陽の落ちる時間は日に日に早まり、暦は冬を示している。下がる一方の気温に「近々鍋かな」とぼやいたのが昼過ぎ。仕事を終えて帰宅すると卓上にはコンロと鍋がセットされていた。
「おう、おかえり。もう食えるぜ」
　すぐに着替えてこい、と促され着替えて座る頃にはもう食べ頃だった。くたくたに煮えたキャベツを噛むと野菜の甘みと香味の効いたスープが口の中に広がる。鍋の主役たるもつはとろけるほど柔らかい。さすが本場が作るもつ鍋だ。冷たいアルコールを流し込めば胃は幸福で満たされた。
　日本号さんの料理はどれもこれも美味しい。酒飲みの男が作るのだから当然といえばそうなのかもしれないけれど。たまに作ってくれるお弁当の卵焼きは甘くて断面も綺麗だし、この間ねだったハンバーグもソースまで美味しかった。鍋の横にちょんと置いてある明太子入りの卵焼きも間違いないはずだ。
　箸を伸ばそうとして少し遠いことに気がつく。まあいいかとそのまま皿を寄せた。
「あ、こら。手ェ使え」
「はぁい」
　全く、といった顔で手元に置き直された卵焼きを頬張る。思った通り、ふんわり柔らかくて美味しい。日本号さんはいつもの通りお酒を飲みながらどんどん呑水を空にしていた。その見た目に反して上品に食べ物を収めていく。大口だけれどがつがつしていなくて、酒量も多いけれど悪い酔い方はしない。少なくとも私の前では一度も。単純にこのひとが飲み食いしているのを見るのは楽しかった。
「もう食わねぇのか」
「お腹いっぱい」
　腹ごなしにもならないが代わりにシメの用意をする。麺を茹でてネギを切り、小皿に柚子胡椒を添えるだけだけれど。はじめて日本号さんともつ鍋を食べた時に教わった作法だ。わざとらしく「食べさせてあげよっか」と言うと片眉を少しだけ上げてこちらに視線をよこす。最近その顔にハマっているらしい。顔が渋いから様になるねと褒めたせいだろうか。
「美味しそうだね」
「おー」
「ちょっと食べたいな」
　あ、と口を開けて待つと麺が運ばれた。ちゅるんと啜ってもちもち具合を堪能する。うん、これも美味しい。日本号さんはこちらを見ながらグラスを傾けていた。凛々しい眉がきりりとつり上がってる。
「そういえば朝、日光さんに会った」
「……はぁ？」
「駅にね、凄く大きいひとが居るなと思ったの。声掛けたらまた付き添いだって。今度ご飯ご一緒しましょうって言ってたよ」
　日光さんというのは日本号さんの兄貴分（というのは日光さんが一方的に言ってるだけかもしれないが）らしく、会う度に日本号さんのことを気にかけてくれている。年に一度はもうひとり、奴を交えてご飯に行くのが恒例なあたり結構仲が良いのだろう。そういう話をすると嫌がられるけど。
「なぁ、それ今言う必要あったか？」
「思い出した時に言わなきゃ忘れちゃうでしょ」
「けどよお……」
　鍋は既に空になっている。話しながらでも聞きながらでも器用に食事を続けられるのだ。いつもどちらか疎かになってしまう私とは違う。日光さんに会って長谷部を思い出した。奴も食べっぷりが気持ちの良い男であった。そもそも私と日本号さんを引き合わせたのは長谷部だ。学生時代の共通の友人を通じて、と言うとありきたりなのだけれど。
「長谷部には全然会ってないなあ」
「あーあーそうかい」
　最近の長谷部は恋人にぞっこん（最近というか長いことそうなのだけれど以前にも増して）らしく、なかなか機会をくれない。特定の人物にだけ発揮される忠犬ぶりは見事なものだ。私も真似をしてみようかしら。
　日本号さんがグラスを空けきったところに膝をお借りしてみる。彼は大きいからここが定位置になっても困らないだろうか。
「お鍋美味しかったですよ」
「そりゃよかったさ」
「近頃は髭の調子も良いですね」
「そうだなあ」
「お肌も綺麗になってきましたし」
「んー」
　ぺたぺたと無遠慮に顔やら頭やらを撫で、至る所を褒め回る。一通り言い終わってもどうにも生返事のままだ。そんなにしっぽを振るのが下手だったかしらとかさついた唇を指でなぞる。ふんわりとスープの香りがした。美味しかったなあ。
　そのまま唇を寄せようとして思い止まる。〝犬〟というものは待てが得意なのだ。笑顔でしっぽを振り続けてご褒美を待つ。けれど、私には無理そう。こんなにずっと近くで目が合っていたら我慢はむつかしい。日本号さんはじっとこちらを見ているだけなのに。ちょっとばかり見すぎだ、恥ずかしくなってきた。
　はぁ、と肩口に顔を埋めると日本号さんの温かい手が腰を撫でてぞわぞわする。そのまま首元をがぶりと噛まれた。
「……跡残ったらどうするの」
「さあ？　知らねぇなぁ」
　あんまり熱っぽい目で見られて、恥ずかしくて他の人の話を出したことはお見通しだろうか。それにしたってこんな強く噛まなくてもいいのに。ちょっとご機嫌を取るのが下手だからって。
「さて。運んでやるよ、お嬢さん？」
　別にこのままでもいいけれど、というのは飲み込んで。いつでもどこでもお行儀の良い日本号さんに抱きついた。