泡沫トワイライト
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この地域では月曜と木曜が燃えるゴミの日だ。
昨晩、煩悩まみれになった楓香は全く寝付けず、見事に寝坊してしまう。
机上に置かれた指輪が朝日に反射して、一筋の光を放っていた。
「…あれ?ハンカチがない」
昨日無我夢中で帰宅した時に何処かへ落としてしまったらしい。
窓の外で鳥が羽ばたく音が聞こえ、ハッとした楓香は急いで玄関に足を運ぶ。
迫り来る時間に追われながらゴミ袋を持って集積場に向かおうとするが、そこで閃く。
「消しちゃえばいいんだ」
途端に、片手が軽くなった。
なんて地球と楓香に優しい便利な力なんだろう。
軽く感動していると、ズキリと頭が痛んだ。それでもすぐに痛みは止んだので、楓香は気にすることなく登校した。
教室に入るなり、楓香に気付いた結衣が挨拶をする。
「ちょっとアンタ大丈夫なの?マスクしてるけど風邪?」
「…うん、ちょっと軽く風邪引いちゃって。熱はないんだけどね」
「無理しちゃ駄目よ、しんどくなったらすぐに言いなさい」
「うん」
いつもより重たい足取りで席に着く。
嘘だ。本当は風邪なんて引いていない。
体調不良で試合観戦に行けなかった、という辻褄を合わせるべくマスクを付けただけ、と言いたいところだが本当の理由は違った。
「…お、おはよう楓香ちゃん」
「……おはよう、綱吉君」
昨夜、自分に口付けをした沢田と顔を合わせるのが死ぬ程気まずいので、少しでも心の安寧を保つ為にマスクをすることにしたのだ。
「…やっぱり、体調悪い?」
「……ちょっとだけ」
「ご、ごめん、楓香ちゃん元気ないのに俺、」
その後に続く言葉は中々紡がれず、沈黙が流れる。
気付けば、沢田の唇に視線がいってしまうのを楓香は首を振って意識を紛らわせた。
(そもそも口付けした理由が、し、したかったからって何!?したかったってどういうことなの!?綱吉君それ言っている意味分かってる!?)
沢田の胸ぐらを掴み、思いっきり揺さぶって尋問してやりたい。
あの瞬間のことを鮮明に覚えている。沢田に腕を引き寄せられ、頭に手が回り、至近距離に映る橙がとても綺麗で、その瞳を独り占めしたいと強く願った。
今にもあの熱の感触と肌に伝わる吐息が聞こえてきそうで、楓香の目が僅かに潤む。
「……楓香ちゃん」
「な、なに」
思ったよりも近くに沢田の顔があり、肩がびくりと震えた。
今まで見たこともないその目は、可愛らしい仔犬なんかじゃなく、飢えた猛獣だ。
怯えた楓香は咄嗟に逃げようとするも、手を掴まれた。
「顔見たい」
あ、食べられる。
耳にかかったマスクの紐を外そうと腕が伸びてきた。
我に返った楓香は慌てて仰け反る。
「と、溶ける!」
窓に背中をくっ付けると、可能な限り距離を取った。
その行動にきょとんと目を丸くさせた沢田の表情が、次の瞬間には花咲くように綻ぶ。
「そっか、溶けちゃうなら仕方ないや」
「う、うん。そう。溶けちゃうから」
自分でも意味不明なことを言っているのは分かっていたが、沢田はすんなりと納得すると前かがみになっていた体勢を戻した。
(…なんなの、今日の綱吉君、……なんなの!?)
幸いにも二人の席は教室の隅っこなので、誰も此方を気にしていなかった。
キャラチェンジにも程がある。他の人のことが好きな筈なのに、どうして掻き乱すのか。
(綱吉君に限って人を弄ぶような真似はしないと信じてるけど、でも、それじゃあなんで…?)
ちらりと横目で隣を伺う。優しい瞳で楓香を見詰める沢田が何を考えているのか、その表情から窺うことは出来なかった。
スピーカーからノイズが走ると校内放送が始まった。
教室内では、ちらほらと数人程度の生徒が昼食を取っていた。今日は天気が良いので校庭や屋上に向かった生徒が多いようだ。
お弁当の五目釜めしを口に運ぶ。ちなみにREBOのアイコンはかまめしどんだ。
ふっくらとしたお米の感触を味わっていると、流行りのドラマ主題歌のイントロが流れる。
タイトルの”愛の炎熱弾”に相応しい、ドロドロとした展開で話題になったドラマである。
結衣がうっとりと息を吐いた。
「昨日の愛の炎熱弾がとにかくすごかったの」
「何が?」
「キスよ、キス!」
ど直球過ぎるタイムリーな話に動揺した楓香は盛大に噎せた。
そんな友人の様子に瞬きをした結衣は「あらまだ早かったかしら」と口に手を当てる。
「もうこーんな風にぐっちゃぐちゃに絡み合ってたのよ」
男女に見立てた両手を重ねて、あらゆる角度ですり合わせるので、たまらず楓香は視線を逸らした。
タイミングが良いのか悪いのか、曲もサビに突入して盛り上がる。
「まっ、アンタは童話みたいなチューもしたことないお子ちゃまだもんね」
「し、失敬な!わ、私だってキスくらいしたことあるよ」
ふん、と鼻息を荒くさせるが結衣は呑気にタンブラーに入れてきた野菜スープを飲んでいる。馬鹿にされたくなくて見栄を張っていると思われているらしい。
信じて欲しい一心で、つい立ち上がって大きな声を出す。
「…はっ、はむはむだって、この前したし!」
何処からかガタッと何かがぶつかる物音が聞こえた。
どうだ、とばかりに楓香は胸を張る。しかし、結衣は「ふーん」と鼻を鳴らすので唖然とする。
「それで、そのキスした相手は上手かったの?どんな味がした?どうせ相手は二次元とかいうオチでしょーけど」
お弁当のミニハンバーグを箸で真っ二つにするのに手こずっている結衣を見下ろした。
自身の唇に指を添えると、沢田とした口付けを思い出す。
唇を合わせた時、お互いがお互いを自分の一部であるかのように感じられて、そのまま溶け合いたかった。
「よく分からないけど、…好きな人とのキスに、上手いとか下手とか関係ないと思う…だって、触れてるだけで気持ち良かったし。…なんだろ、幸せの味がした、かな」
ガタガタッ。また物音がして振り返ると、机に突っ伏した沢田の姿が目に入った。
その反応を見て会話を全部聞かれていたと察する。あまりの恥ずかしさに両手で顔を覆ってしまった。
確実に頬が火照っている。今、自分の顔を鏡で見たら間違いなく真っ赤だろう。なんなら耳まで赤い自信がある。
「アンタ達いつの間にそんな…意外とダメツナやるわね」
結衣が何か言っているが頭に入ってこない。よりによって、本人の耳に入るなんて。
(…私の気持ち、バレちゃった…かな)
恋心を抱いてはいけない相手なのは十分理解していた。でも人を好きになるのに理屈は関係ない。気が付けば落ちてしまったのだから。
いっそのこと一思いに振ってくれとすら考えたが、その時二人の関係性は変わってしまうのだろうか。もう以前のように話せなくなる、なんて。
(……そんなの嫌だ)
でも、沢田の恋が実った時、素直に祝える自信はない。一緒に居れば、きっと傷付く。
(……友達にはもう、戻れないんだろうなぁ)
あんなに美味しかった五目釜めしは、何の味も感じなかった。
校舎の敷地を出る道から奥まった場所に体育館があるので、その裏側には人通りがほとんどない。
日当たりも悪そうなのに、アスファルトの隙間から雑草が逞しく生い茂っている。こういう根性のある草は根っこを抜くのが難しい。
「……誰も見てないよね」
そっと周囲を見渡す。
木々の葉が風に揺られ、遠くから鳥の囀りが聞こえてくる心地良い静寂に包まれていた。
昼休みが終わる前に、雑草を全て討伐しよう。
深呼吸をしてから、ゆっくりと念じた。
(筋肉痛回避…!)
たちまちにそこらじゅうの緑が消えていき、アスファルトの面積が広がっていく。
あれだけ生えていた雑草が一気に消え、無事に討伐成功した楓香はガッツポーズをした。
「……いっ…!」
すると、いきなり頭が割れるような痛みが襲いかかる。
視界が暗くなっていき、全身の肌が凍り付くような悪寒がした。足に力が入らず、尻もちをついてしまう。
安易に身体を動かすことが出来ず、倒れ込みそうになった時、ふわりと爽やかな香りがした。
「…っと、あぶねー。大丈夫か、楓香」
その鍛え上げられた広い胸に抱えられ、地面と衝突せずに済んだ。
重たい瞼を持ち上げると、心配そうに楓香を覗き込む山本の姿が視界に映る。
「これで顔、隠しとけ」
野球帽を深々と楓香に被せ、そっと脇と両膝に腕を入れて抱き上げる。
だらり、と脱力した楓香の腕に焦った山本は保健室へ駆け込んだ。
「どうやら軽い貧血みたいね。元々体調が悪かったようだし、今日は自宅で安静にしてなさい」
真っ白な天井が眩しい。
ぼんやりとした意識の中、養護教諭の声が耳に入る。楓香は大事を取って早退することになった。
「一人で帰れねーなら俺が送ろうか?」
視線を向けると、椅子に座った山本が心配そうに楓香を見下ろしていた。
「ううん、大丈夫。頭痛も治まってきたので」
「無理はすんなよ」
「ありがとう」
養護教諭は担任へ報告する為に席を外した。保健室にはベッドに寝転んでいる楓香と山本の二人しか居ない。
開け放った窓からは生徒達の賑やかな声が聞こえる。
白いカーテンが風で大きく靡くと、山本が目を細めた。
「…ありがとな」
「えっ?」
「お前が止めに入ってくれたんだろ。他校生が懺悔しに家へやって来たんだ。話は全部聞いてる」
あの日、楓香の力に怯えた男達は自ら山本の前に現れて、己の罪を告白した。もう二度と卑怯な真似はしないと誓い、山本は彼らを許すことにしたのだった。
「全部聞いたって…もしかして」
「あぁ、楓香がアイツらに啖呵切って、自転車を木っ端微塵に破壊したことも知ってるぜ」
(…当たってるような、そうじゃないような)
かっけーな、と純粋な尊敬の眼差しが楓香に注がれる。
異能については何も知らされていないらしく、ふっと肩の力を抜いた。あんな超常現象を正直に言ったところで、素直に信じる人は少ない。
大半が呆れの目をするのが分かりきっているので、山本に本当のことを言えなかったんだろう。
そこまで察してから、ふと疑問が浮かんだ。男達に名前を一切名乗っていない。何故、山本は楓香だと確信しているのか。
「どうして私だと分かったんですか?」
「んー、何となく、楓香だったら良いなって思った」
「なにそれ」
パイプ椅子が、ぎしりと音を立てた。
「ありがとな。俺、勝つから」
優しく髪を梳すその指先に、癖のない楓香の髪が滑り落ちる。
「うん。山本君は勝ちます」
その言葉に元気良く返事をした山本は、照れ臭そうに野球帽を被った。
まだ昼休み終了まで時間がある。壁時計の針を見ていた楓香はぽつりと問いかける。
「……もし、自分に不思議な力が宿ったとしたら、山本君ならどう使いますか?」
突然の質問にぱちくりと瞑目した山本は少し考えた後に口を開く。
「そーだな、大切なモン守る為に使うかな。…楓香が俺にそうしてくれたように」
ニカッと彼らしい元気な笑みを見て、楓香の表情がふっと和らいだ。
(…私もなれるかな、綱吉君みたいな、誰かを守れるヒーローに)
不意にコンコンと保健室のドアがノックされる。
遠慮気味な「失礼します…」という声が聞こえて、入ってきたのは沢田だった。
ゆっくりと室内に視線を巡らせて、程なくして楓香達を見付ける。
「あ、山本…」
「よっ、ツナ」
とぼとぼと歩いてきた沢田の手には、楓香の鞄があった。
「楓香ちゃん具合悪くて早退するんだよね。代わりに荷物持ってきたよ」
「ありがとう綱吉君、助かります」
楓香と会話をしているのに何故か沢田の視線は山本に止まっていた。
「…どうして山本が居るの?」
「意識が朦朧として倒れそうになった時に助けてもらったの」
「そうなんだ」
沢田の眉がおもむろに下がっていくのを見た山本が「じゃあ戻るわ」と手を振り、保健室を後にした。
空いたパイプ椅子に腰を下ろした沢田は口を閉ざして、無言を貫く。
昼食の件もあって、楓香は何と声をかければ良いか分からず、布団を口元まで引っ張り上げた。
少しの静寂が訪れた後、沢田が小さな声で謝った。
「なんか自分が不甲斐ないよ…守るって言ったのに」
溜め息を吐く彼を見上げていた楓香は、無意識にぽろりと言葉を零した。
「どうしてそんな親身になってくれるの」
言ってしまってから後悔するが、もう遅い。
ほら、パスを出したよ。早く終わらせて。
友達だから、と。そこに別の感情なんてない、と。
期待して傷付くのは嫌だった。隠していた恋心がバレてしまった以上、この関係に終止符を打とう。
暫し緊張した様子の沢田は吹っ切れたように息を吐くと、ゆっくり視線を絡ませる。
その瞳には不安げな楓香の顔が映し出されている。
「…それは、……楓香ちゃんだから」
形の良い唇が紡いだ言葉は、予想していたものとは違い、息を呑んだ楓香は続く言葉を待った。
「守りたいと思ったのも、一人にしたくないと思ったのも、全部、楓香ちゃんだからだよ」
熱を帯びたように、焔を宿した橙が迫る。
「こういうことしたいって思うのも、楓香ちゃんだけなんだ」
布団越しに、唇を押し当てられた。
まさか、そんな。とても信じられなくて、くぐもった声で名を呼ぶ。
唇が触れるか触れないかの距離で沢田が囁いた。
「初めて笑顔を見た時から、気付けば目で追ってた。どんな子なんだろうって知れば知る程、気になって…いつの間にか楓香ちゃんと過ごす時間がかけがえのない大切なものになったんだ」
楓香の目から一筋の涙が頬を伝う。
不器用そうに親指の腹で目元を優しく拭われた。
「楓香ちゃんと話すのが楽しくて、通話すると普段よりも緊張気味になったり、照れるとカタコトになっちゃうところや、ころころ変わる表情も全部、俺が独り占めしたい」
夢のようだった。でも今こうして沢田に想いを告げられ、頭を撫でられているのも、全て現実で。
次々と溢れ出す涙で視界は滲み、ぐちゃぐちゃの顔を見られるのも恥ずかしくなり、楓香は布団の中へ潜った。
「…私も同じ時間を共有する毎日が楽しくて、今何してるのかなとか、何か話題があると早く綱吉君に話したいなとか、頭の中が綱吉君でいっぱいになって」
心の奥に閉じ込めた宝箱から、止めどなく想いが溢れ出した。
それを沢田は優しく相槌を打ち、耳を傾ける。
「肩を並べて帰り道を歩いたのも、一緒に休日過ごしたのも、家にお呼ばれされたのも、…こんなにも誰かを好きになったのも、ぜんぶ、綱吉君が初めてなの」
言葉にならない嗚咽が漏れる。
初めからこの恋は実らないと決まっていた。ぽっと出の自分なんか勝ち目はないと、そう思っていた。
「…笹川さんのことが好きなの知ってるから、どうしようもなく悲しくなって、諦めなきゃって分かってたけど、ずっと綱吉君の傍に居たいっていう想いが強くて、わたし、」
その時、まるで宝物のように名前を呼ばれて、おずおずと布団から顔を出した。
きっと酷い顔をしているだろうに、沢田は愛しいものを見る目で楓香を見下ろす。
「好きだよ、楓香ちゃん。俺だけを見てて」
前髪の中に鼻の先を埋められて、額に口付けをされる。
「…うん、綱吉君しか見えない」
「俺も楓香ちゃんしか見えない」
二人は静かに目を瞑り、お互いの唇を重ねた。
「……俺もしたよ、幸せの味」
優しく触れる熱い感触に、首に回した手へ力を込める。
沢田の唇が笑みの形をかたどっているのが分かって、楓香も穏やかに微笑んだ。
空気を読んで気配を消していた養護教諭に声をかけられるまで、二人の世界へとトリップしていた楓香達は慌てて保健室から出て行く。
今夜、昨日のことも含めて通話することを約束し、楓香は下校した。
両思いだったことが嬉しくて思わずスキップしそうになるのを抑えて、けれども早歩きになってしまっているのを自覚しながら楓香は帰り道を歩く。
すると、通りかかった公園から、聞くに堪えない下品な笑い声が周囲の空気を振動させていた。
何かを取り囲み、数人の男達が騒いでいる。足の隙間から見えたのは、ぐったりと横たわっている一匹の猫だった。
男の手にあるナイフが、赤く染まっていた。
彼は、それで、一体何をしている。
絶句する頭に浮かんでくるのは“虐待”という言葉だった。
「おい、何見てんだよ」
じっと目を向ける楓香の存在に気付いた男が半笑いを浮かべる。
「俺らの暇つぶしの邪魔するなよ。おら、どっか行けガキ」
今にも消え落ちてしまいそうな小さな命の灯火が、楓香を見詰めている。
(怖くて痛くて、辛かったよね。酷い、酷い、こんなの許せない)
昂り始めた怒りの感情を抑えることは出来なかった。
光を失った楓香の瞳が虚空を見詰める。
男の持っていたナイフが忽然と消えた。
「…あ?」
そして、世界は赤く弾けた。
飛び散る血飛沫が頬に跳ね、嫌な鉄の匂いがする。
しんと静まり返り、男の荒い息遣いだけが耳を打った。
「…あ、脚が!俺の脚がああーーッ!」
「…お、おい。ど、どうなってんだ!?」
先程まで猫を残酷に虐げていた男は、脚の付け根から爪先まで消失していた。青褪めた顔をして狂ったように泣き叫ぶ。
誰もが心の平静を失って取り乱す中、楓香は消えゆく温もりを抱き上げた。
「おっ、お前がやったのか!?」
腕の中で眠っている猫から男達へ視線を移した楓香は、眉一つ動かさず答える。どんなに男達が襲いかかろうとも、全く怖くなかった。
「そうだよ。暇つぶし」
「…ふっ、ざけんな!テメェ!」
此方に向かって振り下ろされる凶器は、次の瞬間にはこの世から姿を消していた。
一体何が起こっているのか。男は何一つ理解出来ぬまま、片手が跡形もなく消し飛ぶ。
「…ば、化け物め!人間じゃねぇ!」
異常な光景に畏怖して言葉を失い、恐怖のあまり気絶した。
男達が倒れている中心で放心したように立ち尽くす楓香は、猫に目をやる。
「私の力が全てを消失することなら、この傷も消すことが出来るのかな…」
猫は四肢を切断され、痛みからか出血からか意識もなかった。
どうか、治ってほしい。切実な思いで楓香が傷口に手を翳すと、鮮血が止まり、見る見る内に傷が塞がっていき、失った四肢が元通りに完治した。
こういう力の使い方も可能なのか、と楓香は目を瞬かせて、ほっと安堵する。
生気のある綺麗な金色の硝子玉が楓香を見詰めた。
「ごめんね、もう大丈夫だから」
動けるようになった猫は、差し出された楓香の手に鼻を寄せるとふんふんと鳴らす。そして手のひらをぺろっと舐めた。
「ねぇ、猫ちゃん。あの人達を許してくれないかな。もう悪さしないように、たっぷり懲らしめたからさ」
楓香の気持ちが伝わったのか、猫はにゃんと鳴いた後に、のらりくらりと街の中へ歩いて行った。
地べたに倒れている男達を一瞥し、息を吐く。やっと呼吸が出来た気がした。
楓香は自分の指が震えていることに気付く。平静なつもりでいたが、実はとても動揺していたらしい。
(……こわい)
この能力を使っていると、自分が自分じゃない感覚に陥ってしまう。
いくら怒りに身を任せてしまったとしても、暴力を暴力でねじ伏せてしまえば、自分もまた同じ穴の貉だ。その自覚はある。
化け物、と罵られても仕方のない行為だった。
(…人間、じゃない…か)
沢田のように、誰かを守れるヒーローになりたかった。だけど、化け物の自分が果たしてなれるのか。
こんな自分を知ったら、化け物だと思われるかも知れない。
もし沢田に拒絶されてしまったら、きっと自分は―――。
思考が変な方向へ傾くが頭を振って、冷静になる。
強張った指をほぐして、五体満足になった男達を確認すると、公園から出ていこうと足を踏み出す。
しかし、
「……あ、れ…?」
喉の奥から迫り上がる何かが口の端に伝う感触がした。
とろりとして、生温い。鼻からも垂れている。手で拭えば、赤い液体が付着していた。
悲鳴でも上げるかのように、肌は粟立ち、脳内では忙しなく警笛が鳴る。
心臓の音がやけに大きく聞こえて、その脈が徐々にゆっくりと鼓動して、やがて止まって。
そして、視界が暗転した。
底の見えない暗闇へ、落ちていく。
一羽の鳥が羽ばたき、地に降り立つ。
そのまま霧消すると、代わりに男が現れた。
力なく倒れ込んだ楓香を受け止め、片腕で軽々と抱き上げる。
「…化け物、ですか。確かに言い得て妙だ。神の領域を侵す力を持つ君は―――人為らざる者、でしょう」
二人の影は、霧の奥深くへと吸い込まれていった。
昨晩、煩悩まみれになった楓香は全く寝付けず、見事に寝坊してしまう。
机上に置かれた指輪が朝日に反射して、一筋の光を放っていた。
「…あれ?ハンカチがない」
昨日無我夢中で帰宅した時に何処かへ落としてしまったらしい。
窓の外で鳥が羽ばたく音が聞こえ、ハッとした楓香は急いで玄関に足を運ぶ。
迫り来る時間に追われながらゴミ袋を持って集積場に向かおうとするが、そこで閃く。
「消しちゃえばいいんだ」
途端に、片手が軽くなった。
なんて地球と楓香に優しい便利な力なんだろう。
軽く感動していると、ズキリと頭が痛んだ。それでもすぐに痛みは止んだので、楓香は気にすることなく登校した。
教室に入るなり、楓香に気付いた結衣が挨拶をする。
「ちょっとアンタ大丈夫なの?マスクしてるけど風邪?」
「…うん、ちょっと軽く風邪引いちゃって。熱はないんだけどね」
「無理しちゃ駄目よ、しんどくなったらすぐに言いなさい」
「うん」
いつもより重たい足取りで席に着く。
嘘だ。本当は風邪なんて引いていない。
体調不良で試合観戦に行けなかった、という辻褄を合わせるべくマスクを付けただけ、と言いたいところだが本当の理由は違った。
「…お、おはよう楓香ちゃん」
「……おはよう、綱吉君」
昨夜、自分に口付けをした沢田と顔を合わせるのが死ぬ程気まずいので、少しでも心の安寧を保つ為にマスクをすることにしたのだ。
「…やっぱり、体調悪い?」
「……ちょっとだけ」
「ご、ごめん、楓香ちゃん元気ないのに俺、」
その後に続く言葉は中々紡がれず、沈黙が流れる。
気付けば、沢田の唇に視線がいってしまうのを楓香は首を振って意識を紛らわせた。
(そもそも口付けした理由が、し、したかったからって何!?したかったってどういうことなの!?綱吉君それ言っている意味分かってる!?)
沢田の胸ぐらを掴み、思いっきり揺さぶって尋問してやりたい。
あの瞬間のことを鮮明に覚えている。沢田に腕を引き寄せられ、頭に手が回り、至近距離に映る橙がとても綺麗で、その瞳を独り占めしたいと強く願った。
今にもあの熱の感触と肌に伝わる吐息が聞こえてきそうで、楓香の目が僅かに潤む。
「……楓香ちゃん」
「な、なに」
思ったよりも近くに沢田の顔があり、肩がびくりと震えた。
今まで見たこともないその目は、可愛らしい仔犬なんかじゃなく、飢えた猛獣だ。
怯えた楓香は咄嗟に逃げようとするも、手を掴まれた。
「顔見たい」
あ、食べられる。
耳にかかったマスクの紐を外そうと腕が伸びてきた。
我に返った楓香は慌てて仰け反る。
「と、溶ける!」
窓に背中をくっ付けると、可能な限り距離を取った。
その行動にきょとんと目を丸くさせた沢田の表情が、次の瞬間には花咲くように綻ぶ。
「そっか、溶けちゃうなら仕方ないや」
「う、うん。そう。溶けちゃうから」
自分でも意味不明なことを言っているのは分かっていたが、沢田はすんなりと納得すると前かがみになっていた体勢を戻した。
(…なんなの、今日の綱吉君、……なんなの!?)
幸いにも二人の席は教室の隅っこなので、誰も此方を気にしていなかった。
キャラチェンジにも程がある。他の人のことが好きな筈なのに、どうして掻き乱すのか。
(綱吉君に限って人を弄ぶような真似はしないと信じてるけど、でも、それじゃあなんで…?)
ちらりと横目で隣を伺う。優しい瞳で楓香を見詰める沢田が何を考えているのか、その表情から窺うことは出来なかった。
スピーカーからノイズが走ると校内放送が始まった。
教室内では、ちらほらと数人程度の生徒が昼食を取っていた。今日は天気が良いので校庭や屋上に向かった生徒が多いようだ。
お弁当の五目釜めしを口に運ぶ。ちなみにREBOのアイコンはかまめしどんだ。
ふっくらとしたお米の感触を味わっていると、流行りのドラマ主題歌のイントロが流れる。
タイトルの”愛の炎熱弾”に相応しい、ドロドロとした展開で話題になったドラマである。
結衣がうっとりと息を吐いた。
「昨日の愛の炎熱弾がとにかくすごかったの」
「何が?」
「キスよ、キス!」
ど直球過ぎるタイムリーな話に動揺した楓香は盛大に噎せた。
そんな友人の様子に瞬きをした結衣は「あらまだ早かったかしら」と口に手を当てる。
「もうこーんな風にぐっちゃぐちゃに絡み合ってたのよ」
男女に見立てた両手を重ねて、あらゆる角度ですり合わせるので、たまらず楓香は視線を逸らした。
タイミングが良いのか悪いのか、曲もサビに突入して盛り上がる。
「まっ、アンタは童話みたいなチューもしたことないお子ちゃまだもんね」
「し、失敬な!わ、私だってキスくらいしたことあるよ」
ふん、と鼻息を荒くさせるが結衣は呑気にタンブラーに入れてきた野菜スープを飲んでいる。馬鹿にされたくなくて見栄を張っていると思われているらしい。
信じて欲しい一心で、つい立ち上がって大きな声を出す。
「…はっ、はむはむだって、この前したし!」
何処からかガタッと何かがぶつかる物音が聞こえた。
どうだ、とばかりに楓香は胸を張る。しかし、結衣は「ふーん」と鼻を鳴らすので唖然とする。
「それで、そのキスした相手は上手かったの?どんな味がした?どうせ相手は二次元とかいうオチでしょーけど」
お弁当のミニハンバーグを箸で真っ二つにするのに手こずっている結衣を見下ろした。
自身の唇に指を添えると、沢田とした口付けを思い出す。
唇を合わせた時、お互いがお互いを自分の一部であるかのように感じられて、そのまま溶け合いたかった。
「よく分からないけど、…好きな人とのキスに、上手いとか下手とか関係ないと思う…だって、触れてるだけで気持ち良かったし。…なんだろ、幸せの味がした、かな」
ガタガタッ。また物音がして振り返ると、机に突っ伏した沢田の姿が目に入った。
その反応を見て会話を全部聞かれていたと察する。あまりの恥ずかしさに両手で顔を覆ってしまった。
確実に頬が火照っている。今、自分の顔を鏡で見たら間違いなく真っ赤だろう。なんなら耳まで赤い自信がある。
「アンタ達いつの間にそんな…意外とダメツナやるわね」
結衣が何か言っているが頭に入ってこない。よりによって、本人の耳に入るなんて。
(…私の気持ち、バレちゃった…かな)
恋心を抱いてはいけない相手なのは十分理解していた。でも人を好きになるのに理屈は関係ない。気が付けば落ちてしまったのだから。
いっそのこと一思いに振ってくれとすら考えたが、その時二人の関係性は変わってしまうのだろうか。もう以前のように話せなくなる、なんて。
(……そんなの嫌だ)
でも、沢田の恋が実った時、素直に祝える自信はない。一緒に居れば、きっと傷付く。
(……友達にはもう、戻れないんだろうなぁ)
あんなに美味しかった五目釜めしは、何の味も感じなかった。
校舎の敷地を出る道から奥まった場所に体育館があるので、その裏側には人通りがほとんどない。
日当たりも悪そうなのに、アスファルトの隙間から雑草が逞しく生い茂っている。こういう根性のある草は根っこを抜くのが難しい。
「……誰も見てないよね」
そっと周囲を見渡す。
木々の葉が風に揺られ、遠くから鳥の囀りが聞こえてくる心地良い静寂に包まれていた。
昼休みが終わる前に、雑草を全て討伐しよう。
深呼吸をしてから、ゆっくりと念じた。
(筋肉痛回避…!)
たちまちにそこらじゅうの緑が消えていき、アスファルトの面積が広がっていく。
あれだけ生えていた雑草が一気に消え、無事に討伐成功した楓香はガッツポーズをした。
「……いっ…!」
すると、いきなり頭が割れるような痛みが襲いかかる。
視界が暗くなっていき、全身の肌が凍り付くような悪寒がした。足に力が入らず、尻もちをついてしまう。
安易に身体を動かすことが出来ず、倒れ込みそうになった時、ふわりと爽やかな香りがした。
「…っと、あぶねー。大丈夫か、楓香」
その鍛え上げられた広い胸に抱えられ、地面と衝突せずに済んだ。
重たい瞼を持ち上げると、心配そうに楓香を覗き込む山本の姿が視界に映る。
「これで顔、隠しとけ」
野球帽を深々と楓香に被せ、そっと脇と両膝に腕を入れて抱き上げる。
だらり、と脱力した楓香の腕に焦った山本は保健室へ駆け込んだ。
「どうやら軽い貧血みたいね。元々体調が悪かったようだし、今日は自宅で安静にしてなさい」
真っ白な天井が眩しい。
ぼんやりとした意識の中、養護教諭の声が耳に入る。楓香は大事を取って早退することになった。
「一人で帰れねーなら俺が送ろうか?」
視線を向けると、椅子に座った山本が心配そうに楓香を見下ろしていた。
「ううん、大丈夫。頭痛も治まってきたので」
「無理はすんなよ」
「ありがとう」
養護教諭は担任へ報告する為に席を外した。保健室にはベッドに寝転んでいる楓香と山本の二人しか居ない。
開け放った窓からは生徒達の賑やかな声が聞こえる。
白いカーテンが風で大きく靡くと、山本が目を細めた。
「…ありがとな」
「えっ?」
「お前が止めに入ってくれたんだろ。他校生が懺悔しに家へやって来たんだ。話は全部聞いてる」
あの日、楓香の力に怯えた男達は自ら山本の前に現れて、己の罪を告白した。もう二度と卑怯な真似はしないと誓い、山本は彼らを許すことにしたのだった。
「全部聞いたって…もしかして」
「あぁ、楓香がアイツらに啖呵切って、自転車を木っ端微塵に破壊したことも知ってるぜ」
(…当たってるような、そうじゃないような)
かっけーな、と純粋な尊敬の眼差しが楓香に注がれる。
異能については何も知らされていないらしく、ふっと肩の力を抜いた。あんな超常現象を正直に言ったところで、素直に信じる人は少ない。
大半が呆れの目をするのが分かりきっているので、山本に本当のことを言えなかったんだろう。
そこまで察してから、ふと疑問が浮かんだ。男達に名前を一切名乗っていない。何故、山本は楓香だと確信しているのか。
「どうして私だと分かったんですか?」
「んー、何となく、楓香だったら良いなって思った」
「なにそれ」
パイプ椅子が、ぎしりと音を立てた。
「ありがとな。俺、勝つから」
優しく髪を梳すその指先に、癖のない楓香の髪が滑り落ちる。
「うん。山本君は勝ちます」
その言葉に元気良く返事をした山本は、照れ臭そうに野球帽を被った。
まだ昼休み終了まで時間がある。壁時計の針を見ていた楓香はぽつりと問いかける。
「……もし、自分に不思議な力が宿ったとしたら、山本君ならどう使いますか?」
突然の質問にぱちくりと瞑目した山本は少し考えた後に口を開く。
「そーだな、大切なモン守る為に使うかな。…楓香が俺にそうしてくれたように」
ニカッと彼らしい元気な笑みを見て、楓香の表情がふっと和らいだ。
(…私もなれるかな、綱吉君みたいな、誰かを守れるヒーローに)
不意にコンコンと保健室のドアがノックされる。
遠慮気味な「失礼します…」という声が聞こえて、入ってきたのは沢田だった。
ゆっくりと室内に視線を巡らせて、程なくして楓香達を見付ける。
「あ、山本…」
「よっ、ツナ」
とぼとぼと歩いてきた沢田の手には、楓香の鞄があった。
「楓香ちゃん具合悪くて早退するんだよね。代わりに荷物持ってきたよ」
「ありがとう綱吉君、助かります」
楓香と会話をしているのに何故か沢田の視線は山本に止まっていた。
「…どうして山本が居るの?」
「意識が朦朧として倒れそうになった時に助けてもらったの」
「そうなんだ」
沢田の眉がおもむろに下がっていくのを見た山本が「じゃあ戻るわ」と手を振り、保健室を後にした。
空いたパイプ椅子に腰を下ろした沢田は口を閉ざして、無言を貫く。
昼食の件もあって、楓香は何と声をかければ良いか分からず、布団を口元まで引っ張り上げた。
少しの静寂が訪れた後、沢田が小さな声で謝った。
「なんか自分が不甲斐ないよ…守るって言ったのに」
溜め息を吐く彼を見上げていた楓香は、無意識にぽろりと言葉を零した。
「どうしてそんな親身になってくれるの」
言ってしまってから後悔するが、もう遅い。
ほら、パスを出したよ。早く終わらせて。
友達だから、と。そこに別の感情なんてない、と。
期待して傷付くのは嫌だった。隠していた恋心がバレてしまった以上、この関係に終止符を打とう。
暫し緊張した様子の沢田は吹っ切れたように息を吐くと、ゆっくり視線を絡ませる。
その瞳には不安げな楓香の顔が映し出されている。
「…それは、……楓香ちゃんだから」
形の良い唇が紡いだ言葉は、予想していたものとは違い、息を呑んだ楓香は続く言葉を待った。
「守りたいと思ったのも、一人にしたくないと思ったのも、全部、楓香ちゃんだからだよ」
熱を帯びたように、焔を宿した橙が迫る。
「こういうことしたいって思うのも、楓香ちゃんだけなんだ」
布団越しに、唇を押し当てられた。
まさか、そんな。とても信じられなくて、くぐもった声で名を呼ぶ。
唇が触れるか触れないかの距離で沢田が囁いた。
「初めて笑顔を見た時から、気付けば目で追ってた。どんな子なんだろうって知れば知る程、気になって…いつの間にか楓香ちゃんと過ごす時間がかけがえのない大切なものになったんだ」
楓香の目から一筋の涙が頬を伝う。
不器用そうに親指の腹で目元を優しく拭われた。
「楓香ちゃんと話すのが楽しくて、通話すると普段よりも緊張気味になったり、照れるとカタコトになっちゃうところや、ころころ変わる表情も全部、俺が独り占めしたい」
夢のようだった。でも今こうして沢田に想いを告げられ、頭を撫でられているのも、全て現実で。
次々と溢れ出す涙で視界は滲み、ぐちゃぐちゃの顔を見られるのも恥ずかしくなり、楓香は布団の中へ潜った。
「…私も同じ時間を共有する毎日が楽しくて、今何してるのかなとか、何か話題があると早く綱吉君に話したいなとか、頭の中が綱吉君でいっぱいになって」
心の奥に閉じ込めた宝箱から、止めどなく想いが溢れ出した。
それを沢田は優しく相槌を打ち、耳を傾ける。
「肩を並べて帰り道を歩いたのも、一緒に休日過ごしたのも、家にお呼ばれされたのも、…こんなにも誰かを好きになったのも、ぜんぶ、綱吉君が初めてなの」
言葉にならない嗚咽が漏れる。
初めからこの恋は実らないと決まっていた。ぽっと出の自分なんか勝ち目はないと、そう思っていた。
「…笹川さんのことが好きなの知ってるから、どうしようもなく悲しくなって、諦めなきゃって分かってたけど、ずっと綱吉君の傍に居たいっていう想いが強くて、わたし、」
その時、まるで宝物のように名前を呼ばれて、おずおずと布団から顔を出した。
きっと酷い顔をしているだろうに、沢田は愛しいものを見る目で楓香を見下ろす。
「好きだよ、楓香ちゃん。俺だけを見てて」
前髪の中に鼻の先を埋められて、額に口付けをされる。
「…うん、綱吉君しか見えない」
「俺も楓香ちゃんしか見えない」
二人は静かに目を瞑り、お互いの唇を重ねた。
「……俺もしたよ、幸せの味」
優しく触れる熱い感触に、首に回した手へ力を込める。
沢田の唇が笑みの形をかたどっているのが分かって、楓香も穏やかに微笑んだ。
空気を読んで気配を消していた養護教諭に声をかけられるまで、二人の世界へとトリップしていた楓香達は慌てて保健室から出て行く。
今夜、昨日のことも含めて通話することを約束し、楓香は下校した。
両思いだったことが嬉しくて思わずスキップしそうになるのを抑えて、けれども早歩きになってしまっているのを自覚しながら楓香は帰り道を歩く。
すると、通りかかった公園から、聞くに堪えない下品な笑い声が周囲の空気を振動させていた。
何かを取り囲み、数人の男達が騒いでいる。足の隙間から見えたのは、ぐったりと横たわっている一匹の猫だった。
男の手にあるナイフが、赤く染まっていた。
彼は、それで、一体何をしている。
絶句する頭に浮かんでくるのは“虐待”という言葉だった。
「おい、何見てんだよ」
じっと目を向ける楓香の存在に気付いた男が半笑いを浮かべる。
「俺らの暇つぶしの邪魔するなよ。おら、どっか行けガキ」
今にも消え落ちてしまいそうな小さな命の灯火が、楓香を見詰めている。
(怖くて痛くて、辛かったよね。酷い、酷い、こんなの許せない)
昂り始めた怒りの感情を抑えることは出来なかった。
光を失った楓香の瞳が虚空を見詰める。
男の持っていたナイフが忽然と消えた。
「…あ?」
そして、世界は赤く弾けた。
飛び散る血飛沫が頬に跳ね、嫌な鉄の匂いがする。
しんと静まり返り、男の荒い息遣いだけが耳を打った。
「…あ、脚が!俺の脚がああーーッ!」
「…お、おい。ど、どうなってんだ!?」
先程まで猫を残酷に虐げていた男は、脚の付け根から爪先まで消失していた。青褪めた顔をして狂ったように泣き叫ぶ。
誰もが心の平静を失って取り乱す中、楓香は消えゆく温もりを抱き上げた。
「おっ、お前がやったのか!?」
腕の中で眠っている猫から男達へ視線を移した楓香は、眉一つ動かさず答える。どんなに男達が襲いかかろうとも、全く怖くなかった。
「そうだよ。暇つぶし」
「…ふっ、ざけんな!テメェ!」
此方に向かって振り下ろされる凶器は、次の瞬間にはこの世から姿を消していた。
一体何が起こっているのか。男は何一つ理解出来ぬまま、片手が跡形もなく消し飛ぶ。
「…ば、化け物め!人間じゃねぇ!」
異常な光景に畏怖して言葉を失い、恐怖のあまり気絶した。
男達が倒れている中心で放心したように立ち尽くす楓香は、猫に目をやる。
「私の力が全てを消失することなら、この傷も消すことが出来るのかな…」
猫は四肢を切断され、痛みからか出血からか意識もなかった。
どうか、治ってほしい。切実な思いで楓香が傷口に手を翳すと、鮮血が止まり、見る見る内に傷が塞がっていき、失った四肢が元通りに完治した。
こういう力の使い方も可能なのか、と楓香は目を瞬かせて、ほっと安堵する。
生気のある綺麗な金色の硝子玉が楓香を見詰めた。
「ごめんね、もう大丈夫だから」
動けるようになった猫は、差し出された楓香の手に鼻を寄せるとふんふんと鳴らす。そして手のひらをぺろっと舐めた。
「ねぇ、猫ちゃん。あの人達を許してくれないかな。もう悪さしないように、たっぷり懲らしめたからさ」
楓香の気持ちが伝わったのか、猫はにゃんと鳴いた後に、のらりくらりと街の中へ歩いて行った。
地べたに倒れている男達を一瞥し、息を吐く。やっと呼吸が出来た気がした。
楓香は自分の指が震えていることに気付く。平静なつもりでいたが、実はとても動揺していたらしい。
(……こわい)
この能力を使っていると、自分が自分じゃない感覚に陥ってしまう。
いくら怒りに身を任せてしまったとしても、暴力を暴力でねじ伏せてしまえば、自分もまた同じ穴の貉だ。その自覚はある。
化け物、と罵られても仕方のない行為だった。
(…人間、じゃない…か)
沢田のように、誰かを守れるヒーローになりたかった。だけど、化け物の自分が果たしてなれるのか。
こんな自分を知ったら、化け物だと思われるかも知れない。
もし沢田に拒絶されてしまったら、きっと自分は―――。
思考が変な方向へ傾くが頭を振って、冷静になる。
強張った指をほぐして、五体満足になった男達を確認すると、公園から出ていこうと足を踏み出す。
しかし、
「……あ、れ…?」
喉の奥から迫り上がる何かが口の端に伝う感触がした。
とろりとして、生温い。鼻からも垂れている。手で拭えば、赤い液体が付着していた。
悲鳴でも上げるかのように、肌は粟立ち、脳内では忙しなく警笛が鳴る。
心臓の音がやけに大きく聞こえて、その脈が徐々にゆっくりと鼓動して、やがて止まって。
そして、視界が暗転した。
底の見えない暗闇へ、落ちていく。
一羽の鳥が羽ばたき、地に降り立つ。
そのまま霧消すると、代わりに男が現れた。
力なく倒れ込んだ楓香を受け止め、片腕で軽々と抱き上げる。
「…化け物、ですか。確かに言い得て妙だ。神の領域を侵す力を持つ君は―――人為らざる者、でしょう」
二人の影は、霧の奥深くへと吸い込まれていった。