君以外に興味は無い


 笹貫はあれから、ふらり執務室へやって来ては傷を確認している。さすがに日記はつけていないようだがそれは毎日欠かさない。痣は次の日には消えていたものの、世話の行き届いた包丁は綺麗に私を切っていた。
「……治らないね」
「来週には傷一つ残らないって」
「そんなもんかな」
「そんなもんだよ」
 どちらかというと治りは早い方なのだろうが、それは言わずにおく。遠慮をしても「ま、いいから」と腕をとる彼には伝わらないだろう。
 手をとってまじまじと眺められるこの時間に緊張しているのは私だけだと思う。節の目立つ硬い手が、丁寧に包帯を変えてくれる。触れ合う手の視界と感触に耐えきれず顔を上げるとカラーレンズ越しに覗く瞳があって、どことなく潮の香りが漂う。ん?と首を傾げる仕草だってこんな至近距離で受けていいものじゃない。喉がひきつりそうになるのを堪え「いっぱい食べて寝て早く治さなきゃね」と口を動かす。
「そうそう。食べたいもんあったら教えてね、甘いものでもなんでも」
「ありがと」
「何がいい? 甘味処の新作?」
「買ってきてくれるの?」
「や、一緒に行くよ。これ治ったら」
 するり指を絡めて繋がれた手を掲げられる。こちらを見据えるターコイズブルーから目が離せない。はく、と口を開いたまま固まっていると彼が口許を弛めた。
「楽しみにしてんね」
 十二時間くらい寝たら治りは早まるだろうか。

 〇

 頭が痛くなるくらい睡眠を取ってみたが、効果があったかは分からない。三日ほど前から完治したと思っていたけれど、「もうちょっと」と包帯を巻き直されていたので効果はなかったのかもしれない。
 昨日やっと、綺麗に戻りきった皮膚を見て「明日出掛けよっか」とお誘いを頂いた。今日、八つ時にふたりで出掛けられる。それだけで驚くほど目覚めが良い。本当に単純だ。雲で白んだ空も心做しか晴れやかに見える。
 普段通りの業務をこなしているのに、どうにも時間の進みが遅くて本日の近侍には「主さん時計見すぎじゃない?」と言われた。仕方ないと思う、焦らされてたし。朝告げられた時刻までもう少し。軽く化粧を直して、昨夜乱と選んだ着物に着替える。部屋の外で待ってくれていた近侍に声をかけて髪をまとめてもらう。飾りすぎず、けれどいつもと少し雰囲気を変えて。最後に着物と色味を合わせたリップを塗り直したら、完成。
 いそいそ部屋を出ると、そこに笹貫がいた。
「迎えに来たよ」
「……パンダじゃない」
「主の横歩くんだから。そりゃね」
 普段着ているTシャツとハーフパンツのラフさはどこへやら。暗灰色の浴衣は笹柄のストールが映えて、黒でまとめられたハイネックのインナーや手袋の隙間から覗く肌につい目を奪われる。手に持ったカンカン帽まで含めて、すべてがしっくり彼に馴染んでいた。名刀には当然なのだろうが、どれもきっと質が良い。上品に着こなされた着物は、彼の美的感覚の鋭さをそのまま体現している。小物使いの上手さはどこで学んだのだろうか、着こなしにおいてこの刀は飛び抜けたものがあると思う。乱に支度を手伝ってもらわなかったら隣を歩くのが恥ずかしすぎてまともに楽しめなかったかもしれない。
 小鳥が囀るほんの数秒間、そのまま互いに見つめあって眺めあっていた。
「おめかししてくれたんだ?可愛い」
「……ありがとう、ございます」
「オレは? ど? 似合ってる?」
「すごく似合ってます……」
「急に敬語? やだなぁ、これからふたりで出かけるのに。デートってやつ?」
 とんでもないお世辞の破壊力で頭が真っ白になっているのに、処理落ち寸前の脳に連撃を受けた。薄く笑ってこちらを覗く顔が近い。ひぇ、と後退りたくなるのを抑えて固まっていると「行こっか」と手をひかれた。

「おいしい……」
「ん、良かった」
 結局他の刀に見つかる前に手を離してしまったが、いつもの半歩空いた距離から手が触れるか触れぬかの距離感で連れ立って歩き、甘味処へ辿り着いた。私は桃のタルトとアールグレイ、笹貫はプリンとカフェラテを頼んだ。みずみずしい甘さの桃と濃厚なカスタードがさくさくのタルト生地を引き立てている。桃がまるごと一つ使われたタルトは、本丸ではなかなか難しいだろう。
「連れて来てくれてありがとう」
「オレも来たかったから」
 事も無げに返されるそれは流石笹貫だと思う。それにしても、と無防備なままテーブルの上に置いていた左手をするり撫でられた。
「綺麗に治ってよかったよ。ホント安心した」
 心臓が持たないから、あんまりいちいちドキドキさせないで欲しい。ただでさえ今日は服の変化に心を揺さぶられ続けて平静を装うのに精一杯でいるというのに。
「その節は、ご心配をおかけしまして……」
「いーえ」
「本当、ちゃんと気をつけるから」
「うん。次はオレの隣居てくれるだけでいいから」
「それはちょっと……」
「おにぎり握っとく?」
「しゃけ?こんぶ?梅?」
「おかかかな」
「それだけでいいの?」
「おいしいから」
「じゃあもう私さつま汁作れないなぁ」
「おっと、それは困るな」
「小夜の味噌汁がいちばん美味しいもんね?」
「主のが一番だって」
 他愛ない会話が弾む。たっぷりあったアールグレイも飲み干してしまってから、店を出ることにした。会計をしようと財布を手に立ち上がろうとすると阻まれてしまい、「デートって言っただろ?」と見つめてくるので「……はい」と大人しく従うしか無かった。
 そのまま真っ直ぐ帰るのが惜しくなっていると少しだけ遠回りをしようと誘われた。目を引くものが多いなか、上機嫌でふらふらと通りを歩いている。
「パンダだ」
 店先に飾られているパンダを模した小さな置物がなんとも言えない愛らしさで、ついつい反応してしまった。
「好き?」
「えっ、あー……可愛い、よね?」
「ふーん?」
「……可愛くて、好きになった」
「それ、最近の話?」
「わりと、そう……だね」
「オレは結構、ずっと好きかな」
 何を指しているのかは分かりきっているのに。切り取って聞いてみればこれは、まるで。なんて会話だ、脳がぐらぐら茹だってそのまま破裂してもおかしくないと思う。
「これ贈りたいからさ、ちょっと待ってて」
「え?」
「デートの記念に。持ってて」
 私が先に興味を示したとはいえ笹貫から、間接的だろうが彼の象徴とも言えるようなパンダを贈られる。こんなのって、どう処理すればいいんだろう。
 かろうじて気の抜けた声を返した後、笹貫が可愛らしい紙袋を手に戻るまで、ひとり甘ったるい空気に浸っていた。

 そろそろ戻ろうかと門の方へ歩きながら話していると、顔に濡れた感触がぽつり。空を見上げると重暗い雲で覆われていた。ぱらぱらと水が滴っている。門まではまだ遠く、すぐ側に傘を売っているような店は無い。
「……雨だね」
「雨宿りしよっか」
 だんだんと勢いが増すので慌てて手近な軒先に避難させてもらって、雨が止むのを待つ。隣に並ぶ彼は雨でしっとり濡れた姿がさらに色気を増している。もし現世にこんなひとが居たなら、皆の目を奪ってやまなかったと思う。
「天気予報っての? ちゃんと確認したんだけどな」
「……確かに今日雨の予報なかったね」
「通り雨だろうけど、止まなかったらオレが抱えてくから。乗ってね」
 雨音でかき消されぬよう常より近づけられた顔がすぐそこにある。粗なんて一切存在しないその美しさに息を呑むのも何度目か分からない。
 彼が出掛けることを提案してくれたことも、梅雨の時期に天気の良い日を選んでくれたことも、デートだと言ってくれたことも、全て自惚れでないと思っていいのだろうか。
 話しているうちに雨が弱まって、帰れなくなってしまう前に本丸へ戻った。近侍に「おかえりなさい」と声をかけられてからはじめて、やっとふわふわした夢心地から現実へと醒めたような気がする。
 私室に入って笹貫から受けとった袋を開けた。あのパンダが可愛らしく包装されていてじんわりと胸が温かくなる心地がした。見えやすいよう棚の上に並べて飾る。
 今日がたった一度の特別なのか、それともまた機会があるのか。明確な言葉を交わすことはしなかった。またふたりで出掛けられたら私からもなにか贈ろう、そう決めて部屋を出た。
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