「オレは冗談にする気、なかったけど？」
　彼がそう言って迫ってきたのは、そろそろ時効かとあの晩のことを口に出したせいだ。
　笹貫から、遠征のお土産だとお菓子を手渡された。それはちょうど休憩の頃合で、中身は洋菓子だったから、彼の分もコーヒーを淹れて土産話に花を咲かせながら、最近は夜に飲む酒よりも昼間のコーヒーを楽しんでいるのだと話した。その流れで、先日の酒の失敗も笑い飛ばしてしまうつもりで。
　ふた月ほど前、一夜の過ちとやらを起こしてしまった。ちょっと良い酒と良いチョコレートが同時に手に入って、皆に振る舞うほどでもないがひとりでは持て余すだろう、とたまたまそこに居た笹貫に声をかけた。その晩の酒の勢いだった。目が覚めてすぐ「昨日はごめんね」と謝り、そのまま日常へ戻った。多少の気まずさをどうにか乗りこなし、最近になってようやく、不意に思い出して悶え苦しむことも無くなったところだった。
　しまった、とは思ったが、時期尚早だったというだけにしては、やけに彼の目付きが鋭いような気がした。
「へえ？　気にしてたのってオレだけだったか」
　驚いて固まる私に笹貫は微笑んで、マグカップを置く。ひやりとした空気が漂ったのを感じ、慌てて居住まいを正した。
「ええと、本当、あの、お酒飲んでたからって、ごめんなさい」
「はは、謝らなくてもいいって」
「軽率だった。笹貫は主として慕ってくれてたのに」
　そう謝罪の言葉を重ねると、笹貫はより一層笑みを深くして宣言した。
「主がそういう認識だったなら、オレはやり方を変えるってだけ」
　どういうこと、と訊くのも忘れて呆気にとられているうちに、笹貫は手元の銀包みを開けてその中身を私の唇へ押し付けた。見つめる青色は静かにこちらを捉えている。恐る恐る口を開くと、彼は満足気に顔をゆるめた。
「ど？　美味しい？」
　味の違いなんて分かりやしないけれど頷いて、笹貫に食べさせられたチョコレートを噛み砕く。どろりまとわりつく甘さだけが、やけにはっきりとしていた。
「明日は羊羹にしよっか。意外と合うらしいよ」
「お土産なら気にしなくていいから、本当に。せっかくなら笹貫が好きなもの買っておいで。コーヒーに興味があるなら給湯室の、勝手に使って飲んでもいいし」
　遠征に出陣にと気を抜けない中で、連日手土産を持ってやって来る彼に、この間のことで気を遣わせてしまっているのだと感じてはいた。
「オレとしては……主の多忙を邪魔するのはなって我慢してたんだけど」
　笹貫はそこで一度言葉を切ってから、こちらを見据える。澄んだターコイズブルーは視線を逸らすことを許してはくれない。長いような短いような沈黙の後、ふと彼が手元を指さした。
「この飴さ、そろそろ無くなるよね」
　飴入れの中は、確かにほとんど空っぽだった。執務室に置いて切らさないようにしているそれは、元は自分自身が糖分を摂るためだったけれど、最近は近侍や隊長に小さな労いとして渡すこともあるし、これを目当てにやってくる甘いもの好きの短刀も居る。明日の休日にでも補充しようかと思っていたところだった。
「明日、新しいの買いに行こっか」
「……笹貫は休んでていいんだよ？」
　取り立てて催物のない時、週末は休養日にしている。久しぶりの休日を朝礼で伝えた時、皆は随分と喜んでいた。つい先日までの繁忙期は、準備期間も含めてひと月以上雑務に追われていたのだ。何を気にかける必要もなく体を休めることのできる日は、年数を重ね刀手の多い我が本丸においても貴重だった。それは笹貫にとっても例外ではない。
「じゃあオレが護衛ってことで、行こ」
「さっきの誘い方は護衛じゃなかったってこと？」
「そ。デートのつもりだったのになあ……、陸奥守にはデートって言っていい？」
「護衛だって私の方から言っておく。笹貫はそろそろ厨当番の方行ってくれる？」
「へえ、そういうの覚えてるんだ」
　愉しそうな声を出す笹貫に、当番表の決定をしているのは審神者なのだから当然だと言いたくなったけれど、それはやめておいた。とにかく、これ以上この男のペースのまま乗せられたくは無い。
　笹貫は予想より大分あっさりと離れてゆき、部屋を去っていった。去り際には、私の頬をするりと撫でて。
　どくどく心臓が鳴っている。深く息を吐き、それから銀の包みを開いて口の中に放り込むと、甘ったるい香りが鼻を抜けていった。舌の上で転がしてそのなめらかさをめいっぱいたのしむ。飲み込んだコーヒーのほろ苦さは思った通り、チョコレートとぴったりだった。
　机の上にはいくつも円錐形の銀包みが乗っている。置いていった彼の顔を思い浮かべ、息を吐いた。遠征へ出す度に持ってくるこれはただの土産ではなく、きっと他に何か、念押しとか催促の意も込められていたのかもしれない、と今ならば思う。
　審神者と刀剣男士。ただの主従であって、これ以上発展することなんて何もないと思っていた関係だった。けれど、踏み外した時も、掘り起こした今さっきも、どちらもきっかけは自分にあったのだ。反省はしていたけれど後悔する程でもないと結論付けていたあの日のことを、今また後悔し始めている。私だって、冗談や勢いだけで彼を受け入れた訳ではない。
　折良く執務室へ戻ってきた近侍へ明日の予定を報告して、もう一度モニタに向き合った。


　習慣のおかげでいつも通りの時間に覚醒してしまう意識に抗って二度寝、三度寝とたっぷり睡眠を貪り、ようやく起き上がったのは陽の光が燦々と射し込んできた頃。まだ眠っていたいような気もするけれど、この寝覚めの悪さはカフェインを摂ってしまえばなんてことはない。
　愛用中のコーヒー器具は執務室となりの給湯室に一通り揃えてある。鍛刀部屋やら書庫やらの並ぶ東側に寄り付く刀はいないはずが、何故か人の気配がする。
「おはよ。これ、飲みに起きてくると思ってたよ」
「……おはよう」
　何故か、ではなくなんとなく予想はついていたのだけれど、笹貫には全て読まれていたらしい。きちんとドリッパーを使って淹れているコーヒーもきっと、最近私が気に入っている豆だと思う。
「砂糖はいらないんだっけ」
「うん、ミルクだけにする」
「じゃあオレはどっちも入れようかな」
　それなりに甘党らしい笹貫からマグを受け取ると、コーヒーの香りがほんわり広がる。ひと口飲んで美味しいねと伝えたら、いつもより随分穏やかに微笑んだ。普段からその笑顔なら良いのに、と思う。飲み終える頃に「準備終わった頃迎えに行くよ」と言った時もその笑顔だったので、もしかすると今日一日はこの顔なのかもしれないと思った。
　身支度を済ませて部屋を出ると、ちょうど笹貫が来たところだった。彼は何やらじっと私の顔を眺めて、その直後、普段と唇の色が違うことを当ててきた。
「なんで分かるの」
「主のことよく見てるからね、オレは」
「そういうもんですか」
「好きならそういうもんだろ？」
　さらりと凄いことを言われたような気がしたけれど、聞き返す勇気はなかった。色つきのリップクリームから淡い発色の口紅に変えただけで気が付くひとに、あまり不用意な質問をしてはいけない。
　はぐれたら困るからふらふら歩き回ったりしないでねと言い含め、万屋街へのゲートをくぐる。瞬く間に到着した通りはそれなりに賑わっていたけれど、笹貫を連れているのは私だけのようだった。飴の品揃えが豊富な店をめざして歩く間、彼は特に何を言うでもなく着いてくる。けれどその距離は今にも手が触れてしまいそうで、妙な緊張をしてしまった。
　たどり着いた店先には色とりどりの組み飴が並んでいる。柄は果物、野菜や動物から花まで様々で、どれを選ぶか迷ってしまいそうだった。端から吟味していると、本当に全てが可愛らしくて困った。
「良いのあった？」
「んー……悩んでる」
「これは？」
　笹貫が指し示したのは動物が詰め合わせられたものだった。犬やうさぎ、亀なんかが並ぶ中にはもちろんパンダも居る。これならば近侍や短刀も喜ぶだろう。ひと袋手に取って、もうひとつは縞模様のみの簡素なものにした。奥の店番に声を掛けてまとめて包んでもらい、小判と引き換えたら今日の予定はひとまず終了だ。店の名が印字された紙袋と笹貫の元へ戻ると、彼は腕を組んで待っていた。
「お待たせ」
「じゃ、お茶してこっか。デートだし」
「護衛ね」
　デートという単語には訂正をしつつ素直に頷くと、紙袋は笹貫の手に攫われる。当然のようにこういうことをするのが〝笹貫〟という個体にはどの程度のものなのか、彼以外を知らない私には計ることは出来ない。
　その後、席に着くなりお腹が空いてきたと笑う笹貫の口に団子を押し込んでやり、茶を啜っている間じゅう、あの穏やかな笑顔が絶やされることはなかった。
　帰り道、道端をゆってり歩く猫を見かけた。ふくふくの腹と程よい毛艶のその子は可愛いという声に慣れきっているようで、人懐こく寄ってくる。手を差し出すと頭を擦り付け、目を細めて甘え鳴いた。大きな虎やら口の達者な狐やらは日常に存在しているけれど、身近な猫や犬は意外と会う機会がない。こちらからあちこち触れてみてもされるがままで、遠慮なく撫で回させてもらった。
「きみほんと可愛いねえ」
　自然と甘くなってしまう声で褒めると、にゃあと返事をする。愛され慣れている猫だな、と思った。後ろで見ていた笹貫が「オレも居るんだけどにゃあ？」と言いながら隣に並んで、猫に手を差し出す。猫は慎重にその匂いを嗅いで、ふいと顔を背けた。そのままふるふるからだを震わせると、先ほどと同じように闊歩しながら向こうへ行ってしまった。笹貫は空振った手を私のものに重ね、包み込む。
「……笹貫、」
「これくらいしないと伝わらないのかと思ってさあ、オレの気持ちってやつ。ど？　伝わった？」
「伝わってる、んじゃないかな」
　覗かれる瞳をまっすぐに見つめ返せないまま、からだの真ん中でどくどく音を立てる鼓動を感じる。本丸に帰る直前、顔を覆った柔らかな影を私は甘んじて受け入れることにした。