短編集
薄暗い階段を踏み外さないよう慎重に降りていく。遠くの方から心地よいオルガンの音色が聞こえてくるのは気のせいではない。
そんな私の手には、両手で抱くことができる位の大きさの茶色い紙袋が一つ。
少し重たいそれの中には、これから向かう先にいる人物と食べようと思っている真っ赤なリンゴが入っている。
オペラ座は今日は休演日。
久しぶりのお休みに、踊り子達は時間を少しも無駄にしないようにと朝早くからショッピングに出かけていった。
たしか、クリスティーヌとメグもマダムと一緒に出ていったはず。
だから私も、新鮮な食材が並ぶ朝の市場に出かけたのよね。
そこで購入したのがこの美味しそうなリンゴ。
本当は二つしか買う予定がなかったんだけど、私の姿を見てなのか「たくさん食べなさい」って言って店主が袋に倍以上のリンゴを詰めてくれたの。
外出時はいつも左目は眼帯で覆っているから、それを見てなのかしらね。
とても得した気分だし、久しぶりにそんな人に出会ってなんだか嬉しい。
彼が一緒にいたら一体どんな反応をしたかしら。「同情などいらん!」って言って怒りそうだけど、親切な人に対してそんなこと言うようなことがあれば私が許さないわね。
彼の──エリックの反応を想像するのは楽しかった。
予想外な対応に戸惑うエリックを想像した時なんか、一人で笑ってしまっていたんだもの。
地上から大分地下に進んだ先に、彼の隠れ家がある。
いつもはオペラ座内にある隠し通路からここへやって来るんだけど、今日は地上へと直接繋がっている通路を通ってきたから、家の扉をくぐることになった。いわゆる玄関だ。
本来ならこの玄関に辿り着くことは簡単じゃないのよね。
何故かというと、玄関の前には底の見えない暗い泉があるから。
侵入者対策でもあるその泉を渡る方法はただ一つ。一隻しかないボートで渡る、それだけ。
前もってエリックには訪問することは伝えてあったから、ボートを地上側の岸に停めておいてくれたの。忘れてたらどうしようって不安だったけど良かった。
私はボートから降りて、玄関の扉をノックした。
返事がない。
地下通路を進んでいる間に聞こえていたオルガンの音色も止まりはしなかった。
ボートのことを忘れてなかったのだから、てっきり訪問のことを覚えていてくれてるのかと思ってたけど。
作曲に夢中なのかしら?
少しがっかりしながらも、鍵は開いていたので勝手にお邪魔することにした。
居間まで移動したところで彼を発見した。
あぁ、やっぱり。
彼は壁側に設置されたオルガンに向かい、真剣に作曲に取り組んでいた。
時々オルガンを弾いている手を止めては譜面にペンを走らせ、気に入らなければ楽譜をクシャクシャと丸め、足元に転がすのだ。
現に今、彼の足元には曲になるはずだったものが沢山転がっている。
私は一つ溜め息をつくとテーブルの上に紙袋を置き、近くのソファに座った。
私が来たことにも気づかない彼の背中を眺めながら、もう一度溜め息をつく。
失敗作の楽譜の量と彼の姿。そしてこの部屋の散らかり様からして、作曲し始めたのは昨日──いや、もっと前かもしれない。
3日前に訪問することを伝えたから、それ以上では無いことは確かだけど。
近くに落ちている楽譜や、置きっ放しのティーポットに目を向ける。
あぁ、これなんて3日前に私が来たときのままじゃない。
1つのことに夢中になると、何も出来なくなる──彼の悪い癖だ。
長時間同じ姿勢でいた為か、ペン置きにペンを戻して背筋が伸びるように体を動かすと、筋肉が悲鳴を上げた。
五線の上に描かれた音符ばかり見ていた両目も、酷く疲れている。
体中が痛い。
しかし、作曲を始めてそんなに日は経っていないだろう。オルガンの両脇に立つ大きな蝋燭はそんなに溶けてはいなかった。
完成はしなかったが、なかなかの出来に仕上がっている。次で完成になるだろう。
乱れた髪をかき上げながら椅子から立ち上がり、疲れを癒すため寝室へ足を進める。
だが、ソファの横を通り過ぎようとしたとき違和感を感じ、私は背もたれ側からゆっくりと覗き込んだ。
「…っ!?」
作曲に疲れた私は幻でも見たのではないかと一瞬思ってしまった。
そこには、沈むようにソファで眠っている##NAME1##がいたのだ。
いつからここに?
私は##NAME1##の訪問に気づかなかったのか??
3日前、##NAME1##と交わした約束を思い出した。
今日は彼女が来る日ではないか!
あぁ、私は愚かだ。
愛しい人の訪問よりも作曲を優先してしまうなんて。
申し訳ないと思いながら、ゆっくりと彼女に近づき床に膝をついた。
そっと白い頬を撫でてみるが、##NAME1##は気持ち良さそうに眠り続けたままだ。
無意識なのか、それとも意識してなのかはわからないが、左を下にして小さく体を丸めて眠っている姿は、左目を隠しているようにも見える。
テーブルの上から落ちたのだろうか、手作りの眼帯は無造作に床に落ちていた。
それにしてもだ。
広いソファなのだからもう少し伸び伸びと使ってくれても構わないのだが、彼女の性格からそれはできないのだろう。
何でも遠慮するタイプなのだ。
「…##NAME1##」
静かに彼女の名前を呼んだ。
だが彼女は何も反応を示さない。随分と疲れがたまっていたようだ。
再び頬を撫でてみる。
少しくすぐったそうに顔を動かしたが、またすぐに動かなくなると均等な間隔で寝息が聞こえてきた。
そんな彼女を見ていると、どこか心が温まる──まさかこんな日が来ようとは。
私の隣にはいつも##NAME1##がいる。
それが当たり前になるとは思ってもいなかったのだ。
##NAME1##を無理矢理に起こすことはせずに、風邪をひいてはいけないと思い寝室にあったガウンをかけてやった。
そして私は、##NAME1##の寝方のおかげでスペースの空いているソファに静かに座る。
その瞬間、ドッと疲れが押し寄せて来たかと思うと、急に瞼が重くなった。
体の指示に逆らうこと無く、私は眠りに意識を委ねた。
眠りから覚めると、私はガバッと勢い良く起き上がった。
というか、私は寝てしまっていた!!
先程まで見ていたエリックの背中はオルガンのところには無く、私は少し焦った。
作曲が終わったなら起こしてくれれば良かったのに!!と思いながらソファから立ち上がると、膝から見覚えのある黒いガウンが滑り落ちた。
眠ってしまう前には無かったガウン。それを拾って、視線を横にずらす。
「ふふ…」
視線の先に彼はいた。
深くソファに座り、背もたれに体を預けながら静かに眠っている。
全く動かないから、なんだか死んでいるみたい。これをエリックに言ったら怒られそうだけど。
静かにエリックの隣に座ると、ジッと彼を観察する。
だって、彼の眠っている姿なんてそんなに見れるものじゃないんだもの。
いつも私が寝るのは先だし、起きたときにはもう彼は起きて活動しているし。
貴重な寝顔っていうことよね。
そっと、仮面の付いていない左頬に触れてみる。
本当は仮面や鬘を取って寝やすくしてあげたいと思うんだけど、せっかく眠っているのに起こしてしまうかもしれない。
それに、きっと彼は嫌がるだろう。
(…エリック)
声には出さず、心の中で呟いてみた。
頬に触れていた手を首に移動させていく。筋っぽい、それでもしっかりした首は少し冷たかった。
作曲に集中していて疲れているんだから起こすことはせず、私は考えた。
このまま彼が起きるまで待っていようかしら。
うーん。悩むところね。
ふと、彼の膝に目をやる。
待つといってもやることが無いんだもの、少しくらい良いよね?
私との約束を忘れた罰ということで。
よっこらしょっと、私は体の向きを変えてエリックの膝の上に自身の頭を乗せた。
ゆっくり、起こさないように。
意外に寝心地の良い高さかもしれないし、丁度良い柔らかさだ。
でも、自分からやっておいてこんなこと思うのも変だと思うけど…やっぱり膝枕というのは恥ずかしい。
早く眠りに落ちないかと思いながらも、目覚めたエリックの反応を想像してみた。
面白い。
絶対に驚くに違いない。
驚きすぎて、私を落とすかも──それはちょっと避けたいけど…。
でも、たまにはこういう日があっても良いよね。
うん、たまに…。
このあとすぐに私はまた寝ちゃったんだけど。
目が覚めたエリックは盛大に飛び起きて、私を床に落としました。
痛かったー。
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