穏やかで規則正しい呼吸だ。
　静かに眠る男の隣で、たった一寸の隙間を詰めきれずにいる。彼の褒めてくれた爪がぴかぴか輝いて可愛い。橙色の照明を落としても、重量のある毛布に包まれていても、ちっとも眠たくなかった。
　些細なことだ。取るに足らないことだ。けれども、変わらずそう思い続けるのは難しいのだと知った。数時間前まで恋仲だった男はどうすれば救ってあげられただろうか。

　学生時代の後輩が恋人へと名札を変えたのは去年の秋のことだった。共通の友人を通じて再会し、それからふたりきりで健全なお出かけを二度三度。帰り際に「あなたのことが好きです。俺とお付き合いをしていただけますか」と訊かれた。どうぞ、と頷いたのだったと思う。彼は喜んで目を輝かせた。大袈裟なくらいに喜ぶんだな、と感じたのを今でも覚えている。
　元々電話もメッセージもマメだったけれど、無理に時間を作ってでも頻繁に会いたがるところは少し意外だった。非効率を嫌って休日だけに限定しそうなのに。恋人へ向ける顔は〝それ〟なのかと。彼の家の方が立地が良く広いこともあって、結局私の家の鍵はほとんど鞄の奥底に眠ることになった。
　一緒に過ごす中で生じた些細な不和はあまり覚えていない。大抵がなにか起きる前にさらりと流されるか、向こうがすぐに折れてくれていた。友人たちにそれを話すと羨ましがられた。良い人だね、優しいね、そういう人が一番。本心かどうかは別としても、その点において楽ではあったと思う。それでも私たちは完璧でも順調でもなかったのだ。全てが自分にとって都合の良い存在なんて居ないことは、みんなが皆知っていることだった。良いところにばかり気を向けて、どうにか目を逸らしたかったのだと思う。
　離れる日が近いのかもしれない、とぼんやり感じたのは位置情報を共有するアプリが非表示ボックスに入れられていた時だった。インストールされた日を確認して、ふた月も気が付かないものかと思ったのを覚えている。あの時は至って冷静だった。何時から何時までどこへ誰と何をしに出かけるのか、義務とも思わず伝えるようになっていたからどうでもよかったのだ。
　それが決定打というわけではなくて、ただ、本当にどうしようもないくらい疲れていた。仕事もそうだった。離れて暮らす家族のことも。どんどん人生を進んでゆく友人たちにも。着替えを取りに自宅へ戻る時間くらいひとりきりになりたかった。面と向かって言ったのははじめてだったか。一度くらい言った気もするけれど。とにかく、彼に対して声を荒らげてしまったのはさっきがはじめてだった。
　ひどく傷ついた顔をするのに、それでも私をひとりで出したくないのだと言う。
　仕事へ送るのも嫌だ、友人と出かけるのも嫌だ、他の人と電話をするのも嫌だ、視界に入れておかないと嫌だ、けれどあなたが嫌がるならそれが一番嫌だ。
　いつの間にここまで拗らせていたのかは分からない。けれど私は、やっぱり限界だった。ぼろぼろの心の内を晒け出した恋人が目の前にいるのに。ここから逃げ出したくてたまらなかった。厳しい言葉を浴びせたのは私の方なのに、私が先に泣いていた。彼はすぐにさっきまでの悲しげな顔を心配そうに塗り替える。そういう人だった。そういう人だからこうなった。
　信じてもらえていない、と感じることがこれほど辛いとは思わなかった。毎日スマホの中身を見られて、職場の話を事細かに聞かれて、友人たちとは彼の知っている範囲でしか会えなかった。会えたとして、三十分毎の連絡を内心でどう思われていたか分からない。
　世界中に彼と私のふたりだけだったならよかったと何度でも思う。それならば彼は余計なことを考えずに済む。私だって。
　泣いて泣いて泣き疲れた頃「別れたい」と口から溢れていた。今度は彼の方が泣いてしまった。「出ていく」と言うと「行かないでください」と泣く。
「夜も遅いです、あなたに何かあっては俺が耐えられない」
「タクシー拾うから」
「行かないでください。行かんで…………お願いです」
　まだ20時を回ったところで、この辺りは治安も悪くない。何も心配することなんか無いのに、彼は全てに脅えている。
　食事の支度も風呂の用意もされて、普段通りに隣へ寝かされた。ふわふわのオムライスもきらきらのバスボムも、何一つとして不満はなかった。
　これで手酷く抱かれでもしたら、罵倒を重ねてすぐに逃げられるのに。逃がさないと言って抱けば私が逃げることをよく分かっているのだと思った。ここへ居着くようになってすぐ買い替えられたセミダブルのベッド。クッションもカバーも全部私の好みで揃えた。
「今日はもう寝てしまいましょう、おやすみなさい」
　腕の中へ抱き込まれるのに背を向ける。彼はもう一度おやすみと呟いて、やがて寝息を立てはじめた。
　付き合い始めてから美容院を変えた。三年通っていたけれど、新しい担当さんはアイドルの好きなお姉さんだった。連絡先には可愛い名前ばかりが並んで、SNSもほとんど開かなくなった。出かけた先でも極力同性の店員さんとだけ話すように心がけた。半月に一度彼と共に数時間だけ滞在する部屋のことは家と呼んでいいのか分からなくて、極力彼以外の男性を目にしない方法を考えている。
　私の生活は彼で埋め尽くされていた。

　満足に眠れないまま朝日が昇ってきた。始発は動き出して彼はまだ深く眠っている。
　ぼんやりと冴えない脳のまま、置きっぱなしの鞄だけを掴んで家を出た。駅では朝帰りであろう男女が笑いあっている。どこか恥ずかしそうに、けれど柔らかな雰囲気が漂っていた。
　鍵をさして捻れば扉は開いた。ただいま、と呟いて出迎えるのはただ沈黙だった。可愛くてお気に入りだった一人用のソファ。ふんわりした座り心地だけれど、少し頼りないと思うのはグレーの大きな座面に慣れすぎたせいだろうか。ベッドに倒れ込む。シーツも枕も何もかも冷たいけれど丸くなって目を瞑った。
　何も考えたくないな、と思う。今頃通知が鳴り止まないであろう端末は駅に着く前に電源を切ってしまった。ひとりになったらしたかったことが沢山あったのに、今はひとつも思い出せない。
　彼はひとりになったらどうするのだろう。何ともない顔をして仕事へ行って、バリバリ働いて、たくさんいる友人の誰かと過ごしたりするだろうか。上からも下からも慕われる男だから、独り身になったと分かればすぐに予定が埋まるかもしれない。私より素敵なひとを見つけたりして。
　あんなに優しく触れるくせに。行かないでと泣いたくせに。
　私のことが大好きなくせに、私のことを何一つ信じてくれない。私を否定しない代わりに私以外を否定する。いつだったか、そんな話を聞いたなとふと思い出した。戦国時代のお姫様の話だっただろうか。彼に閉じ込められて自由を奪われて、それでも私は彼を好きなままでいられるだろうか。
　玄関から鍵の開く音がする。うだうだと考え込んでいたせいで結局この部屋でも一睡も出来なかった。ばたばたと迷いのない足音が近づいてきて、すぐそばで止まる。
「ここに居たんですね」
　思っていた通りの男の声が降ってきた。今日も普段通りの時間に目が覚めたんだろう。家中探し回ってすぐにここへやってくるにはちょうど良い時間だ。いつもさらさらの髪は少し乱れて、スウェットの上下は合っていない。
「鍵、捨てたんだよそれ」
「……あなたのために探しました」
　彼の手元で揺れるキーホルダーはガチャガチャで私が取ったものだった。家を出る前、ごみ箱の奥底に捩じ込んでばらばらに捨ててきたはずなのに、元通り。
「じゃあ返して。私が捨てておく」
「返しません」
「もう使わないでしょ」
　耳鳴りがするほどの沈黙だった。吐き捨てた言葉に傷ついているのはどちらも同じだろうか。
「別れたく、ないです……俺は、あなたしかいない」
　彼の目から涙が零れた。拳は握りしめられて微かに震えている。
「でも私のこと信用出来ないんでしょ」
「違うんです……好きです、愛しています」
　ぽろぽろと落ちていく。泣けると話題の映画でも本でも目が潤むことすらない人なのになあと思った。昨日だって私が嫌という毎に泣いて。なんで貴方はいつもそうなのと文句を言ってもいいだろうか。
　それしか言葉を知らないみたいに、好きです、愛してるんです、とただずっと同じ言葉を繰り返す彼に、じゃあどうすれば、言いかけて怖気付く。私だってこの部屋で待っていたのに。鍵なんか、部屋のゴミ箱に捨てたって、道端に捨てたって、彼がこの部屋にやってきて私を探すって知っていたのに。
「長谷部」
　離れた方がお互いのためだと思った。そう思っていた。
「私これ以上はもう……何も」
　できない、と出した声は掠れる。彼は私の足に縋り付き、その瞳は切なげに揺れた。
「全部ください、俺に。あなたの全て、心も身体も、名前も……あなたが居ないのは、俺は耐えられない」
　傲慢さを包み隠せないところが彼らしいと思う。何重に絡めとっても足りなくて、冷たい風に吹き晒されたように震えている。
　もう降りられないのは、いつからかどちらとも同じだった。
「じゃあもう、しょうがないね」
　一緒に居られるならばそれで良いと無邪気な思考に溶けていく。
「仕方ないから全部あげるよ」
　彼が心の奥底で何を考えていようとも。実は今までの全てが計算ずくで、私は操られていたのだとしてもいい。
　壊れ物を扱うように触れるその手があたたかくて、ただ身を委ねた。いつも通りの微笑みに目を瞑る。だって私には、この人しかいない。