泡沫トワイライト
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闇に覆われた深淵の世界。
静寂の音さえも聞こえない虚無の中、楓香は足元の感触に違和感を覚える。何かの塊を踏み付けていた。
暗黒に目を凝らそうとし、すぐにその目を見開くことになった。
その塊は、人間だったのだ。
屍の山の上に楓香は立っている。
何が何だか分からないまま、震え上がった。一体、一体これは。
だが、よく見るとそれは屍ではなく四股の一部が欠損しているマネキンだった。パーツの断面からは生々しい赤がぽとぽとと零れている。
楓香は震える足で一歩後退りをした。その拍子に何かが身体に当たる。
コロコロ…カタン。
女の生首が転がり落ちた。それは、ただただ楓香を見上げていた。光のない紛い物の瞳と目が合う。
ーーーかえせ、わたしのカラダ
顔を般若に豹変させた生首が飛びかかってきた。
「…いやっ!」
咄嗟に身を屈め、手を翳す。
すると、その生首は呆気なく消えた。
それを皮切りに、たくさんのマネキンが一斉に楓香へ群がるが、触れる直前に消滅する。
ーーーいたい、いたいよぉ
ーーーユルサナイ。コロシテヤル
ーーーオマエは、ニンゲンじゃない
脳内に響く濁声は呪詛となり、楓香の心をじわじわと蝕んでいく。
唇の端から生温いものが垂れて、思わず吐き出した。
口元に当てた手には、真っ赤な血がべったりと付着していた。
暫くすると声が止み、俯いていた顔を上げる。無数のマネキンは跡形もなく消えていた。
「……ふ、うかちゃん」
突然、暗闇の中からあの橙が浮かび上がる。
彼はふわふわの髪の下から、怯えた目で此方を凝視している。
そこに温もりはなく、まるで異端者を目撃し、糾弾するかのような視線を向けていた。
「…綱吉君」
底知れぬ不安に動悸がして、いつの間にか息を止めていたことに気付くと、深呼吸を繰り返す。
(そんな目で、私を見ないで)
酸素が身体中に満たされ始めて、途端に全身が重くなった気がした。
自身の重みで暗黒に埋もれるような錯覚を感じる。
お願いだから。どうか君だけは、私を、
「……ッ、化け物!」
刹那、世界にひびが入った。
その亀裂は楓香を中心に放射状に音を立てて広がっていく。
クモの巣のように細かいひびが頭上まで全ての闇を包み込んだ時、震動がぴたりと止まった。
そして、闇が沢田ごと粉々に砕け散った。
「……綱吉君!」
無我夢中で手を伸ばすが、それは空虚を彷徨い、ゆっくりと腕を下ろす。
行き場を失った手は、ぽすりと柔らかい何かに沈んだ。
遠くから鳥の囀りと、時計の針の音が鮮明に聞こえる。
瞬きをすると、白い天井が視界一面に飛び込んできた。
カーテンの隙間から陽光が漏れ、ベッドで横になっている楓香の顔に滑り落ちた。少し眩しくて目を眇める。
見慣れた寝室に、からりと乾いた喉から掠れた声が零れた。
(……夢で、良かった)
なんて酷い悪夢なんだろう。
夢だと分かった今でも沢田に拒絶された瞬間を思い出すと、胸が張り裂けそうだ。
暗くなる気持ちを堪えていると、サイドテーブルに置いてあるスマホが点滅していることに気付く。
タイミングが良いのか悪いのか、数分前に沢田からメッセージが届いていた。
あの悪夢を見たせいで、嫌な予感がした楓香は恐る恐るスマホをタップする。
>おはよー、ランボのやつが俺の布団でおねしょして朝から大変だよ…
いつも通りの沢田のやり取りに安堵の息を吐く。
ホラー映画を見たランボが一人でトイレに行くのを怖がって、沢田が一緒に同行してあげた話は聞いていたが、新たにエピソードが追加されたらしい。
小さな子供の面倒を良く見てあげている兄のような一面に、キュンと心臓が鳴る。
ニヤけた顔でREBOを送った。
>好きだよ
すぐに既読になったので、ぽちぽちと打ち込んで、追撃する。
>そういう、ちゃんとお兄ちゃんしてるところ
瞬時に既読が付いた。きっと今頃、あわあわしながらスマホと睨めっこしているんだろう。
少し間を置いてから、通知が来た。届いたのは、ぐぬぬと唸っているポンデライオンのスタンプだった。
このスタンプは沢田に似ているからと楓香がプレゼントしたものである。
「…好きだよ、綱吉君」
悪夢のことをすっぱり忘れさせてくれた沢田を愛おしく思った。
待ち合わせしていたコンビニで結衣と楓香は挨拶を交わす。いつもの通学路を歩いて登校していると、「これは友達の話なんだけど」という前置きから始まった恋愛相談に、結衣は口角が上がるのを抑えられない。
楓香と沢田の様子を観察していたが、付き合うまで秒読みだと予想していたので内心にんまりとしていた。
「…両思いになった先って、どうすればいいの?」
真顔でそんなことを言うものだから、朝からズッコケそうになる。
「ねぇ、どうしよう。結婚?結婚するんだっけ?け、けっこん!?」
「うん、取り敢えず落ち着こ」
口から出た自分の言葉に目を丸くさせているので、つい吹き出してしまった。
「アンタね、流石に飛躍しすぎ。まずは恋人の関係を楽しみなさいよ」
「こ、恋人?私と綱吉君が!?……あ、」
言ってしまったとばかりに口を慌てて閉ざしているが、もう遅い。そもそも、そんなことは分かりきっていた。
「安心して、とっくにバレてる。アンタ達、付き合い始めたんでしょ」
「…そ、そんなに分かりやすかったかな」
「昨日、楓香が早退してから沢田の様子が明らかに浮かれてて笑いそうになった」
退屈な古文の授業中、他の生徒達みたいに睡魔と戦う訳でもなく一人だけ周りに花が舞っていた。
教師に叱咤されても、へらへらと笑うので気味悪がられていたが、それさえ気にせずアホ面を晒していたのだ。
「へぇー、ふーん、そっか」
両手を後ろに組み、つんと顔を上げた楓香は満更でもなさそうだ。
羨ましくなった結衣は嘆息を漏らす。
「青い春、到来か。いいわねー、私も恋人欲しい」
「結衣は美人だから、山本君だって…」
もごもごと言葉を濁して俯く友人の肩を軽く叩く。さっぱりと短くなった髪が風で揺れた。
実は、山本に告白して見事に玉砕してしまったのだ。青い春は訪れず、結衣の世界は冷たい白銀のまま。
「山本君が私のこと興味ないの薄々分かってたから、そんなに落ち込んでないんだよね。もちろん振られた今でも好きだけどさ。…でも、この恋は諦めることにしたんだ」
ちらりと横目で楓香を見て、左手の人差し指を自分の唇に当てる。
「どうやら気になってる子がいるみたい、だし」
「えっ、うそ、誰?」
「ふふっ、教えなーい」
楓香の恋愛偏差値が小学生以下であることに、まだまだ先は長いぞと沢田へエールを送るのであった。
隣の席はまだ空いていた。教室の壁時計の針とその空席へ、視線を何度も行き来してしまう。
そわそわと落ち着かない楓香は、首元にぶら下げた指輪を制服の上から撫でた。それは沢田がくれた、チェーンを指輪に通しただけのごく簡素なものであった。
六道の助言を思い出し、指輪を肌身離さず付けないといけないことを相談した結果、チェーンを付ければ良いと提案してくれたのだ。
(本当に何も事情を聞かれなかった)
まだ言っていない沢田の秘密というのは、六道と知り合いだったことと関係があるのだろうか。
そんなことを考えていると、控えめな声で名を呼ばれた。
「お、おはよう」
「……おはよう」
初めて言葉を交わすようにたどたどしくなってしまった。名前すら呼ぶのも一苦労だ。
今までどうやって会話をしていたのか、呼吸の仕方さえも判らない。まるで別世界に迷い込んでしまった錯覚に陥る。
彼の特別な人になりたい、と夢見ていたけれど。
何故か、沢田を見ることが出来なくて窓の外へ顔を背ける。
これでは、付き合う前の方がまともに話せていた。目を見ることも、冗談を言うことも、あんなに簡単だった筈なのに。
「ふ、楓香ちゃん、こっち向いて」
つん、と肩を突かれた。触れたところが、じんわりと熱を持つ。
無言で首を横に振った。
「…綱吉君は、もう友達じゃなくて、彼氏だから…どう話していいか…わかんない」
もじもじと呟かれる声に耳を傾けていたその顔が、ぼふっという擬音が似合うくらいに赤面する。
「……だっ、」
沢田は何かを言いかけたが堪えるように両手で拳を作り、口を噤んだ。
様子の可笑しい隣が気になった楓香は、くるりと振り返る。
すると、
「抱き締めたい…」
噛み締めた言葉が絞り出され、一気に頬が紅潮してしまった。
そんな二人の空気を壊すように、ガラリと勢い良くドアが開く。
教室に入るなり、真っ直ぐ此方の机にやって来た忠犬、獄寺が最敬礼である綺麗な直角のお辞儀をした。
「おはようございます十代目!…と、ど根性女」
「ど根性女って何!?」
お前はついでだとばかりに淡々と挨拶をされたが、聞き捨てならずツッコミを入れてしまった。
「体育館裏の雑草、全部刈り取ったことをリスペクトした呼び名だ。光栄に思え」
「獄寺君、やっぱり私のことめちゃくちゃ嫌いですよね」
「だから何でそうなるんだよ!?」
朝から元気良く吠える獄寺だが、その顔や腕は少し赤みを帯びていた。
イタリアと日本の血が入ったクォーターの彼は、日本人よりも肌が白いので余計に赤くなっているのが目立つ。
「獄寺君、日焼けした?」
目ざとく気付いた沢田が問うと、獄寺はこくりと頷いた。
「長いこと外に居たので肌が焼けちまったッス。ど根性女に負けてられっかと、校庭の草を全部毟り取ってやりました!」
ふん、と鼻息を荒くしながら腰に手を当て、得意げに胸を張る。
負けず嫌いにも程がある。こういうところは中学生の頃から変わらないよな、と感心した沢田は目を細めた。
「すごい!獄寺君ありがとう!本当にすごい!」
無駄にキラキラと目を輝かせ、興奮した楓香が拍手を送る。
筋肉痛の原因である草むしりを獄寺が一人で全部やってのけたのだ。やっとあの草地獄から解放されたことに歓喜していると、獄寺が虚をつかれたように楓香を見下ろしていた。
「……おー」
少し間を置いてから目を逸らした獄寺は、ばつの悪い顔をして身じろぐ。ポケットに手を突っ込み、ペタペタと足音を立て自分の席へと戻った。
「獄寺君って、急に借りてきた猫みたいに大人しくなるんだよね」
息巻いていた威勢は彼方へと飛んで行ったらしい。
隣でこてんと小首が傾げられるのを見ていた沢田は、口をへの字に結び、面白くもなさそうにぼやく。
「楓香ちゃん、あまり笑わないで」
「えっ、…どうして?」
「可愛いから」
ドクン、と心臓が跳ねた。
「抱き締めたくなるくらい、可愛いから」
臆面もなく紡がれた言葉に、楓香は顔が熱くなるのをまじまじと感じた。
火照る頬に両手を当てて隠す。が、上から手を重ねられて外される。
沢田の指はそのまま楓香の指の間に滑り込み、優しく握った。
「これ、恋人繋ぎって言うらしいよ」
周りの視線から隠すように、並んだ机の影で手を繋ぐ。
“恋人”という単語が楓香の頭の中を埋め尽くす。
今の二人の関係が友達から進んだことを実感し、幸福感から胸の高鳴りが止まらない。
「……熱い、ね」
「………うん」
「溶けちゃう?」
「そ、それいじるの禁止」
つい、いつもの調子で言い返してしまった。
そんな楓香にくしゃりと沢田が相好を崩したので、照れ隠しに握ったままの手をぶんぶんと振ると、また笑みが溢れた。
スピーカーから流れる音の波が心地良いリズムを刻み、音楽室を揺らしていた。
三拍子の王道であるそのワルツは、つい先日聴いたばかりの曲だった。
(初めて踊った、ううん…踊らされていた、が正しいよね)
六道によってリードされていた姿は、傍から見て操られたマリオネットだ。
彼がワルツを踊った真意は不明だが、意外と楽しかったなと楓香は思い返した。
<では、また僕と踊りましょう>
突然聞こえた、甘く滑らかなテノールによって演奏が遮られる。
曲の感想シートを見下ろしていた楓香は、その不意打ちに危うくシャープペンシルを落としそうになった。
(……そ、空耳かな)
視線を教室内に巡らせて、あの青藍を探すが全く見当たらず、安堵から静かに息を吐く。
そもそもこんな場所に居る訳がないし、もし居たら驚きの余り目玉が某アニメのようにバネ式で飛び出してしまうだろう。
<聞こえますか…君の脳に直接呼びかけています>
今度こそシャープペンシルを落としてしまった。
床にころころと転がるのを、震える手で拾い上げる。
きっと、幻聴だ。最近いろんなことが起こり過ぎて精神的に疲れているんだ。
<窓の外をご覧なさい>
黙ることを知らないその声は、楓香に現実を突き付ける。
恐る恐る窓を見遣ると、止まり木に止まった一羽の梟と目が合った。
<クフフフ…本当に目玉が飛び出してしまいそうですね>
さも当然のように人語で話している。その声音は本来の梟のこもった鳴き声とは似ても似つかない。
(この梟、直接脳内に…。その笑い方……六道さんに似てる、まさか本人!?)
<そうです、昨夜ぶりですね楓香>
柘榴石を溶かした昏い紅色が、流れるように艶めいている。
その片目に六という文字を宿した梟は何処か知性を感じた。きっと本人の気質だろう。
他者に憑依することが可能なのだと六道から説明を受け、驚いた楓香は気の抜けた返事をしてしまう。
(それって、つまり…私も乗っ取られたり…?)
<安心なさい。生き急ぐのは僕の性に合わない。消されたくないので、君には憑依などしませんよ>
怯えた眼差しを向ける楓香に、やれやれと梟が小さな頭を横に振る。
その仕草が六道らしくて本当に憑依しているんだ、と改めて実感していると、授業の終わりを告げる鐘の音が鳴り響いた。
<この後、校舎裏で待っています>
(えっ、ちょ、待って)
ばさり、と羽を広げて空へ舞い上がっていく。一方的に告げられ、小さくなっていく梟を見送っていると、沢田に名前を呼ばれた。
「ずっとぼーっとしてたけど、まだ体調悪い?」
「う、ううん。ワルツに聴き入ってただけ」
「だから感想シートが空白なんだね」
「あっ、忘れてた。早く書かないと」
シートを提出しないと音楽室から出ることが出来ないので、楓香は慌てて机と向き合った。
感想の内容は、六道とワルツを踊った時の気持ちを綴ったもので、つらつらと止まることなくペン先を走らせた。
触れた熱までも思い出してしまい、楓香の耳朶が赤くなる。
「楓香ちゃん、本当に大丈夫?」
「えっ!?だ、だいじょーぶ!心配しないで!」
「…それならいいけど」
納得がいったのかいっていないのか、沢田は一言寄越すと黙りこくってしまった。
何とか書き終えた楓香はシートを提出して、音楽室を後にする。
沢田と廊下で肩を並べ歩くが、全く会話が続かない。話しかけられても楓香は上の空である。
「ごめん!ちょっと用事があるから先に教室戻ってて」
有無を言わさず六道に約束を取り付けられたので、楓香は沢田の返事を待たずに校舎裏へと急いだ。
あっという間に遠くなっていく背中を見詰めていると、べろんと近くの壁紙が剥がれてリボーンが姿を現す。
「ちゃおっス」
「お前は忍者か!」
いきなり気配もなく登場するのは心臓に悪いので止めて欲しい。
浮かない顔をしていた沢田にリボーンがチクリと言葉を吐き捨てる。
「楓香に待つって言ったこと後悔してんのか。しけた面しやがって」
普段ならば言い返しているが、今はその気力すらない。
ゲシゲシと脛を蹴ってくる小さな教師から一歩離れる。地味に痛かった。
「後悔はしてないよ。ただ、あの指輪や骸との関係を考えれば考えるほど知りたくなって…。さっき見かけた梟、見間違えじゃなかったらムクロウだった。どうして並高に来てるんだよ…なんか楓香ちゃんに付きまとってるみたいだし、あぁーすげー気になるー!」
ガシガシと頭を掻き毟り項垂れる沢田の尻へ、リボーンが強烈なタイキックをお見舞いする。
その激痛に耐えきれず、身をかがんで悶絶した。もしも痔だったらどうしてくれる。
「一丁前にカッコつけるからだぞダメツナ」
容赦なく鼻で笑われる。さっさと口を割らせれば良いものを、と言いたげだ。
リボーンには申し訳ないことをしたと思っている。謎の指輪の行方を調査したりと裏で尽力してくれていたのだから。
「あの日、楓香の身に何が起きたのか…俺が探ってやろうか」
よろけながらも立ち上がった沢田は、顔を顰めて即座に頭を横に振る。
「俺に話せないのは、それだけ信用されていないってことだろ。他人から彼女の秘密を聞き出したところで何の意味もない。本人の口から直接伝えられることで、初めて信頼に値する存在だと認められるんだ。だから、待つよ」
自分の好奇心を満たす為だけならば、第三者を介して秘密を暴けばいい。
でも、そうじゃないから。彼女のことが大切だからこそ、こんなにも知りたいんだ。
その笑顔を奪っているものが分からず、何も出来ないでいるのがもどかしい。困った時、真っ先に力になれる存在でありたい。余計なお世話だと、ただの自己満足だと思われるかも知れないけど。
彼女を縛っている何かから、解放させたかった。
その為には、まず自分を信じてもらえるように頑張ろう。
「それに、俺だって言ってないことがあるし」
様々な想いが引き継がれた指輪を見下ろす。それは沢田の覚悟の証であり、厳かな炎を宿していた。
「お前が継ぐ継がないはどちらにせよ楓香はもう一般人じゃなくなるんだ。ドン・ボンゴレの唯一の存在はお前の弱みになる。巻き込む決意をしたなら死ぬ気で守れよ、ツナ」
「うん」
彼女の幸せを願うのなら、手放した方が良いのは分かっている。
だけど、自分は完璧な善人や聖人ではないから。
(ごめん、それでも君とずっと一緒に居る道を選ぶよ)
「他の誰でもなく、俺が楓香ちゃんを幸せにしたいんだ。絶対に傷付けさせたりしない。俺があの子を守る」
握り締めた拳を見下ろす。掌の空洞には、覚悟が燈されていた。
校舎裏には楓香と梟だけしか居ない。
奥にひっそりと佇んでいる桜の大樹の下は、放課後になると告白スポットと化して男女の密会によく利用されている。
そんな場所に、まさか自分が梟と落ち合うなんて思ってもいなかった。
「六道さんが私に会いに来た理由は、仕事に関することですか?」
木の枝に留まる白梟を見上げて、話しかけた。第三者から見ると、メルヘンチックに映っているだろう。
<えぇ。勤務の件で伝え忘れていました。決まった曜日等はありません。時間がある時に来て下さい>
(意外とホワイト…)
勤務時間も、その時の気分で決めて良いと六道は言った。
ひょいっと梟が嘴を上げると目の前に鍵が現れて、おずおずと受け取る。
<それは黒曜ランドの鍵です。僕以外の者も住んでいますが、今は皆不在にしています。自由に出入りしなさい>
「あ、ありがとうございます」
鍵に付けられたパイナップルのキーホルダーがきらりと光る。
内心、何故パイナップル?好物なのかなと疑問に思っていれば<頂き物です>と返答が来た。
一通り話を終えると満足気な顔をしていた六道だが、思い出したとばかりに片翼を広げた。
<さて、僕はこの辺で失礼します。此処はあの男のテリトリーなので、見付かったら面倒だ>
「あっ、ちょっと」
楓香が呼び止めるが一切振り返ることなく、六道は颯爽と空へ飛び立っていった。
翼を半分畳み掛けながら、飛行機のように一直線に風を切っている様は梟ではなく鷹であった。
「…あの男って誰のことだろ?」
ぽつりと疑問を呟く楓香に答えてくれる人物は、残念なことにこの場には居ない。
静寂の音さえも聞こえない虚無の中、楓香は足元の感触に違和感を覚える。何かの塊を踏み付けていた。
暗黒に目を凝らそうとし、すぐにその目を見開くことになった。
その塊は、人間だったのだ。
屍の山の上に楓香は立っている。
何が何だか分からないまま、震え上がった。一体、一体これは。
だが、よく見るとそれは屍ではなく四股の一部が欠損しているマネキンだった。パーツの断面からは生々しい赤がぽとぽとと零れている。
楓香は震える足で一歩後退りをした。その拍子に何かが身体に当たる。
コロコロ…カタン。
女の生首が転がり落ちた。それは、ただただ楓香を見上げていた。光のない紛い物の瞳と目が合う。
ーーーかえせ、わたしのカラダ
顔を般若に豹変させた生首が飛びかかってきた。
「…いやっ!」
咄嗟に身を屈め、手を翳す。
すると、その生首は呆気なく消えた。
それを皮切りに、たくさんのマネキンが一斉に楓香へ群がるが、触れる直前に消滅する。
ーーーいたい、いたいよぉ
ーーーユルサナイ。コロシテヤル
ーーーオマエは、ニンゲンじゃない
脳内に響く濁声は呪詛となり、楓香の心をじわじわと蝕んでいく。
唇の端から生温いものが垂れて、思わず吐き出した。
口元に当てた手には、真っ赤な血がべったりと付着していた。
暫くすると声が止み、俯いていた顔を上げる。無数のマネキンは跡形もなく消えていた。
「……ふ、うかちゃん」
突然、暗闇の中からあの橙が浮かび上がる。
彼はふわふわの髪の下から、怯えた目で此方を凝視している。
そこに温もりはなく、まるで異端者を目撃し、糾弾するかのような視線を向けていた。
「…綱吉君」
底知れぬ不安に動悸がして、いつの間にか息を止めていたことに気付くと、深呼吸を繰り返す。
(そんな目で、私を見ないで)
酸素が身体中に満たされ始めて、途端に全身が重くなった気がした。
自身の重みで暗黒に埋もれるような錯覚を感じる。
お願いだから。どうか君だけは、私を、
「……ッ、化け物!」
刹那、世界にひびが入った。
その亀裂は楓香を中心に放射状に音を立てて広がっていく。
クモの巣のように細かいひびが頭上まで全ての闇を包み込んだ時、震動がぴたりと止まった。
そして、闇が沢田ごと粉々に砕け散った。
「……綱吉君!」
無我夢中で手を伸ばすが、それは空虚を彷徨い、ゆっくりと腕を下ろす。
行き場を失った手は、ぽすりと柔らかい何かに沈んだ。
遠くから鳥の囀りと、時計の針の音が鮮明に聞こえる。
瞬きをすると、白い天井が視界一面に飛び込んできた。
カーテンの隙間から陽光が漏れ、ベッドで横になっている楓香の顔に滑り落ちた。少し眩しくて目を眇める。
見慣れた寝室に、からりと乾いた喉から掠れた声が零れた。
(……夢で、良かった)
なんて酷い悪夢なんだろう。
夢だと分かった今でも沢田に拒絶された瞬間を思い出すと、胸が張り裂けそうだ。
暗くなる気持ちを堪えていると、サイドテーブルに置いてあるスマホが点滅していることに気付く。
タイミングが良いのか悪いのか、数分前に沢田からメッセージが届いていた。
あの悪夢を見たせいで、嫌な予感がした楓香は恐る恐るスマホをタップする。
>おはよー、ランボのやつが俺の布団でおねしょして朝から大変だよ…
いつも通りの沢田のやり取りに安堵の息を吐く。
ホラー映画を見たランボが一人でトイレに行くのを怖がって、沢田が一緒に同行してあげた話は聞いていたが、新たにエピソードが追加されたらしい。
小さな子供の面倒を良く見てあげている兄のような一面に、キュンと心臓が鳴る。
ニヤけた顔でREBOを送った。
>好きだよ
すぐに既読になったので、ぽちぽちと打ち込んで、追撃する。
>そういう、ちゃんとお兄ちゃんしてるところ
瞬時に既読が付いた。きっと今頃、あわあわしながらスマホと睨めっこしているんだろう。
少し間を置いてから、通知が来た。届いたのは、ぐぬぬと唸っているポンデライオンのスタンプだった。
このスタンプは沢田に似ているからと楓香がプレゼントしたものである。
「…好きだよ、綱吉君」
悪夢のことをすっぱり忘れさせてくれた沢田を愛おしく思った。
待ち合わせしていたコンビニで結衣と楓香は挨拶を交わす。いつもの通学路を歩いて登校していると、「これは友達の話なんだけど」という前置きから始まった恋愛相談に、結衣は口角が上がるのを抑えられない。
楓香と沢田の様子を観察していたが、付き合うまで秒読みだと予想していたので内心にんまりとしていた。
「…両思いになった先って、どうすればいいの?」
真顔でそんなことを言うものだから、朝からズッコケそうになる。
「ねぇ、どうしよう。結婚?結婚するんだっけ?け、けっこん!?」
「うん、取り敢えず落ち着こ」
口から出た自分の言葉に目を丸くさせているので、つい吹き出してしまった。
「アンタね、流石に飛躍しすぎ。まずは恋人の関係を楽しみなさいよ」
「こ、恋人?私と綱吉君が!?……あ、」
言ってしまったとばかりに口を慌てて閉ざしているが、もう遅い。そもそも、そんなことは分かりきっていた。
「安心して、とっくにバレてる。アンタ達、付き合い始めたんでしょ」
「…そ、そんなに分かりやすかったかな」
「昨日、楓香が早退してから沢田の様子が明らかに浮かれてて笑いそうになった」
退屈な古文の授業中、他の生徒達みたいに睡魔と戦う訳でもなく一人だけ周りに花が舞っていた。
教師に叱咤されても、へらへらと笑うので気味悪がられていたが、それさえ気にせずアホ面を晒していたのだ。
「へぇー、ふーん、そっか」
両手を後ろに組み、つんと顔を上げた楓香は満更でもなさそうだ。
羨ましくなった結衣は嘆息を漏らす。
「青い春、到来か。いいわねー、私も恋人欲しい」
「結衣は美人だから、山本君だって…」
もごもごと言葉を濁して俯く友人の肩を軽く叩く。さっぱりと短くなった髪が風で揺れた。
実は、山本に告白して見事に玉砕してしまったのだ。青い春は訪れず、結衣の世界は冷たい白銀のまま。
「山本君が私のこと興味ないの薄々分かってたから、そんなに落ち込んでないんだよね。もちろん振られた今でも好きだけどさ。…でも、この恋は諦めることにしたんだ」
ちらりと横目で楓香を見て、左手の人差し指を自分の唇に当てる。
「どうやら気になってる子がいるみたい、だし」
「えっ、うそ、誰?」
「ふふっ、教えなーい」
楓香の恋愛偏差値が小学生以下であることに、まだまだ先は長いぞと沢田へエールを送るのであった。
隣の席はまだ空いていた。教室の壁時計の針とその空席へ、視線を何度も行き来してしまう。
そわそわと落ち着かない楓香は、首元にぶら下げた指輪を制服の上から撫でた。それは沢田がくれた、チェーンを指輪に通しただけのごく簡素なものであった。
六道の助言を思い出し、指輪を肌身離さず付けないといけないことを相談した結果、チェーンを付ければ良いと提案してくれたのだ。
(本当に何も事情を聞かれなかった)
まだ言っていない沢田の秘密というのは、六道と知り合いだったことと関係があるのだろうか。
そんなことを考えていると、控えめな声で名を呼ばれた。
「お、おはよう」
「……おはよう」
初めて言葉を交わすようにたどたどしくなってしまった。名前すら呼ぶのも一苦労だ。
今までどうやって会話をしていたのか、呼吸の仕方さえも判らない。まるで別世界に迷い込んでしまった錯覚に陥る。
彼の特別な人になりたい、と夢見ていたけれど。
何故か、沢田を見ることが出来なくて窓の外へ顔を背ける。
これでは、付き合う前の方がまともに話せていた。目を見ることも、冗談を言うことも、あんなに簡単だった筈なのに。
「ふ、楓香ちゃん、こっち向いて」
つん、と肩を突かれた。触れたところが、じんわりと熱を持つ。
無言で首を横に振った。
「…綱吉君は、もう友達じゃなくて、彼氏だから…どう話していいか…わかんない」
もじもじと呟かれる声に耳を傾けていたその顔が、ぼふっという擬音が似合うくらいに赤面する。
「……だっ、」
沢田は何かを言いかけたが堪えるように両手で拳を作り、口を噤んだ。
様子の可笑しい隣が気になった楓香は、くるりと振り返る。
すると、
「抱き締めたい…」
噛み締めた言葉が絞り出され、一気に頬が紅潮してしまった。
そんな二人の空気を壊すように、ガラリと勢い良くドアが開く。
教室に入るなり、真っ直ぐ此方の机にやって来た忠犬、獄寺が最敬礼である綺麗な直角のお辞儀をした。
「おはようございます十代目!…と、ど根性女」
「ど根性女って何!?」
お前はついでだとばかりに淡々と挨拶をされたが、聞き捨てならずツッコミを入れてしまった。
「体育館裏の雑草、全部刈り取ったことをリスペクトした呼び名だ。光栄に思え」
「獄寺君、やっぱり私のことめちゃくちゃ嫌いですよね」
「だから何でそうなるんだよ!?」
朝から元気良く吠える獄寺だが、その顔や腕は少し赤みを帯びていた。
イタリアと日本の血が入ったクォーターの彼は、日本人よりも肌が白いので余計に赤くなっているのが目立つ。
「獄寺君、日焼けした?」
目ざとく気付いた沢田が問うと、獄寺はこくりと頷いた。
「長いこと外に居たので肌が焼けちまったッス。ど根性女に負けてられっかと、校庭の草を全部毟り取ってやりました!」
ふん、と鼻息を荒くしながら腰に手を当て、得意げに胸を張る。
負けず嫌いにも程がある。こういうところは中学生の頃から変わらないよな、と感心した沢田は目を細めた。
「すごい!獄寺君ありがとう!本当にすごい!」
無駄にキラキラと目を輝かせ、興奮した楓香が拍手を送る。
筋肉痛の原因である草むしりを獄寺が一人で全部やってのけたのだ。やっとあの草地獄から解放されたことに歓喜していると、獄寺が虚をつかれたように楓香を見下ろしていた。
「……おー」
少し間を置いてから目を逸らした獄寺は、ばつの悪い顔をして身じろぐ。ポケットに手を突っ込み、ペタペタと足音を立て自分の席へと戻った。
「獄寺君って、急に借りてきた猫みたいに大人しくなるんだよね」
息巻いていた威勢は彼方へと飛んで行ったらしい。
隣でこてんと小首が傾げられるのを見ていた沢田は、口をへの字に結び、面白くもなさそうにぼやく。
「楓香ちゃん、あまり笑わないで」
「えっ、…どうして?」
「可愛いから」
ドクン、と心臓が跳ねた。
「抱き締めたくなるくらい、可愛いから」
臆面もなく紡がれた言葉に、楓香は顔が熱くなるのをまじまじと感じた。
火照る頬に両手を当てて隠す。が、上から手を重ねられて外される。
沢田の指はそのまま楓香の指の間に滑り込み、優しく握った。
「これ、恋人繋ぎって言うらしいよ」
周りの視線から隠すように、並んだ机の影で手を繋ぐ。
“恋人”という単語が楓香の頭の中を埋め尽くす。
今の二人の関係が友達から進んだことを実感し、幸福感から胸の高鳴りが止まらない。
「……熱い、ね」
「………うん」
「溶けちゃう?」
「そ、それいじるの禁止」
つい、いつもの調子で言い返してしまった。
そんな楓香にくしゃりと沢田が相好を崩したので、照れ隠しに握ったままの手をぶんぶんと振ると、また笑みが溢れた。
スピーカーから流れる音の波が心地良いリズムを刻み、音楽室を揺らしていた。
三拍子の王道であるそのワルツは、つい先日聴いたばかりの曲だった。
(初めて踊った、ううん…踊らされていた、が正しいよね)
六道によってリードされていた姿は、傍から見て操られたマリオネットだ。
彼がワルツを踊った真意は不明だが、意外と楽しかったなと楓香は思い返した。
<では、また僕と踊りましょう>
突然聞こえた、甘く滑らかなテノールによって演奏が遮られる。
曲の感想シートを見下ろしていた楓香は、その不意打ちに危うくシャープペンシルを落としそうになった。
(……そ、空耳かな)
視線を教室内に巡らせて、あの青藍を探すが全く見当たらず、安堵から静かに息を吐く。
そもそもこんな場所に居る訳がないし、もし居たら驚きの余り目玉が某アニメのようにバネ式で飛び出してしまうだろう。
<聞こえますか…君の脳に直接呼びかけています>
今度こそシャープペンシルを落としてしまった。
床にころころと転がるのを、震える手で拾い上げる。
きっと、幻聴だ。最近いろんなことが起こり過ぎて精神的に疲れているんだ。
<窓の外をご覧なさい>
黙ることを知らないその声は、楓香に現実を突き付ける。
恐る恐る窓を見遣ると、止まり木に止まった一羽の梟と目が合った。
<クフフフ…本当に目玉が飛び出してしまいそうですね>
さも当然のように人語で話している。その声音は本来の梟のこもった鳴き声とは似ても似つかない。
(この梟、直接脳内に…。その笑い方……六道さんに似てる、まさか本人!?)
<そうです、昨夜ぶりですね楓香>
柘榴石を溶かした昏い紅色が、流れるように艶めいている。
その片目に六という文字を宿した梟は何処か知性を感じた。きっと本人の気質だろう。
他者に憑依することが可能なのだと六道から説明を受け、驚いた楓香は気の抜けた返事をしてしまう。
(それって、つまり…私も乗っ取られたり…?)
<安心なさい。生き急ぐのは僕の性に合わない。消されたくないので、君には憑依などしませんよ>
怯えた眼差しを向ける楓香に、やれやれと梟が小さな頭を横に振る。
その仕草が六道らしくて本当に憑依しているんだ、と改めて実感していると、授業の終わりを告げる鐘の音が鳴り響いた。
<この後、校舎裏で待っています>
(えっ、ちょ、待って)
ばさり、と羽を広げて空へ舞い上がっていく。一方的に告げられ、小さくなっていく梟を見送っていると、沢田に名前を呼ばれた。
「ずっとぼーっとしてたけど、まだ体調悪い?」
「う、ううん。ワルツに聴き入ってただけ」
「だから感想シートが空白なんだね」
「あっ、忘れてた。早く書かないと」
シートを提出しないと音楽室から出ることが出来ないので、楓香は慌てて机と向き合った。
感想の内容は、六道とワルツを踊った時の気持ちを綴ったもので、つらつらと止まることなくペン先を走らせた。
触れた熱までも思い出してしまい、楓香の耳朶が赤くなる。
「楓香ちゃん、本当に大丈夫?」
「えっ!?だ、だいじょーぶ!心配しないで!」
「…それならいいけど」
納得がいったのかいっていないのか、沢田は一言寄越すと黙りこくってしまった。
何とか書き終えた楓香はシートを提出して、音楽室を後にする。
沢田と廊下で肩を並べ歩くが、全く会話が続かない。話しかけられても楓香は上の空である。
「ごめん!ちょっと用事があるから先に教室戻ってて」
有無を言わさず六道に約束を取り付けられたので、楓香は沢田の返事を待たずに校舎裏へと急いだ。
あっという間に遠くなっていく背中を見詰めていると、べろんと近くの壁紙が剥がれてリボーンが姿を現す。
「ちゃおっス」
「お前は忍者か!」
いきなり気配もなく登場するのは心臓に悪いので止めて欲しい。
浮かない顔をしていた沢田にリボーンがチクリと言葉を吐き捨てる。
「楓香に待つって言ったこと後悔してんのか。しけた面しやがって」
普段ならば言い返しているが、今はその気力すらない。
ゲシゲシと脛を蹴ってくる小さな教師から一歩離れる。地味に痛かった。
「後悔はしてないよ。ただ、あの指輪や骸との関係を考えれば考えるほど知りたくなって…。さっき見かけた梟、見間違えじゃなかったらムクロウだった。どうして並高に来てるんだよ…なんか楓香ちゃんに付きまとってるみたいだし、あぁーすげー気になるー!」
ガシガシと頭を掻き毟り項垂れる沢田の尻へ、リボーンが強烈なタイキックをお見舞いする。
その激痛に耐えきれず、身をかがんで悶絶した。もしも痔だったらどうしてくれる。
「一丁前にカッコつけるからだぞダメツナ」
容赦なく鼻で笑われる。さっさと口を割らせれば良いものを、と言いたげだ。
リボーンには申し訳ないことをしたと思っている。謎の指輪の行方を調査したりと裏で尽力してくれていたのだから。
「あの日、楓香の身に何が起きたのか…俺が探ってやろうか」
よろけながらも立ち上がった沢田は、顔を顰めて即座に頭を横に振る。
「俺に話せないのは、それだけ信用されていないってことだろ。他人から彼女の秘密を聞き出したところで何の意味もない。本人の口から直接伝えられることで、初めて信頼に値する存在だと認められるんだ。だから、待つよ」
自分の好奇心を満たす為だけならば、第三者を介して秘密を暴けばいい。
でも、そうじゃないから。彼女のことが大切だからこそ、こんなにも知りたいんだ。
その笑顔を奪っているものが分からず、何も出来ないでいるのがもどかしい。困った時、真っ先に力になれる存在でありたい。余計なお世話だと、ただの自己満足だと思われるかも知れないけど。
彼女を縛っている何かから、解放させたかった。
その為には、まず自分を信じてもらえるように頑張ろう。
「それに、俺だって言ってないことがあるし」
様々な想いが引き継がれた指輪を見下ろす。それは沢田の覚悟の証であり、厳かな炎を宿していた。
「お前が継ぐ継がないはどちらにせよ楓香はもう一般人じゃなくなるんだ。ドン・ボンゴレの唯一の存在はお前の弱みになる。巻き込む決意をしたなら死ぬ気で守れよ、ツナ」
「うん」
彼女の幸せを願うのなら、手放した方が良いのは分かっている。
だけど、自分は完璧な善人や聖人ではないから。
(ごめん、それでも君とずっと一緒に居る道を選ぶよ)
「他の誰でもなく、俺が楓香ちゃんを幸せにしたいんだ。絶対に傷付けさせたりしない。俺があの子を守る」
握り締めた拳を見下ろす。掌の空洞には、覚悟が燈されていた。
校舎裏には楓香と梟だけしか居ない。
奥にひっそりと佇んでいる桜の大樹の下は、放課後になると告白スポットと化して男女の密会によく利用されている。
そんな場所に、まさか自分が梟と落ち合うなんて思ってもいなかった。
「六道さんが私に会いに来た理由は、仕事に関することですか?」
木の枝に留まる白梟を見上げて、話しかけた。第三者から見ると、メルヘンチックに映っているだろう。
<えぇ。勤務の件で伝え忘れていました。決まった曜日等はありません。時間がある時に来て下さい>
(意外とホワイト…)
勤務時間も、その時の気分で決めて良いと六道は言った。
ひょいっと梟が嘴を上げると目の前に鍵が現れて、おずおずと受け取る。
<それは黒曜ランドの鍵です。僕以外の者も住んでいますが、今は皆不在にしています。自由に出入りしなさい>
「あ、ありがとうございます」
鍵に付けられたパイナップルのキーホルダーがきらりと光る。
内心、何故パイナップル?好物なのかなと疑問に思っていれば<頂き物です>と返答が来た。
一通り話を終えると満足気な顔をしていた六道だが、思い出したとばかりに片翼を広げた。
<さて、僕はこの辺で失礼します。此処はあの男のテリトリーなので、見付かったら面倒だ>
「あっ、ちょっと」
楓香が呼び止めるが一切振り返ることなく、六道は颯爽と空へ飛び立っていった。
翼を半分畳み掛けながら、飛行機のように一直線に風を切っている様は梟ではなく鷹であった。
「…あの男って誰のことだろ?」
ぽつりと疑問を呟く楓香に答えてくれる人物は、残念なことにこの場には居ない。