執務室の障子を開くと、廊下に溜まった冷気が身体を撫でた。澄んだ空気が鼻先を冷やす。陽はとっぷりと落ちてしまったが、降り積もった雪明かりのおかげで見晴らしは良い。真白い化粧を施された小石や庭木は冬をじっと耐え、池も時を止めている。
「う〜、分かってても寒い」
　続いて廊下へ出てきた審神者が腕を摩りながら身を縮める姿を、つい眺めてしまう。普段から華奢に写る背が寒さのおかげでその効果を増していた。行こ、と彼女が足早に歩き出してもたった一歩で追いつける。踏み出したその足で思っていたよりも腹が空いていたことに気付いた。今日もなんとか、夕餉の開始に間に合いそうだ。
「後家くんが近侍だとご飯の時間でさっと切り替えられて良いなあ」
「でしょ？　ボクそのために頑張ったからね」
「その節はありがとうございます」
　後家が近侍を拝命したのは、これが二度目であった。
　一度目は、知らぬ間に免除されてしまった機会をどうにか取り戻した。すぐ現れた新刃のおかげで、結局のところ半月しか与えられなかったが、審神者に自分のことを知ってもらうには程良い期間だったとも言える。二度目の今は先日、ついに近侍の争奪戦で勝利を収めたのだ。戦いは直近二振りの近侍を除いて開催されるために、修行も練度上げも終えた強敵たちが退いていたことを踏まえたとしても、勝利は勝利。堂々たる権利だ。来月は自分が近侍だと報告した時の彼女の顔だけで、出陣や手合わせに精を出した日々が報われた気がした。
　とは言っても、実の所、近侍をしなくたって十分に彼女との関わり合いを持つ事は出来た。徐々に練度は上がり、隊長を任されるようにもなった。いつの日か迫ってみたように、共に食事をしたいだとか、万屋街へ行こうだとか、なんだって誘ってみれば良い。そう考え、そのまま伝えてみても彼女は断らなかった。
　その代わり、距離感はあくまでも主と従者のまま。はじめはそれで満足だった。せっかく顕現したのだから親しくなりたいと近侍を所望し、それは叶えられた。更に親密な仲を望んだのは後家にとってごく自然なことだったし、それほど彼女は魅力的に見えた。姫鶴に指摘されるまで、これが従者の範疇を超えるような感情だとは思いもしなかったのだ。けれど、もし名前をつけてやるとしたらそれが一番ぴったりかもしれないと腑に落ちた。
　腑に落ちた感情は違えぬよう、大切に育てている最中だ。今よりももっと彼女のことを知りたくて、それだけで近くに居る。雪も寒いのも苦手だとか、仕事を優先して食事を疎かにしがちだとか、皆に公平であろうと努めているところだとか。どれもこれも、知らないまま過ごすことだって出来たのだろう。それでも知りたいと思った。知って欲しいとも思った。
　二度目の近侍期間が終わる今日この後、ふたりきりでささやかな慰労会をすることになっている。夕餉を食べ終えて、そのまま執務室へ戻って彼女の気に入っているらしいケーキを食べるのだ。それがこの期間に叶った最後のわがままだった。
　近侍特権で彼女の横に並んで食事をしている時から、この後のことを考えて口角が上がりっぱなしだった。そうでなくても生姜焼きもきんぴらも美味しくて気分が良かったのに。
　そわそわとしながら食べ終え、自然体を装い連れ立って席を立つ。途中、今まで部屋で眠っていたらしい明石に出くわしたものの、彼は「蛍丸たちに置いてかれたんですわ。あーひどいひどい」などとぼやきながら去って行き、無事に執務室まで辿り着くことができた。
「セーフ」
「セーフだね」
　普段の八つ時なら周りの刀も招かれてしまうのだろうが、何せ今日のとっておきは審神者と後家の分しか無いのだ。甘いものや美味しいものに目がない刀たちに勘付かれなくて良かったと言い合い、ちいさな宴の準備をする。審神者は普段使わないような、可憐な花の描かれたティーセットを取り出した。湯呑みに菓子皿と黒文字で羊羹をつつくことの方が圧倒的に多いのだが、一応常備していたらしい。また新しい発見だ。
「ケーキ準備してくるから、お茶はお願いしていい？」
「もちろん」
　湯を注いだポットにティーバッグを入れて蓋をするだけのことを普段より慎重な手つきで行い、審神者がケーキを運ぶのに合わせてカップへ注ぐ。
「へえ、すごく美味しそうだね」
「でしょう？　さ、どうぞ」
　皿を占拠するように乗った大きなミルクレープは層ごと色とりどりの果物が詰まっており、きらきらと宝石のように輝いていた。フォークで切り分けて頬張ると、しっとりした生地と濃厚なディプロマットクリームが滑らかに舌をすべり、新鮮な果物がみずみずしく口の中に広がる。軽すぎず、しかしくどいということもなく、程良い甘さのそれは見た目から想像していた以上に美味しい。ただ大きいだけでなく味も素晴らしいのだから、なるほど審神者がとっておきだと胸を張るのも納得だった。
　感動のままに目を見開くと彼女が柔らかく笑み、私もとケーキを口に運ぶ。美味しい、と発さずとも伝わってくる素直な表情にまた頬が緩んだ。
「主、ついてるよ」
　いつの間にか唇の端についてしまっていたクリームを指で拭う。指についたクリームはどうしようかと目線を落としたところで、ナフキンが目に付いた。はじめからこれで拭えば良かったのだけれど、つい手が伸びてしまったあたりは自分らしいだろうか。薄く頬の色付いた審神者を見るに、不正解は踏んでいないと思いたいけれど。
「後家くん、って、やっぱり長船って感じだよね」
　ナフキンで指を拭いていると、独り言のように呟かれた声が届いた。審神者の言わんとすることはきっと後家にも間違いなく伝わっている。彼女の持つ心象と実際の自分とはそう遠くない。だけれども、後家にとってはそれよりも大切なことがあった。
「主もごっちんって呼んでいいのに」
「……それは私には」
「いいんだよ。キミだから、ね」
　後家の想定より僅かに甘く響いた声に、審神者は更に頬を染める。口許がより緩んでしまうのを感じた。
「あー、ほら、ほんっとそういう所だよ……」
　呆れたような声を発してみせる彼女へ伝えるには、きっとまだ早い。紅茶とケーキだってまだ存分に楽しむ余地があるのだから、ゆっくりと堪能することにした。
　丸窓から覗く木が風に揺れ、降り積もった雪がはらはら落ちてゆく。梅が咲くまではあと、もう少し。