丸井ブン太

「んぅぃ……おっちゃん、大盛りラーメン……」

 後ろの席から聞こえる大きな寝言に、授業中であるにも関わらず盛大に吹いてしまった。シャーペンがノートを走る音すら聞こえない静かな教室に、私の笑い声だけが響く。視線の雨を全身に感じ、顔から火が出そうだ。止まれ止まれと念じるものの、声帯は言うことを聞いてはくれない。

 ならば、と口を押さえつけ、せめて音量だけでも小さくしようと縮こまる。意思に反して細まる視界と、やる気の有り余る腹筋。荒い呼吸音が頭の中を跳ね回り、笑いすぎて混線した脳神経が涙腺を弛めるのを感じた。

 無理やり深呼吸をしてなんとか落ち着かせ、顔を上げる。涙のせいで滲んだ視界の先には、にやにやと笑う仁王。

 板書中のはずだった先生すらこちらを向いている。ぷっ、と小さく吹き出す先生につられたのか、何人かのクラスメイトが破顔した。起きてしまわないようにか、皆口元を抑えて震えている。

「しぃ〜……」

 仁王は口に人差し指を当てながらポケットをあさった。椅子に座りながら振り向いた角度をそのままに、先生からは見えない絶妙な位置を伝わせ、ポケットからスマホを呼び出し、構える。カメラか。

 後ろの席を指さした仁王は、さっきとは少し違った角度で、口に人差し指を当てた。バラすなよ、と言いたげな目元に、呆れの眼差しを返す。

 振り向くと、寝ぼけながら右手を上げ注文を言う丸井の姿。がくん! と落ちる首と、しっかり上がった腕のアンバランスさが、また笑いを誘う。
 腹がよじれる、とは、昔の人が言ったことだけれど。でも、絞られる雑巾の気持ちが分かるくらいには、横隔膜が限界を告げていた。

 振り向いた姿勢のまま、また笑いのツボに入って抜け出せない。酸素を求める魚みたいに、はくはくと口を動かす。乾いた喉が痛い。なるべく音を立てないように、息を止めて突っ伏す。

 半開きの目に、開いたままの口。よだれらしき液体が唇を覆う、なんとも不細工な顔。そんなだらしない姿にすら愛着を覚えてしまうのだから、本当にタチが悪い。

 どしゃり。夢の中の丸井は注文を終えたらしく、その姿勢のまま前に倒れ落ちた。机が悲鳴をあげるが、そんなことはお構いなし。なんとも幸せそうな顔で眠っている。左腕を枕に、右向きで眠りこける丸井は、んにんにと唇を動かしていた。ご注文の品が出来上がったらしい。

 周りの席に座ったクラスメイトも、必死に笑いを堪えているようだった。ぴくぴくと肩を震わせ、涙目になった皆は、唇を噛んでなんとか表情筋を引っ張っている。漏れる吐息が、限界を告げていた。どこかでひとりが吹き出すと、たちまち教室の中に笑顔が咲く。

「昼休み終わってから、まだ十分くらいだろうが……」

 呆れ顔の先生が、黒板へとチョークを走らせた。小気味よい音が、お昼寝時のあったかい空気を運ぶ。

『丸井 午後一時五十七分〜 時  分』

 板書の邪魔にならない位置で、さりげなく、かつ小さすぎない文字。赤いチョークでぐるぐるとそれを囲い、記録を目立たせた先生は、何事も無かったかのように授業を続けた。空欄に入る時刻は、いつになるんだか。

 月曜日の五時限目は、丸井の苦手な、化学の時間だ。


 ◆ ◇ ◆


 先生は、分厚いプリントの束を整える。固くて憂鬱な音がまどろむ意識を引き戻し、私は急いで姿勢を正した。

 仁王から回ってきた練習問題のプリントを教科書に挟み、後ろを向く。丸井はまだ、さっきの姿勢のまま。

「そー……替え玉、チャーシュー追加で……うん……あとチャーハンと……餃子二皿……んで天津飯……それからデカ盛りチョコバナナパフェ……を、二個……」
「どれだけ食う気だ、この食いしん坊」

 午後二時三分。丸井はまだ夢の中だ。

 先生のツッコミに、教室内は和やかな雰囲気に包まれる。

 さっきラーメン頼んでたのに。替え玉早くない? チャーハンと餃子一度に追加してたね。炭水化物カーニバルでも開催してるの? 聞くだけで胃もたれしてきた……さすが丸井だよな。俺もラーメン食って帰ろうかな。えっ二個? チョコバナナパフェふたつはキツくね? いや種類変えろよ。

 ざわざわ、くすくす、波が広がる。

 寝ている時ですらクラスの中心に立つ人気者。間抜けな顔で眠る丸井を放置し、先生はプリントの解説をし始める。

 ときおり呟かれる寝言に皆笑いながら、授業は和やかに進んでいった。


 ◆ ◇ ◆


「ほれ、そろそろ起きんしゃい」

 ゆっさゆっさ、と、仁王は丸井を揺り起こす。肩を大きく左右に動かされ、顔を上げた。カーディガンのアラン模様を頬につけた丸井が、数度瞬きをする。

「うぇ……?」
「おはようさん」
「……? おはよぃ……」

 とろん、と目尻を下げ、焦点のブレた瞳がこちらを向く。前髪がひと房、変な方向へハネていた。軽く握った拳で目元をこすり、あくびをひとつ。開ききっていない瞼を指で撫でながら、丸井は手ぐしで前髪を整える。

「おはよう丸井。ラーメン替え玉チャーシュー追加は美味しかった?」
「チョコバナナパフェもふたつ食っとったじゃろ?」
「そりゃ美味し……何で知ってん……ぁえ?」

 覚醒しはじめたらしい頭が、状況を確認している。丸井は机の上を見た。そこにあるのは、食べ終わった食器ではなく、散らばった勉強道具。

 しばらくぽかんとしていたが、弾かれるように丸井は黒板の上を見る。時計の時刻は午後二時三十五分。

 赤いチョークで囲われた文字は、『丸井 午後一時五十七分〜二時三十分』。授業のほとんどを寝て過ごした丸井に、お茶目で優しい化学の先生も苦笑い。

「なんだよ、夢かよぃ……」

 髪をツインテールに結んだ丸井が呟く。立ち上がり、伸びをすると、廊下へと歩いていった。誰かが笑う声がする。クラスメイトの誰も、先生からのイタズラを指摘することはしなかった。

 誰からともなく、笑い出す。

 三年B組は、いいクラスだ。
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