泡沫トワイライト
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頬を叩かれて、再び意識が戻った楓香はまだ謎の牢屋に居ることに落胆する。
寝れば全てが解決するかも知れないという一縷の望みも絶たれてしまった。
『おい女どうやって侵入してきた?何が目的だ?吐け』
少年の言っていたことは本当らしい。聞き慣れない発音の言語が頭上を飛ぶ。此処はイタリアのようだ。
寝転がっていたままの楓香は、黒服の男から銃口を向けられて恐怖から身体が固まる。
「…すみません、言葉が分かりません」
言葉どころか常識さえも通じなさそうな相手なので、楓香は男の機嫌を損なわないように慎重な対応を心掛けた。
『あー?何喋ってんのか分からねぇな』
面倒臭そうに言葉を吐き捨てた男は、懐から取り出したスマホに何かをポチポチと打ち込んでいる。
『頭の出来が悪い[[rb:脇役 > モブ]]に代わって、[[rb:主役 > スター]]のミーが通訳しましょうかー?』
『誰がモブだテメェ!……まぁいい。鉛玉をブチ込まれたくなかったら、そこのアジア人が何の目的で侵入したか聞け』
少年が流暢にイタリア語を口にしていた。会話の内容は理解出来ないが、日本語を話せるので通訳を買って出たらしい。
「親方ー空から女の子がーって、このモブおじが伝えてくれと言ってますー」
「いやいや絶対嘘でしょ。この男の人すごい目付きで睨んでますけど」
どこかで聞いたことがある台詞だ。ふざけているとしか思えない。全く信用出来ず、楓香は胡乱げな目をして上体を起こす。
少年は男の方へ振り返ると、楓香に人差し指を向けた。
『このアジア人、飛行船から飛び降りたらしいですよー』
『飛行船だと…?』
ずい、と怪訝な顔を近付けられ楓香は仰け反った。後退りをして男から距離を取る。
「ハハハ、どこへ行こうというのかねー」
逃げる楓香の両肩を掴み、グラグラと前後に揺らす少年は愉快気に目を細めていた。
『おいクソ林檎、テメェさっきからマトモに通訳してねーだろ!翻訳アプリでバレてんだわ!』
今度はその萎びれた林檎を鷲掴んだ男が少年を怒り任せに揺さぶる。
「うわー目がー目がー」
見事に振り回された男は仕切り直しと言いたげに咳払いをした。
『もういい、ついでにクソ林檎とまとめて売り飛ばすか。顔もそこそこだから値が張るだろ。……新しいご主人様にたっぷり可愛がられて来い』
男が指を鳴らすと、数人の部下が牢に入ってきて楓香達に手錠を掛ける。
身動きが取れないまま地下に連行された先は、怪しげな雰囲気が漂う薄暗い会場だった。
悪趣味な仮面を着け素性を隠した者達が酒杯を交わしながら競い合っている。
(……こわい、帰りたい)
檻に閉じ込められた辺りから薄々と勘付いていたが、どうやら闇の競売場らしい。
ステージの横に陳列された檻には、高級感ある骨董品や宝石、そして違法性がありそうなモノ等が並べられている。
扇子越しに品定めをされた楓香は嫌悪感から唇を噛んだ。
まるで見世物小屋である。まさか自分が人身売買されるなんて。
(……この状況でよく寝れるなぁ )
隣で寝そべっている小さな林檎は、ぐーすかと危機感のない寝息を立てていた。
『さて、本日は大変珍しいものをご用意させて頂きました。どうかこの機会を見逃さないで下さい!』
ステージに上がった司会が進行を始めると、会場のボルテージが一気に上昇する。
一同が注目する中、ライトに照らされたのは一つの指輪だった。
『此方の指輪はただの指輪ではございません。見てください、この美しい煌めきを。古代の遺跡で発掘された新たな鉱物です。未知の指輪を手に入れるのは誰でしょうか。では今回の商品、スタート価格は一億です!』
すると、気迫の籠った声が飛び交った。次々に入札されていく光景に怯えて身体が震え上がる。
(…私もこうして売られるのかな)
もう二度とあの橙は自分を映さない、優しい温もりにも触れることはなくて、記憶の一部となりやがては消えていく。
彼の隣には自分以外の誰かが微笑んでいる、そんな、未来は―――。
ざわり、と髪が逆立つ。
瞬間的に感情が沸騰した。
「いらない」
音もなく手錠が消え、拘束された手が自由になった。
正面にある檻を睨み付ければ、遮られていた視界が広がる。
『…消えた!?ど、どうなってやがる!?誰かあの小娘を捕まえろ!』
ざわめきが肌を刺すが、楓香の心は凪いでいた。
寄せては返す心地良い不思議な波が彼女を迎える。
「…マジか、この展開は流石に予想外ですねー」
軽くなった腕を擦る少年は、隣でゆらりと立ち上がった楓香を見上げた。
(……呼んでる)
本当はずっと気になっていた。何かに呼ばれている気がした。
導かれるままに、また一歩と前へ踏み出す。
オークションの邪魔をする楓香を止めに入ろうと黒服達が押し寄せるが、寸のところで足が動かなくなった。
『(なんだ、この得体の知れない畏れは…)』
少女に近付けば自分という存在が無に帰す、と脳に警告が走る。
己の心臓を握られているような、そんな畏怖に男達は背筋が戦慄した。
虚ろな目をした楓香が辿り着いた先に待っていたのは、あの指輪だった。
「私を呼んだのは、貴方だったんだね」
その言葉に呼応し、指輪から流星のような光の粒子が溢れて楓香の周りを包み込む。
不思議と今なら何でも出来る気がした。初めての感覚に酔いしれる。身体の奥底から熱を帯びた力が湧き上がってくるのが解った。
『こ、殺せ!』
その時、ぞわりとした妙な圧迫感がこの場を席巻する。
ふと男は己の手を見下ろして凝視した。そこにあった筈の拳銃が跡形もなく消えていたのだ。
それだけではない。顔を隠していた仮面さえも消失してしまった。
『…くそっ、…テメェの仕業か!?』
仮面が消えたことで素顔が顕になった顧客達は一斉に会場から逃げ出す。何よりも守りたいのは自分の保身だ。
「おやおや」
カツン、とブーツが冷たい床を蹴って、虚しい音を響かせる。
騒然とした会場に木霊する靴音は場の空気を鞭打ち、そこに居る者の気を引かせた。
「これはまた随分と滑稽ですね」
会場内をぐるりと見回した男は、楓香を視界に捉えるとその片青眼を興味深そうに瞬かせる。
『お、お前は六道骸……!?』
突然の招かれざる客に剣呑な眼差しを向けていた黒服は、その男の正体に気付くと顔を強ばらせた。
「遅いですよ師匠ー」
足をばたつかせた少年はうだうだと文句を垂れるが、何処吹く風の六道は優雅に口を開ける。
「間抜けなダメ弟子がいくらで売り飛ばされるのか、わざわざ見物しに来てあげたのですが」
そこで少し思考を巡らすかのように、黒の手袋に纏われた手を顎元に当て、静かに笑う。
「クフフフ…おかげで良い手土産を見付けました。無駄足にならなくて済みそうだ」
スッと手の平を翳せば三叉槍が具現化され、六道は軽く床を突いた。
すると、大きな地鳴りが響き、塒を巻いたインディゴの炎と大蛇が霧の中から現れる。
鋭い牙を立て、黒服達に勢い良く襲い掛かった。
咄嗟に予備の銃を構えてトリガーを引くが、弾丸は姿を消して六道を貫くことはない。
『……チッ、あの小娘…!』
男達は対抗する術を持っていなかった。何故ならば、あらゆる装備品が消失してしまい丸腰の状態に陥っているからだ。
「ほう…これは実に素晴らしい」
妖しい閃きを秘めたオッドアイが上機嫌に細められる。
まるで獲物を狙う鋭い猛禽類のようで、少年は「うわー絶対やべーこと企んでるわー」とこの先の未来を想像して楓香に同情した。
「さて、ハリボテな脇役達には…そろそろこの舞台から御退場願いましょう」
為す術なく黒服達は大蛇に丸呑みされて、そのまま藍の炎と共に消え去る。
カツン、と六道の足音だけが響き渡る。今この場に居るのは彼と少年と楓香の三人だけだ。
楓香はたった今目にした、大蛇や炎の渦などの非現実的なものに驚嘆する。
(……なにあの蛇…それに初めて見た、あんな色の炎。全員、死んでしまったの?)
至って凡人の楓香に不思議な力が宿るくらいなので、当然自分以外にも異能を持っている人は存在するだろう。そう頭の中では理解出来ても、アニメの世界じゃないんだからと否定してしまう。
大蛇が男達を葬った瞬間が頭から離れない。自分も殺されるのか、と恐れた楓香は六道と少年から距離を取った。
「……こないで」
その怯えた声が六道の耳に届くと同時に三叉槍が音もなく消える。
彼は握っていた筈の手をしげしげと見下ろし、ほうと感心した。
「鼻から血が出ていますよ。これで拭うといい」
差し出されたハンカチと六道の顔を交互に見た後、楓香は少し思い悩むがその親切を受け取ることにした。
「…ありがとうごさいます」
会場内に張り詰めていた息苦しさは未だ漂っているが、楓香の虚空な瞳に光が入ると次第に薄らいでいく。
「君は何者ですか」
「…わたしは、」
自分は一体何者なんだろうか。今日という日が来るまではただの高校生だった。でも、己の意思で消失させることが可能な力を持った今は、
「……分かりません、自分が一体何なのか…この不思議な力も、全部分からないことだらけで」
楓香は指に嵌めている指輪を見詰めた。
あの眩い光の粒子は楓香の中へ溶け込むように霧散していき、それ以降は何の異変も起きなかった。
「なるほど。突然その力が覚醒した、と」
呆然と立ち竦み、震える手で自身を抱き締めている楓香の姿は、どこをどう見ても裏の世界を知らない一般人の少女だ。
殺そうと思えば容易く命を奪える存在である。
簡単にマインドコントロールが出来そうだが、六道はその考えを取っ払う。一瞬でも妙な真似をすれば、消されるという確かな予感があった。
「……あの、どこかで会ったことありませんか」
おずおずと尋ねた楓香は、六道の出で立ちにぼんやりとした既視感を覚えていた。
青藍の髪と色が異なる美しい宝石の瞳、そして甘い香り。どうも初対面だとは思えなかったのだ。
「ぷぷぷ、師匠が逆ナンされてるー」
「お黙りなさいオチビ」
グサリ。また具現化された三叉槍が林檎に突き刺さる。この場合フォークを差した、と言う表現の方が適切だ。
「僕と君は間違いなく初対面ですよ。まずは自己紹介から始めましょうか。僕の名は六道骸、そこのダメ弟子はフランと申します」
「おー逆ナン成功しましたねー」
またフォークが問答無用で刺される。
「…私は佐倉楓香、です」
完全に六道を信用した訳ではないが、異能を持つ者同士なので楓香の身に起こっている不可思議な現象について何らかのヒントが得られるかも知れない。
これまで起きた出来事を一から説明すると、六道は片眉を上げた。
「覚醒したきっかけが激しい感情の起状由来なのか定かではありません。しかし、指輪が君を[[rb:所有者 > あるじ]]として選んだことは確かです」
指輪に呼ばれて日本から遠く離れたイタリアに召喚された、と六道は言葉を紡ぐ。
「そして、指輪には意思がある。認めた所有者以外が身に付けると指輪は拒み、その人物は流星に砕かれて星屑と成るでしょう」
恐ろしいことを平然と口にする六道は何故か愉しそうだった。なので、つられて楓香も笑う。勿論、浮かべたのは乾いた笑みだが。
「その指輪が持つ力と君の異能には何らかの関連性がありそうだ。…これは僕の持論ですが、君のような能力者の為に生み出された指輪、という可能性も考えられます」
指輪が発掘されたのは古代の遺跡だ。そんな時代から異能は存在していたのだろうか。
今の自分が置かれている立ち位置を忘れ、少しロマンに浸っていた楓香は、手元がきらりと光彩を放ったことに気付く。
「こ、今度は何…!?」
「おや、そろそろ時間のようですね」
指輪から降り注ぐ眩い光が彼女を包み始める。
指先をゆったりと、微笑んだ口元に当てた六道は、楓香の耳元で囁いた。
『また会いましょう』
深い闇の底のような瞳から、目が逸らせなくなる。沈みそうだと思った瞬間、視界がぐらりと揺れ―――そして一転する。
今まで仄暗い場所に居たせいで、その燃える夕陽の眩しさに目を眇めた。
(……良かった…戻って来れたんだ)
買って欲しそうに光る自販機、伸びる電柱の影、カァと遠くから響く鴉の鳴き声、聞き慣れた日本語、それは楓香の日常の景色だった。
暫く動けず地べたの上に座り込んでいると、手元にある指輪とハンカチが目に付く。あれは夢ではない、そう楓香に語りかけている気がした。
急に何もないところから現れた楓香に驚き、遠巻きで眺めている人達からの視線を感じて、いそいそとその場を後にする。
家に到着した頃にはすっかり日が暮れて夜になっていた。
無心で帰宅した楓香は、そこで初めてスマホにたくさんの着信履歴が残っていることを知る。
「そ、そうだ、試合…!どうしよう…」
慌てて結衣に謝罪のメッセージを送る。素直に今日起きた出来事を言えば精神異常者だと引かれるのはお察しだ。
罪悪感を覚えるが、体調不良で寝込んでいたと嘘を吐くしかなかった。
すぐにREBOが届く。此方を気遣う内容と共に試合結果が報告される。並盛高の勝利で、無事に初戦を突破したらしい。
「やった…勝ったんだ」
本音を言えば一緒に結衣と応援したかった。だが、悔いはない。
「この力がなければ、山本君を守れなかった。だから、これで良かったんだ」
指輪に一瞬光が宿った気がした。楓香の心を写し取っているみたいだった。シンプルな銀の輪で、中央には幾数の星を散りばめた石が鎮座している。
すると、静寂を保っていた室内に着信音が鳴り響いた。
画面には“ツナ”と表示されており、心臓が跳ねる。彼の声が聞きたいと、一人にしないでと、そう心の何処かで沢田を求めていた楓香は、気付けばスマホに飛び付いていた。
「も、もしもし」
<あ、楓香ちゃん、こんばんわ。き、急に電話かけてごめん>
鼓膜が痺れるなんて感覚は初めてだった。
沢田の声を聞いた途端に、今日自分の身に降りかかった予期せぬ受難、昇華出来ない複雑な思い、それが洪水のように流れ込んでくる。
<山本の試合、俺も観戦しに行ったんだ。楓香ちゃんもそうだよね?でも探したけど姿が見当たらなくて…それで気になって電話したんだ>
体調が悪くて行けなかった、たったそれだけの言葉を絞り出すことすら難しかった。
ひゅうと喉が音を鳴らし、息を上手く吸えない。
<……楓香ちゃん?>
「…ちょっと、しんどくなっちゃって」
やっとの思いで、楓香は押し殺したような声を出す。努めて平静を装えていたのか分からない。
<だ、大丈夫!?熱とかあるの?冷えピタ、薬…食欲は?さ、差し入れ持って行くよ!>
電話口の気遣う声がただただ優しくて、目頭が熱くなった。
いつもそうだ。一番必要としている時に手を差し伸べてくれる。
どうして彼なんだろう。これ以上優しくされたら、きっと戻れなくなる。心の奥底で、誰にも見付からぬよう厳重に鍵をかけた宝箱が音を立てた。
「…平気だから、心配しないで」
すると、少しの空白が流れ、真実味を帯びた沢田の声が届く。
<楓香ちゃん、何かあった?>
駄目だ、こんなにも優しい彼を自分の勝手な都合で巻き込めない、否、巻き込みたくない、でも、それでもその温もりに、私は、
「…綱吉君、……助けて」
縋ってしまった。
本当は駄目なのに、そんなことは理解しているけれど。
<うん>
その言葉を最後に、通話が途切れる。
沢田は悲しいくらいに優しくて、それに甘えてしまう自分が嫌だった。
それから数分後、家のインターホンが鳴った。
ドアを開けると、そこには恐らく全力で走って来たのだろう、膝に手を付いて肩で呼吸をしている沢田の姿があった。
息を切らして髪は乱れ、その額からは汗が滲み出ており、頬から顎を伝って地面に落ちる。
「……綱吉君」
息を整えた彼は、いつになく真剣な眼差しで見上げた。
「楓香ちゃんは、俺が守る」
その目があまりにも真っ直ぐだったから、楓香の張り詰めていた糸が、ぷつんと切れる。
しゃがみ込む力もなく、その場に立ち尽くして俯いたまま、ぽつぽつと大粒の涙が落ちるのをぼんやりと眺めるしかなかった。
涙で滲む楓香の視界の端に、大きな手のひらが揺れて、
「絶対、一人になんかさせない」
腕を優しく掴まれ、そっと引き寄せられる。
言葉を交わす間もなかった。
頭の後ろに手を回され、橙の瞳が間近に見えたと思うと、唇に温かい感触が押し当てられる。
「!」
それが口付けだと分かった瞬間、身体の芯が激しく燃え上がった。
後頭部にあった手は、やがて楓香の両頬を包む。
唇はまだ離してもらえない。
「…つ、な…」
それは熱く、甘く、蕩けるような、何度も優しく食むようにされる。
今起こっている現実が信じられなくて、涙が引っ込んだ。
目を瞑ることも、瞬きすらせず、沢田を見詰める。
やがて、ゆっくりと持ち上がる瞼が驚きで見開き、橙と視線が絡み合う。
「…ごっ、ご、ごめん!!」
どうやら正気に戻ったらしい、勢い良く離れていく温度に心が惜しむ。
口付けをされた本人である楓香よりも沢田の方が驚きが大きく、耳朶を真っ赤にして、ぐるぐると目を泳がせていた。
「ど、どうして…?」
「…し、…したく、なったから」
「…そ、そっか」
「…ごめん」
「…うん」
その後、気まずい空気が流れ、訳も聞かずに駆け付けてくれた沢田には悪いが、とても会話が出来る状態じゃなかったので後日話すことになった。
衝撃から抜け出せず、楓香はベッドの上に倒れるように横たわる。そのまま重い瞼を静かに閉じた。
先程の口付けのことばかり考えてしまい、全く寝付けない。
不意に頭の中に六道が最後に放った言葉が木霊して、楓香はぎゅっと拳を握り締める。
「もう何も起きないよね…?」
その答えは、ただ机に転がっている指輪のみぞ知る。
寝れば全てが解決するかも知れないという一縷の望みも絶たれてしまった。
『おい女どうやって侵入してきた?何が目的だ?吐け』
少年の言っていたことは本当らしい。聞き慣れない発音の言語が頭上を飛ぶ。此処はイタリアのようだ。
寝転がっていたままの楓香は、黒服の男から銃口を向けられて恐怖から身体が固まる。
「…すみません、言葉が分かりません」
言葉どころか常識さえも通じなさそうな相手なので、楓香は男の機嫌を損なわないように慎重な対応を心掛けた。
『あー?何喋ってんのか分からねぇな』
面倒臭そうに言葉を吐き捨てた男は、懐から取り出したスマホに何かをポチポチと打ち込んでいる。
『頭の出来が悪い[[rb:脇役 > モブ]]に代わって、[[rb:主役 > スター]]のミーが通訳しましょうかー?』
『誰がモブだテメェ!……まぁいい。鉛玉をブチ込まれたくなかったら、そこのアジア人が何の目的で侵入したか聞け』
少年が流暢にイタリア語を口にしていた。会話の内容は理解出来ないが、日本語を話せるので通訳を買って出たらしい。
「親方ー空から女の子がーって、このモブおじが伝えてくれと言ってますー」
「いやいや絶対嘘でしょ。この男の人すごい目付きで睨んでますけど」
どこかで聞いたことがある台詞だ。ふざけているとしか思えない。全く信用出来ず、楓香は胡乱げな目をして上体を起こす。
少年は男の方へ振り返ると、楓香に人差し指を向けた。
『このアジア人、飛行船から飛び降りたらしいですよー』
『飛行船だと…?』
ずい、と怪訝な顔を近付けられ楓香は仰け反った。後退りをして男から距離を取る。
「ハハハ、どこへ行こうというのかねー」
逃げる楓香の両肩を掴み、グラグラと前後に揺らす少年は愉快気に目を細めていた。
『おいクソ林檎、テメェさっきからマトモに通訳してねーだろ!翻訳アプリでバレてんだわ!』
今度はその萎びれた林檎を鷲掴んだ男が少年を怒り任せに揺さぶる。
「うわー目がー目がー」
見事に振り回された男は仕切り直しと言いたげに咳払いをした。
『もういい、ついでにクソ林檎とまとめて売り飛ばすか。顔もそこそこだから値が張るだろ。……新しいご主人様にたっぷり可愛がられて来い』
男が指を鳴らすと、数人の部下が牢に入ってきて楓香達に手錠を掛ける。
身動きが取れないまま地下に連行された先は、怪しげな雰囲気が漂う薄暗い会場だった。
悪趣味な仮面を着け素性を隠した者達が酒杯を交わしながら競い合っている。
(……こわい、帰りたい)
檻に閉じ込められた辺りから薄々と勘付いていたが、どうやら闇の競売場らしい。
ステージの横に陳列された檻には、高級感ある骨董品や宝石、そして違法性がありそうなモノ等が並べられている。
扇子越しに品定めをされた楓香は嫌悪感から唇を噛んだ。
まるで見世物小屋である。まさか自分が人身売買されるなんて。
(……この状況でよく寝れるなぁ )
隣で寝そべっている小さな林檎は、ぐーすかと危機感のない寝息を立てていた。
『さて、本日は大変珍しいものをご用意させて頂きました。どうかこの機会を見逃さないで下さい!』
ステージに上がった司会が進行を始めると、会場のボルテージが一気に上昇する。
一同が注目する中、ライトに照らされたのは一つの指輪だった。
『此方の指輪はただの指輪ではございません。見てください、この美しい煌めきを。古代の遺跡で発掘された新たな鉱物です。未知の指輪を手に入れるのは誰でしょうか。では今回の商品、スタート価格は一億です!』
すると、気迫の籠った声が飛び交った。次々に入札されていく光景に怯えて身体が震え上がる。
(…私もこうして売られるのかな)
もう二度とあの橙は自分を映さない、優しい温もりにも触れることはなくて、記憶の一部となりやがては消えていく。
彼の隣には自分以外の誰かが微笑んでいる、そんな、未来は―――。
ざわり、と髪が逆立つ。
瞬間的に感情が沸騰した。
「いらない」
音もなく手錠が消え、拘束された手が自由になった。
正面にある檻を睨み付ければ、遮られていた視界が広がる。
『…消えた!?ど、どうなってやがる!?誰かあの小娘を捕まえろ!』
ざわめきが肌を刺すが、楓香の心は凪いでいた。
寄せては返す心地良い不思議な波が彼女を迎える。
「…マジか、この展開は流石に予想外ですねー」
軽くなった腕を擦る少年は、隣でゆらりと立ち上がった楓香を見上げた。
(……呼んでる)
本当はずっと気になっていた。何かに呼ばれている気がした。
導かれるままに、また一歩と前へ踏み出す。
オークションの邪魔をする楓香を止めに入ろうと黒服達が押し寄せるが、寸のところで足が動かなくなった。
『(なんだ、この得体の知れない畏れは…)』
少女に近付けば自分という存在が無に帰す、と脳に警告が走る。
己の心臓を握られているような、そんな畏怖に男達は背筋が戦慄した。
虚ろな目をした楓香が辿り着いた先に待っていたのは、あの指輪だった。
「私を呼んだのは、貴方だったんだね」
その言葉に呼応し、指輪から流星のような光の粒子が溢れて楓香の周りを包み込む。
不思議と今なら何でも出来る気がした。初めての感覚に酔いしれる。身体の奥底から熱を帯びた力が湧き上がってくるのが解った。
『こ、殺せ!』
その時、ぞわりとした妙な圧迫感がこの場を席巻する。
ふと男は己の手を見下ろして凝視した。そこにあった筈の拳銃が跡形もなく消えていたのだ。
それだけではない。顔を隠していた仮面さえも消失してしまった。
『…くそっ、…テメェの仕業か!?』
仮面が消えたことで素顔が顕になった顧客達は一斉に会場から逃げ出す。何よりも守りたいのは自分の保身だ。
「おやおや」
カツン、とブーツが冷たい床を蹴って、虚しい音を響かせる。
騒然とした会場に木霊する靴音は場の空気を鞭打ち、そこに居る者の気を引かせた。
「これはまた随分と滑稽ですね」
会場内をぐるりと見回した男は、楓香を視界に捉えるとその片青眼を興味深そうに瞬かせる。
『お、お前は六道骸……!?』
突然の招かれざる客に剣呑な眼差しを向けていた黒服は、その男の正体に気付くと顔を強ばらせた。
「遅いですよ師匠ー」
足をばたつかせた少年はうだうだと文句を垂れるが、何処吹く風の六道は優雅に口を開ける。
「間抜けなダメ弟子がいくらで売り飛ばされるのか、わざわざ見物しに来てあげたのですが」
そこで少し思考を巡らすかのように、黒の手袋に纏われた手を顎元に当て、静かに笑う。
「クフフフ…おかげで良い手土産を見付けました。無駄足にならなくて済みそうだ」
スッと手の平を翳せば三叉槍が具現化され、六道は軽く床を突いた。
すると、大きな地鳴りが響き、塒を巻いたインディゴの炎と大蛇が霧の中から現れる。
鋭い牙を立て、黒服達に勢い良く襲い掛かった。
咄嗟に予備の銃を構えてトリガーを引くが、弾丸は姿を消して六道を貫くことはない。
『……チッ、あの小娘…!』
男達は対抗する術を持っていなかった。何故ならば、あらゆる装備品が消失してしまい丸腰の状態に陥っているからだ。
「ほう…これは実に素晴らしい」
妖しい閃きを秘めたオッドアイが上機嫌に細められる。
まるで獲物を狙う鋭い猛禽類のようで、少年は「うわー絶対やべーこと企んでるわー」とこの先の未来を想像して楓香に同情した。
「さて、ハリボテな脇役達には…そろそろこの舞台から御退場願いましょう」
為す術なく黒服達は大蛇に丸呑みされて、そのまま藍の炎と共に消え去る。
カツン、と六道の足音だけが響き渡る。今この場に居るのは彼と少年と楓香の三人だけだ。
楓香はたった今目にした、大蛇や炎の渦などの非現実的なものに驚嘆する。
(……なにあの蛇…それに初めて見た、あんな色の炎。全員、死んでしまったの?)
至って凡人の楓香に不思議な力が宿るくらいなので、当然自分以外にも異能を持っている人は存在するだろう。そう頭の中では理解出来ても、アニメの世界じゃないんだからと否定してしまう。
大蛇が男達を葬った瞬間が頭から離れない。自分も殺されるのか、と恐れた楓香は六道と少年から距離を取った。
「……こないで」
その怯えた声が六道の耳に届くと同時に三叉槍が音もなく消える。
彼は握っていた筈の手をしげしげと見下ろし、ほうと感心した。
「鼻から血が出ていますよ。これで拭うといい」
差し出されたハンカチと六道の顔を交互に見た後、楓香は少し思い悩むがその親切を受け取ることにした。
「…ありがとうごさいます」
会場内に張り詰めていた息苦しさは未だ漂っているが、楓香の虚空な瞳に光が入ると次第に薄らいでいく。
「君は何者ですか」
「…わたしは、」
自分は一体何者なんだろうか。今日という日が来るまではただの高校生だった。でも、己の意思で消失させることが可能な力を持った今は、
「……分かりません、自分が一体何なのか…この不思議な力も、全部分からないことだらけで」
楓香は指に嵌めている指輪を見詰めた。
あの眩い光の粒子は楓香の中へ溶け込むように霧散していき、それ以降は何の異変も起きなかった。
「なるほど。突然その力が覚醒した、と」
呆然と立ち竦み、震える手で自身を抱き締めている楓香の姿は、どこをどう見ても裏の世界を知らない一般人の少女だ。
殺そうと思えば容易く命を奪える存在である。
簡単にマインドコントロールが出来そうだが、六道はその考えを取っ払う。一瞬でも妙な真似をすれば、消されるという確かな予感があった。
「……あの、どこかで会ったことありませんか」
おずおずと尋ねた楓香は、六道の出で立ちにぼんやりとした既視感を覚えていた。
青藍の髪と色が異なる美しい宝石の瞳、そして甘い香り。どうも初対面だとは思えなかったのだ。
「ぷぷぷ、師匠が逆ナンされてるー」
「お黙りなさいオチビ」
グサリ。また具現化された三叉槍が林檎に突き刺さる。この場合フォークを差した、と言う表現の方が適切だ。
「僕と君は間違いなく初対面ですよ。まずは自己紹介から始めましょうか。僕の名は六道骸、そこのダメ弟子はフランと申します」
「おー逆ナン成功しましたねー」
またフォークが問答無用で刺される。
「…私は佐倉楓香、です」
完全に六道を信用した訳ではないが、異能を持つ者同士なので楓香の身に起こっている不可思議な現象について何らかのヒントが得られるかも知れない。
これまで起きた出来事を一から説明すると、六道は片眉を上げた。
「覚醒したきっかけが激しい感情の起状由来なのか定かではありません。しかし、指輪が君を[[rb:所有者 > あるじ]]として選んだことは確かです」
指輪に呼ばれて日本から遠く離れたイタリアに召喚された、と六道は言葉を紡ぐ。
「そして、指輪には意思がある。認めた所有者以外が身に付けると指輪は拒み、その人物は流星に砕かれて星屑と成るでしょう」
恐ろしいことを平然と口にする六道は何故か愉しそうだった。なので、つられて楓香も笑う。勿論、浮かべたのは乾いた笑みだが。
「その指輪が持つ力と君の異能には何らかの関連性がありそうだ。…これは僕の持論ですが、君のような能力者の為に生み出された指輪、という可能性も考えられます」
指輪が発掘されたのは古代の遺跡だ。そんな時代から異能は存在していたのだろうか。
今の自分が置かれている立ち位置を忘れ、少しロマンに浸っていた楓香は、手元がきらりと光彩を放ったことに気付く。
「こ、今度は何…!?」
「おや、そろそろ時間のようですね」
指輪から降り注ぐ眩い光が彼女を包み始める。
指先をゆったりと、微笑んだ口元に当てた六道は、楓香の耳元で囁いた。
『また会いましょう』
深い闇の底のような瞳から、目が逸らせなくなる。沈みそうだと思った瞬間、視界がぐらりと揺れ―――そして一転する。
今まで仄暗い場所に居たせいで、その燃える夕陽の眩しさに目を眇めた。
(……良かった…戻って来れたんだ)
買って欲しそうに光る自販機、伸びる電柱の影、カァと遠くから響く鴉の鳴き声、聞き慣れた日本語、それは楓香の日常の景色だった。
暫く動けず地べたの上に座り込んでいると、手元にある指輪とハンカチが目に付く。あれは夢ではない、そう楓香に語りかけている気がした。
急に何もないところから現れた楓香に驚き、遠巻きで眺めている人達からの視線を感じて、いそいそとその場を後にする。
家に到着した頃にはすっかり日が暮れて夜になっていた。
無心で帰宅した楓香は、そこで初めてスマホにたくさんの着信履歴が残っていることを知る。
「そ、そうだ、試合…!どうしよう…」
慌てて結衣に謝罪のメッセージを送る。素直に今日起きた出来事を言えば精神異常者だと引かれるのはお察しだ。
罪悪感を覚えるが、体調不良で寝込んでいたと嘘を吐くしかなかった。
すぐにREBOが届く。此方を気遣う内容と共に試合結果が報告される。並盛高の勝利で、無事に初戦を突破したらしい。
「やった…勝ったんだ」
本音を言えば一緒に結衣と応援したかった。だが、悔いはない。
「この力がなければ、山本君を守れなかった。だから、これで良かったんだ」
指輪に一瞬光が宿った気がした。楓香の心を写し取っているみたいだった。シンプルな銀の輪で、中央には幾数の星を散りばめた石が鎮座している。
すると、静寂を保っていた室内に着信音が鳴り響いた。
画面には“ツナ”と表示されており、心臓が跳ねる。彼の声が聞きたいと、一人にしないでと、そう心の何処かで沢田を求めていた楓香は、気付けばスマホに飛び付いていた。
「も、もしもし」
<あ、楓香ちゃん、こんばんわ。き、急に電話かけてごめん>
鼓膜が痺れるなんて感覚は初めてだった。
沢田の声を聞いた途端に、今日自分の身に降りかかった予期せぬ受難、昇華出来ない複雑な思い、それが洪水のように流れ込んでくる。
<山本の試合、俺も観戦しに行ったんだ。楓香ちゃんもそうだよね?でも探したけど姿が見当たらなくて…それで気になって電話したんだ>
体調が悪くて行けなかった、たったそれだけの言葉を絞り出すことすら難しかった。
ひゅうと喉が音を鳴らし、息を上手く吸えない。
<……楓香ちゃん?>
「…ちょっと、しんどくなっちゃって」
やっとの思いで、楓香は押し殺したような声を出す。努めて平静を装えていたのか分からない。
<だ、大丈夫!?熱とかあるの?冷えピタ、薬…食欲は?さ、差し入れ持って行くよ!>
電話口の気遣う声がただただ優しくて、目頭が熱くなった。
いつもそうだ。一番必要としている時に手を差し伸べてくれる。
どうして彼なんだろう。これ以上優しくされたら、きっと戻れなくなる。心の奥底で、誰にも見付からぬよう厳重に鍵をかけた宝箱が音を立てた。
「…平気だから、心配しないで」
すると、少しの空白が流れ、真実味を帯びた沢田の声が届く。
<楓香ちゃん、何かあった?>
駄目だ、こんなにも優しい彼を自分の勝手な都合で巻き込めない、否、巻き込みたくない、でも、それでもその温もりに、私は、
「…綱吉君、……助けて」
縋ってしまった。
本当は駄目なのに、そんなことは理解しているけれど。
<うん>
その言葉を最後に、通話が途切れる。
沢田は悲しいくらいに優しくて、それに甘えてしまう自分が嫌だった。
それから数分後、家のインターホンが鳴った。
ドアを開けると、そこには恐らく全力で走って来たのだろう、膝に手を付いて肩で呼吸をしている沢田の姿があった。
息を切らして髪は乱れ、その額からは汗が滲み出ており、頬から顎を伝って地面に落ちる。
「……綱吉君」
息を整えた彼は、いつになく真剣な眼差しで見上げた。
「楓香ちゃんは、俺が守る」
その目があまりにも真っ直ぐだったから、楓香の張り詰めていた糸が、ぷつんと切れる。
しゃがみ込む力もなく、その場に立ち尽くして俯いたまま、ぽつぽつと大粒の涙が落ちるのをぼんやりと眺めるしかなかった。
涙で滲む楓香の視界の端に、大きな手のひらが揺れて、
「絶対、一人になんかさせない」
腕を優しく掴まれ、そっと引き寄せられる。
言葉を交わす間もなかった。
頭の後ろに手を回され、橙の瞳が間近に見えたと思うと、唇に温かい感触が押し当てられる。
「!」
それが口付けだと分かった瞬間、身体の芯が激しく燃え上がった。
後頭部にあった手は、やがて楓香の両頬を包む。
唇はまだ離してもらえない。
「…つ、な…」
それは熱く、甘く、蕩けるような、何度も優しく食むようにされる。
今起こっている現実が信じられなくて、涙が引っ込んだ。
目を瞑ることも、瞬きすらせず、沢田を見詰める。
やがて、ゆっくりと持ち上がる瞼が驚きで見開き、橙と視線が絡み合う。
「…ごっ、ご、ごめん!!」
どうやら正気に戻ったらしい、勢い良く離れていく温度に心が惜しむ。
口付けをされた本人である楓香よりも沢田の方が驚きが大きく、耳朶を真っ赤にして、ぐるぐると目を泳がせていた。
「ど、どうして…?」
「…し、…したく、なったから」
「…そ、そっか」
「…ごめん」
「…うん」
その後、気まずい空気が流れ、訳も聞かずに駆け付けてくれた沢田には悪いが、とても会話が出来る状態じゃなかったので後日話すことになった。
衝撃から抜け出せず、楓香はベッドの上に倒れるように横たわる。そのまま重い瞼を静かに閉じた。
先程の口付けのことばかり考えてしまい、全く寝付けない。
不意に頭の中に六道が最後に放った言葉が木霊して、楓香はぎゅっと拳を握り締める。
「もう何も起きないよね…?」
その答えは、ただ机に転がっている指輪のみぞ知る。