このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

短編集

彼は時々、恐ろしくなる。
本当に稀なんだけど、身の危険を感じるほど恐ろしくなる。
私まで悲しくなるほど、弱々しくなる。
その原因は多分、彼の過去にあると思うのだけど...聞いても何も話してはくれない。
「忘れてくれ」と一言言って、何も話してくれない。
でも私はそれを責めたり、拒絶したりはしない。
だって、それを全て含めた彼を...エリックという人間を愛しているのだから。



いつか彼が自分から話してくれる時が来ると信じてるから。






その日、エリックは待ち合わせの時間に現れなかった。
私達二人の秘密の時間。
当たり前になっていたその時間は毎日あるというわけでは無く、どちらかが送る合図によって決まっていたの。
今回は彼からの合図だったから、忘れているわけではないと思うのだけど。
だから、何時間経っても現れないエリックを心配して、私はボックス席から続く秘密の通路を通り地下へと進んだ。
本当はこの道はあまり通りたくないんだけど、彼が心配だから仕方ない。
でもその時、何か違和感を感じていたのは確かだった。





やっぱりこの通路にはなかなか慣れない。
何度転びそうになったか...。
ヒールの高い靴では無いんだけど、それでも歩きづらい。
毎日何事もなくここを通り抜けている彼には驚く。
少し深呼吸をし、辺りを見回した。
目的地はもう目の前だ。
徐々に足元は明るくなり、そして抜けた場所は彼の地下の王国。
オペラ座の地下の世界だ。
蝋燭の光が反射して幻想的な雰囲気を漂わせる地下の泉が、いつ見ても美しい。
でも、何故かこの場所がいつもと雰囲気が違うように感じる。
静かだ。
恐ろしいくらい、静かなの。
そして少し寒い。
もしかしたらエリックは作曲に夢中になって約束を忘れてしまったのでは無いかと、ここに来るまでの間考えていたのだけれど...オルガンの音どころか、ペンを走らせる音や楽譜の捲る音さえも聞こえない。
自分の呼吸の音だけが、この空間に嫌に響いた。
ふと、暖炉に目を向ける。
最後に使われたのはいつなのか。
中に組まれていた薪は黒い墨に変わっていて、触れても熱くなくむしろ冷たかった。

あぁ、もっと早く気づけば良かった。
彼からの合図の時に気づけば良かったのよ!
だって、その時私は彼とは直接会っていないのだから!

リビングを早足で横切り、エリックを探す。
食料庫、キッチン、作曲室、客室。立ち入りを許された場所は全て。
でも見つからない。
私は残されたある部屋の前で立ち止まった。
そこは彼の寝室。
絶対に入るなと忠告を受けた2つの部屋のうちの1つだ。


...いる。
たしかにそう感じた。
何も物音はしなかったけど、エリックはここにいる。
恐る恐る扉の取手を握った時、開けるな、と私の中で何かが呟いた気がした。
反射的に取っ手を離し、微かに震える右手を左手で優しく包む。
大丈夫。
意を決して重い扉を開き、中を覗き込む。
隙間から流れ込んだ風が今いた場所よりも更に冷たく、私の髪を揺らした。

「エリック...いるんでしょ?」

薄暗い室内に向かって、呼び掛ける。
もちろん返事は無い。
初めて入るエリックの部屋。
怒られても仕方がないけど、今はそれどころじゃないのは確かだ。

辺りを注意深く見回しながら奥へ奥へと進んで行く。
足元が歩きにくい。
視線を落とすと、床には大量の楽譜や本。
一体何に使っていたのかわからないが、色んな物が散乱していた。
無造作に倒れた椅子や壁に叩きつけられ砕けたインク瓶を見れば、荒らされた後にも見える。
じゃぁ、一体誰が荒らしたのか?

一人しかいないじゃない。
この場所に簡単に人が入れるわけがないんだから。


────ガタンッ!
奥のベッドの方で急に物音がした。
そして布のような物の擦れる音。

「...エリック?」

ベッドに近づき、あたりを見回す。

いた。

ベッドにもたれ掛かるように床に座り込んでいるエリックがそこにいた。
安堵のため息を漏らしながら、彼の様子を伺う。
でも、俯いていて顔を確認できない。


「エリック...?」

近づきながら覗き込むようにして名前を呼んだ。
ピクリと右手が動いた様に見えたのは気のせいじゃないはず。
黒い髪はボサボサに乱れ、胸元のはだけたシャツをだらしなく着ているその姿からは、普段どんな貴族よりも貴族らしい振る舞いをする彼など想像も出来なかった。

「...帰れ」

「えっ...」

力無くそう言ったエリック。
俯いたままこちらを見ようともしない。

「だ、大丈夫?どこか具合でも悪い────っ」

「帰れっ!!!」

急に大声で叫ばれて、私は反射的に体を震わせ怯んだ。驚かないわけがない。

「何故お前がここにいるっ!?ここには入るなと言っただろうっ!!!」

腕を力強く掴まれ、苦痛で顔が歪む。
それを彼は見逃しはしなかった。

「私に触られるのがそんなに嫌か?!恐ろしいかっ!?貴様らはいつも!いつもっ!!私をっ!」

「ち、違うっ!エリック!違う!」

今にも飛び掛かりそうな勢いで立ち上がったエリックに対し、私はよろけながらも腕を払い、少し距離をとった。
だけど、彼の両腕は逃がさないとでも言うかのように再び私の腕を掴み、無理矢理自身の方へと引き寄せる。
あと少し動けば触れてしまうのではと思うほど近くに彼の顔があった。
そしてその時初めて、私はエリックの顔をきちんと確認したのだ。

露になった左目も仮面の下から覗く右目も、声色からは想像出来ないほど戸惑いに揺れ、今にも泣き出してしまうのではないかと思うほど複雑な表情をしていたのだ。
私は驚きを隠せなかった。
人を見下し、絶対の余裕を持った彼が、オペラ座の恐怖の象徴の怪人が、こんな表情を見せるなんて。
そう、気づけば私の腕を強く握った彼の手は隠しきれないほど震えて冷たかった。
人を何人殺めたか解らないこの大きな手が、必死に何かにしがみつく小さな手に見える。

私の目を見つめたまま何も言わない(言えないのかもしれない)彼は、静かにゆっくりと私の手を離した。

「...エリック?」

私が名前を呼んだ途端、ビクッと驚いたように視線を逸らす。
あぁ、なんて顔をしているのだろう。
これはもう、いつもの威厳に溢れる彼の顔じゃない。
親に叱られて、どうして良いかわからない思いを必死に堪える子供の顔だ。
彼は気づいていないだろう。
左手の指がパタパタと物寂しげに動いている。

少し痺れている両手でゆっくりと優しくエリックの顔に触れた。
途端、驚きを隠せないという表情で私を見返してくるエリック。



「...我慢、すること無いんだよ?」

驚きで目を見開くエリック。
しばらくそのまま時が止まったかのように動かなかったが、急に何かを言いたそうに口を開けては閉じ、ゆっくりと震える手を私の手に重ね、きつく目を閉じて息を吐いた。

あぁ、やっぱりダメだった。
今彼は、すぐそこまで出かかっていた何かを吐き出すことを止めてしまったのだ。
いつもそうだった。
エリックは時々私を求めてくれる。でもいつも、その奥に私にして欲しい本当の何かを隠しているんじゃないかと思ってしまうのだ。

...私は、そんなに頼りない?

こんなこと口に出しては言わないけど。



「...##NAME1##、すまない。今は...一人にしてくれないか」

胸の奥が痛い。
エリックは一体何を抱え、こんな苦しそうな表情を浮かべているのか。
私にはそれを和らげることは出来ないの?


静かに彼の頬から手を離し、私は小さく苦笑した。

「ごめん...」

何を謝っているのか、自分でもわからない。
私はそのまま踵を返し、この場を立ち去ろうとした。

「...このことは、忘れてくれ」



一瞬足を止め、それでも振り返らずに私は部屋を出た。
涙を抑えることなんて出来なかった。
自分のことじゃないのに、どうしてこんなに辛いのかわからない。



彼を救ってあげられない自分が、本当に憎い。



7/10ページ
スキ