近侍の番は次々と変わってゆき、とうとう今週で完全に一周することになる。最後の担当、つまり今日からの近侍は鶴丸国永だ。あれから鶴丸と話す機会は随分減ってしまって、ほんの僅かな業務連絡が唯一だった。
　これをあの頃の私は望んでいた。そうすれば鶴丸のことを考えずに済むから。けど、そうじゃなかった。機会が減ればたった一度が特別になる。忘れるなんて到底無理だった。遠ざけるのではなく何事も無かったように過ごせばよかったのだと、うまく眠れずに寝不足で起き上がってから気が付く。
　いつも通りの身支度をして、今日の朝餉は今剣と隣合って食べた。顔を見るなり「あるじさま、きのうはよくねむれましたか」と訊かれ、やはり短刀はまめだなあと感心する。読んでいた小説が面白くて、と嘘のような本当のようなことを言えばそれ以上は問われなかった。
　とにかく冷静にしなければと心がけてはじまったその日は、つつがなく終了した。とは言っても、それは鶴丸が近侍に慣れきっているおかげだ。何も起こらなければ何事も無く終わる。先週の担当だった大和守が加州と共に仕事を進めてくれて、面倒な計算ごともない。ちょっぴり退屈なまま、しかし私の心は忙しく、平穏に二日目と三日目は過ぎていった。
　週も折り返した頃。本当に何気ない瞬間だったと思う。休憩がてら姫鶴でも誘って万屋へ買い出しに行こうと思い立ち、声を掛けた。
「鶴丸さん。これから万屋へ行こうと思うのですが」
「ああ、わかった。何を買うんだ？」
　自分も行くとばかりに立ち上がった鶴丸へ、留守をお願いしますとは返せなかった。姫鶴と約束していた訳では無いけれど、心の中で謝っておく。そのままふたり出かけて、目的の物を手に入れたあとはすぐに戻った。土産屋やら茶屋へ寄り道をする予定だったけれど、そうするにはあまりに心臓がはね回っていて難しかった。ついでに緊張して全く関係ないものまで籠にいれてしまった。
　帰り道にふと、前は肩の触れあうような距離で歩いていたのだなと思った。半歩後ろを歩く鶴丸と私は今、誰がどう見たってただの主従にしか見えないだろう。それでも単純なことに、ふたりで出かけられたことが嬉しくて仕方がなかった。
　夕餉の席で姫鶴に話しかけられたのはその晩だった。
「来週からの近侍、決めてんの」
　元々は近侍が一周してしまったら一度加州へ戻すつもりだったのだけど、つい最近各当番毎に番長を決めるように政府からの働きかけがあったのだ。そこで加州は総務番長という肩書きへと収まった。これは本刃も私も皆も納得の位置のため不満は無い。しかし他にも厨番長やら総務番長やら様々な名が付けられ、近侍もある程度固定してしまおうかというのが本音だった。若干名の熱望者とは反対に、事務仕事がどうにも不得手らしいものも居るのだ。
　皆と距離を縮めるために始めた交代制は十分仕事をしてくれた。
「まだ決めてないけど。やりたい？」
「昼寝していいんなら」
「それは困るなあ」
　口の中へ綺麗に米が吸い込まれていく。良い食べっぷりだ。姫鶴はお願いした仕事はきっちりこなすけれど、それでも立候補するような質ではない。どうして、と理由を訊ねてみる。
「近侍なら買いもん付いてけるし」
「……ごめんね？」
「笹団子五個ね」
「後家くんとふたりで五個？　それともひとり？」
「ごっちん食いすぎっから」
　相変わらずの身内思いだ。「今は小鉢で勘弁してね」と差し出して、信じられないような顔をされる。
「今日お腹いっぱいなの」
「別にそういうのいいから」
　なんだかんだ言いつつも山盛りの食事をするすると胃に収めていくのを見るのは心地が良い。他愛もない話をしながら食べ終えるのを見届けて席を立つ。最後に姫鶴から「ま、困ったら言いな」と足されたのには曖昧な返事を返して。

　翌日のことだった。蔵へ道具の確認をしに行くからと席を立って、その後。薄暗い中で道具を探していると、開け放っていた扉ががちゃり音を立てて閉まった。何事かと目を向ければそこには鶴丸が居る。
「鶴丸さん？　どうしましたか」
　何かあっただろうか。扉が閉まると更に暗い。口を開いているように見えたけれど物が多いから声も通らないはずだ。耳を澄ませてもう一度訊ねる。
「……きみと一緒に居たくて」
　なにを、とまで口に出して言っているんですかは声に出なかった。彼の手には今使うはずだった端末が握られていて、私が持っているのは何も挟まっていないバインダーだけだ。
　間違えた、と思った。間違えた、今、この場で全てを間違えてしまった。近づくべきではなかった。ふざけないでくださいと言うべきだった。やめてくださいと突き放したってよかった。ついさっきまでは全部うまく出来ていたのに。たとえ間違えてしまったとしても、顔を赤くして間抜けに口角を上げるべきではなかったのだ。
「きみ、そんな顔するなよ……」
　ため息混じりのその言葉にどんな顔ですか、と強がってみた。
「嬉しい、って顔だ」
　きっと彼と私とは今、全くもって同じ顔をしている。彼は珍しく頬を染めて顔だけが真っ赤だ。「やめだ。やめてやる」とやけのような声で言うので少し笑ってしまった。
「きみが望まないうちは仕方ないと思ったが、そんな顔するならもう我慢なんかしてやらないからな」
　酷いひとだ、と思った。私は未だなにひとつとして準備が出来ていないままなのに。
「なぁ、俺の事を呼んでくれ」
「……鶴丸さん」
「つるまる、だ」
　控えめになぞった声に彼は頬を綻ばせる。それだけでもう、なんだか、胸がいっぱいだった。
「きみが、素直に俺だけに気安く話してくれることに優越感を感じた。俺と出かけて眠ってしまった時は気を許されているんだと思った。けど、きみが襲撃にあっている間俺は傍にいなかった。結界が攻撃されたのは姫鶴が主に何か起こったと言ってきたあとだ」
　ねぇ、鶴丸。私はあなたをただの刀以上に思っていいのかな。
「結界で本丸は守られてきみは倒れた。俺は無力だと思ったし、どうして俺じゃないんだとも思った。けどきみは、誤解だとしてもあの子を想うのを嫌がった……そんなの俺だって同じだ」
　だって私、あなたの唯一じゃない。
「きみの一番を俺にしてくれないか」
　それなのにどうしてあなたは全部飛び越えて、私の欲しい言葉をくれるんだろう。くだらない強がりも意地も全部溶かされてしまう。あなたを好きになって傷付く覚悟が決められなかった私を、それでも待っていてくれた。
「なぁ、俺はどうすればいい。きみが教えてくれ」
　私がどうして欲しいかなんてわかりきってるくせに。本当にもう逃してはくれないのだ。
「抱きしめて」
「それから？」
「すき、って言って」
「好きだ。……きみだけだ、愛してる」
　欲しくて欲しくてたまらなくて、それでも何より欲しがるのが怖かった。
「鶴丸、好き。わたし、あなたのこと……」
　ぽろぽろと零れて止まらない涙を彼のしなやかな手がやさしく掬う。そのことにすら泣けてしまって、目の前の顔が困ったように、嬉しそうに笑った。



　涙の跡が引くまで蔵の中でさんざっぱら甘やかされて、気付けば陽がほとんど差し込まなくなってしまった。涙が引いてからの方が長かったのは誰にも言えないとして。放り投げた仕事は明日へ回してひとまず執務室へ戻る。
「明日大変かもなあ」
　何気ないぼやきにどうだろうかと笑う鶴丸の言葉の意味は、障子を開いてから理解した。
「全部終わってるんだけど、なにこれ」
「驚いたか？」
「鶴丸がやったんじゃないでしょ。ねぇ。なに、これは」
　座布団がそのままになっているところを見るに、明らかに複数で片付けられている。問い詰めても「きみは驚いていても可愛いな」と交わされた。交わせていない。鶴丸が誰かに頼んでからやって来たのかと思ったけれど、あの短時間にわざわざそんなことをする理由がない。私があの時に間違えなかった可能性だってある。きっと。
「知ってるんでしょ」
「まあな」
「じゃあ教えて」
「……姫鶴。加州。あとは後家と大和守だろう」
　笹団子がいくつあれば足りるんだろうかと一瞬考えてしまった。もっと別のお礼を送らねば。それより、姫鶴にも加州にも幾度となく気を揉ませてしまったのだろうなと内省する。
「なあ、まだ夕餉まで時間がある。ゆっくりしてようじゃないか」
　鶴丸は後ろから私を抱いて腕の中に閉じこめる。その手にはもう乗らない、と確固たる意思で腕を引き剥がしにかかるが外れない。こちらを覗く顔は涼しげなままなのに。下から抜け出そうにも腰に回る手が邪魔をする。離して、いやだね、の攻防を続けていると突然ぐっと一際強く抱き込まれた。背に感じる熱に身を縮めた途端、なんの前触れもなくすうと障子が開く。
「ん、戻ってきてたんだ」
「あーごめんねお邪魔しちゃって」
　そこには姫鶴と加州が立っていた。慌てて鶴丸から離れようとするのに手が緩まない。
「鶴丸！　はなして」
「いいじゃないか、どうせ皆に知られてるんだ」
　え、と二振りの顔を見ると妙に優しい目が向けられる。そんな授業参観の親みたいな顔しないで。
「よかったね、主も鶴丸くんも」
「んじゃ、これもやっといたから置いとくね」
「悪いなあ、助かるぜ」
　ばいばーい、と去っていく二振りに鶴丸はにこにこと微笑んでいた。その顔がちょっぴり可愛、ではなくて。皆に知られている、ということを私は知らなかったのだけれど。
「皆って本当にみんなですか」
「ああ。新刃やらよっぽど鈍い奴以外はな」
「…………………………もう、やだ」
　穴があったら入りたい。隠れてしまいたい。両の手で顔を覆って項垂れていると、鶴丸の正面を向かされてぎゅうと腕の中に抱えられた。「俺としては手間が省けて有難いが」などと言うので脇腹を抓ってやろうとしたが、掴めるところがなくて失敗に終わる。もう散々だ。
「次からは仕事投げ出したら近侍変えるからね」
「俺の主は手厳しいなあ」
　鶴丸のおかげで恋と仕事の両立を余儀なくされているのだ。仕方ない。仕方がないから、仕事は頑張ってやる。けど仕事以外の時間はもう離れてなんかやらない。それからまた、蔵の中でされたようにたっぷりと宥められた。

　後日本丸には人数分の立派な海老と大量の酒が届けられ、とても賑やかな宴会が行われたのだった。