仁王雅治

 うわ、と、口から感嘆詞がこぼれ落ちた。自分ひとりにしか聞こえない音量ではあったが、慌てて両手で口をふさぐ。

 夕焼けに染まった薄灰色の雲が一面を覆う曇天。細く開いた窓の隙間から、甲高い音を立てて風が吹き込む。布が擦れる重い音。マジックテープが片方無い留め具では、抗いきれなかったらしい。錨を失った、暗いからし色のカーテンが大きく舞った。

 蛍光灯のスイッチはオフのまま。薄暗くなりはじめた教室の中には、斜陽に輝く銀色。それは、きらきらと反射光を振りまいている。さらさらの髪を、時折吹き込む風に踊らせながら、その人影は肌寒い教室で何かをしているようだった。

 机に腰掛け、物憂げな顔で人差し指を走らせる。床には、学生鞄とビニールの大きなショルダーバッグが乱雑に置かれていた。上履きを机の足に引っ掛け、真面目な顔で木目をなぞりながら、首を傾げる。

 なんて、絵になる姿なんだろうか。眼前で、素朴な重ね塗りの、重厚で繊細な色鉛筆画が塗られていく。画用紙にインクを垂らした染みがぶわり、と広がるように、脳内スケッチブックの一ページを彩った。

 思わず見とれてしまった。ぼうっとした心が理性に殴られ、はっ、と意識が戻る。ようやく回転し始めた頭は、ひとつの違和感に気がついた。

 仁王が今腰掛けている、机の場所。窓際列の後ろから二番目……

 私の、席だ。お気に入りのひよこちゃんトートバッグが、机の横に掛かっている。その肩紐に付いた、クラゲのキーホルダーが揺れる。

 間違いなく、そこは、私の。

「……どうしたもんじゃろうなぁ」

 悩ましげに片方の眉を下げ、仁王は視線をトートバッグへと向ける。どうやら教室外にいる私には、気づいていないらしい。

 頼りなく空気中を漂うクラゲちゃんを見て、仁王は口角を弛めた。左手を伸ばし、キーホルダーに触れる寸前、躊躇ったように一度拳を握る。それから、そろり、と優しくクラゲちゃんを持ち上げた。

 どこにでもあるような、ふわふわのぬいぐるみキーホルダー。水族館で買っただけのそれを、まるで壊れ物を扱うように両手で掬う。

 教室側の壁に並ぶ、金属製のロッカーへと伸ばした手が、南京錠を掴まず空を切った。鍵を開ける高い音は、校舎に響いてしまうに違いない。廊下に誰かいると思われれば。

 ……思われれば、何だろう。別にいいじゃないか。元々、教室には、忘れ物を取りに戻ってきたのだから。そこにたまたま、仁王が居たというだけ。それだけなのに。

 なのに私はどうして、息を殺して廊下にいるのだろう。物音ひとつ立てないように、フローリングの軋みにすら気を張って、隠れているのだろう。

 全力疾走した時みたいに、心臓と肺が共鳴する。胴体に響き渡る重低音。それは耳の底で鼓膜を震わし、痛いほどの音量で、頭の天辺からつま先までを一気に走り抜けた。

 開いたままの扉から、仁王の呟きが風に流され、廊下へと滑り落ちる。そんな小さなひとりごとを、耳鳴りの止まない私の聴覚は、なぜかはっきりと捕まえた。

「女々し……」

 自嘲的に笑った仁王は、クラゲちゃんを戻すと、前髪をくしゃりと握りしめる。角張った指の間から、髪が四方八方へと飛び出した。拳で顔がよく見えないが、髪と指の隙間から琥珀色の照りが夕陽を弾く。

 息を飲んだ。唾を飲み込む音が、やけに大きく聞こえる。教室の中からは見えない位置に隠れたまま、じっと仁王を見つめ固まった。金縛りにあったように、立ったまま動けない。

 本物の琥珀のように、焦げ茶色の濁りが瞳を泳ぐ、鈍い輝き。縫い付けられて目を逸らせなかった。

 かちゃん。

 南京錠が、ロッカーに当たった。はっ、と振り向くと、肩にかけた学生鞄が引っかかって、更に金属音が鳴る。

「……よぅ」

 後ろから、声がした。聞きなれた低音は少しかすれていて、おそるおそる教室の中を見る。

 私の机の上に座ったまま、仁王はこちらを向いているらしかった。目が合っているような気もするが、逆光で顔は暗く、表情は読めない。

 またカーテンが舞った。隙間風の音が、静かな教室にこだまする。

「電気もつけずに、何を……してたの?」

 ふらつく足を無理やり動かし、引き戸の溝をまたぐ。教室の中はやはり肌寒い。机たちを避けながら、自分の席へと歩いた。

 仁王は押し黙る。至近距離では逆光も薄れ、だんだんと顔が分かるようになってきた。口を一文字に引き結んだ、仏頂面。

 座っているのと猫背のせいで、仁王の顔は私の目線よりも少し下にある。伺うように一瞬動いた琥珀色。

 たっぷり十秒ほどの時間が流れた。

「おまじない……」

 おまじない。予想だにしなかった言葉に驚いてしまい、無意識に言葉を反復する。

 視線を仁王から外し、私は机の上を見た。太陽光を反射する板の端、不自然に曇った一箇所。

『す』
『き』

 潰したように横に広がった、特徴的な筆跡。こんな文字を書くやつを、私はこの世でひとりしか知らない。

 弾かれるように仁王を見た。

 おまじない。確かにさっき、そう言ってたはず。

 誰もいない時に、机を使ってするおまじないを、私はひとつしか知らない。勘違いじゃなければ、それが意味していることは。

「はは……呆れたじゃろ」

 わざとらしく乾いた笑みを作る仁王。冗談めかしくするのが、強がる時の癖らしい。思い当たる節が、走馬灯のように浮かんでは消えていく。

「別に……
 仁王にも可愛いところ、あるんだなぁ、って……思っただけ」

 俯きかけた銀髪の隙間を覗き込む。頼むからそれ以上言わないでくれ、とでも言いたげな顔だ。やめんしゃい。か細い声が風の音に打ち消されて、暗い教室に沈黙が漂う。

「のぉ」

 感嘆詞が、私の顔色を伺うように間延びした。
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