」
ぱちくり。
瞬きをすると、いきなり蜂蜜が視界に広がった。
「…はぁ、やっと起きてくれた。おはよう楓香ちゃん」
くるりと振り返った横顔が、至近距離にある。
熱を孕んだ瞳が潤んでいて、何だか色っぽい。ドキリと、心臓の鼓動が跳ねた。
沢田が深く息を吐くと、それに伴い楓香の身体も揺れ動く。
自分の手が彼の首へ回され、全身を預けていた。状況を把握すると、ぼんやりとした意識が瞬時に覚醒する。
「なっ、どうして、おんぶ…!?」
その背中の温もりを感じながら問うと、疲労感を漂わせた沢田が一から説明をした。
六道の能力によって悪夢を見ることなく昏々と眠る楓香を、迎えに来た沢田が背負い、今はその帰路の途にあるらしい。
「そっか…あのまま寝ちゃったんだ。綱吉君、迎えに来てくれてありがとう。あと、おんぶもありがとう」
「ぐっすり眠れたようで良かったよ、安心した」
かなり心配をかけてしまっていたので再度謝罪すれば「謝らないで」と顔が横に振られる。その際に沢田の片耳が湿っているように見えた。
耳朶も真っ赤に染まっているのでまじまじと凝視した楓香は、そっと耳元で囁く。
「ねぇ、耳濡れてる」
「…っ(誰のせいだと…)」
「綱吉君?」
その場で体操選手のように俊敏な動作で飛び跳ねた彼は、体勢を崩して楓香を背負ったままドテンと転んだ。
地べたに五体投地した沢田の上から慌てて退くが、ぴくりとも動かず屍と化していた。
「だっ、大丈夫!?」
ぐったりとしているので上体を起こしてあげるが、沢田は無言のまま立ち上がる。その鼻からは赤い液体が垂れていた。
「ちょっと、血!鼻血出てる!」
「えっ、あ、ほんとだ」
ごしごしと手の甲で鼻の下を擦った沢田は、心あらずといった雰囲気で砂埃を払っている。幸いにもちょろっと出ただけなので、すぐに血は止まった。
「どうしたの、何か変なこと言っちゃったかな」
「ううん。これは、その、俺の個人的な問題だから…(言えない、熱い吐息が耳に当たって全身の力が抜けそうになったなんて、とても言えない!)」
よく分からない返答に楓香がきょとんとしていれば、人の気も知らないでと小声でぼやいた沢田が気まずげに視線を逸らし「起きる直前、夢を見た?」と話を変える。
「うん、美味しそうな桃を食べる夢を見たよ。すごくリアルだったなぁ」
「そ、そっか、桃…(それ桃じゃなくて俺の耳ーーッ!)」
がっくりと肩を落とす沢田を、楓香は不思議そうに見詰めた。
二人は肩を並べて帰り道を歩く。
車のヘッドライトが行き交う交差点を眺めた。信号待ちで足を止めた楓香は隣を覗き込むと、小さく笑った。
「どうしたの?」
「んー、ふふっ。綱吉君だなぁと思って」
「えー?」
風で揺れる蜂蜜の髪も、優しげに細められる橙の瞳も、二人きりだと少し甘くなる声音も、沢田を形取る全てのものが愛おしくて、ただただ眩しかった。
「不思議だよね、好きな人と一緒に居る時間がこんなにも幸せだなんて…知らなかった。いつも私に初めての感情を与えてくれて、ありがとう」
空っぽだったロボットが心を手に入れた時のような台詞を口にしてしまい、楓香は照れ臭くなり、手持ち無沙汰に髪を耳にかけた。
あまりにも綺麗に笑うから、その横顔に釘付けになった沢田は衝動的に楓香の手を引く。
「どうしたの、つな…」
その言葉は、降りてきた唇に塞がれて飲み込んでしまった。
そっと啄んでから甘噛みされて、柔和だが徐々に深くなっていく口付けに、心地良さを隠し切れない楓香の声が漏れる。
(…なにこれ、気持ちいい)
いっそこのまま一つに溶けてしまいたい。
ゆっくり目を開けると、視界の端で通行人が横断歩道を渡るのが映り込む。そうだ、此処は外だ。
通りかかった野次馬からヒューと口笛を吹かれ、それを聞いた二人は我に返った。
熱を帯びた唇を離して距離を取り、沢田が小さな声で謝る。
「……ご、めん」
「…いっ、いきなり…人前でするのは、だめ」
「…じゃあ二人きりの時は、」
未だ頬が紅潮したまま落ち着きすら取り戻せていないが、楓香は静かに頷いた。
青に点灯していた横断歩道の信号がまた赤へと変わる。
「……つらい」
ずるずるとしゃがんだ沢田は両手で顔を覆って悶えていた。
「楓香ちゃんのこと好き過ぎて、つらい」
気持ちを押し殺すように呟かれた言葉に、ぎゅんっと心臓が射抜かれて撃沈した楓香は、彼と同じようにしゃがみ込む。
声にならない声を上げて顔を伏せた。
「……もしかして綱吉君、キス好き?」
「好きとかよく分からないけど、楓香ちゃんを見てると、こう…ムズムズして、ついしたくなっちゃうんだ」
そのド直球な言葉に顔を上げると、沢田の視線が楓香の目から唇へと注がれる。堪らず口元を両手で隠した。
「あ、あんまり見ないで」
「ごめん。でも、楓香ちゃんだって、すごく見てたよね。電車の中で…」
それはFWイベントの帰りの電車で、楓香が沢田の唇を凝視していた時のことである。
「あっ、あれはその、初めてだったから、つい…。てか、よく覚えてるね」
「だって…楓香ちゃんと初めてちゅうした日だもん」
歯切れ悪くもごもごと口篭る沢田に、鼓動が高鳴り両手で胸を押さえた。
頭のどこかで、はじめてのチュウ~♪と曲が流れる。
「……言おうか迷ってたけど、綱吉君、キスのことちゅうっていうの可愛い」
「………今度からはキスって言う」
「えっ、どうして」
「彼女から可愛いとか言われても嬉しくない。男心は複雑なんです」
ぐっと眉を寄せて拗ねた様子で唸る沢田は、あのポンデライオンのスタンプを連想させた。
「そっかぁ。でも、私の言う可愛いって文字通りの意味じゃなくて、愛おしさ故の可愛いっていうか、可愛い=好き、なんだよね」
「…つまり、キスのことをちゅうって言う俺が好きってこと?」
「うん、好き!」
ふーん、と沢田は満更でもなさそうに口角を上げた。男心は複雑だが単純でもあるので、すぐに機嫌が直る。
信号機が青になったので今度こそ横断歩道を渡ると、楓香は名前を呼ばれた。
「今夜、一緒に寝よう」
前置きもなく唐突に言われて、ぽかんと口を開ける。
呆気に取られて楓香が立ち尽くすと、言った本人である沢田も何故か動揺して必死に言い募った。
「あ、ちが…そうじゃなくて!俺が言いたいのは…通話を繋いだまま、一緒に寝たいってこと、です」
それは俗に言う“寝落ち通話”のお誘いだった。
帰宅した楓香は無心で晩御飯のねぎトロ丼を食べると、さっと入浴と歯磨きを済ませる。
朝まで通話をするのでスマホをしっかりと充電しておいた。
もう真夜中だがその目はやけに冴えており、バックライトの眩しい明かりに照らされながらスマホ画面を見詰めた。
今まで沢田とはたくさん通話をしてきたが、寝落ち通話というのは初めての試みだ。
約束の時間になると、端末が振動して着信を知らせる。緊張気味に通話開始をタップして、スピーカーホンに切り替えた。
「こ…こんばんは、綱吉君」
<楓香ちゃん、こんばんは>
いつもは椅子に座っていたのでベッドの上でする通話は新鮮だったが、スマホから流れる声が普段よりも違って聞こえる。
「ちょっと声が籠ってるような…?」
<あっ、ごめん。皆、寝てるから布団被って話してるんだ。聞き取り辛い?>
「そうなんだね。ううん、聞こえるから問題ないよ」
<ありがとう>
声を落として喋っているのが、まるで沢田に耳元で囁かれている気分になる。
<そっちも少し声が違う気がする>
「えっ、そうかな。どんな風に聞こえるの?」
ガサゴソと衣擦れの音とくぐもった声が通話口から響いた。
<……なんていうか、その…食べたい…>
「綱吉君、お腹空いてるの?」
<そ、そうじゃなくて、…楓香ちゃんを食べたくなる、っていう意味>
「…今日たくさん、…キスしたのに。欲しがり屋さんめ」
スピーカーの向こうは一瞬黙ってから、思わずと言った風にぼそりと漏らす。
<…あれでも我慢した方なんだけど>
何気なく放たれたその言葉に、楓香の顔が熱くなった。
ぼすぼすと枕に顔を埋めて、胸の疼きを噛み締める。足をじたばたさせて身悶えていれば、笑いを含んだ声が部屋に響いた。
「……手加減して」
<やだ。だって楓香ちゃんすごく可愛いんだもん>
チクタクと進む時計の針よりも、心臓の鼓動の方が早い気がする。
「あんなに夜が来るの怖かったのに、綱吉君と話してたらそんな憂鬱な気分もどっか行っちゃった」
<良かった。骸と違って俺が出来ることは限られているから、少しでも楓香ちゃんが楽になったなら本望だよ>
楓香を支えたいという沢田の真っ直ぐな気持ちが伝わり、心が温かくなった。じんと目頭が熱くなるのを感じつつ、顔が綻ぶ。
「本当にありがとう、綱吉君」
やっぱり彼はヒーローだ。
夜遅いというのに時間を忘れて会話を楽しんでいた二人に、ゆっくりと睡魔が訪れる。
「もう、悪夢なんてこわくない。綱吉君がそばにいてくれるから」
自分はひとりじゃないと分かった。沢田のおかげで満たされ、ちっとも寂しさを感じない。
「……夢のなかでも、こうして、いっしょに、」
<うん、ずっと一緒だよ>
「…ありがとう」
ふわふわと微睡む舌足らずな楓香の声が徐々に寝息へと変わり、その無防備な様子に彼は愛おしさを感じた。
そして、夢の世界へ意識が落ちる寸前に沢田が囁く。
<おやすみ、ふうかちゃん>
願わくばこの先君に幸あらんことを。
楓香が眠る部屋を、窓の外から見詰める一つの影があった。
「―――アナスタシア…」
その仮面の奥に覗く瞳が僅かに細められ、回顧の色を宿す。
やがて男は静かに闇へと溶け込むように消えた。
まだ薄暗い部屋に、遠くから小鳥達の合唱が届いて朝を告げる。
微睡みから浮上した楓香は欠伸を零した。
最近は悪夢で飛び起きることが多かったので、こんなにも落ち着いた朝を迎えたのは久しぶりだった。
まだ起床するのには早く再び瞼を下ろすと、後ろからすぅすぅと規則正しい呼吸音が小さく響く。
(……!)
横向きになっていた楓香がくるりと振り返れば、枕の隣にスマホが置かれていた。
それを目にして、昨夜寝落ち通話をしていたこと思い出す。
(…これ、隣に綱吉君が寝てるみたいで、なんか恥ずかしくなってきた)
普段聞くことのない寝息に耳を澄ましてしまうのは仕方のないことである。
どんな夢を見ているのだろうか。
「…わたしの夢をみてくれてたらいいなぁ」
すると、とろりと柔らかな声音がスピーカーから流れた。
<……楓香ちゃんの夢みたよ>
うとうとと夢の狭間に漂っていた意識が、ぐんと現実へ引き戻される。
「…お、おきてたの?おはよう」
<楓香ちゃんの声でおきた。おはよ>
寝起きだからか、甘く掠れた声がそのまま楓香へと届く。
「モニコしちゃった」
<おかげさまで、さいこうの目覚めです>
瞳を閉じたまま囁くように紡がれた言葉が、鼓膜を心地良く擽った。
「…朝のつなよしくんって、いいね」
<えー?>
「……素をかんじられて、うれしいかも」
<朝の楓香ちゃんは、赤ちゃんみたいでかわいいよ>
「ふふっ、なにそれ」
新しい一面を知れて嬉しかった。これからも色んな沢田を見付けていきたいな、と楓香は心の中でそう思った。
<こわい夢みた?>
「ううん。とてもすてきな夢をみた気がする」
<その夢におれがいたらいいな>
「うん。つなよしくんはずっといっしょにいてくれたよ」
愛おしさが溢れて止まらない。それは沢田も同じだった。
<……楓香ちゃん>
ゆっくりとスマホ越しから声が近付いた。
<すき>
吐息混じりに囁かれる。
それはまるで沢田に抱き締められているようで、
「わたしも、すき」
二人は幸せと温もりに満ち溢れた朝を迎える。