泡沫トワイライト
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扉の向こうで自分を探す声が聞こえた。咄嗟に教壇の影へ座り込む。
放課後になると獄寺に問答無用で首根っこを掴まれ、雑草討伐へ連行されるのが恒例になっている。
長時間草むしりの姿勢をしていると足に負担がかかる。連日のように草むしりをしていた楓香の脹ら脛と太ももは悲鳴を上げていた。
今日こそは魔の手から逃げ出し、直帰してやると意気込んだ。
しかし、空き教室のドアが音を立てて開く。
物音を立てずに息を潜めるが、ゆらりと彷徨う足音が楓香の前でピタリと止まった。
(……あぁ、捕まった)
翌日の筋肉痛を覚悟するが、短い静寂の後に茶目っ気な声が降ってきた。
「楓香ちゃんみっけ」
その足音の正体は獄寺ではなく、沢田だった。
「綱吉君、帰ったんじゃなかったの?」
一瞬、言葉に詰まった彼は落ち着かない様子で目を泳がせる。
「えっと、あの…一緒に帰りたくて、戻ってきちゃった」
「…そ、そっか。戻ってきちゃったんだ」
「……う、うん」
何だかお互いに照れ臭くなってしまって、それを誤魔化す為に楓香はわざと偉そうに振舞った。
「コンビニ寄ってパピコ分けっこしてくれるなら一緒に帰ってあげる」
「うん!楓香ちゃんホワイトサワー派だよね。…じゃあ、行こっか」
伏し目がちにはにかみ、楓香へと腕を伸ばす。
その手を取った彼女は、ゆっくりと引っ張られるまま下校した。
校内や校庭を奔走していた獄寺は楓香の後ろ姿を発見するも、ぶにっと得体の知れない物体を踏み身体が硬直する。
恐る恐る見下ろした先には、周囲に蝿が飛んでいる茶色のアレがあった。
「(…ジ・エンド・オブ・俺)」
呟いたその言葉と共に目を閉じた。
茜色の夕日がキラキラと反射して、美しく表情を変える並盛川。街の真ん中を流れるこの川は並盛町のシンボルになっていた。
河川敷には野球の練習用グラウンドが何面もあり、野球少年団が集まっている。乾いた打球音と生き生きとした子供のかけ声が空気に響く。
「はぁ…今日も追いかけ回されたよ」
最近獄寺が姑のようにしつこく付き纏ってくる、と相談をするが「懐かれてるんじゃない?」と何故か嬉し気味に彼は答えた。
四六時中べったりと張り付いていたお供から解放され、清々しいのだろう。
他人事な物言いに、じとっとした目付きで楓香は睨む。
「元を辿れば全部綱吉君のせいだからね」
「あはは…お世話になっております」
「はい、お世話しております」
買い物袋をカゴに積んだママチャリが横を通り過ぎていくのを目で追った。
今日の楓香の晩御飯はカップラーメンだ。獄寺から逃げ回ったせいで自炊する気力がない。
そういえば、と楓香は以前から気になっていた素朴な疑問を沢田にぶつける。
「綱吉君って十代目と初代どっちなの?」
「え゛っ!?」
「獄寺君がよく口にするからさ。いくらマフィアごっことは言え、設定ブレ過ぎだよ。そういうのはちゃんと統一しておかないと」
「そもそも俺はボスなんてならないから!」
「あーそういう設定なんだ」
「違う違う!そうじゃ、そうじゃない!」
ぶんぶんと首を横に振って沢田が全力で否定していると、背後から鈴の音のような澄んだ声が聞こえた。
「どうしたのツナ君、そんな大きな声出して」
「き、京子ちゃん!?」
沢田の顔がぱぁっと明るくなり、その表情に楓香の心がちくりと痛む。
弾んだ声音で笹川と会話をする沢田を目にして、霞がかかったような感覚を覚えた楓香は内心で首を傾げた。
「ちょっと、私もいるんだけど。アンタの目には京子しか映ってないの?」
ニヤリと片頬を上げたのは笹川の親友である黒川花だ。
「な、何言ってるんだよ、そんな訳ないだろ!」
冷や汗を滲ませた沢田が突っかかるが、まともに相手せず黒川は彼の隣で立ち尽くしている楓香に視線をやった。
「あのダメツナが女子と一緒に帰るなんて珍しいわね」
「お、俺だって女の子と帰ることだってあるよ」
「えぇー?だって好きな子と三分以上、話したことがないあの沢田がー?」
「それいつの話してるの!?てか何で知ってるんだよ!」
ふふっと口元に手を当てて笑う京子をチラチラと盗み見して沢田は顔を赤らめる。
(……なんだろう、綱吉君のそんな顔見たくない)
一秒でも早く此処から逃げたい。そんな衝動に駆られた楓香は沢田から一歩距離を取る。
「綱吉君ごめん、今日お財布持ってくるの忘れてたんだ。パピコはまた今度にしよ!じゃあね」
そのまま踏み出そうとした楓香の手を咄嗟に沢田が掴んだ。
「えっ、楓香ちゃん待って!パピコは俺が買うから一緒に食べようよ」
「ううん、大丈夫!バイバイ」
「楓香ちゃん!」
有無を言わさず楓香はその手を振り払うと、背中を向けて走り去った。
足早に歩く楓香は顔を俯かせて溜め息を吐く。
このモヤモヤとした不快感の正体が分からない。少し切ないような、残念なような。
(綱吉君は笹川さんのことが好きなんだから、デレデレするのは当たり前なのに)
何故か楓香はそれが嫌だった。
その顔を笹川さんじゃなくて自分に向けてほしい―――そこまで考えて、ハッとする。
これじゃあ、まるで、
「嫉妬……してるみたい」
ぽつりと漏れたその言葉に、楓香は両手で口を塞いだ。
違う、沢田に対してそんな感情は抱いていない。だって彼はただの友達なのだから。
「きっと、これは友達を取られてモヤッとしてるだけだ、うん」
自分自身へ暗示をかけるように、ひたすら言い聞かせた。
今なら引き返せる。楓香は心の奥深くに芽生えたナニカが花開くのを恐れた。
トボトボと歩いていると、何処からともなく現れたチャラついた男がへらりと笑う。
「うぃーっす、君カワイイね。その制服は並盛高かな」
無遠慮に伸ばされる手を避けると舌打ちをされる。
「美味しいご飯奢ってあげるから一緒に行こうよ」
男の傷んだ金髪が夕日に反射して目がチカチカと痛んだ。
一切相手にせず無視を決め込んで歩くが、それでもナンパ男はしつこく声掛けをする。
それは徐々にエスカレートし、楓香の肩を強引に引き寄せた。
「っはなして!」
「まぁまぁ、お兄さんのお話聞いてよ」
「嫌です興味ありません」
こんな平凡な顔の自分をターゲットに選ぶなんて余程モテないんだろうな、と蔑んだ目で男を睨む。
「なんだその生意気な顔は。あんまり調子に乗んなよガキ」
「……いっ!」
掴まれた肩に力が込められ、痛みが走る。思わず顔を歪めると男がまた笑った。
(……誰か、)
人通りが少ない路地で声を上げても助けは期待出来ない。これ以上男を逆上させるような行動は止めた方がいいだろう。
どうしようもなくなった楓香は、無意識に心の中で彼の名を呼んだ。
(助けて、綱吉君)
すると、その男の手が第三者によってべりっと引き剥がされる。
「楓香ちゃんから離れて下さい」
穏やかじゃないその声は、今正しく助けを求めていた人物だった。
「……綱吉君」
沢田は掴んだ手を離さず、男が抵抗すると更に力を込めて捻り上げた。
「いっででで!はっなせよクソガキ!」
苦悶の色を浮かべた男に、その橙は鋭く凍て付いた眼差しを向ける。
「わーったよ俺が悪かった!もう何もしねーから離してくれよ!」
情けなく白旗を上げた男は、痛みから解放されるとすぐに逃走した。
「…間に合って良かった」
振り返った沢田は眉を下げ、楓香の肩に指を這わせて労る。
まるで本物のヒーローみたいだった。すごく頼りになってカッコよくて、いつも助けてくれる、そんな優しい彼だから楓香は惹かれた。
「楓香ちゃん、怪我してない?」
「…うん。綱吉君のおかげで平気だよ。ありがとう」
「はぁー、良かったぁ」
深く息を吐いてその場にしゃがんだ沢田の姿は、心の底から安堵しているのが強く伝わってくる。
「楓香ちゃんの身に何かあったらと思うと…」
片手を顔で覆ってボソボソと呟く彼をじっと見下ろし、楓香は胸の前で両手を握った。
どうしてただの友達なのにそこまで心配してくれるの。
どうして笹川さんとそのまま帰れるチャンスだったのに追いかけてくれたの。
どうして、どうして、こんなにも愛おしい。
たくさんの疑問が浮かんでは消えていくが、ただ一つだけ確かなことは、
(……私、綱吉君のことが好きだ)
いつの間にか芽生えていた気持ちを自覚してしまった。でも気付きたくなかった。
―――彼の好きな人が自分だったら良かったのに。
好きだと分かった瞬間に失恋が確定してしまうなんて、そんなのあんまりだ。
「…良かったの、笹川さんとあのまま帰れたのに」
顔を上げた沢田は屈託のない笑みで告げた。
「俺が一緒に帰りたいのは楓香ちゃんだから」
疼くソレに蓋をして、その宝箱をたくさんの鎖で縛り付ける。
もう二度と開かないように、心の奥底へ放り込む。
「……綱吉君って本当に、ずるい」
あぁ、どうか神様。取り返しがつかなくなって傷付く前に、この恋心を殺してください。
雨模様の予報だったが、幸いにも少しぱらついた程度で傘を差すこともなく駅に着いた。
このまま雨雲が移動し徐々に晴れていくようだ。試合は無事に決行とアナウンスが流れる。
(結衣はまだかな?)
今日は待ちに待った高校野球の地方大会の大事な初戦が行われる。
夜なべした手作りのお守りを山本に渡した結衣は幸せそうに微笑んでいた。楓香も同じように必勝祈願のお守りを渡し、健闘を祈ると爽やかなブイサインが返ってきた。
「…あっ、結衣からだ」
駅で落ち合いそのまま野球場へ向かう予定だったが、少し遅れると結衣から連絡が入った。先に行ってほしいと言われたので、楓香は会場へ足を運ぶ。
その道中の自動販売機でジュースを購入し、近くにある日陰のスペースで喉を潤していると、こそこそと何かを話し合っている三人組が視界に入る。
「この試合どっちが勝つと思う?」
「やっぱり並盛高じゃね?あの噂の一年居るし」
何となく息を詰めて聞き耳を立ててしまったのは、単なる好奇心からだった。だが、彼らから思わぬ言葉が飛んできて目を見開く。
「確か山本だっけ?住所特定してんだろ、寿司屋だよな」
「もし勝ったらそいつのチャリに細工な」
「山本には悪いけど俺らが確実に勝ち進むにはやっぱ潰しておかねーと」
「工具は持ってきたし、後で行くか」
男達は顔を見合わせて陰湿な笑いが広がる。
話の内容から察するに、この初戦を勝ち抜いたら戦うことになる次の試合相手だろう。山本の自転車に細工して怪我でも負わし戦力を減らそうという魂胆か。
(スポーツマンシップの欠片もない、クズめ)
同じ人間がやる事とは到底思えず、吐き気がこみ上げてくる。絶対許せない。
どろりとした気持ちが、ふつふつとマグマのように腹の底から煮えたぎった。
「貴方達のやろうとしてることは犯罪ですよ。警察に通報します」
怒りに任せて男達の前に出た楓香は、ただ冷ややかに侮蔑の目を向ける。
しかし、当の本人達は全く怯むでもなく、開き直った態度で小馬鹿にした。
「はぁ?いきなり何だよお前。証拠でもあんの?俺達はただ楽しく話してただけだぜ」
「それが何の罪になるんだよ。言ってみー?」
「じゃあその工具箱は何に使うつもり?」
その冷静な指摘に三人組の内の一人が持っていた工具箱をそっと背中に隠す。
「……別にいいだろ何でも」
「分かった、通報します」
我関せずと楓香が手に持っていたスマホをタップすると、慌てた男が声を荒げた。
「やめろって言ってんだろ!」
いきなり突き飛ばされた楓香は、地面に激しく頭を打ち付け、身体中に痛みが走る。
倒れ込んで呻く姿に動揺した三人組は「もう行こうぜ」と自転車に跨って逃走を図った。
(こんな卑怯者達に山本君の努力が踏みにじられるなんて、そんなの、)
「許せない!」
刹那、目の前が真っ白になる。
世界から音が消えて、時が止まったような錯覚が訪れた。
まるで楓香の怒りに応えるかのように、心臓が、ドクンと強く波打つ。
より強く早くなっていく鼓動と同時に全身の血が沸騰したかのように熱を帯びた。
「は……?」
三人組は不意に身体の支えを失い、その場で地面に激突する。
何が起こったのか分からない。彼らは目を点にさせて、恐る恐る上体を起こした。
先程まで自転車に乗っていたというのに、そこには何もなかった。
「…ど、うなって…」
呆然とする中、不可思議な現象はその後も起きる。
自転車のカゴに入れた工具箱が消えたと思った次の瞬間にはリュックが消え、更にはポケットに突っ込んでいたスマホも姿を消した。
彼らの所持品がことごとく消失してしまった。もう何もかもを失って身一つになった時、楓香と視線がぶつかった。
次はお前達の番だ、と言われた気がした男達は一気に顔を青褪める。
「…ひっ!…ゆ、許してくれ!」
「な、何もしません!ごめんなさい!」
「せっ、正々堂々、試合するから!…お願いします!」
じりじりと後退り、怯えの色を見せた彼らの目には恐怖から涙が溢れる。
心あらずといった表情で、一目散に逃げ出す背中を楓香はぼんやりと見ていた。
鼻息ではない温かいものが、つたりと鼻から垂れて飛んでいた意識が戻る。
「…何が起こったの?」
楓香の頭の中は、この数分の間に起こった出来事を処理するのに渋滞していたが、くらりと世界が歪む。
突如、何かに呼ばれているような奇妙な感覚に陥り、本人の意思とは関係なく楓香は誘われた。
ぴちゃんと水滴の垂れる音で目を覚ました。
楓香は重い瞼を上げる。そこは闇に包まれた、カビの臭いがする薄暗い牢の中だった。
冷たい石の床に身体を投げ出していた楓香はゆっくりと身を起こす。
「ど、どこ…?」
先程まで居た場所ではないのは確かだ。持っていたスマホで現在地を確認すると圏外になっていた。
役に立ちそうにないので一旦鞄に戻す。
野球場付近に居た筈なのに此処は何処だろう。それにあの三人組の持ち物が消失したことも気がかりだ。
目を疑うようなことが立て続けに襲ってきて、楓香は頭が可笑しくなりそうだった。
不安から早まる鼓動を深呼吸で何とか抑えると、手に冷たい何かが触れた。
「…ひっ!」
隣で見知らぬ誰かがぐったりと倒れている光景が目に飛び込む。
慌てて抱き起こすと、楓香よりも幼い少年だった。触れた身体は温度を感じさせないくらいの冷たさで息を呑む。
震える身体に鞭を打ち、手首に指を当てて脈を図り、さっと手を引っ込めた。
「…し、死んでる!」
すると、目の前の死体がむくりと起き上がる。
「勝手に殺さないでくださいー」
「ぎゃああーーっ!」
驚いて叫ぶ楓香に見向きもせず、少年は呑気に大きな欠伸をひとつする。
「失敬な人ですねー、ミーは生きてますよー」
暗闇に光るエメラルドの瞳がぱちりと瞬く。
少年は萎びれた林檎の被り物を頭に被ると、反応のない楓香に首を傾げた。
「んー?言葉が通じてない?ジャポネーゼだと思ったんですけどー」
「は、はい日本人です言葉通じてます!あの私、」
「道に迷ったところを助けてもらうも人攫いだった脳内お花畑の観光客ってところですかねー」
「…いや、あの違います」
「平和ボケしたアマちゃんですねーぬるま湯に浸かってごしゅーしょーさまですー」
毒にまみれた偏見に楓香はついむっと口を尖らせる。何故初対面でここまで滅多刺しにされないといけないのか。
可愛らしいぽやっとした顔が一瞬で憎たらしくなった。
「そっちはどうなんですか」
「ミーは公園でシエスタしてたら何故か此処に居ましたー」
「人のこと言えないですよね!?」
どちらにせよ二人は人攫いにあったという認識で良いのだろうか。
日本も治安が悪くなったと嘆くが、まさかと思いつつ一度考え始めてしまうと嫌な疑念が次々に押し寄せる。
「…つかぬことをお聞きしますが、此処って日本ですよね?」
「何言ってんだこのアマ、イタリアに決まってるじゃないですかー」
楓香は衝撃のあまり今度こそ気絶するように眠りに落ちた。現実逃避である。
放課後になると獄寺に問答無用で首根っこを掴まれ、雑草討伐へ連行されるのが恒例になっている。
長時間草むしりの姿勢をしていると足に負担がかかる。連日のように草むしりをしていた楓香の脹ら脛と太ももは悲鳴を上げていた。
今日こそは魔の手から逃げ出し、直帰してやると意気込んだ。
しかし、空き教室のドアが音を立てて開く。
物音を立てずに息を潜めるが、ゆらりと彷徨う足音が楓香の前でピタリと止まった。
(……あぁ、捕まった)
翌日の筋肉痛を覚悟するが、短い静寂の後に茶目っ気な声が降ってきた。
「楓香ちゃんみっけ」
その足音の正体は獄寺ではなく、沢田だった。
「綱吉君、帰ったんじゃなかったの?」
一瞬、言葉に詰まった彼は落ち着かない様子で目を泳がせる。
「えっと、あの…一緒に帰りたくて、戻ってきちゃった」
「…そ、そっか。戻ってきちゃったんだ」
「……う、うん」
何だかお互いに照れ臭くなってしまって、それを誤魔化す為に楓香はわざと偉そうに振舞った。
「コンビニ寄ってパピコ分けっこしてくれるなら一緒に帰ってあげる」
「うん!楓香ちゃんホワイトサワー派だよね。…じゃあ、行こっか」
伏し目がちにはにかみ、楓香へと腕を伸ばす。
その手を取った彼女は、ゆっくりと引っ張られるまま下校した。
校内や校庭を奔走していた獄寺は楓香の後ろ姿を発見するも、ぶにっと得体の知れない物体を踏み身体が硬直する。
恐る恐る見下ろした先には、周囲に蝿が飛んでいる茶色のアレがあった。
「(…ジ・エンド・オブ・俺)」
呟いたその言葉と共に目を閉じた。
茜色の夕日がキラキラと反射して、美しく表情を変える並盛川。街の真ん中を流れるこの川は並盛町のシンボルになっていた。
河川敷には野球の練習用グラウンドが何面もあり、野球少年団が集まっている。乾いた打球音と生き生きとした子供のかけ声が空気に響く。
「はぁ…今日も追いかけ回されたよ」
最近獄寺が姑のようにしつこく付き纏ってくる、と相談をするが「懐かれてるんじゃない?」と何故か嬉し気味に彼は答えた。
四六時中べったりと張り付いていたお供から解放され、清々しいのだろう。
他人事な物言いに、じとっとした目付きで楓香は睨む。
「元を辿れば全部綱吉君のせいだからね」
「あはは…お世話になっております」
「はい、お世話しております」
買い物袋をカゴに積んだママチャリが横を通り過ぎていくのを目で追った。
今日の楓香の晩御飯はカップラーメンだ。獄寺から逃げ回ったせいで自炊する気力がない。
そういえば、と楓香は以前から気になっていた素朴な疑問を沢田にぶつける。
「綱吉君って十代目と初代どっちなの?」
「え゛っ!?」
「獄寺君がよく口にするからさ。いくらマフィアごっことは言え、設定ブレ過ぎだよ。そういうのはちゃんと統一しておかないと」
「そもそも俺はボスなんてならないから!」
「あーそういう設定なんだ」
「違う違う!そうじゃ、そうじゃない!」
ぶんぶんと首を横に振って沢田が全力で否定していると、背後から鈴の音のような澄んだ声が聞こえた。
「どうしたのツナ君、そんな大きな声出して」
「き、京子ちゃん!?」
沢田の顔がぱぁっと明るくなり、その表情に楓香の心がちくりと痛む。
弾んだ声音で笹川と会話をする沢田を目にして、霞がかかったような感覚を覚えた楓香は内心で首を傾げた。
「ちょっと、私もいるんだけど。アンタの目には京子しか映ってないの?」
ニヤリと片頬を上げたのは笹川の親友である黒川花だ。
「な、何言ってるんだよ、そんな訳ないだろ!」
冷や汗を滲ませた沢田が突っかかるが、まともに相手せず黒川は彼の隣で立ち尽くしている楓香に視線をやった。
「あのダメツナが女子と一緒に帰るなんて珍しいわね」
「お、俺だって女の子と帰ることだってあるよ」
「えぇー?だって好きな子と三分以上、話したことがないあの沢田がー?」
「それいつの話してるの!?てか何で知ってるんだよ!」
ふふっと口元に手を当てて笑う京子をチラチラと盗み見して沢田は顔を赤らめる。
(……なんだろう、綱吉君のそんな顔見たくない)
一秒でも早く此処から逃げたい。そんな衝動に駆られた楓香は沢田から一歩距離を取る。
「綱吉君ごめん、今日お財布持ってくるの忘れてたんだ。パピコはまた今度にしよ!じゃあね」
そのまま踏み出そうとした楓香の手を咄嗟に沢田が掴んだ。
「えっ、楓香ちゃん待って!パピコは俺が買うから一緒に食べようよ」
「ううん、大丈夫!バイバイ」
「楓香ちゃん!」
有無を言わさず楓香はその手を振り払うと、背中を向けて走り去った。
足早に歩く楓香は顔を俯かせて溜め息を吐く。
このモヤモヤとした不快感の正体が分からない。少し切ないような、残念なような。
(綱吉君は笹川さんのことが好きなんだから、デレデレするのは当たり前なのに)
何故か楓香はそれが嫌だった。
その顔を笹川さんじゃなくて自分に向けてほしい―――そこまで考えて、ハッとする。
これじゃあ、まるで、
「嫉妬……してるみたい」
ぽつりと漏れたその言葉に、楓香は両手で口を塞いだ。
違う、沢田に対してそんな感情は抱いていない。だって彼はただの友達なのだから。
「きっと、これは友達を取られてモヤッとしてるだけだ、うん」
自分自身へ暗示をかけるように、ひたすら言い聞かせた。
今なら引き返せる。楓香は心の奥深くに芽生えたナニカが花開くのを恐れた。
トボトボと歩いていると、何処からともなく現れたチャラついた男がへらりと笑う。
「うぃーっす、君カワイイね。その制服は並盛高かな」
無遠慮に伸ばされる手を避けると舌打ちをされる。
「美味しいご飯奢ってあげるから一緒に行こうよ」
男の傷んだ金髪が夕日に反射して目がチカチカと痛んだ。
一切相手にせず無視を決め込んで歩くが、それでもナンパ男はしつこく声掛けをする。
それは徐々にエスカレートし、楓香の肩を強引に引き寄せた。
「っはなして!」
「まぁまぁ、お兄さんのお話聞いてよ」
「嫌です興味ありません」
こんな平凡な顔の自分をターゲットに選ぶなんて余程モテないんだろうな、と蔑んだ目で男を睨む。
「なんだその生意気な顔は。あんまり調子に乗んなよガキ」
「……いっ!」
掴まれた肩に力が込められ、痛みが走る。思わず顔を歪めると男がまた笑った。
(……誰か、)
人通りが少ない路地で声を上げても助けは期待出来ない。これ以上男を逆上させるような行動は止めた方がいいだろう。
どうしようもなくなった楓香は、無意識に心の中で彼の名を呼んだ。
(助けて、綱吉君)
すると、その男の手が第三者によってべりっと引き剥がされる。
「楓香ちゃんから離れて下さい」
穏やかじゃないその声は、今正しく助けを求めていた人物だった。
「……綱吉君」
沢田は掴んだ手を離さず、男が抵抗すると更に力を込めて捻り上げた。
「いっででで!はっなせよクソガキ!」
苦悶の色を浮かべた男に、その橙は鋭く凍て付いた眼差しを向ける。
「わーったよ俺が悪かった!もう何もしねーから離してくれよ!」
情けなく白旗を上げた男は、痛みから解放されるとすぐに逃走した。
「…間に合って良かった」
振り返った沢田は眉を下げ、楓香の肩に指を這わせて労る。
まるで本物のヒーローみたいだった。すごく頼りになってカッコよくて、いつも助けてくれる、そんな優しい彼だから楓香は惹かれた。
「楓香ちゃん、怪我してない?」
「…うん。綱吉君のおかげで平気だよ。ありがとう」
「はぁー、良かったぁ」
深く息を吐いてその場にしゃがんだ沢田の姿は、心の底から安堵しているのが強く伝わってくる。
「楓香ちゃんの身に何かあったらと思うと…」
片手を顔で覆ってボソボソと呟く彼をじっと見下ろし、楓香は胸の前で両手を握った。
どうしてただの友達なのにそこまで心配してくれるの。
どうして笹川さんとそのまま帰れるチャンスだったのに追いかけてくれたの。
どうして、どうして、こんなにも愛おしい。
たくさんの疑問が浮かんでは消えていくが、ただ一つだけ確かなことは、
(……私、綱吉君のことが好きだ)
いつの間にか芽生えていた気持ちを自覚してしまった。でも気付きたくなかった。
―――彼の好きな人が自分だったら良かったのに。
好きだと分かった瞬間に失恋が確定してしまうなんて、そんなのあんまりだ。
「…良かったの、笹川さんとあのまま帰れたのに」
顔を上げた沢田は屈託のない笑みで告げた。
「俺が一緒に帰りたいのは楓香ちゃんだから」
疼くソレに蓋をして、その宝箱をたくさんの鎖で縛り付ける。
もう二度と開かないように、心の奥底へ放り込む。
「……綱吉君って本当に、ずるい」
あぁ、どうか神様。取り返しがつかなくなって傷付く前に、この恋心を殺してください。
雨模様の予報だったが、幸いにも少しぱらついた程度で傘を差すこともなく駅に着いた。
このまま雨雲が移動し徐々に晴れていくようだ。試合は無事に決行とアナウンスが流れる。
(結衣はまだかな?)
今日は待ちに待った高校野球の地方大会の大事な初戦が行われる。
夜なべした手作りのお守りを山本に渡した結衣は幸せそうに微笑んでいた。楓香も同じように必勝祈願のお守りを渡し、健闘を祈ると爽やかなブイサインが返ってきた。
「…あっ、結衣からだ」
駅で落ち合いそのまま野球場へ向かう予定だったが、少し遅れると結衣から連絡が入った。先に行ってほしいと言われたので、楓香は会場へ足を運ぶ。
その道中の自動販売機でジュースを購入し、近くにある日陰のスペースで喉を潤していると、こそこそと何かを話し合っている三人組が視界に入る。
「この試合どっちが勝つと思う?」
「やっぱり並盛高じゃね?あの噂の一年居るし」
何となく息を詰めて聞き耳を立ててしまったのは、単なる好奇心からだった。だが、彼らから思わぬ言葉が飛んできて目を見開く。
「確か山本だっけ?住所特定してんだろ、寿司屋だよな」
「もし勝ったらそいつのチャリに細工な」
「山本には悪いけど俺らが確実に勝ち進むにはやっぱ潰しておかねーと」
「工具は持ってきたし、後で行くか」
男達は顔を見合わせて陰湿な笑いが広がる。
話の内容から察するに、この初戦を勝ち抜いたら戦うことになる次の試合相手だろう。山本の自転車に細工して怪我でも負わし戦力を減らそうという魂胆か。
(スポーツマンシップの欠片もない、クズめ)
同じ人間がやる事とは到底思えず、吐き気がこみ上げてくる。絶対許せない。
どろりとした気持ちが、ふつふつとマグマのように腹の底から煮えたぎった。
「貴方達のやろうとしてることは犯罪ですよ。警察に通報します」
怒りに任せて男達の前に出た楓香は、ただ冷ややかに侮蔑の目を向ける。
しかし、当の本人達は全く怯むでもなく、開き直った態度で小馬鹿にした。
「はぁ?いきなり何だよお前。証拠でもあんの?俺達はただ楽しく話してただけだぜ」
「それが何の罪になるんだよ。言ってみー?」
「じゃあその工具箱は何に使うつもり?」
その冷静な指摘に三人組の内の一人が持っていた工具箱をそっと背中に隠す。
「……別にいいだろ何でも」
「分かった、通報します」
我関せずと楓香が手に持っていたスマホをタップすると、慌てた男が声を荒げた。
「やめろって言ってんだろ!」
いきなり突き飛ばされた楓香は、地面に激しく頭を打ち付け、身体中に痛みが走る。
倒れ込んで呻く姿に動揺した三人組は「もう行こうぜ」と自転車に跨って逃走を図った。
(こんな卑怯者達に山本君の努力が踏みにじられるなんて、そんなの、)
「許せない!」
刹那、目の前が真っ白になる。
世界から音が消えて、時が止まったような錯覚が訪れた。
まるで楓香の怒りに応えるかのように、心臓が、ドクンと強く波打つ。
より強く早くなっていく鼓動と同時に全身の血が沸騰したかのように熱を帯びた。
「は……?」
三人組は不意に身体の支えを失い、その場で地面に激突する。
何が起こったのか分からない。彼らは目を点にさせて、恐る恐る上体を起こした。
先程まで自転車に乗っていたというのに、そこには何もなかった。
「…ど、うなって…」
呆然とする中、不可思議な現象はその後も起きる。
自転車のカゴに入れた工具箱が消えたと思った次の瞬間にはリュックが消え、更にはポケットに突っ込んでいたスマホも姿を消した。
彼らの所持品がことごとく消失してしまった。もう何もかもを失って身一つになった時、楓香と視線がぶつかった。
次はお前達の番だ、と言われた気がした男達は一気に顔を青褪める。
「…ひっ!…ゆ、許してくれ!」
「な、何もしません!ごめんなさい!」
「せっ、正々堂々、試合するから!…お願いします!」
じりじりと後退り、怯えの色を見せた彼らの目には恐怖から涙が溢れる。
心あらずといった表情で、一目散に逃げ出す背中を楓香はぼんやりと見ていた。
鼻息ではない温かいものが、つたりと鼻から垂れて飛んでいた意識が戻る。
「…何が起こったの?」
楓香の頭の中は、この数分の間に起こった出来事を処理するのに渋滞していたが、くらりと世界が歪む。
突如、何かに呼ばれているような奇妙な感覚に陥り、本人の意思とは関係なく楓香は誘われた。
ぴちゃんと水滴の垂れる音で目を覚ました。
楓香は重い瞼を上げる。そこは闇に包まれた、カビの臭いがする薄暗い牢の中だった。
冷たい石の床に身体を投げ出していた楓香はゆっくりと身を起こす。
「ど、どこ…?」
先程まで居た場所ではないのは確かだ。持っていたスマホで現在地を確認すると圏外になっていた。
役に立ちそうにないので一旦鞄に戻す。
野球場付近に居た筈なのに此処は何処だろう。それにあの三人組の持ち物が消失したことも気がかりだ。
目を疑うようなことが立て続けに襲ってきて、楓香は頭が可笑しくなりそうだった。
不安から早まる鼓動を深呼吸で何とか抑えると、手に冷たい何かが触れた。
「…ひっ!」
隣で見知らぬ誰かがぐったりと倒れている光景が目に飛び込む。
慌てて抱き起こすと、楓香よりも幼い少年だった。触れた身体は温度を感じさせないくらいの冷たさで息を呑む。
震える身体に鞭を打ち、手首に指を当てて脈を図り、さっと手を引っ込めた。
「…し、死んでる!」
すると、目の前の死体がむくりと起き上がる。
「勝手に殺さないでくださいー」
「ぎゃああーーっ!」
驚いて叫ぶ楓香に見向きもせず、少年は呑気に大きな欠伸をひとつする。
「失敬な人ですねー、ミーは生きてますよー」
暗闇に光るエメラルドの瞳がぱちりと瞬く。
少年は萎びれた林檎の被り物を頭に被ると、反応のない楓香に首を傾げた。
「んー?言葉が通じてない?ジャポネーゼだと思ったんですけどー」
「は、はい日本人です言葉通じてます!あの私、」
「道に迷ったところを助けてもらうも人攫いだった脳内お花畑の観光客ってところですかねー」
「…いや、あの違います」
「平和ボケしたアマちゃんですねーぬるま湯に浸かってごしゅーしょーさまですー」
毒にまみれた偏見に楓香はついむっと口を尖らせる。何故初対面でここまで滅多刺しにされないといけないのか。
可愛らしいぽやっとした顔が一瞬で憎たらしくなった。
「そっちはどうなんですか」
「ミーは公園でシエスタしてたら何故か此処に居ましたー」
「人のこと言えないですよね!?」
どちらにせよ二人は人攫いにあったという認識で良いのだろうか。
日本も治安が悪くなったと嘆くが、まさかと思いつつ一度考え始めてしまうと嫌な疑念が次々に押し寄せる。
「…つかぬことをお聞きしますが、此処って日本ですよね?」
「何言ってんだこのアマ、イタリアに決まってるじゃないですかー」
楓香は衝撃のあまり今度こそ気絶するように眠りに落ちた。現実逃避である。