君以外に興味は無い


 その視線にはっきりと気がついたのは、インクの切れたボールペンをごみ箱に投げ入れた時だった。妙に真剣な顔で見ている。どうかした?と目顔で問うてみても曖昧に微笑まれるだけで何も言わない。構わずに新しいものを取り出して執務を続けていると、今度は手元を覗き込む。決めているのは来週の出陣先とその部隊編成で、内に笹貫の名は無い。我が本丸は現在、新刃育成期間を掲げている。そこで、とうの昔に練度は上限へ達しこの間の仮想修練所で出ずっぱりだった彼は遠征要員にまわしている。中堅に位置するこの本丸には百口の刀剣男士が顕現しているおかげで割り振る仕事にその理由を丁寧に説明することは殆ど無い。しかし、彼とは一緒に過ごす時間が長いゆえにそれを話していた。その際は了承してくれた……ような記憶がある。まあいいやとばかりにさっさと抱き込まれてしまったおかげでかなり朧げな記憶が。
 閑話休題。邪魔にはならないがどんどんこちらに近付いてくる笹貫を早めに抑えておかなければいけない。ここは執務室で、まだ昼下がりの業務時間真っ只中だから、もしかすると足音が近づいてきたりなんかして、
「主、遠征部隊が…………お邪魔だった?」
「いや……すぐ行く」
 腕にぴったり絡みついた笹貫の姿をこうして近侍に見つかってしまうのだ。
「はは、見られちゃったねぇ」
「わたしは真面目に仕事をしていました」
「あーはいはい、わかった。じゃ、すぐ来てね」
 弁明を試みるわたしを意にも介さずそう言うと清光はすたすたと去って行ってしまった。すぐに追いかけようとするのにがっちりと掴まれた腕が重たい。
「笹貫、出迎えてくるから。ね?」
「ん、わかった」
 お願いするとすんなり放される。最近はずっとこの調子だ。長時間の遠征を終えた部隊をこれ以上待たせないため、早々と執務室をあとにした。
 
 〇

 遠征部隊の報告を聞いて戻ると笹貫は消えていて、思うように進まなかった作業がちょっぴり捗った。夕餉のために食堂に行くと彼はもう済ませたのかそこには見当たらない。私も腹を満たして部屋へ戻り、早めに湯浴みをすることにした。
 ふぅ、と湯に浸かり身体を温める。広々とはいかないがひとりだと十分に足を伸ばせるくらいの浴室は、本来審神者専用に備え付けられたものだ。審神者用の居室は伝統的なつくりの本丸内とは違い、馴染みある平成の1LDKを再現しているおかげで幾分か過ごしやすい空間になっている。完全にひとりきりで、ゆっくりと過ごすのはなんだか久しぶりのような気がして、めいっぱい伸びをして満喫していた。
 最近の彼について、いくつか考えていることがある。多分私しか気にならないようなことだが、一応。ひとつめ、執務室に入り浸ることが増えた。ふたつめ、こちらをじっと見つめる視線。みっつめ、スキンシップが増えた。よっつめ、痕が消えない。どれもある程度好きにさせているが、首元の分かりやすい部分に痕を付けられた時は薄着になってしまっても見えない部分にしてくださいと正座をさせたので胸元や背が代わりになっている。どれも私の反応を見ているようで見ていないというか、特に何かを大っぴらに求められている訳ではないように感じる。
 気の済むまで待ってやろうと思ったのが先々週。連日の触れ合いに体力差の考慮を申し出たのが先週。気は短くない方だと思っていたが、相手は九十九の神だ。そろそろなにか一言くらいもらってやろうかなと決め込んで、じんわりと滲む汗を流すことにする。
 ざばり湯面が波だったところで脱衣所のドアが開く音がして、パネル越しに声がかかった。
「あれ、もう上がっちゃうんだ?」
「……充分温まったから。次入る?」
「やめとこうかな」
「じゃあお湯抜いちゃうよ」
「どうぞ」
 遠慮なく栓を外して、湯が抜ける間に身体の世話をしてやる。終わったら軽く掃除をして、やっと風呂を上がった。扉を開けると少しひやりとした空気が肌を撫でる。タオルに身体中の水分を吸わせているうちに、部屋の方へ戻っていたらしい笹貫が「あるじ〜」と声をかけながらやってきた。わたわたとタオルを身体にまきつける。
「髪、オレが乾かすよ」
「いいの? やった」
 ラフな寝着でも様になるこの男と平凡な凹凸をした自分が並ぶことに劣等感をおぼえるのはキリがないとやめたが、それとは別に素肌を晒すことに恥を感じないわけではない。たとえ何度服を剥かれていても。じ、と見つめられているのは多分彼の付けた痕が残っている胸元で、その満足気な瞳を確認してしまっては強気に出られなかった。
「あんまり見つめられると恥ずかしいな?」
「一緒に入ろうとしたのにもう上がるって言うから」
「今日ちょっと遅かったね」
「ん、遠征の準備してた」
「そろそろ飽きた?」
「主が行けって言うならどこでも行くよ」
「ふふ、なんか良い子みたい」
「オレが悪い子って?」
「どうかな」
 悪戯っぽく微笑んでみるとにたりと笑った笹貫がわっと捕まえるように抱き締めてくる。きゃあと笑いあってから少し冷えた頬を撫でられて、服着たら髪を乾かしにおいでと言われた。頷くと彼は部屋の方へ戻っていく。
 急いで寝着に着替えて、軽く肌の手入れをしておく。ぱふぱふ髪の水分をタオルに移しながら、二人掛けのソファでドライヤーを片手に待つ笹貫の足元へ座りこんだ。前を向いてじっとしていると騒音と共に熱風が送られてきて、大きな手が頭を撫でて髪を梳く。しばらくそうしていると今度は冷風がやってきて、全体を冷ました後に騒音と風が止んだ。
 お礼を言おうとして振り返ると頬に手が伸びてきて、彼の顔が近づいてくる。啄むように口付けを繰り返されるのを甘んじて受け入れていたが、ふと湯船の中で考えていたことを思い返してちょっと待ってと声をかけると、軽いリップ音を立てて彼の唇が離れる。お行儀の良い待てだ、と思う。
「先に水、とってきていいかな」
「……ん、風呂上がりだもんね」
 するり足の間をぬけて、冷蔵庫で冷えていたペットボトルを取り出し、キャップを開けてそのまま喉に流し込む。冷たいものが体の中を通っていく感覚に少し頭がさめたような気がした。
 笹貫は強引に事を押し進めるというのはあまりしなくて、妙に聞き分けの良い所がある。今だってきちんと姿勢よく待てを続けている。どれもこれも途中で抜け出した私のせいだろうが。マナー違反は重々承知でも彼のペースにばかり巻き込まれていると面白くないと感じてしまう気質なのだ。
 ぺたぺた歩いて彼のもとへ戻ると、手を引かれて膝上に導かれた。向かい合った瞳は吸い込まれそうなほどの碧だ。きゅうと抱きしめてやって、大人しく埋もれている笹貫へ問いかける。
「やっぱり明日、遠征やめて近侍変わってよ」
 ぴくりと動いたその頭を撫でてやりながら、甘い声で続けた。
「途中で万屋出かけて、ちょっと寄り道して帰ろ。来週には催しも終わってひと段落つくから、そしたら次の日は休みにしよ。時間くれる?」
「……どうしようかな」
 ちらり覗いた顔は随分と頬がゆるんでいる。手のかかる奴め。お願い、と請いながら皮しか伸びない頬をやわやわと揉んでやる。
 大切にするって宣言したんだから、堂々と言えばいいのだ。何も言わずに甘えられたってすぐに気がついてあげられるほど私は察しが良くないし、刀たちとの距離感も気を使わないところがあるから微笑まれているだけでは分からない。勝手にひとりでどこまで許されるか試すんじゃなくて、全部言えばいい。
 気が付いてるんだか無自覚なんだか、彼の答えをもう少し待ってやろう。時間はまだまだたくさんある。
「主」
「ん?」
 あ、と気がついた時にはもう背中とソファが仲良くなっていた。顔に落ちる影は彼のもの。だらしなく緩んでいた頬は蠱惑的な表情に上塗りされている。
「オレが近侍ならさ、朝は急がなくてもいいね」
 全然良くはないが、来週まで待てが出来ないのは何も目の前の男だけではない。覆いかぶさる体に大人しく身を委ねることにした。
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