丸井ブン太

 すっかり日の落ちた暗い夕方。凍えるほど寒い、というにはまだ早い季節の変わり目。がくんと落ちた最高気温に、今朝は急いでブレザーを引っ張り出した。

 慌てていたとはいえ、天気予報をきちんと確認しなかったことが憎い。今日に限って折りたたみ傘を忘れてくるなんて。走り抜けるには多すぎる雨量にげんなりしている時に、雨のせいではない湯気を出した丸井と鉢合わせた。

「ん? 珍しーな、直で帰んないなんて」

 スポーツタオルで額を拭いながら、靴箱へと乱雑に上履きを突っ込む。だん! ばん! と勢いよく靴を仕舞った丸井は、手早く扉を閉める。ぎゅうぎゅうに詰め込まれた靴箱からこちらの意識を逸らすように、学校指定のローファーを放った。

「今日は委員会だったから。丸井は部活? ……お疲れ様」
「おぅ」

 ブレザーのポケットから、いつものフーセンガムを取り出す。そそくさと中身を口に放り込み、包み紙を丸めてゴミ箱へ投げた。ぺし、と気の抜けた音がして、包み紙は弾かれた。あれ? と声がする。

「は〜……今日はマジついてねぇ」

 後頭部を掻きながら、丸井は小走りでゴミ箱に駆け寄った。自分の投げた包み紙と、落ちている空のペットボトルを拾って、所定のゴミ箱へ捨て、戻ってくる。

 カッコつかねぇな、とはにかむ丸井に、胃のあたりがぎゅっと縮こまった。こういう、ちょっとしたことに私は弱いのだ。

 今日の練習は、屋外コートを使う予定だったらしい。雨のせいで基礎練のみになった挙句、体育館の掃除にも駆り出されたとボヤいていた。湿気で髪が決まらねぇ、と、大層不服そうに頬を膨らます。お前が膨らませるのはガムだけで結構だ。

 ミントの清涼感と、なんとも言えない甘ったるい香りの混じった制汗剤のにおい。汗のにおいを絶対にさせない、という強い意志を感じる、たっぷりと使われたそれのきついにおいに、少し酔ってしまいそうだ。

「……何? まさか傘、忘れた?」

 丸井は、呆れ半分、心配半分といった具合に肩をすくめる。十割私が悪いのは間違いないが、この男に言われると不思議なことに腹が立つ。ほぼ毎日、何かしらの忘れ物をして来るのは一体どこの誰だと思っているんだ。
 今日だって、歴史の教科書を貸したのは私なのに。

「ふは、ご機嫌ななめ。悪かったって。な、ココ、入れてやるから、一緒に帰ろうぜぃ」

 大きめの黒い折りたたみ傘を広げた丸井が、自分の左を指差す。俗に言う、相合い傘。
 息を飲んだ。

「あー……嫌だったら、無理に、とは言わねぇよ。俺ジャッカルに借りるし、さ。ほら、これ使えよ」

 固まる私を見かねてか、自分の発言が思ったより恥ずかしかったのか、丸井は手で頬を隠し、反対側へ顔を逸らした。開いたままの折りたたみ傘の、取っ手部分をこちらに向ける。

「嫌、じゃ、ないよ。……お邪魔、します」

 丸井の手ごと取っ手を掴み、一歩踏み出す。今、自分はなんてことをしでかしたんだと思った。丸井の、ただでさえ大きな目が、こぼれそうなくらい見開かれる。半開きの口から、小さく息が漏れた音がした。

 傘に、雨粒が叩きつける。屋根から飛び出た黒い布へと容赦なく降り注ぐ滴が、ばちばちと踊っていた。息の根もかき消すくらいの静寂に、雨音だけが聴覚を支配する。アスファルトに踏み出したローファーごと、ハイソックスが跳ね返る雨を飲んだ。

「……行くぜぃ」

 そっぽを向いたまま、丸井は私の手を解く。私の目線は丸井の唇あたりがよく見える低さ。あっち向いてホイ中の右隣は気づいていないようだけど、ガムを膨らます口角が、いつもより上がっていた。

 傘を差しているはずなのに、周りよりも濃く湿気に包まれているような気分だ。何か話す訳でもなく、どこか寄り道をする訳でもなく、ただいつも通りの帰り道を歩くだけ。

 学校から駅までの、決して長いとは言えない道のりとはいえ、肩が触れるほどの距離で、吐息すら届きそうな近さの、もどかしく遠い十センチ。

 湿気のせいで思わぬ方向へ暴れる髪の毛にイラついているのだろう。引き結ばれた唇が、少しだけ尖りだした。それでも頑なに、こちら側へ傘を傾け続ける優しさがむず痒い。

 学校の最寄りは、ホーム全体を屋根が覆う、少し田舎の路線駅だ。雨のにおいに混じって、かすかに潮のにおいがアスファルトから香り立つ。ぐしゃぐしゃに畳んだ折りたたみ傘を袋へ突っ込んだ丸井に、私は思わず苦笑した。それを見た丸井も、釣られてへにゃりと顔を緩める。

 改札を通った私たちは、若干劣化した駅のベンチに、横並びで座った。毛先が湿った髪を手ぐしで梳きながら、学生鞄に入った個包装のマドレーヌを取り出す。

「入れてくれてありがとう。助かったよ」
「おー」

 雨の日も、悪くは無い。
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