短編集
「今日は遅いのね」
薄暗いボックス席に入ると、悪戯っぽい声が聞こえてきた。
私はそれに苦笑しながらも歩き慣れたボックス席内を移動し、椅子に腰をおろす。
舞台では第一幕の第二場面が始まったところだった。スボン役の女性が屋敷の庭を行ったり来たりしながら歌っている。
「競争をしている訳ではないんだ。いつ来ようと私の自由だが…お前を待たせてしまったのならば、申し訳ない」
「ふふふ、別にそんな待ってないわよ。私も今来たところ」
二つほど椅子を挟んだ先の壁に背中を預けながら立っているのは一人の女性──##NAME1##だ。
##NAME1##は微笑み私の姿を確認すると、視線を舞台へと移した。
このオペラ座で唯一の友人と言えるのか、そう思っているのは私だけなのか。
もう何度も彼女とは顔を合わせているが、そんな話は一度もしたことはない。
出会った当初は互いの行動を否定し合い、私は一度は彼女を殺そうとしたこともある。
このオペラ座で、私の庭で、真っ向から私を否定したのは彼女だけだったのだから。
今思うと、なんとも可笑しいことではないか。
互いに意味嫌いあった者達が、こうして一つの空間に自ら進んでいるのだから。
「今日の舞台は、立っていないと見えないものがあるのか?」
いつまでたっても座ろうとしない##NAME1##にそう言うと、彼女は簡単な相槌をうってボックス席からそっと下を覗き込む。
できることなら、このボックス席であまり目立つ行動をしては欲しくないのだが、今の彼女に何を言っても無駄だろう。
5番ボックス席。
オペラ座の幽霊、オペラ座の支配者、オペラ座の怪人専用のボックス席。
無断で立ち入ろうならば、恐ろしい災いがその者に降りかかると噂される場所。
そんな場所に彼女がいることがわかったら、噂はオペラ座全体にすぐ伝わり、噂好きのバレリーナ達は面白がってさらに広めるだろう。
そんなことを彼女はわかっているのだろうか。
「ん~…やっぱり駄目ね。ほら見て、右側の舞台装置。また動かなくなってる」
##NAME1##が指差した方を見ると、確かに噴水の形をした舞台装置が垂れ幕から半分も見えていなかった。
本番中にも関わらず、大道具の男が隅で引っ張ったり押したりとあたふたしている。
私が鼻で笑ったのを見た彼女は大袈裟な動作でガックリと肩を落とし、椅子に座った。
「昨日も動かなかったのよね…改善無し。オケピットに関してもどうにかして欲しかったんだけど、さすがに駄目ね…」
「オーケストラに関してならばお前の意見が通りそうだが、そうはいかなかった様だな」
そんなつもりで言ったわけではないのだが、彼女には馬鹿にされてるように聞こえたのか、ムスッとした顔で溜め息をついた。
「たかが調律係の分際で、何でもかんでも上手くいってたら逆に恐ろしいわよ」
「だが、昨日に比べるとオーケストラは聞きやすくなった。何かしたのか?」
「弦楽器の調律を少し変えてみてって頼んだだけよ。実際にやってるのは彼らの力」
なるほど。全体の響が昨日とは違うのはそういうことか。
音がこのホール全てを響かし鳴らしている。
だが、
「上手いとは言えないがな」
事実、上手いとは言えない。ただ楽譜を読み、自己満足の為に歌い、演奏しているだけに過ぎない。
現に今舞台に立っているプリマドンナのカルロッタはその見本だ。
よくこのオペラ界にいれるものだと私は思ってしまう。
昔の私なら、どんな手を使ってでもカルロッタを舞台には立たせなかっただろう。
そう、どんな手を使っても。
「確かに下手かもしれないけど、私は嫌いじゃないわ。お客さんだって楽しんでるじゃない」
だが、私の隣にいる彼女は違う。
「完璧な人なんていないのよ」
出会った当時、そう彼女が言ったのを覚えている。
その言葉を聞いた瞬間、怒りと悲しみ、そして同情の気持ちが私を支配したのもはっきりと覚えている。
彼女は私と同じ、完璧な人間ではないのだ。
だから私は、彼女に惹かれるのかもしれない。
「何気難しい顔してるのよ。オペラ座の音楽監督さんはお仕事ちゃんとしてるのかしら??」
私は普段から眉間にシワをよせているが、##NAME1##の目にはいっそう深く見えたのだろうか。
自分の眉間をワザとらしく擦りながらオペラを聞けと促した。
しかし、なんとも嫌味な言い方だ。
「音楽監督も忙しい者でね。先程も支配人に指示を出してきたところだ。カルロッタの指導はどうなっているのかね?とね」
「そのカルロッタが今から歌うのよ」
##NAME1##のその言葉と共に、主となる和音が鳴り響いた。そしてアリアに始まる前のレチタチーヴォが始まる。
カルロッタ演じるヒロインがとある男に恋をしたが、その身分の違いから苦労しながらも一途に愛し続けると誓う美しいアリア。
そう、美しいアリアだ。
「…美しいと言えば美しいんだけどねぇ」
だが実際に聞こえる歌は、本当に『愛』を歌ってる歌なのだろうか。
張りのあるソプラノの声に、これでもかと言わんばかりのビブラート。
どちらかというと美しいではなく、うるさい。
「ふっ…これでは無理矢理にでも男を奪おうとする悪女の歌だな」
私は鼻で笑いながら、隣で同じく苦笑している彼女を見た。
「間違ってはいないような気がするけど…」
流石の彼女もフォローのしようが無いようだ。
「でもでも、良いところを考えればって…こんな話、前もしたわよね」
気がつくと、カルロッタは最後のフレーズを歌いきったところだった。
会場から大きな拍手が鳴り響く。
遠くからでもわかる程の笑顔でお辞儀をするカルロッタに私は鼻で笑うと、私は席を立った。
「戻るの?」
隣に座る##NAME1##が見上げる。
「今日はもう良い…やらなくてはならないことも決まったしな」
黒いマントをなびかせながら歩き出す私を追いかけるように彼女も立ち上がる。
「また何かするんじゃないでしょうね!?」
「ふっ…どうだろうな」
##NAME1##の方を振り向くと、彼女は真っ直ぐな目で私を見つめていた。
「私は…あなたのやり方を認めた訳じゃないから」
無言で彼女に背を向け、ボックス席内の柱にある小さなくぼみに手をかけた私は、ゆっくりと振り返り目を細める。
「……お前にもいつかわかる日がくる。必ずな」