彼の様子が少し変わったのは、敬語をやめたあの日からだったと思う。近侍をやりたがるようになった。用事が終わってからもすぐに去ることが減った。
　恋を教えてくれ。なんて不思議な提案をされてから一緒に過ごす時間は増えたけれど、そういうものとはまた別の、ような。
「素敵……」
「こりゃ見事だな」
　青い空の下、鮮やかに咲き誇る真紅の薔薇が視界いっぱいに広がっている。花の香も豊かに、向こうに見える噴水や西洋風の東屋が異国の風を感じさせた。ここ一年ですっかり見慣れた本丸の日本庭園も見事なのだが、やはり薔薇園というのは格別だと思う。
「ね、見て、鶴丸。真ん中だけ色が違うの、綺麗」
「うん、そうだな」
　薄紅の薔薇でつくられたアーチをくぐって、さまざまな種類の咲く花壇を見て回った。ついはしゃいでしまう私の隣で鶴丸も楽しげに花を愛でている。
　誘われたのは先週のことだった。政府施設の薔薇園が見頃らしいから行かないか、と簡素な誘いに首を縦に振ったのだ。日付と時間を指定され、一緒に本丸を出てきた。加州には、鶴丸はただの護衛だと伝えて。
「あ～……普段土と畳の上しか歩かないせいか、石畳だとなんか足が……」
「そもそもきみは執務室にこもりすぎだろう」
　一通り見て回り、噴水の前に設置されたベンチにへなへな座り込んだ。くだらない言い訳をしてみせると、鶴丸は至極当然のように肩の触れそうな距離に並ぶ。ついでに小言も飛んだ。
　最近は鶴丸も同じくらい執務室に居る気が、と言いかけてやめる。きっと、ただ私がそう思っているだけだ。
「だから誘ってくれたの？」
「恋仲だからな」
「あ、そういえばそうだったね」
「きみなぁ」
　ふと柔らかく笑う顔を好ましいと思う。
　今日は本当に天気が良い。頬を撫でる風とまるく照る陽を感じ、滔々と水の流れ続ける噴水を眺める。こういう時彼は意外と静かで、最近そういうことが分かってきた。気楽に話しかけて冗談を飛ばして、同じ時間を共に過ごす。友人のような、そんな風に。
　鶴丸が誘い出してくれる場所にはいつも皆が居た。談話室も中庭も、一人なら素通りするかすぐに引きあげてしまう。クイズの優勝が決まるまでとか、プリンをどうにかひっくり返して食べ切るまでとか、そこに居る理由をつくってくれた。それでいて放置されるなんてこともなく細やかに気をつかってくれる。だから彼の提案に乗ってしまうのだし、それがありがたかった。
　けれど最近は、皆で過ごす時間よりも────
　がくん、と頭の落ちる感覚でぱっと目を見開いた。右を向けば穏やかな鶴丸の顔がある。
「おや、お目覚めかい？」
　どくどく鳴る胸に手を当ててやっと状況を把握した。
「……寝てた？」
「ほんの少しな」
　さっと血の気が引くのを感じる。どのくらい、と慌てて訊くと四半刻も経っていないから落ち着けと宥められた。普段は自分の寝床以外で眠気を感じることなんてないのに、よりにもよって本丸を空けている時になんてことだ。ため息をついて項垂れていると隣から笑う声が聞こえた。
　すぐに起こしてよ、と横を向いて思いがけず目と鼻の先に存在した顔に息を呑む。白く透けるまつ毛と蜂蜜色の瞳に何度でも吸い込まれてしまう。
「……口付けを？」
　囁くような声が耳に届いて、心臓を鷲掴みにされたような心地になった。身体の内側がかっと熱くなって、身動きが取れない。何か言わなければ、と乾いた喉を絞った。
「口付けは……まだ」
「まだ？」
「まだ早い、かな」
　それは残念だと薄く笑んだ鶴丸は静かに離れてゆき、もう戻ろうと立ち上がる。彼の後ろをついて歩いている間、いつも通りに振る舞えていたのか全く覚えていない。
　鶴丸と居る時の自分が変化している。気が付かないふりをすることにはそろそろ、無理が生じてきた。距離が近づけば心臓が早鐘を打つ。異性に慣れている訳じゃないから。彼が一般人ではなく美しい刀剣男士だから。それだけ。それだけなら、よかった。
　彼が隣にいるとき、私は主というよりも、ただひとりの女だと思う。主や審神者なんて大層な役割を頂いた私ではなく、ただの。鶴丸が私の隣を選んでくれることが心地良かったし、彼の追い求める驚きはそのまま私の楽しみにもなっていた。
　時折、恋仲ならばこういう時はどうするのか問いを投げかけられて、私の中で無難だと思う答えを返す。恋とは、恋仲とは。答える度に、輪郭が鮮明になっていく気がした。
　きっと、なんてことないのに。選ばれた理由が特別なら良いと思ってしまう。

　就職が出来るなら何でも良かった。家を出て進学するのは現実的じゃなかったから、適性検査を受けて養成所に通った。頭の出来は今ひとつだったけれど、霊力体力ともに恵まれていたらしい。入所してからは上位を維持し続けた。
　ある日、手紙が届いた。柔らかく整った綺麗な字だった。実際、彼女は朗らかでいて洗練された人だった。現世に戻って結婚をするから本丸を引き継いで欲しいと言われた。貴方は優秀だし、私と霊力の質が似通っているからお願いしたいのだと。〝自分だけの本丸〟みたいなものに憧れもこだわりもなかったし、何より彼女の本丸は大きく戦績も上々で、給与が素晴らしかった。本丸に住み込めて、自由に使えるお金が増えて、素敵な先輩が指名してくれたのだ。二つ返事で引き受けた。
　それからの日々は慌ただしく、彼女と共に本丸で過ごしながら様々なことを教えてもらった。これまではただの模擬実験でしかなかったのだと、傷付いた刀の手入れをしている際に改めて感じた。
　現世に戻って結婚をするというのがどれほどの事なのか、あの頃はきちんと理解出来ていなかったと思う。機密を保持するために生涯監視がつく。職も限られる。人間の記憶は一年を超えると処理しきれないらしい。彼女は既に六年、審神者として走り続けていた。
　鶴丸はこの本丸で初めての太刀だった。よく戦に出ていて、その分信頼も厚かった。けれど彼は、彼女が本丸を出ていくことになっても、引き継ぎのために私が来てからも、特別にそれについて話したりしなかった。一口ずつ皆の話を聞いていた時、彼女はそう教えてくれた。でも鶴丸はすごく優しいし、きっとあなたを傍で支えてくれる、とも。その通りだった。彼は美しくて、聡明で、良い刀だ。
　だから私は、鶴丸が全くの好奇心だけで私に声をかけたのでは無いことに気がついてしまった。そして今、気がつかないふりをし続けている。
　これ以上の欲が育たないように。そればかり考えていた。考えて、このままではいけないとか、距離を保っていた方がいいとか、そういった結論に何度も辿り着く。きっともう動けないのだ。進めないし、戻ることもできない。
　目を閉じれば簡単に鶴丸の顔が思い浮かんだ。今と同じように優しく笑いかけてくれたら、それでいい。淡い願いを胸にしまいこんだ。