「鶴さん、主が呼んでるよ」
「おお光坊。じゃあこの煎餅はやろうな」
　手に持っていた煎餅を光坊の口に押し込んで、興味も無い本は栞を挟まずに閉じる。よろしくね、と背に受けた声は少しばかりの疲労を滲ませていた。
　昨晩出掛けた主が朝餉に顔を出さず、近侍は光坊を指名。昼頃までに最低限の日課だけを済ませたあと特に指示が出ない。こんな日は決まって八つ時に呼びつけられる。それがお決まりの流れだ。

　廊下を伝って奥の奥。通い慣れた執務室の前でも今日ばかりはお伺いを立てるのを忘れてはいけない。きちんと襖の外から声を掛け、どうぞ、とお許しを頂いた。開いた隙間からひょっこり顔をのぞかせて、俺を呼び付けた張本人の様子を見やる。
「つるまる……」
「きみ、またかい？」
　ほんのり目尻の赤くなった彼女のため、わざとらしく明るい声で問う。「あんな奴、私から振ったの」言いながら茶を啜るところを眺めるのはもう何度目か。
　まぁまぁ、と宥めると今度の彼に対する不満を垂れ流しながら慣れた手つきで茶を用意し始めるので黙って待つ。口を出す隙も無いその手際の良さだって見慣れたものだ。出掛けた先でほかの女ばかり見ていたとか、同業だから些細な方針の違いで無駄な議論をしたとか、連絡不精なのは私にだけだったとか。
　時折相槌を打ちながら、差し出された茶をありがたく頂く。ずんだより抹茶の大福が好きらしい主の茶請けは大抵それで、今日の黒糖まんじゅうは珍しい。つやつやの見た目にもちふわっとした食感、なめらかな漉し餡と鼻を抜ける黒糖の香り。小ぶりなサイズも相まって手が進む。
　そうして聞いていると一通り話し終えたのか、主は気の抜けたような息を吐いた。この感じを見るに、やはり。
「今回も不貞が原因か？」
「…………もう嫌」
　三十路が迫る健全な女性の中で今この瞬間、うちの主が一番目に輝きが無いかもしれない。
　平安の世に生まれ数々の武将を渡り歩いた身としては相手が複数居ることの方が馴染み深い。それくらい、と言いかけ主の生きる時代では御法度だと聞いた時は驚いた。
「なんでそう毎回変な奴を引きつけるのかねえ」
　ついつい素直すぎる本音が漏れてしまった。顕現年数は片手を超えたが、去っていった男の話をこうして聞かされるのは両手で収まらなくなってきている。
　主はじとりとした目線をこちらに寄越し、自嘲的な笑みを浮かべた。
「そういう星の元に生まれたとしか思えない」
「にしたってなぁ……」
　初めて出会った頃は、もっと。花の綻ぶような笑顔を見せる人だった。
　俺は、太刀としては十番目。本丸へ顕現した刀としては五十番を過ぎていた。伊達の面々や御物の者たちが待っているだろう、と主は鍛刀を繰り返していたらしい。結果は思わしくなくて、資材の限りも近くそろそろ見切りをつけようか悩んでいた頃。京都の三条大橋で俺は見つかった。
　顕現してまずはじめに見たのは、柔らかく微笑む主。
次いで、俺を待っていたという知り合いの刀たち。主の挨拶が終わった途端わっと取り囲まれ、そのまま宴会へ連れられたのは今でも忘れられない驚きだ。
「よっ。鶴丸国永だ。俺みたいのが突然来て驚いたか？」
「……ええ。待ってたわ、鶴丸。よろしくね」
　彼女は驚いたように目を見開いて、それから、本当に、本当に嬉しそうに笑ったのだ。その顔を忘れられる訳もなく、数年。水もやらず、ただ時折陽を浴びたいと顔を出したがるそれを仕舞い込んでいた。
　何もしないのなら、はじめから無いのと同じだ。戦場で誉をとって褒められたり、気まぐれに仕掛ける驚きで笑ってくれるならば、満足だと思っていたのだ。本当に。
　離愁を味わっていた彼女を見かけ、話を聞いてやっているうちにこんな習慣が付いてしまった。恋仲であるうちは「二人のことだから」などと言って大した話を聞かせてくれないくせ、別れた時はあれは嫌だっただのこれはおかしいだの気が済むまで話す。聞いているうちどうしてそんな奴と、などと問いたくなるのだが、別れる度きちんと傷付いて拗ねているところを見る限り悪いところばかりではないのだろう。
　しかしまぁ、なんというか。傷つく主を見たい刀なんざ中々存在しないのが現実で。事情を知る光坊と俺は、どうにか一所に落ち着いてくれたら万々歳だと常々思っている。それが誰の隣だとしてもきっと喜んでやれる。にっこりと良い笑顔で祝福を伝えられる。だのに、どうしてこう。
「きみの良くないところなんて、思い浮かばないがな」
　机に突っ伏していた主へ向けて呟くと、ぱっと起き上がってそうでしょう、と自信を伴った声が返ってくる。
「私って家事は完璧だし、どこでもポジティブに楽しめるし、喧嘩する時だって冷静に話し合うところから始めるし、経済的自立もしてるし、自分の世話も欠かさないでしょ」
「そうだなあ。きみがつまらない男の不満を垂れながら淹れた茶だって美味い」
「ただよそ見しないでほしいってだけなのに。おかしいと思わない？」
「ああ、きみはいい女だ」
　今すぐ嫁になったって、何一つ恥じるところはないだろう。主としても女としても、本当に、素敵なひとだ。
「あ〜あどうして結婚できないんだろ」
　完璧すぎるのだろうか。毎度毎度、概ね『君は僕が居なくても生きていけるだろう』と別れることになるらしい。それが彼女を傷付けても良い理由になるわけはないのだが。
「……まぁ、なんだ。あと十年経っても誰も現れなかったら俺が貰ってやろう！気にするな」
　ははは、と笑い飛ばしてやろうと告げた。
　そのつもりだった。
「それ、今じゃダメ？」
「……は？」
「私、今がいちばん若くて可愛いと思うけど。どう？」
　こちらを見つめるその顔は己の魅力を十二分に理解している。だからこそ出来る振る舞いは、俺という男の心もざわつかせる。きっと、主は俺の心の内をよぉく知っている。これは拗ねた末の弾みで出た発言では無いのだろう。
「待て。あー、……やり直させてくれ」
「どうぞ」
　心臓が早鐘を打つ。あの時仕舞いこんだそれは今、目の前に大きな餌をぶら下げられている。ひとつ息を吸って、彼女のために言葉を紡ぐ。
「俺と一緒になってくれ。きみの寿命のその先まで、きっと一途で居ると約束しよう」
　ああ、少しばかり声が頼りなく震えた。長く存在していたがこんな驚きは……いや、些末な事だ。
「よろしくね。鶴丸」
　その笑顔に俺は、もうきっとずっと前から。

「ふふ、人間の十年、無駄にしなくてよかったねえ」
「きみなぁ……覚悟しろよ」