君以外に興味は無い

 
 私室に飾っているパンダだけが変わらぬままそこにある。埃を被らぬよう世話を欠かしていないそれは店先で見た時と同じ輝きを保っているはずだ。
 傷を受けて帰ってきたあの日から、笹貫とまともに会話ができていない。近づけたと思ったのが嘘みたいに今私たちの距離は遠く離れていた。執務室に彼がふらりとやって来ることはないし、空き時間に彼を探すことはない。私も笹貫も、きっとふたりきりになることを避けている。
 手入れ部屋を出る前に聞いたあのひと言は心にしこりを残したままだ。
「また余計なことしちゃったかなあ」
 呟いたところで誰も答えてくれるひとなんていない。わざわざあの時あの瞬間に言う必要はあったのか、無理やり治すよりも素直に札を渡せばよかったのではないか、ぐるぐると考え続けている。

 ○

「主、夕餉の時間になりましたよ」
 近侍に呼ばれ仕事を片付けて食堂へ向かう。集まりのまばらな中トレイを受け取って席を探していると、巴が「俺と食べよう」とさささっと寄ってきた。了承すると分かりやすく喜ぶのが素直で可愛らしく「詰まらせないか心配だ」などとこちらを観察してくるのでついつい頬が緩む。
 巴と向かい合って話しながら食事をしていると、不意に視界の端に黒と緑がよぎった気がして無意識的にそちらへ目を向けた。そこには案の定笹貫がいて、彼もこちらを見ている。席を探していたのだろうか、久しぶりに目が合った気がする。ぱちり合った視線にたじろぎどう声をかけるか迷っているうち、彼はそばへ寄ってきて「後で話したいから部屋で待ってて」といつも通りの顔で告げると近くの太刀に混ざって行った。
「主」
「うん?」
「平気か」
「大丈夫だよ、ありがと」
 巴に問われて、自分の顔の強ばりに気がつく。すぐに笑顔を作って取り繕ったが、笹貫の話とやらの内容が気になったまま続けた食事は急に味を失ったようだった。向かい側からは心配そうな目線が向けられている中努めて普段通り食事を終える。ご馳走様と挨拶をしたあと、笹貫の方をちらり窺うことも出来ずそのまま巴と別れて執務室へ足を向けた。
 のたのたと歩きながら思い浮かぶのはやはりこの間の彼のことだった。どうしたってあの顔が頭から離れないまま、けれど向き合う勇気も出ないまま、結局彼から声をかけさせてしまった。大切も特別も満足に伝えられていないのに、彼に不安を与えてしまったかもしれない。こんなことでは、主として──
「主、危ないよ」
 ぐいと手を引かれてそちらを見やると、いま私の頭を埋めつくしている男が立っていた。
「壁、ね?」
 彼にならって視線を動かしてみると突き当たりの壁まであと一歩というところだった。なんとも間抜けな様子を見られてしまったらしい。顔に熱が集まるのが分かる。上手く目を見られないまま言葉を返す。
「……ありがとう」
「声掛けようとしたら壁に吸い込まれていくもんだからさ、追いついてよかったよ」
 ぱっと離された手は体温を失って少し冷えたように思えた。触れられたのは、随分と久しぶりだ。
 ちょうど良いや、と促されすぐ傍に位置する縁側へ並んで腰を下ろす。中庭に面したそこは池が見えるようになっているが、浮かんでいるのは雲の架かった月ばかりだ。いつか鯉でも、と初期刀に提案したあの日から特に何も変わらないまま。
「最近、あんまり話せてなかったか。急にごめんね?」
 そよ風に揺れる水面をぼんやり眺めながら何か切り出さねばと惑っているうち口火を切ったのはまた笹貫だった。
「ううん、私も……あまりうまく返せなかったと思うし」
 正直に返せば彼はそうかと微笑む。それから、この間から考えていたことがあってと前置きを入れた。
「主と一緒に居ると楽しくてさぁ。よく話しかけてくれたり、オレが近づくと可愛い反応してくれたり……そういうの良いなって思ってデートとか、贈り物とか。それも楽しくて。けど……」
 彼は訥々と続ける。
「オレ、刀だしさ。主は人じゃん?」
「……そうだね」
「だから、ホラ。そういうのってもしかしたら違うのかななんて考えて…………けど、そしたらあの有様で。昨日、加州くんと小夜くんに主のこと聞かれたんだ」
 そういえば、珍しく昨日二振りが談話室を使用していた気がする。面と向かって何かを言われたわけではないが、心配をかけてしまったうえ世話を焼かせてしまった。主ならもう少し隠し事が上手くなければいけないと思うのだが、初期刀と初鍛刀相手に隠し事が通用すると思う方が傲慢なのかもしれない。
「んで、正直に話したら『主が何も考えてないわけないでしょ』って言われちゃって。そんなのオレが一番わかってるはずなのにね」
 考えて、いたのだ。彼が名刀で、神さまで、刀剣男士であること。私はなんでもない人間で、たまたま審神者になって、主であること。ヒト同士の身分の差なんて可愛いものだと思うくらい。今まで顕現してきたどの刀とも違う感情を持ってしまったこと。〝正しい〟答えを見つけられないまま、彼のためになればと身勝手な大義名分をかざしてのんきに傍へ居続けてしまった。
「わたし……」
 謝らなければ、あなたの為と浅はかな理由をつけてただの主を逸脱して申し訳ないと、言わなくては。だのに、ぐ、と喉が熱くなって上手く言葉が出ない。見兼ねたのか彼が口を開く。
「主、一個確認してい?」
「……うん」
「オレのこと、好きなんだよね?」
「………………はい」
 宛ら断頭台を登りゆく心地だった。辛うじて返した声はほとんど空気のような音にしかならず、目は伏せたまま。たった数秒ぽっちの沈黙が途方もなく感じられて、どくりどくり大きく脈打つ鼓動が五月蝿い。
「オレも、やっぱり主のこと好きなんだよね」
 想定外の言葉が聞こえてきて意味を飲み込むのに一瞬反応が遅れた。鼓膜をふるわせたそれに驚いて顔を上げる。かち合った瞳は雄弁に物語っていた。
 私に、その瞳を向けられることが許されてもいいのだろうか。けれど、ああ、どうしたって心が踊って仕方ない。
「だからさ、人とか刀とかそういうの諦めていい?」
「あき、らめる……?」
「そ。お互い好き同士で両想い。それだけで十分。ま、オレどこまでも追っかけるし? 帰る場所は主のとこって事にさせてよ」
 まっすぐ伝えられて、知らず籠っていた力が抜けた。へにゃりと背を丸めて息を吐き出す。他の誰でもない彼にこの恋心を認められたなら、私だってそれでじゅうぶん、過ぎるくらい。
「きらわれたかと、おもってた……」
「ん、ごめんね」
「笹貫のこと、大切にしたくて、けどどこまでしていいか分からなくて……主としてなら大丈夫って言い聞かせて…………本当はあの時言うつもりなんてなかったのに、貴方を困らせてしまったと思って申し訳なくて、話せなかったの」
「そっか。オレのせいだね」
「ううん、あんな風に伝えるべきじゃなかった。ごめんなさい」
 笹貫はゆるく首を振ると、改めてこちらに向き直り私の手を取って話し始めた。
「自分が久しぶりに怪我をして、主が怪我した時のこと思い出したんだ。オレと主は違うんだって再確認したら、手入れしてもらうのが急に……ってさ。心配してくれたんだよね」
「それは、したよ。すごく」
「ん、ちゃんと伝わったよ」
「もうしないでね」
「もちろん。主と話せなくてオレ、寂しかったな。だからさ……」
 徐に持ち上げられた手が、彼の唇に触れる。手の甲、親指と順に柔らかく口付けられてからきゅ、と彼の手に力が篭った。少し前までの私なら大騒ぎだったであろう笹貫のこういう行動も今は不思議と落ち着いて受け止められる。さっきまでの死にそうな心地を味わったのもあるだろうが伝えたかったことを話せた安堵からだろうか。どちらにせよ毎度彼の掌の上だ。
「ね、主。ずっとそばに居てくれる?」
 自信と余裕の満ちた目に返答を促される。先に惚れた方が負けとはよく言うものの、いつもいつも私ばかり翻弄されて、彼は何もかも計算ずくみたいな顔をして。べつにそのまま答えたっていいけれど、せめてもの意趣返しとして、お望みの台詞は口許に直接届けてあげた。
 
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