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短編集

心地良いとは言えないこの振動と揺れ。
いや、むしろ真逆。
不快。
この一言につきる。
これが赤子をあやす母親が揺らすゆりかごなら、どれだけ幸せだったか。



───ゆりかご?
馬鹿みたい。
そんなものとは無縁な人生を送ってきておいて、何を今さら僕は言っているんだろう。
あぁ、そうだ。
少し前にジプシーの若い女がそんなことをしていたっけ。
それが記憶に残っていただけ。
僕にはそんな経験は無い。




ガタンッと体が跳ねた。
車輪が大きな石にでも乗ったのだろう。
うつ伏せに寝ていた僕は、その跳ねと同時に頬を床にぶつけた。
ぼんやりしていた視界も徐々に晴れ、ふと見上げた壁に開いた小さな窓からは朝日が差し込んでいる。
暖かさを求め、その窓に向かって手を伸ばしたが、あと少しのところでそれは叶わない。
自身の両手首から伸びる、長い鉄の塊。
それはジャラジャラと耳障りな音をたてて、僕の行動を不自由にする。
無理矢理引き千切ろうとした結果、手首は鎖で抉れてしまっていた。





馬の鳴き声と共に、揺れが止まった。
目的地に着いたのだろうか。
壁の向こう側から話し声が聞こえるのに静かに耳を傾けていると、勢い良く目の前の壁が開いた。
僕は反射的に身を小さくし、開いた壁を見ることはせず、明るくなった室内をキョロキョロと見渡す。

「よぉ、お目覚めかい?小僧?」

この声には聞き覚えがある。
この下品な笑い声。鼻が曲がりそうな程の酒の臭い。
頭が理解したと同時に、ドッと冷や汗が溢れだす。
身体が小刻みに震え、声の主を確認できない。


────恐い。


忘れていた記憶が、忘れようとしていた記憶が、ゆっくりと甦ってくる。
そうだ、痛かったのは鎖に繋がれた腕だけじゃない。
へし折られそうになった首も!
鞭で打たれた背中も!!
ナイフを突き立てられた足も!!!
全て、全て!
この男に...やられた。


「ケッ!あんだぁ、その目は!!」

毛むくじゃらの太い汚い手が、僕のボロボロに破けたシャツを掴み、無理矢理その場に立たせる。

「こんなもんまた勝手に着けやがって!」

乱暴に僕の顔の右半分を覆っていた仮面(仮面と言えるような物では無いと思う。木の板を削った粗末な物だ)を弾き飛ばした。
露になる僕の素顔。
入口の近くにいた他の男達が、気持ち悪い物でも見たかのように顔をひきつらせるのに時間はかからなかった。

バケモノ────と。聞き慣れてしまったその言葉だけが、酷く耳に残った。


</font>
その男達を驚かせてやろうと捕まれていた手を振りほどき、入口目掛けて飛びかかろうとする─────が、両腕に繋がった鎖がガチャンと鳴っただけでその場から動くことは出来なかった。
しかし、視界に入った男達の青ざめた顔を見て内心満足はしていたのだ。

鞭で打たれるまでは。

いきなり右頬に走った激痛に僕はその場に崩れ落ちた。
痛みに顔を歪め、続く2発目3発目から両手で顔を庇う。
同じ場所を打たれた鋭い痛みに、声を上げた。

「このクソガキ!自分の立場がわかってねぇみてぇだなぁっ!」

胸ぐらを捕まれたと思うと、横の壁へと投げ飛ばされ、衝撃で息が詰まる。
あぁ、また始まった。
いつもこの男の機嫌を損ねると、鞭で打たれる。
反抗的な態度をとると、暴力を振るわれる。
僕はただそれにじっと耐えるしかないんだ。
だって誰も助けてくれないし、誰もそれを悪いことだとは思っていないんだから。
バケモノはバケモノらしく、迫害され差別され、見せ物にされれば良いんだから。
あぁ、悔しい。
僕にもっと力があれば、こんな鎖に繋がれずにすんだのに。
僕にもっと力があれば、目の前のこの男をズタズタに...切り、刻める、のに。


男の足が鳩尾を勢い良く蹴り上げる衝撃で、身体が一瞬宙に舞った。
込み上げる吐き気と視界がチカチカと白く点滅し 、もう自分がどこを向いてどんな体勢をとっているのかさえもわからない。
なかなか視点が合わない気持ち悪さの中、気がつくと僕はだらしなく開いた口の端しから白濁した吐瀉物をぶちまけていた。

「クッソガキィィィィっ!!てめぇ、俺にぶっかけてんじゃねぇよ!」

男の足で床に頭を押し付けられ、骨がミシミシと鳴っているのが聞こえる。

「...舐めろ。全部舐めとれ」

足から解放された僕の顔の前に出されたのは、吐瀉物で汚れた男の靴。
震える口を開け、込み上げる吐き気を堪えながら恐る恐る舌を伸ばす。
ざらざらとした感覚と、鼻が痛くなるほどのツンとした臭い。
ふと舐めるのを止めた僕が、歯を立て男の足首に噛み付こうとしたのと、男の足が僕の頬を蹴り飛ばしたのは同時だった。
鈍い音と共に床に転がり、口内に鉄の味が広がった。

「そんなに痛い目に遭いたいらしいなっ!!...あぁ、そうだ!!今度はいつもとは違う経験をさせてやろうじゃねぇか!!楽しいぞー、へへへへ...ぶっ飛ぶぐらいになっ!!」

床にうずくまりながら睨み上げると、不気味な笑みを浮かべながらゲラゲラと笑う男がいる。
その今までとは違う男の反応を見て、これまで感じたことの無い寒気と恐怖が込み上げた。
男の両腕がゆっくりと近づく。

「い、...嫌だっ!!来るなっ!」

カラカラの喉で精一杯叫びながら、逃げようと後退っても鎖でこれ以上動くことが出来ない。
後ろにはもう壁しかなかった。

怖い。
これから何をされるのかわからない恐怖。
怖く無いはずがない!!


腕を掴まれ、衣服と呼べるかもわからないボロボロのシャツを剥ぎ取られ、悲鳴を上げる。
頬を強く叩かれ、反動でうつ伏せに倒れた僕の上に、奴は馬乗りになった。
ズボンの紐をほどかれ、乱暴に腰と床の間に手を入れられ、僕は再び悲鳴を上げる。

理解できなかった。
この男に直接触られているのだ。
抵抗しようと床を蹴り腕を払おうとしても、男の手は自分でもそんなに触れたことの無い場所を握りこみ、撫でまわしてくる。

気持ちが悪い。
男にそのように扱わる不快感に鳥肌がたち、必死に抵抗する。
その時、急に感じたことも無い感覚が僕を襲った。
触れられている部分だけに集中していた僕は、男がもう片方の手で"自身"を僕の臀部の谷間へ押し当てたことに気づかなかったのだ。
良く慣らされたわけでもなく、かと言って滑らせるものもあるわけではないそこに、無理矢理押し込まれる激痛に自身でも耳を塞ぎたくなるほどの悲鳴を上げていた。

「っつ...!流石にキツいな」

熱くて訳のわからない不快なそれが、自身の中に押し入ってくる。
腰を両腕でガッチリと掴まれ、逃げようともがいてもビクともしないどころか、逆にその行動が逆効果なことに気づく余裕など無かった。

「痛いっ!!痛い!嫌だっ!!いっ嫌、...ぁあっ!」

怖い。
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。

経験は無いが知識が無い訳じゃない。
でもそれは異性同士の間での行為であって、男同士がすることじゃないんだ!
互いの意見が一致して初めて行われる行為であって、これはっ───────僕は犯されたんだ。
頭が冷静に理解した瞬間ガタガタと歯が鳴り始め、未知の経験に頭が真っ白になった。
ただひたすら叫び、助けを求め、目の前で興奮した顔で僕を見下ろす男達に届かない手を差し出す。

「たす、助けてっ!嫌だっ...嫌だ!!...っ?!」

勢いよく奥まで差し込まれた感覚と、衝撃に息が詰まる。
上で荒い呼吸をしながら、男はゆっくりと前後に動き出した。
男が動くたびに皮膚が引きちぎれる激痛と、出し入れされる度に感じる訳のわからない感覚に襲われる。
苦痛にはもう慣れた。
だけど、これは...この感覚は。

「嫌っ...だ...」

男の動きが速くなっていくにつれて、いやらしい音と、男の荒い呼吸が部屋の中に響く。

「嫌だっ...嫌だぁっ!」

これが、この訳のわからない感覚が、"快感"であると認めたく無い。
こんなものが快感であるわけがない!
だけど男の身体が激しくぶつかる度に、意識が見えない何かに引き摺り込まれるような、そんな感覚に襲われるんだ。

「...痛っ!あっ...」

激痛と快感の間で、細い意識を手放さないように必死に堪えていたが、それも限界に近かった。

「...っ、おらぁ!たっぷり受け取れぇっ!!!」

強く腰を引き寄せられたかと思うと、男の一瞬の激しい震えと共に、生温かいものが勢い良く中に侵入してきた。

「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だっ!!!い、ああっ!」

下半身がガクガクと震え、逃げ出したい一心で無我夢中に床を引っ掻く。
爪が剥がれ、指先が擦り切れ真っ赤に染まっても、その痛みなど感じなかった。

助けて...助けてよっ!
苦しい!
気持ちが悪い!!
なんで、助けてくれないの?
どうして誰も、僕を助けてくれないの?!

怖い、よ...。









それからのことはあまり覚えていない。
気づいた時には、俺は血溜まりの上に立っていた。
足元にはあの男だったものが転がっていた。
後ろを振り向けば、汚ならしく涎を滴ながら白目を向いている男達────だったものがある。
首に巻かれた縄を必死に外そうとしたのか、首の爪痕が痛々しい。
俺の右手には赤黒く染まったナイフ。
足元の男と交互に見つめる。

あぁ、俺が切り刻んだのか。

自然と口が笑っていた。



やっぱり誰も助けてくれなかった。
もう、助けなんて要らない。
もう、誰もいらない。
俺一人で十分だ。
人間なんてくだらない。
バケモノで十分だ。


どうせ助けてくれないなら、いっそ────



コロシテシマエ。

</font>
吐き気とも言える感覚に私は飛び起きた。
眠っていただけなのに呼吸が荒く、シャツが所々濡れて透ける程の汗をかいていることに気づく。
壁に背中を預けながら、肩で大きく呼吸をし、片手で顔を包み込んだ。
目の奥がズキズキと痛み、カラカラに乾いた喉は水を求めている。
硬い床から立ち上がると、壁にもたれ掛かるようにバスルームへとゆっくり進んで行く。

簡素な扉をゆっくりと開けると、そこに到着するのを待っていたかのように急に込み上げた吐き気をどうすることも出来ず、私はシンクに全てをぶちまけてしまっていた。
ツンとした臭いが鼻を刺激し、目の前には消化される筈だった物が無惨にもシンクを汚していた。
シンクに体を預けながら壁に備え付けられた鏡を見て、苦笑する。
なんとも無様な姿の男がそこには映っているではないか。

急にどっと体が重くなった気がした。

ふと鏡に映った、はだけたシャツの隙間から覗く胸元に視線が行く。
あぁ、いつの物だったか。
色も大分薄くなり痛みなどもう感じないのだが、鎖骨辺りから左脇へと伸びた大きな傷。
弱かった頃の自分が負った忌々しい傷。

自然と大きなため息が漏れた。
それもこれも、全ては何度も見るあの夢が原因。
忘れようとしても忘れられない、あの恐ろしい記憶。
私は何かを振り払うかのように、もう一度ため息をついた。

もう、思い出したくもない。
何故忘れられないんだ!?
何故夢にまで苦しめられる?
持って生まれたこの醜い顔の他に、何故更なる苦を私は背負わなくてはならないのだ?!



乱れた人工の髪をかき上げバスルームを出ると、目の前の光景を見てあることに気づいた。
そうだ、ここは私の地下の王国ではない。
ましてや、自由に歩き回ることの出来るオペラ座でも無いのだ。

ヒビの入った汚れた窓。
シミやカビで変色した、元は何色だったのかわからない壁。
そして、部屋の中心に置かれた何とも粗末なベッド。
そこには、見馴れた顔の女性が眠っていた。

そうだ。
##NAME1##が、急にピクニックに行きたいと誘ってきたのだ。
突然の誘いに驚いたのもあるが、なかなか気が進まなかったのは当たり前である。
人目を避けて生きてきた私が、昼間の人が溢れる時間にピクニックになど行きたいと思うはずがない。
だから私は夜を提案したのだ。
夜の方が暗闇に隠れて行動しやすい。
最初は渋った彼女だったが、了解はしてくれた。

そんな料理の苦手な彼女が、おそらく何度も失敗しながら作った夜ご飯。
ピクニック当日。
大分日も沈んできた頃に、クリーム色のバスケットを持って私の前に現れた##NAME1##を見て、何度これは夢じゃないかと考えたことか。
その時直ぐにでも##NAME1##を引き寄せ、彼女の存在を強く確かめたかった。
だが、私にはそれは出来ない。
自身でも抑えきれなくなりそうな程強く、彼女を求めているのに...。
この気持ちを彼女に伝えられないんだ。

怖い。
##NAME1##を求めようとすると、恐怖を感じる自分がいるんだ。


私が持参したワイン。
彼女が一杯口にしてくれたことを忘れはしない。
アルコールが苦手な彼女がグラスを手にした時、驚きと喜びで胸がはち切れそうだった。

だがそんな喜びに浸っていたのもつかの間、空からバケツを引っくり返したような勢いの雨が私たちを襲った。
彼女が持参していた日傘で、なんとか雨宿りの出来る場所までは来たのは良かったが、不運というのは重なるらしい。
偶然なのか、それとも必然なのか。
私達が通ってきた橋が、雨で増水した川の氾濫で流されてしまったのだ。
人目を避けるために人気の無い場所にいた為、馬車が通る気配もない。
##NAME1##との貴重な時間に浮かれ、有事の際の事を考えていなかった自分が愚かだ。

隣で「こんなこともあるだ!」と、##NAME1##は楽しそうな笑みを浮かべていたが、早く彼女を暖かい場所へと私は強く思っていた。
傘はあっても、それはほとんど効果を発揮していなかったのだから。




そして私達が辿り着いたのは、一軒の寂れたホテル────いや、ホテルと呼ぶには相応しくないかもしれない。
娼婦が客を連れ込む場所なのだが......今は贅沢など言っていられない。
受付で2部屋分の手続きを済ませようとして驚く。
部屋に鍵が無いのだ!!
私はともかく、いつ野蛮な男共が部屋を間違え入ってくるか解らないこの場所に、##NAME1##を一人でいさせるわけにはいかないではないか。

入り口近くに立つ彼女を確認する。
雨に濡れ、薄い緑色だったドレスの色が濃いものへと変わってしまっている。
他のホテルを探そうか?────いや、こんな仮面を付けた怪しい男を客として入れる場所がここの他にある筈がない。
彼女だけ別な場所へ?────例え鍵がある場所だったとしても、一人にさせるのに変わりはない。


私は彼女のもとへ戻った。
1部屋分の鍵を握って。
##NAME1##に何か聞かれる前に、今おかれている現状と対策を話す。
この部屋は彼女に使って貰い、自分は部屋の扉の前で不審な輩が近寄らないか注意していると。
だから気にせずゆっくり休めと話したのだが...彼女は意味がわからないと言った表情で私に詰め寄ってきた。

「私のことを気にしてくれるのはとても嬉しいわ。でも、だからと言ってあなたを部屋にいれないで一人優雅に寝ることなんて出来ないわよ。どうして、あなたの選択肢に"一緒に部屋の中で休む"というものが無いわけ?」

そう言うと##NAME1##は私の手を引き、古びていつ底が抜けるかわからない階段を上り始める。

頭の中が真っ白だ。
##NAME1##の行動が理解できない。
何故彼女は私の気持ちを理解してくれないのだ?
こんな小さな部屋に、男と女が一人ずつ。
彼女は何も思わないのだろうか!?
私が何もしないと思っているのか!?




あぁ、そうだ。
私は何もしない。
何も出来ない。






怖いんだ。
自分が。
</font>


薄暗い室内。
ベッドで気持ち良さそうに眠る##NAME1##を確認した途端、急に足に力が入らなくなりその場に座り込んだ。
身体が小刻みに震え、自分の意思ではどうすることも出来ない。
ヒビの入った窓を叩くように降る雨の音に急かされたように、心臓の鼓動が早くなっていく気がする。


欲しい。
##NAME1##が欲しい!
##NAME1##を感じたい!
##NAME1##を愛したい!!



だがそう思えば思う程、それを恐れる私がいる。



##NAME1##を傷つけてしまう!
##NAME1##を壊してしまう!



たとえ##NAME1##が私を求めてくれたとしても、私は理性を保っていられなくなってしまう。
怖いんだ。
何かを仕出かしてしまう自分が怖いんだ!!


##NAME1##に拒絶されてしまう!!




そんなことは......認めない。







あぁ、そうだ。
拒絶されるのが怖いなら、その前に終わらせれば良いんだ。
彼女も、こんな惨めで汚れた私を知ることもない。
あいつらと同じではないか。
あの時の私には力が無かったからどうすることも出来なかった。
ただ、されるがままの私だった。
だが今は違う。
もう泣き喚くだけの私ではない。


そうだ。



怖いなら。



────コロシテシマエ。

誰かが、そう耳元で呟いた。






ふらつく足で、ゆっくりと##NAME1##が眠るベッドに近づく。
冷えた汗で寒気さえ感じていたのに、身体が燃えているかのように熱い。
身体は自分の意思で動いているはずなのに、意識はどこか遠くの方にあるような不思議な感覚に襲われている。


仰向けで眠っている##NAME1##を跨ぐようにベッドに上がると、ベッドからミシミシと耳障りな音が鳴った。
私の足の間で眠り続けている彼女を見下ろすと、例えようもない優越感が身体の底から込み上げ、自然と笑みがこぼれる。

##NAME1##。
愛しい##NAME1##。
お前の苦しむ顔を見ることが出来ないのは残念だ。
そんな私を許して欲しい。


彼女の、白くて細い首を両手で優しく触れる。
私の冷たい手に、くすぐったそうにピクリと反応を示したがそれだけだ。

あぁ、温かい。
彼女の落ち着いた鼓動がなんとも心地好く名残惜しいが、私はゆっくりと両手に力を込める。



許して欲しい。
許してもらえるはず無い。


やはり私はお前を愛せない。
愛したいのに、愛せないんだ。


過去が私を離さない。
過去から逃げられないんだ。



更に力を込める。


怖い。
怖い怖い。
怖い怖い怖い怖い怖い怖い。

やめろ。
やめろやめろ。
やめろやめろやめろやめろやめろ。






────誰か、助けてくれ...。

私が鉛のように重たい意識を引き上げたのは、首が圧迫されて呼吸が出来なくなったからでも、首に電流のように走った痛みの所為でもない。
頬に落ちてそして伝った、彼の涙が私を目覚めさせたの。

うっすらと開けた目蓋から見えた光景に、私は驚きよりも焦りを覚えた。
彼が、エリックが。
何かを必死に振り払おうとするかのように表情を歪め、涙を流しているんだもの。
重力に逆らうこと無く、また彼の涙が私の頬に落ちた。

まただ。
またエリックが見えない何かに怯え、苦しんでいる。
首に回された手も冷たく震えていて、もう私を絞め殺そうとする力なんか感じられない。



「...怖い、んだ」

私に気づいているのか。
彼の発した消えそうな声に息を呑んだ。
だって、今まで一度も彼が弱さを見せたことなんて無かったのだから。

「怖いんだよ...」

視点の定まらない虚ろな潤んだ瞳。
私は静かに、彼の仮面で覆われていない左頬に優しく触れた。
途端、信じられないものでも見たかのように、息を呑む音が聞こえる。
私はエリックを安心させようと、笑ってみせた。

「大丈夫、何も怖くない」

小さな子供にするかのように、優しくゆっくりと話す。

「怖い...怖いんだよ。私は、お前を...お前を失いたくないんだっ!」

私の首を握っていた彼の両手は、いつの間にかシーツを握りしめている。
やり場の無い怒りと、見えない恐怖を必死に堪えようとしている姿が、とても見ていて辛い。

「だけど私は、お前を傷つける!苦しめるっ!...そんなことしか出来ない。お前と近くなればなる程、お前が欲しいと思えば思う程、そんな自分が怖くて堪らない!私はお前を愛したい!愛したいんだ!!でも駄目なんだ...きっと私は取り返しの付かないことをお前にしてしまう!あの過去が私をそうさせるっ!過去がお前を消そうとする!!だから私はお前をっ────」

聞いていられなかった。
彼をここまで苦しめていたのは、他でもない私じゃない。
もうこれ以上、エリックに自分を責めて欲しくなかった。
彼の言葉を遮るように、私は両手を彼の後頭部に回し、自分の胸元へと引き寄せた。

「大丈夫、私はいなくならない。あなたを一人にして消えたりしない。絶対にそんなこと...しない!」

何が起こったのかわからず、硬直して動かなくなったエリックの頭と背中を優しく擦る。
いつもの彼なら罵声の一つでもあげてもおかしくない状況なのに、今の彼は肩で息をしながら必死に荒くなった呼吸を整えようとしていた。

「怖、い...っ。自分が、怖いっ」

エリックの呼吸が若干不均等になってきていた。
過呼吸になってしまってはまずいと思い、体勢を変えたかったのだけれど...力の抜けた大人の男性を私が運ぶことは出来ず────なんとか横に寝かせることは出来た。
彼を刺激しないように、小さく一定のテンポで背中を優しく叩く。
乱れた呼吸を導くように。

「大丈夫、大丈夫だから。何も怖くないから」

肌に当たる彼の呼吸が温かい。

「##NAME1##...私はっ、怖い、んだ」

「私はここにいるから、ね?」

しばらくの間私はエリックに声をかけていたが、ある時を境に彼からの反応が無くなった。
不均等だった呼吸も大分落ち着いていたから、それは悪いことではない。
静かに耳を澄ますと小さな寝息が聞こえ、私は自然と安堵のため息を漏らしていた。
私の右腕を枕にして隣で眠るエリックを見つめる。
自由の利く左手で、眠るのには邪魔だろうと白い冷たい仮面を取ると、仮面の下は汗と涙で濡れていた。

「私は、絶対にあなたを一人にはしないから」

そういえば、うたた寝以外の彼の寝顔をきちんと見たのは初めてかもしれない。

「だから、安心して眠って...」

乱れた彼の髪を優しく撫で、そっと額にキスをする。
気のせいか、眉間のシワがいつもより薄くなったように見える。





許された時間かもしれない。
けれど、その間だけでも過去を忘れ、何も恐れないで眠って欲しい。

そんな時間を私なんかが作れるなら、私は何だってする。

例え、エリックに殺されようとも。
それで彼が幸せなら、後悔なんてしない。


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