泡沫トワイライト
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廊下に展示された沢山の写真を見上げた。
紅白のハチマキを頭に巻いた生徒達が一丸となって競い合っている。もう先週のことなのに、楓香は未だに当時の熱を思い出していた。そう、脳裏に焼き付いて離れないあの強烈な闘志を―――。
結衣は楓香の視線の先にある一枚の写真を見て、思わず笑みを浮かべた。
「すごかったよね、ヤバツナ」
その言葉に相槌を打った楓香は、注文用紙に31の番号を書き込んでいく。
「えっ、もしかして買う気?」
「だって見てよこの迫力のある顔。玄関に飾ったら厄除け効果ありそうじゃん」
「シーサーか!」
一枚六十円で販売されているクラス写真は、自分や好きな人が写っているショットを選ぶのが一般的だが例外もある。
友人から生温い視線を受け止めながら教室に戻ろうとした時、突然背後から大きな声が響き渡った。
「ヒィーーッ!なんでこんなの撮ってるんだよ!誰も買わないんだから取り下げてくれーーッ!」
振り返れば、頭を抱えて打ちひしがれる男子生徒が居た。絶望、という感情を身体で表現している。
「十代目!この素晴らしい勇姿を部屋に飾りたいのでポスターサイズ特注してもいいッスか?」
「何言ってんの!?駄目に決まってるだろ!」
立ち騒ぐ二人の様子にもすっかり慣れた楓香は「またやってる」と関心し、席に着く。
教室に居てもコントのような言い合いは耳に入ってきた。
(そろそろ彼の登場かな)
その予想は的中する。
「この写真のツナ、激アツだな」
新たな第三者が割って入る。それも普段通りの光景だ。
「おい野球バカ、テメェも十代目の布教活動に協力しろ。ありったけの写真を買って全校生徒に配布するぞ」
「ははっ、なんか楽しそーだなそれ」
「ポケットティッシュ配るテンションで言わないで!?」
息の合ったやり取りにクラスメイト達は「今日も賑やかだな」と呆れた。これが並盛高校1-Aの日常である。
新学期最初の席替えはくじ引きによって公平に決定された。31という数字には縁があるらしい。引いたくじの番号と数字がランダムに振り分けられた座席表を見比べる。
窓際の一番後ろはかなりの当たり席だ。黒板を消す度にチョークの粉から襲われるなんてことはないし、教壇からは死角になっているので居心地も良い。
(よっし!)
狙っていた席が外れた生徒達によって教室が阿鼻叫喚となっている中、嬉々と目を輝かせた楓香は小さく拳を握り締めた。
欲を言えば仲の良い友人が近くの席を引いてくれたら上々。楓香は新しい座席の位置へ移動しながら結衣を探すと、彼女は恨めしげに何処かを睨んでいた。釣られて目で追えば、凝視していたのは美男美女である山本武と笹川京子だった。
(あちゃー。山本君の隣の席は笹川さんになっちゃったかぁ)
二人の空間だけキラキラとした粒子が舞っているように見える。そもそも次元が違うのだ。少女漫画の世界から飛び出したと言われても納得せざるを得ない。
「おっ、笹川が隣か。よろしくな」
「こちらこそよろしくね、山本君」
絵になる二人に圧倒される結衣を含めた生徒達はがっくりと肩を落とした。
人気者の隣の席なんてドーム会場の最前列席よりも倍率が高い。まさかそんな二人が連番だなんて無慈悲にも程がある。落ち込んでいる結衣に「ドンマイ」と声を掛ければ静かに手を振られた。彼女は立ち直りが早いので、時間が経てば大丈夫だろう。
椅子に腰を下ろした楓香は一息吐いて、ぐるりと教室全体を見渡した。楓香の性格を一言で表すならば人見知りである。
中学の知り合いも居らず、一人馴染めず浮いていた楓香に手を差しべたのが結衣だ。彼女のおかげである程度クラスメイトと話せるようになったので、感謝してもし切れない。
そんな彼女が地元から遠く離れた並盛高校を選んだ理由は一つ、手当が充実しているからである。物心ついた時から親が居ない楓香は遺産の貯金を切り崩して生活を送っていた。高校を進学するにはある程度の大金が必要だ。
この並盛高校は成績優秀な生徒であれば超特待生という特別な枠に入れる。風紀財団から補助金が下りるので、授業料その他諸々が全額無料という前代未聞の待遇が受けられるのだ。
入試テストで学年一位を取り主席で合格した楓香は、同級生からお堅くて真面目な印象を持たれていた。それが孤立気味になった要因でもある。
(隣の席、誰かな…緊張してきた)
手慰みに席替えのくじを小さく織り込んでは広げてを繰り返していると、右から机を引いた音が耳に飛び込んできた。
目線を手元から隣へゆっくり動かせば、燃えるような橙とかち合った。きょとんとして瞬きをするが、もうその瞳の中に楓香は居なかった。
27が書かれたくじと座席表を交互に確認した彼は「ごめん、この席で合ってるかな」と不安そうに首を傾げる。ふわりと蜂蜜の髪が揺れた。
楓香は織り込んでいたくじを広げ、おずおずと見せる。
「そうだよ、ここが31だから合ってる。よろしくね沢田君」
「はぁー良かった。こちらこそよろしく!佐倉さん」
安堵の息を吐いた彼はへたりと椅子に座った。その様子を一瞥する楓香だったが声を掛けることもなく、二人の間に沈黙が訪れる。人見知りが発動した楓香の口はミシンで縫われ、キッチリと閉ざされていた。
今まで挨拶は交わしたことがあるがそれだけの関係―――他人以上知り合い未満というほぼ初めましてだ。
へなちょこで有名なダメツナ、沢田綱吉が隣の席になってしまった。目立つことが苦手な楓香にとってはあまり歓迎しない相手だ。
沢田は補習組の上に遅刻魔なのでよく教師に叱られている。何をやってもダメだからダメツナという自己肯定感爆下がりのあだ名が付けられた。
そんな彼だが意外にも体育祭の騎馬戦では途轍もない活躍をした。阿修羅のような暴れっぷりで白組を勝利に導いたのだ。本人の知らぬところで一部からヤバツナと呼ばれ始めている。
(よりによって沢田君の隣…)
ダメな奴なのかヤバい奴なのかハッキリして欲しいのが本音のところ。
席替えという一大イベントが終わり、喧騒とした空気が消えた教室は本来の静けさを取り戻していく。四限目は楓香の得意科目である数学だ。
練習問題を解き終え、暇を持て余していると「すぴー」と小さなイビキが聞こえた。まさかと横目で見遣れば立派な鼻ちょうちんを膨らませているではないか。
呑気に腕を枕にしている沢田は、すっかり夢の世界へ羽ばたいていた。
教師からチョークが飛んで来るのも時間の問題だ。起こしてあげるべきだろうか。そんなに親しくもない相手からのお節介は鬱陶しいと思われそうで、楓香は伸ばした手を引っ込めた。
すると、黒板から振り返った教師の視界に沢田の姿が入る。グッと目を三角にして叱咤を飛ばした。
「っひゃい!?」
鼻ちょうちんが割れ、夢から現実へ強制的に引き戻された沢田の頬には手の跡がくっきりと残っていた。やってしまったと悔いの色が滲んだ笑みを浮かべて、彼は口元の涎を拭う。
居眠りをした罰として廊下に立たされた沢田に、楓香は何だか罪悪感に駆られた。
「十代目に指図すんじゃねぇ!果てろ!」
が、獄寺が教師に反抗しポケットからダイナマイトを取り出した衝撃で、そんな気持ちも何処かへ吹っ飛んでしまった。
「身体中が煤まみれになるから、みんな教室の外に移動するぞ」
「「はーい」」
(どうしてそんなに落ち着いてるの!?)
獄寺が爆弾を所持していることに周囲の生徒達は平然としていて楓香は目を疑ったが、並盛中学校出身が多いこのクラスでは騒ぐ程の事じゃないらしい。流石、面構えが違うだけはある。
休憩時間に入ると、沢田の周りは一気に賑やかになる。彼を異常に慕う獄寺と、そんな忠犬に噛み付かれても爽やかに往なす山本、楽しそうに微笑む笹川、呆れる黒川。
彼らを遠くで観察していた楓香がポロッと言葉を零す。
「沢田君って台風の目みたい」
「それな」
白い歯がキラリと光る山本の笑顔に見惚れていた結衣が頷いた。
良くも悪くも人の視線が集まる彼らが隣で談笑しているので、楓香は友人の席へ退避した。これが毎日続くのかと思うと少しうんざりして溜め息を吐いた。
「沢田は中学の時から有名だったよ。えげつない武勇伝をたっくさん生み出してたもん」
「えっ何それ詳しく」
結衣の口から語られる数々の話は全て常軌を逸した内容で楓香は目を剥いた。
(……これはヤバツナだ)
その後、隣の席の危険人物が気になりすぎて楓香は全く授業に身が入らなかった。家に帰ったら復習しようと反省する。
紫陽花の葉にくっついているテントウ虫を見付けた。何も考えずに前だけを進んでいる。こんな風に人生を歩んでみたいものだ。
校庭の掃き掃除をしながら楓香がくだらないことを考えていると、背後から名前を呼ばれる。驚いて握っていた箒を落としそうになった。ちりとりとゴミ袋を持った沢田が歩み寄ってきた。
席の班ごとに清掃場所が分かれており、本人の意思とは関係なく楓香と沢田は同じ担当になっている。
「佐倉さん何かあった?午後から様子がおかしいけど…」
「ソンナコト、ナイヨ」
「あるよ!めちゃくちゃ目逸らしてるけど!?」
「キノセイ、ダヨ」
「しかも何でカタコトーッ!?」
気にしないでと片手を振る楓香に、何か言いたげな沢田が口を開けた瞬間―――清掃の終了を告げるベルが鳴った。
落ち葉がたくさん入ったゴミ袋と箒を手早く片付けた楓香は、まるで逃げるようにその場から立ち去った。
声をかける隙など与えず、小さくなっていく背中を呆然と見送る沢田だったが、自分も教室に戻らねばと後を追った。
それからは極力沢田と関わらないように徹底した。自分はそこら辺に転がっている小石だ。沢田にとって居ても居なくても気にならない存在を心掛けていたが、そんな楓香を嘲笑うかのようにその日は訪れた。
並盛高校では二人一組隣の席同士で日直の仕事をするようになっている。
朝一番に登校した楓香は職員室から学級日誌と鍵を受け取り、教室のドアを開錠して窓を開ける。雲一つない快晴と心地良い鳥の鳴き声が、どんよりした気分を軽くしてくれた。
後ろの連絡黒板に今日の予定事項とお知らせを書き込んでいき、前の黒板には日付と欠席者の名前、日直の担当者を記入したところで、カツンとチョークを置いた。
SHRが開始される前に済まさなければならない仕事は全て完了した。ようやく席に着いた楓香は隣を一瞥する。
チラホラと生徒が教室に入って来る中、彼はまだ登校していない。このまま欠席してくれないだろうか。心の中で祈っていたが、それは無駄なことであった。
「おはよ佐倉さん!」
「オハヨ、サワダクン」
「相変わらずカタコトだーッ!?」
まず目に付いたのは後頭部にピョンッと主張している寝癖だった。その次にグシャッとなっているネクタイ、そして走ってきたのか額にじんわりと汗が滲んでいた。
沢田は乱れた呼吸を整えると、両手を合わせた。
「ごめん!日直だってことは分かってたんだけど寝坊しちゃって…。朝の仕事押し付けて本当にごめん!」
平謝りする沢田の勢いに押されて呆気に取られていた楓香だったが、ドドドと悪寒が走る。
嫌な予感がして窓の外に視線をよこすと、校庭で此方を見上げる獄寺が仁王立ちしていた。距離が離れているのでどんな顔をしているか分からないが、朝から浮かべて良い表情ではないのは確かである。
敬愛している沢田が頭を下げている。きっとそれが忠犬の気に入らないセンサーに触れてしまったのだ。
(…終わった)
数分後の悲惨な未来を想像した楓香は血の気が引いて青褪める。
「キ、キニシナイデ!ホント!ダイジョーブ!デス!ホント!」
同じ言葉を繰り返す壊れたロボットになってしまった。楓香が必死に首を振るので、沢田は伏せていた顔を上げた。
楓香の代わりに黒板消しをするということでこの件は決着が付いた。
眉間に深い皺を刻んだ獄寺が教室に乗り込んできたが、沢田のフォローにより事無きを得る。
「テメェの面、覚えたからな」と非常に面倒な人物に目を付けられ、涙目の楓香は今すぐにでも席替えを希望した。
日直の仕事には担任の雑用も含まれている。SHRで回収した提出物を職員室へ運ぶ楓香と沢田、そして獄寺の三人は廊下を歩いていた。
「獄寺君は日直じゃないんだから手伝わなくて良いんだよ?」
「十代目のお役に立つことが右腕である俺の使命ッス!」
「…そ、そう」
げんなりと項垂れた沢田はそれ以上突っ込むことはせず、新作のボムが完成したと喜ぶ獄寺の話を乾いた笑みで返していた。
二人から一歩後ろで距離を取っていた楓香は、なるべく矛先が此方に向かないよう息を殺して歩く。が、そんな事は露知らず、気を遣った沢田が楓香に話を振るのでその度に獄寺から鋭い眼光が突き刺さる。
びくり。今にも噛み付いてきそうな忠犬に睨まれて、緊張が漏れ出ないように掌を握った。
早くこの状況から抜け出したい。ぐっと唇を噛み締め、踊り場を曲がり階段を下りようとした時、手の重さが軽くなった。
「んな雪だるまの小枝みてェな細腕で背後歩かれっと気が散ってたまんねェんだよ」
楓香の手からほとんどのノートを掻っ攫った獄寺は、課題のレポートとノートの山を器用に抱える。かなりの重さだろうに、それを一切感じさせずペタペタと踵を踏んだ上履きを引きずりながら階段を下りていった。
手元に残った数冊のノートを見下ろし、ぽかんと口を開ける。何が起こったのか理解出来なかった。
「獄寺君って普段は威圧的な態度取ってるから誤解されやすいんだけど、本当はすっごく優しいんだ」
誇らしそうに語る沢田の顔は、獄寺のことを自慢の友達だと言いたげで。
触れるもの全てを灰にする全方位炎撃系のボンバーマンだと思い込んでいた獄寺の正体は、ただの不器用な人間だった。
「私、誤解してた。彼は認めた相手にしか眼中にないと思ってた。タイマン勝負で沢田君に負けたから、あんなに尻尾振ってるのかなって。本当は雨の日に野良ネコへ傘を差してあげる系の不良だったんだね」
(ふとした瞬間に見せる優しさを目の当たりにした女子のハートをバッサバサと狩っていくギャップキラーだ)
大量のプリントを抱えた沢田がズコーッと効果音が鳴りそうな滑り方をする。
「た、タイマン勝負なんかしてないから!(本当は当たってるけど…)」
床に散らばったプリントを掻き集めていた沢田は、ハッとして顔を上げた。
「ってか普通に喋った!?」
「キノセイ、ダヨ」
「またカタコトになってるーー!?」
ガーン、と頭上に書いてありそうな挙動をする沢田。流石に可哀想になってきた楓香はプッと吹き出しながら謝った。拾ったプリントから埃を払って沢田に渡すと、またあの橙とぶつかる。
「佐倉さんって笑えるんだね」
「失敬な。私だって喜怒哀楽はあるよ」
「ご、ごめん。初めて笑ってるの見たから、つい…」
沢田がそう思うのも仕方ないことだ。彼の前では常に顔を強ばらせていたのだから。今まで失礼な態度を取ってばかりの自分を思い返し、楓香は申し訳なく思った。
「私、半分持つよ」
「ううん、これくらい一人で大丈夫だから」
「…そんなに雪だるま?」
どこかしら叩けばポキッと折れてしまいそうなくらい頼りない木の棒―――そう獄寺に揶揄されたが、そんなに華奢な身体ではない筈だ。
自分の腕は平均的な太さだと沢田に訴えるが、首を横に振られる。
「佐倉さんは女子だし、こういう時は男子に甘えてよ」
(…人生で初めて、女の子扱いされた気がする)
慣れないことをされて動揺した楓香の脳は、処理できるキャパシティを軽く超えた。容量極狭すぎるでしょ、と心中で愚痴を吐くが顔に熱が集まる。
ぷいと顔を逸らした楓香は、こめかみに垂れた髪を耳にかけ、ぶっきらぼうに口を開く。
「…ア、リガト」
「またカタコトー?」
沢田は可笑しそうに目を細め、小首を傾けた。
五限目の担当教師が急用で来れなくなったことで、自習と大きな字で書かれた黒板を前にした生徒達は各々自由に過ごしていた。
ブックカバーを付けた本を読んでいる生徒が居るが、だらしなく鼻の下を伸ばしているのでその内容はお察しだ。
近くの席の友人と手紙交換して楽しんでいる生徒、監視の目が無いので机に突っ伏して寝ている生徒、勉学を真面目に励む生徒など十人十色だ。
参考書と睨めっこをしていた楓香は、不意にチラついた銀色を視界に入れる。楓香の席から斜め右上に座っている獄寺は、取り憑かれたように何かをノートに書き込んでいる。
(獄寺君って授業をよくサボるのに頭は良いんだよなぁ)
見た目は厳つい不良だが、颯香に続いて成績優秀な生徒なので教師は目を瞑っていた。それがどんなに素行が悪かろうと、この獄寺隼人には無条件で許される。
彼からすると楓香の存在など取るに足らない程ちっぽけなものだろうが、特待生という立場の楓香は違った。
常に成績上位を維持しなければいけないので、秀才な獄寺の存在は脅威だった。
絶対に負けない。静かな闘志を宿した瞳を向けていると、獄寺がピクリと肩を揺らした。
「あ?」
これまで幾多の死線をくぐり抜けてきた獄寺にとって、その殺気は素人に毛の生えた程度の容易いものである。
表の人間だろうと敵意を抱かれるのは鬱陶しい。どこのどいつだと振り返った獄寺の瞳に、此方を見詰めていた楓香が映る。
「「………」」
二人の視線は絡みついたように、空中にじっと交錯したまま挑み合っていた。
これは挑発だと受け取って良いのだろうか。と、獄寺の眉間に皺が寄せられていく。
すると、楓香がノートに何かを走り書きしていた。
<先程は手伝ってくれてありがとう>
灰みがかった青緑色が、瞬く。それは珍妙な生き物を目撃したという表情だった。
一方、楓香は自分の行動を猛烈に後悔していた。いくら負けたくないからと言って、その闘志を馬鹿正直にぶつけるなんて。挽回せねばと必死に頭を捻り出した結果、お礼を伝えようと今に至る。
誤魔化されてくれないだろうか。顔の前に持ち上げていたノートを下げ、恐る恐る伺う。
「…ケッ」
その様子を見た獄寺は調子が狂ったのか、指先で荒く襟足を掻き、ぐるんと背中を向けた。
(…っぶな…)
首の皮一枚繋がった。楓香は恐怖から開放された嬉しさよりも、心の底からほっとしたという感覚に胸を撫で下ろす。
もしかするとダイイングメッセージになっていたかも知れない、その書き殴った文章を消しゴムで消していると、控えめに肩を突かれる。
「獄寺君のこと、あんま気にしないでね。素直じゃないだけだから」
やり取りを見守っていた沢田がぶっきらぼうな態度をしていた獄寺を庇う。
「なんか沢田君って獄寺君のお母さんみたいだね」
「……せめてマブダチにして」
自分でも思う節があるのだろう、否定しない沢田は遠い目をしていた。
沢田綱吉。隣の席になってから観察していたが、彼は至って平凡な高校生だった。結衣から並盛中学校の頃の武勇伝を聞かされたが、とてもそんなえげつないことをするような人間とは思えない。
人の噂なんて訳の分からない尾ひれが付くものと相場は決まっている。根も葉もないやっかみが大体だ。自分の感性でその人を見て、自分の頭で付き合い方を決めるべきだと楓香は彼と関わってそう感じた。
もうヤバツナだなんて危険人物扱いするのは止めよう。
放課後の教室は、夕焼けの柔らかな光に包まれ、静寂に満ちていた。楓香の机上には学級日誌が広がっていた。外では野球部の練習が続いていたが、その音も遠くに感じられる程、教室の中は静かだった。
シャープペンシルを走らせている楓香の隣には沢田が座っている。担任から最後の雑用を任され、明日配布するプリントをホッチキスでまとめていた。
暫く沈黙が流れていたが、手を止めた沢田がじっと楓香の手元を見下ろし「佐倉さんって字キレイだよね」とぽろりと零す。
その言葉に照れた楓香はしっしっと手を払う仕草をした。
「書き辛いからあんま見ないで」
「あっ、ごめん」
また黙々と作業を始める。騒がしい日中の景色が嘘のようだ。
ようやく日直の仕事を終えて、職員室から出てきた頃には窓の外がすっかり薄暗くなっていた。
「佐倉さんの家ってどの辺なの?」
「並盛西公園の近くだよ」
その質問をされた辺りから、まさかと思い始めていたが的中する。沢田が「送るよ」と申し出てきた。時刻は午後六時三十分。
普段はもっと遅い時間帯に外出することもあるので送ってもらう程ではない。ましてや、かよわい乙女じゃあるまいしと断る。
沢田の家の場所を聞けば逆方向だったので余計に申し訳ない。
「こんな暗い夜道を女子一人で帰るなんて心配だよ。お願い、俺と一緒に帰ろ」
その笑顔は譲る気はないと語っていた。沢田の意志が固いことを悟った楓香は渋々頷く。
二人は学校を後にし、帰路につくサラリーマンや学生の間を抜けていった。
「沢田君って」
「うん?」
「意外と紳士だよね」
帰り道を送ってくれたり、重たいものを持たせないようにしたりと日本男児には珍しく自然な流れでレディーファーストをしていた。
それは彼の性格故なのか環境のおかげなのか、そこまでは推し量ることは出来ないが。
「そんな意識したことなかったなぁ」
「嬉しかった。普段されたことないから」
「そ、…そう思ってくれたなら俺も嬉しい、です」
「なんで敬語?」
「何となく!」
街灯に照らされた夜道に、二つの影が伸びる。
沢田と肩を並べて歩いてるが、第三者からはどの様に映っているのだろう。そう考えると急に周囲の視線が気になり、楓香は足元ばかりを見ていた。
「初めてなんだ。男子と一緒に帰るの」
「うぁっ、え、そうなんだ」
思いがけない楓香の言葉に、うっかり足元に何もないのに沢田は躓きそうになった。どう答えれば良いのか困って、顔を上げる。
楓香はこの道のずっと先を眺めていた。
「見慣れた帰り道の筈なのに、なんか新鮮な感じがする。不思議だよね、同じ道なのに」
「お、俺なんかでごめん、もっとカッコイイ人が良かったよね。山本とかさ」
「私は沢田君で良かったよ」
今度こそ沢田は盛大に転んだ。
アスファルトに膝小僧をぶつけ、そのまま悶絶していたが、手が差し伸べられる。
「隣の席が沢田君で本当に良かった」
「えっ、あ、あの、その…」
沢田の身体は硬直し、ピクリとも動かない。驚き過ぎて声にならず口を開閉する。
動揺のあまり見開く双眸に、悪戯が成功した子供のような笑みが浮かんだ。
「ごめん、そんなに狼狽えるとは思わなくて」
「か、からかったの?酷いよ!」
「ごめんてば」
無邪気さを含んだにんまりとした笑顔の楓香に「すげー笑ってるし…」と沢田は上体を起こす。拗ねた口調でぶつくさ文句を言う彼は、何処か恥ずかしげに頬を染めていた。
そろそろ楓香の住んでいるマンションが視界に入る。この辺でもういいだろう。沢田にお礼を伝えて「気を付けてね」と言葉を添えた。
「最後に聞きたいことがあるんだけど」
「…な、なに?」
また何か企んでいるのかと疑う沢田はごくりと息を呑み、その言葉を待つ。
「中学の頃、笹川さんにパンイチで告白したって本当?彼女を取り合って先輩と勝負してハゲ散らかす程ボッコボコにしたって流石に嘘だよねー!そんなギャグマンガみたいなこと…ん?どうしたの沢田君そんな顔を青褪めて、…まさか、えっ、本当なの!?」
―――やっぱりヤバツナじゃん!
楓香の悲痛な叫びが夜空へと消えていった。
紅白のハチマキを頭に巻いた生徒達が一丸となって競い合っている。もう先週のことなのに、楓香は未だに当時の熱を思い出していた。そう、脳裏に焼き付いて離れないあの強烈な闘志を―――。
結衣は楓香の視線の先にある一枚の写真を見て、思わず笑みを浮かべた。
「すごかったよね、ヤバツナ」
その言葉に相槌を打った楓香は、注文用紙に31の番号を書き込んでいく。
「えっ、もしかして買う気?」
「だって見てよこの迫力のある顔。玄関に飾ったら厄除け効果ありそうじゃん」
「シーサーか!」
一枚六十円で販売されているクラス写真は、自分や好きな人が写っているショットを選ぶのが一般的だが例外もある。
友人から生温い視線を受け止めながら教室に戻ろうとした時、突然背後から大きな声が響き渡った。
「ヒィーーッ!なんでこんなの撮ってるんだよ!誰も買わないんだから取り下げてくれーーッ!」
振り返れば、頭を抱えて打ちひしがれる男子生徒が居た。絶望、という感情を身体で表現している。
「十代目!この素晴らしい勇姿を部屋に飾りたいのでポスターサイズ特注してもいいッスか?」
「何言ってんの!?駄目に決まってるだろ!」
立ち騒ぐ二人の様子にもすっかり慣れた楓香は「またやってる」と関心し、席に着く。
教室に居てもコントのような言い合いは耳に入ってきた。
(そろそろ彼の登場かな)
その予想は的中する。
「この写真のツナ、激アツだな」
新たな第三者が割って入る。それも普段通りの光景だ。
「おい野球バカ、テメェも十代目の布教活動に協力しろ。ありったけの写真を買って全校生徒に配布するぞ」
「ははっ、なんか楽しそーだなそれ」
「ポケットティッシュ配るテンションで言わないで!?」
息の合ったやり取りにクラスメイト達は「今日も賑やかだな」と呆れた。これが並盛高校1-Aの日常である。
新学期最初の席替えはくじ引きによって公平に決定された。31という数字には縁があるらしい。引いたくじの番号と数字がランダムに振り分けられた座席表を見比べる。
窓際の一番後ろはかなりの当たり席だ。黒板を消す度にチョークの粉から襲われるなんてことはないし、教壇からは死角になっているので居心地も良い。
(よっし!)
狙っていた席が外れた生徒達によって教室が阿鼻叫喚となっている中、嬉々と目を輝かせた楓香は小さく拳を握り締めた。
欲を言えば仲の良い友人が近くの席を引いてくれたら上々。楓香は新しい座席の位置へ移動しながら結衣を探すと、彼女は恨めしげに何処かを睨んでいた。釣られて目で追えば、凝視していたのは美男美女である山本武と笹川京子だった。
(あちゃー。山本君の隣の席は笹川さんになっちゃったかぁ)
二人の空間だけキラキラとした粒子が舞っているように見える。そもそも次元が違うのだ。少女漫画の世界から飛び出したと言われても納得せざるを得ない。
「おっ、笹川が隣か。よろしくな」
「こちらこそよろしくね、山本君」
絵になる二人に圧倒される結衣を含めた生徒達はがっくりと肩を落とした。
人気者の隣の席なんてドーム会場の最前列席よりも倍率が高い。まさかそんな二人が連番だなんて無慈悲にも程がある。落ち込んでいる結衣に「ドンマイ」と声を掛ければ静かに手を振られた。彼女は立ち直りが早いので、時間が経てば大丈夫だろう。
椅子に腰を下ろした楓香は一息吐いて、ぐるりと教室全体を見渡した。楓香の性格を一言で表すならば人見知りである。
中学の知り合いも居らず、一人馴染めず浮いていた楓香に手を差しべたのが結衣だ。彼女のおかげである程度クラスメイトと話せるようになったので、感謝してもし切れない。
そんな彼女が地元から遠く離れた並盛高校を選んだ理由は一つ、手当が充実しているからである。物心ついた時から親が居ない楓香は遺産の貯金を切り崩して生活を送っていた。高校を進学するにはある程度の大金が必要だ。
この並盛高校は成績優秀な生徒であれば超特待生という特別な枠に入れる。風紀財団から補助金が下りるので、授業料その他諸々が全額無料という前代未聞の待遇が受けられるのだ。
入試テストで学年一位を取り主席で合格した楓香は、同級生からお堅くて真面目な印象を持たれていた。それが孤立気味になった要因でもある。
(隣の席、誰かな…緊張してきた)
手慰みに席替えのくじを小さく織り込んでは広げてを繰り返していると、右から机を引いた音が耳に飛び込んできた。
目線を手元から隣へゆっくり動かせば、燃えるような橙とかち合った。きょとんとして瞬きをするが、もうその瞳の中に楓香は居なかった。
27が書かれたくじと座席表を交互に確認した彼は「ごめん、この席で合ってるかな」と不安そうに首を傾げる。ふわりと蜂蜜の髪が揺れた。
楓香は織り込んでいたくじを広げ、おずおずと見せる。
「そうだよ、ここが31だから合ってる。よろしくね沢田君」
「はぁー良かった。こちらこそよろしく!佐倉さん」
安堵の息を吐いた彼はへたりと椅子に座った。その様子を一瞥する楓香だったが声を掛けることもなく、二人の間に沈黙が訪れる。人見知りが発動した楓香の口はミシンで縫われ、キッチリと閉ざされていた。
今まで挨拶は交わしたことがあるがそれだけの関係―――他人以上知り合い未満というほぼ初めましてだ。
へなちょこで有名なダメツナ、沢田綱吉が隣の席になってしまった。目立つことが苦手な楓香にとってはあまり歓迎しない相手だ。
沢田は補習組の上に遅刻魔なのでよく教師に叱られている。何をやってもダメだからダメツナという自己肯定感爆下がりのあだ名が付けられた。
そんな彼だが意外にも体育祭の騎馬戦では途轍もない活躍をした。阿修羅のような暴れっぷりで白組を勝利に導いたのだ。本人の知らぬところで一部からヤバツナと呼ばれ始めている。
(よりによって沢田君の隣…)
ダメな奴なのかヤバい奴なのかハッキリして欲しいのが本音のところ。
席替えという一大イベントが終わり、喧騒とした空気が消えた教室は本来の静けさを取り戻していく。四限目は楓香の得意科目である数学だ。
練習問題を解き終え、暇を持て余していると「すぴー」と小さなイビキが聞こえた。まさかと横目で見遣れば立派な鼻ちょうちんを膨らませているではないか。
呑気に腕を枕にしている沢田は、すっかり夢の世界へ羽ばたいていた。
教師からチョークが飛んで来るのも時間の問題だ。起こしてあげるべきだろうか。そんなに親しくもない相手からのお節介は鬱陶しいと思われそうで、楓香は伸ばした手を引っ込めた。
すると、黒板から振り返った教師の視界に沢田の姿が入る。グッと目を三角にして叱咤を飛ばした。
「っひゃい!?」
鼻ちょうちんが割れ、夢から現実へ強制的に引き戻された沢田の頬には手の跡がくっきりと残っていた。やってしまったと悔いの色が滲んだ笑みを浮かべて、彼は口元の涎を拭う。
居眠りをした罰として廊下に立たされた沢田に、楓香は何だか罪悪感に駆られた。
「十代目に指図すんじゃねぇ!果てろ!」
が、獄寺が教師に反抗しポケットからダイナマイトを取り出した衝撃で、そんな気持ちも何処かへ吹っ飛んでしまった。
「身体中が煤まみれになるから、みんな教室の外に移動するぞ」
「「はーい」」
(どうしてそんなに落ち着いてるの!?)
獄寺が爆弾を所持していることに周囲の生徒達は平然としていて楓香は目を疑ったが、並盛中学校出身が多いこのクラスでは騒ぐ程の事じゃないらしい。流石、面構えが違うだけはある。
休憩時間に入ると、沢田の周りは一気に賑やかになる。彼を異常に慕う獄寺と、そんな忠犬に噛み付かれても爽やかに往なす山本、楽しそうに微笑む笹川、呆れる黒川。
彼らを遠くで観察していた楓香がポロッと言葉を零す。
「沢田君って台風の目みたい」
「それな」
白い歯がキラリと光る山本の笑顔に見惚れていた結衣が頷いた。
良くも悪くも人の視線が集まる彼らが隣で談笑しているので、楓香は友人の席へ退避した。これが毎日続くのかと思うと少しうんざりして溜め息を吐いた。
「沢田は中学の時から有名だったよ。えげつない武勇伝をたっくさん生み出してたもん」
「えっ何それ詳しく」
結衣の口から語られる数々の話は全て常軌を逸した内容で楓香は目を剥いた。
(……これはヤバツナだ)
その後、隣の席の危険人物が気になりすぎて楓香は全く授業に身が入らなかった。家に帰ったら復習しようと反省する。
紫陽花の葉にくっついているテントウ虫を見付けた。何も考えずに前だけを進んでいる。こんな風に人生を歩んでみたいものだ。
校庭の掃き掃除をしながら楓香がくだらないことを考えていると、背後から名前を呼ばれる。驚いて握っていた箒を落としそうになった。ちりとりとゴミ袋を持った沢田が歩み寄ってきた。
席の班ごとに清掃場所が分かれており、本人の意思とは関係なく楓香と沢田は同じ担当になっている。
「佐倉さん何かあった?午後から様子がおかしいけど…」
「ソンナコト、ナイヨ」
「あるよ!めちゃくちゃ目逸らしてるけど!?」
「キノセイ、ダヨ」
「しかも何でカタコトーッ!?」
気にしないでと片手を振る楓香に、何か言いたげな沢田が口を開けた瞬間―――清掃の終了を告げるベルが鳴った。
落ち葉がたくさん入ったゴミ袋と箒を手早く片付けた楓香は、まるで逃げるようにその場から立ち去った。
声をかける隙など与えず、小さくなっていく背中を呆然と見送る沢田だったが、自分も教室に戻らねばと後を追った。
それからは極力沢田と関わらないように徹底した。自分はそこら辺に転がっている小石だ。沢田にとって居ても居なくても気にならない存在を心掛けていたが、そんな楓香を嘲笑うかのようにその日は訪れた。
並盛高校では二人一組隣の席同士で日直の仕事をするようになっている。
朝一番に登校した楓香は職員室から学級日誌と鍵を受け取り、教室のドアを開錠して窓を開ける。雲一つない快晴と心地良い鳥の鳴き声が、どんよりした気分を軽くしてくれた。
後ろの連絡黒板に今日の予定事項とお知らせを書き込んでいき、前の黒板には日付と欠席者の名前、日直の担当者を記入したところで、カツンとチョークを置いた。
SHRが開始される前に済まさなければならない仕事は全て完了した。ようやく席に着いた楓香は隣を一瞥する。
チラホラと生徒が教室に入って来る中、彼はまだ登校していない。このまま欠席してくれないだろうか。心の中で祈っていたが、それは無駄なことであった。
「おはよ佐倉さん!」
「オハヨ、サワダクン」
「相変わらずカタコトだーッ!?」
まず目に付いたのは後頭部にピョンッと主張している寝癖だった。その次にグシャッとなっているネクタイ、そして走ってきたのか額にじんわりと汗が滲んでいた。
沢田は乱れた呼吸を整えると、両手を合わせた。
「ごめん!日直だってことは分かってたんだけど寝坊しちゃって…。朝の仕事押し付けて本当にごめん!」
平謝りする沢田の勢いに押されて呆気に取られていた楓香だったが、ドドドと悪寒が走る。
嫌な予感がして窓の外に視線をよこすと、校庭で此方を見上げる獄寺が仁王立ちしていた。距離が離れているのでどんな顔をしているか分からないが、朝から浮かべて良い表情ではないのは確かである。
敬愛している沢田が頭を下げている。きっとそれが忠犬の気に入らないセンサーに触れてしまったのだ。
(…終わった)
数分後の悲惨な未来を想像した楓香は血の気が引いて青褪める。
「キ、キニシナイデ!ホント!ダイジョーブ!デス!ホント!」
同じ言葉を繰り返す壊れたロボットになってしまった。楓香が必死に首を振るので、沢田は伏せていた顔を上げた。
楓香の代わりに黒板消しをするということでこの件は決着が付いた。
眉間に深い皺を刻んだ獄寺が教室に乗り込んできたが、沢田のフォローにより事無きを得る。
「テメェの面、覚えたからな」と非常に面倒な人物に目を付けられ、涙目の楓香は今すぐにでも席替えを希望した。
日直の仕事には担任の雑用も含まれている。SHRで回収した提出物を職員室へ運ぶ楓香と沢田、そして獄寺の三人は廊下を歩いていた。
「獄寺君は日直じゃないんだから手伝わなくて良いんだよ?」
「十代目のお役に立つことが右腕である俺の使命ッス!」
「…そ、そう」
げんなりと項垂れた沢田はそれ以上突っ込むことはせず、新作のボムが完成したと喜ぶ獄寺の話を乾いた笑みで返していた。
二人から一歩後ろで距離を取っていた楓香は、なるべく矛先が此方に向かないよう息を殺して歩く。が、そんな事は露知らず、気を遣った沢田が楓香に話を振るのでその度に獄寺から鋭い眼光が突き刺さる。
びくり。今にも噛み付いてきそうな忠犬に睨まれて、緊張が漏れ出ないように掌を握った。
早くこの状況から抜け出したい。ぐっと唇を噛み締め、踊り場を曲がり階段を下りようとした時、手の重さが軽くなった。
「んな雪だるまの小枝みてェな細腕で背後歩かれっと気が散ってたまんねェんだよ」
楓香の手からほとんどのノートを掻っ攫った獄寺は、課題のレポートとノートの山を器用に抱える。かなりの重さだろうに、それを一切感じさせずペタペタと踵を踏んだ上履きを引きずりながら階段を下りていった。
手元に残った数冊のノートを見下ろし、ぽかんと口を開ける。何が起こったのか理解出来なかった。
「獄寺君って普段は威圧的な態度取ってるから誤解されやすいんだけど、本当はすっごく優しいんだ」
誇らしそうに語る沢田の顔は、獄寺のことを自慢の友達だと言いたげで。
触れるもの全てを灰にする全方位炎撃系のボンバーマンだと思い込んでいた獄寺の正体は、ただの不器用な人間だった。
「私、誤解してた。彼は認めた相手にしか眼中にないと思ってた。タイマン勝負で沢田君に負けたから、あんなに尻尾振ってるのかなって。本当は雨の日に野良ネコへ傘を差してあげる系の不良だったんだね」
(ふとした瞬間に見せる優しさを目の当たりにした女子のハートをバッサバサと狩っていくギャップキラーだ)
大量のプリントを抱えた沢田がズコーッと効果音が鳴りそうな滑り方をする。
「た、タイマン勝負なんかしてないから!(本当は当たってるけど…)」
床に散らばったプリントを掻き集めていた沢田は、ハッとして顔を上げた。
「ってか普通に喋った!?」
「キノセイ、ダヨ」
「またカタコトになってるーー!?」
ガーン、と頭上に書いてありそうな挙動をする沢田。流石に可哀想になってきた楓香はプッと吹き出しながら謝った。拾ったプリントから埃を払って沢田に渡すと、またあの橙とぶつかる。
「佐倉さんって笑えるんだね」
「失敬な。私だって喜怒哀楽はあるよ」
「ご、ごめん。初めて笑ってるの見たから、つい…」
沢田がそう思うのも仕方ないことだ。彼の前では常に顔を強ばらせていたのだから。今まで失礼な態度を取ってばかりの自分を思い返し、楓香は申し訳なく思った。
「私、半分持つよ」
「ううん、これくらい一人で大丈夫だから」
「…そんなに雪だるま?」
どこかしら叩けばポキッと折れてしまいそうなくらい頼りない木の棒―――そう獄寺に揶揄されたが、そんなに華奢な身体ではない筈だ。
自分の腕は平均的な太さだと沢田に訴えるが、首を横に振られる。
「佐倉さんは女子だし、こういう時は男子に甘えてよ」
(…人生で初めて、女の子扱いされた気がする)
慣れないことをされて動揺した楓香の脳は、処理できるキャパシティを軽く超えた。容量極狭すぎるでしょ、と心中で愚痴を吐くが顔に熱が集まる。
ぷいと顔を逸らした楓香は、こめかみに垂れた髪を耳にかけ、ぶっきらぼうに口を開く。
「…ア、リガト」
「またカタコトー?」
沢田は可笑しそうに目を細め、小首を傾けた。
五限目の担当教師が急用で来れなくなったことで、自習と大きな字で書かれた黒板を前にした生徒達は各々自由に過ごしていた。
ブックカバーを付けた本を読んでいる生徒が居るが、だらしなく鼻の下を伸ばしているのでその内容はお察しだ。
近くの席の友人と手紙交換して楽しんでいる生徒、監視の目が無いので机に突っ伏して寝ている生徒、勉学を真面目に励む生徒など十人十色だ。
参考書と睨めっこをしていた楓香は、不意にチラついた銀色を視界に入れる。楓香の席から斜め右上に座っている獄寺は、取り憑かれたように何かをノートに書き込んでいる。
(獄寺君って授業をよくサボるのに頭は良いんだよなぁ)
見た目は厳つい不良だが、颯香に続いて成績優秀な生徒なので教師は目を瞑っていた。それがどんなに素行が悪かろうと、この獄寺隼人には無条件で許される。
彼からすると楓香の存在など取るに足らない程ちっぽけなものだろうが、特待生という立場の楓香は違った。
常に成績上位を維持しなければいけないので、秀才な獄寺の存在は脅威だった。
絶対に負けない。静かな闘志を宿した瞳を向けていると、獄寺がピクリと肩を揺らした。
「あ?」
これまで幾多の死線をくぐり抜けてきた獄寺にとって、その殺気は素人に毛の生えた程度の容易いものである。
表の人間だろうと敵意を抱かれるのは鬱陶しい。どこのどいつだと振り返った獄寺の瞳に、此方を見詰めていた楓香が映る。
「「………」」
二人の視線は絡みついたように、空中にじっと交錯したまま挑み合っていた。
これは挑発だと受け取って良いのだろうか。と、獄寺の眉間に皺が寄せられていく。
すると、楓香がノートに何かを走り書きしていた。
<先程は手伝ってくれてありがとう>
灰みがかった青緑色が、瞬く。それは珍妙な生き物を目撃したという表情だった。
一方、楓香は自分の行動を猛烈に後悔していた。いくら負けたくないからと言って、その闘志を馬鹿正直にぶつけるなんて。挽回せねばと必死に頭を捻り出した結果、お礼を伝えようと今に至る。
誤魔化されてくれないだろうか。顔の前に持ち上げていたノートを下げ、恐る恐る伺う。
「…ケッ」
その様子を見た獄寺は調子が狂ったのか、指先で荒く襟足を掻き、ぐるんと背中を向けた。
(…っぶな…)
首の皮一枚繋がった。楓香は恐怖から開放された嬉しさよりも、心の底からほっとしたという感覚に胸を撫で下ろす。
もしかするとダイイングメッセージになっていたかも知れない、その書き殴った文章を消しゴムで消していると、控えめに肩を突かれる。
「獄寺君のこと、あんま気にしないでね。素直じゃないだけだから」
やり取りを見守っていた沢田がぶっきらぼうな態度をしていた獄寺を庇う。
「なんか沢田君って獄寺君のお母さんみたいだね」
「……せめてマブダチにして」
自分でも思う節があるのだろう、否定しない沢田は遠い目をしていた。
沢田綱吉。隣の席になってから観察していたが、彼は至って平凡な高校生だった。結衣から並盛中学校の頃の武勇伝を聞かされたが、とてもそんなえげつないことをするような人間とは思えない。
人の噂なんて訳の分からない尾ひれが付くものと相場は決まっている。根も葉もないやっかみが大体だ。自分の感性でその人を見て、自分の頭で付き合い方を決めるべきだと楓香は彼と関わってそう感じた。
もうヤバツナだなんて危険人物扱いするのは止めよう。
放課後の教室は、夕焼けの柔らかな光に包まれ、静寂に満ちていた。楓香の机上には学級日誌が広がっていた。外では野球部の練習が続いていたが、その音も遠くに感じられる程、教室の中は静かだった。
シャープペンシルを走らせている楓香の隣には沢田が座っている。担任から最後の雑用を任され、明日配布するプリントをホッチキスでまとめていた。
暫く沈黙が流れていたが、手を止めた沢田がじっと楓香の手元を見下ろし「佐倉さんって字キレイだよね」とぽろりと零す。
その言葉に照れた楓香はしっしっと手を払う仕草をした。
「書き辛いからあんま見ないで」
「あっ、ごめん」
また黙々と作業を始める。騒がしい日中の景色が嘘のようだ。
ようやく日直の仕事を終えて、職員室から出てきた頃には窓の外がすっかり薄暗くなっていた。
「佐倉さんの家ってどの辺なの?」
「並盛西公園の近くだよ」
その質問をされた辺りから、まさかと思い始めていたが的中する。沢田が「送るよ」と申し出てきた。時刻は午後六時三十分。
普段はもっと遅い時間帯に外出することもあるので送ってもらう程ではない。ましてや、かよわい乙女じゃあるまいしと断る。
沢田の家の場所を聞けば逆方向だったので余計に申し訳ない。
「こんな暗い夜道を女子一人で帰るなんて心配だよ。お願い、俺と一緒に帰ろ」
その笑顔は譲る気はないと語っていた。沢田の意志が固いことを悟った楓香は渋々頷く。
二人は学校を後にし、帰路につくサラリーマンや学生の間を抜けていった。
「沢田君って」
「うん?」
「意外と紳士だよね」
帰り道を送ってくれたり、重たいものを持たせないようにしたりと日本男児には珍しく自然な流れでレディーファーストをしていた。
それは彼の性格故なのか環境のおかげなのか、そこまでは推し量ることは出来ないが。
「そんな意識したことなかったなぁ」
「嬉しかった。普段されたことないから」
「そ、…そう思ってくれたなら俺も嬉しい、です」
「なんで敬語?」
「何となく!」
街灯に照らされた夜道に、二つの影が伸びる。
沢田と肩を並べて歩いてるが、第三者からはどの様に映っているのだろう。そう考えると急に周囲の視線が気になり、楓香は足元ばかりを見ていた。
「初めてなんだ。男子と一緒に帰るの」
「うぁっ、え、そうなんだ」
思いがけない楓香の言葉に、うっかり足元に何もないのに沢田は躓きそうになった。どう答えれば良いのか困って、顔を上げる。
楓香はこの道のずっと先を眺めていた。
「見慣れた帰り道の筈なのに、なんか新鮮な感じがする。不思議だよね、同じ道なのに」
「お、俺なんかでごめん、もっとカッコイイ人が良かったよね。山本とかさ」
「私は沢田君で良かったよ」
今度こそ沢田は盛大に転んだ。
アスファルトに膝小僧をぶつけ、そのまま悶絶していたが、手が差し伸べられる。
「隣の席が沢田君で本当に良かった」
「えっ、あ、あの、その…」
沢田の身体は硬直し、ピクリとも動かない。驚き過ぎて声にならず口を開閉する。
動揺のあまり見開く双眸に、悪戯が成功した子供のような笑みが浮かんだ。
「ごめん、そんなに狼狽えるとは思わなくて」
「か、からかったの?酷いよ!」
「ごめんてば」
無邪気さを含んだにんまりとした笑顔の楓香に「すげー笑ってるし…」と沢田は上体を起こす。拗ねた口調でぶつくさ文句を言う彼は、何処か恥ずかしげに頬を染めていた。
そろそろ楓香の住んでいるマンションが視界に入る。この辺でもういいだろう。沢田にお礼を伝えて「気を付けてね」と言葉を添えた。
「最後に聞きたいことがあるんだけど」
「…な、なに?」
また何か企んでいるのかと疑う沢田はごくりと息を呑み、その言葉を待つ。
「中学の頃、笹川さんにパンイチで告白したって本当?彼女を取り合って先輩と勝負してハゲ散らかす程ボッコボコにしたって流石に嘘だよねー!そんなギャグマンガみたいなこと…ん?どうしたの沢田君そんな顔を青褪めて、…まさか、えっ、本当なの!?」
―――やっぱりヤバツナじゃん!
楓香の悲痛な叫びが夜空へと消えていった。