スパン、小気味よい音で執務室の障子が開いた。相変わらず本日も真っ白だ。
「きみ！　俺と恋仲になってくれないか？」
「……ええと、遠慮しておきます」
　開口一番の口説き文句──と言っていいのか分からないが──に多少の読み込み時間はあったものの、まっすぐに意思表示をする。飛んでくる文句は受け流し、報告書の作成を続けた。全くと急いでいるわけではない。
　この白に身を包む男が突拍子もないことを提案するのにも、ようやく慣れてきた。これまでは、部隊対抗クイズ大会だとか、厨番を誘って十尺のプリンを作ろうだとか、そんなことを言われてきた。就任間もない頃の私には余裕がなく、曰くつれない返事ばかりしていたのだ。しかし、業務に支障が出ない範囲でお好きにどうぞと返せばいつの間にか巻き込まれ、仕事を理由に断ればさっさと片付けられる。やんわりと断るのに意味が無いと学んだのは、本丸で流行ったらしい漫画を夜通し見せられた時だった。
「なぁ、きみ。俺は結構な美刃だろう？　本当に嫌か？」
「そういうのはよそでやってください」
　自分の容姿を褒めても全くもって反感を買わないほど、彼は美しい。嫌味にもならない。しかし、それとこれとは全く別物だ。そもそも何故そんなことを考えついてしまったのやら。
「まあまあ、理由くらい聞いてくれよ」
「……どうして急にそう思ったんですか？」
　話に乗る気は無かったが、一応手を止めて理由を問う。そうしなければきっとこの部屋に彼が居座り続けるであろうことはわかり切っていた。
「いやぁ、さっき見ていたドラマでな……」
　前言撤回。聞くまでもなかった。
「待て待て。その話はな、恋と仕事のどちらを選ぶかという場面で、結局仕事を選んだんだ。前の主は恋を選んで辞めていっただろう？　彼女は、まあ、それはそれは本当に嬉しそうでな……。しかしあの主人公は、あれだけ輝いていた恋から手を引いた。これは驚きじゃあないか？」
「はぁ……」
　恋と仕事って天秤にかけるものなのか。それすら今の私にはどうだっていい。だってこの流れは、きっと。
「俺に恋とやらを教えてくれよ、きみ」
　突拍子もない提案って、際限が無いらしい。

　気がつけば彼に丸め込まれていた。不覚。
　よろしくな、とはにかんだ鶴丸は私の手を持ち上げて爽やかに握手をかわす。それから毎日、今まで以上に何かと構ってくるようになった。
「使いを頼まれたんだが、万屋まで付き合ってくれないか？　でぇと、だな」
　牡蠣油を抱えて帰るのに色気も何もないと思ったが、ちょうど外出でもして気分を変えたいと思っていたところだったのでタイミングは良かった。本丸を出てから万屋に着くまでのたった少し、手を握られて驚いた。してやったり、という顔が覗いてため息が出かけた。
「お八つを持ってきた。ついさっき光坊と作ったんだが、どうだい？　うまいか？」
　すごく美味しかった。イケメンって料理までそつがない。元気に食べていたらずんだを口の端に付けてしまっていたらしく、なんてことないかのようにさらりと掬われる。それを舐めとって、うんやっぱり美味いなどと言うので、既に白旗をあげそうになった。
　そもそも、高校を出てすぐに養成機関に入り、通常一年の教育課程を半年巻き上げて就任した私に豊富な経験なんて大層なものはない。ただなんとなく良いと思った人とそれなりに付き合って、なんとなくの不一致を理由に別れた。
　妙に手馴れた鶴丸さんと甘ったるい一挙一動に混乱している私とでは、恋なぞ起こらないのではないか、と思う。前任者のような大人の女性ならまだしも、なぜ彼は私のような人間を選ぶのか全く分からない。手近な女にしてみても、甘味処のあの子とか、演練でよく会う本丸の審神者さんとか、魅力的な方は沢山いるのに。

「きみ、明日の出陣の編成だが」
　今日は近侍が鶴丸さんに代わっていた。普段は初期刀の加州にお願いしているのだが、たまには遠征に行きたいとか。
「なんでしょう」
「……やっぱり、そろそろ敬語くらいやめないか？」
「こっちで慣れているので」
　仕事をしている私が敬語を使っていてもなんの問題はないと思う。前任者は気さくな方だったから、皆に敬語なんて使っていなかったのだが。
「今は俺しかいないのに？」
　じ、と見つめてくる蜂蜜色の瞳に未だ慣れない。桁違いの美貌をもって成されるその誘惑が、本当に神の元へおちてしまうようで。
「というか、鶴丸さんこそそろそろ満足しましたか」
　支障はないけれど、正直彼に付き合い続けるのも荷が重い。恋仲の真似事を続ける代わりに、頼み込んで本丸の皆には秘密にしてもらっているけれど、それにしたって距離が近かったり、向けられる顔がいやに蠱惑的で。
「満足か？　まだまだ、だな」
「少しくらいは理解が深まったでしょう？」
　どうだろうな、と言わんばかりの笑みを携え、彼は一歩近づいてくる。拳みっつ分。ただの審神者と刀には近い距離だ。
「私である必要はないんじゃないですか、あの鶴丸さんに言われたら喜ぶ女性はいるでしょう」
「すぐ近くにきみが居るのにわざわざ他に声をかける理由もないだろう。気になったからだ、それで十分」
　その辺に居たからって新任の審神者を選ぶかな、普通。
「まだ理由が必要か？　そうだな、きみは意外に大雑把なところがあって、」
「もういいです。わかりました」
　納得の出来なさそうな理由を並べられるのは分かりきっていた。体幹のおかげでほとんど動かない身体を押し退けてモニタの前に戻る。元より、鶴丸国永という刀は常識より変化を求めていた。矛先が自分に向いている間は大人しく受け入れるしかないのだろう。
「それで、明日の編成でしたっけ？」
「ああ。第三部隊なんだが、物吉は何やら用事ができたらしくてな。治金丸が代わりに出ると言っていたのでその確認だ」
　遮った言葉に鶴丸は不服そうな表情ひとつ見せず、報告が続いた。
「治金丸くん……構いませんよ。隊長の長曽祢さんにも伝えておいてください」
　二振りの練度や能力に大きな差が無いのを確認して許可を出す。刀種や大まかな来歴などの基本情報は頭に入れているが、この本丸の刀としての個体差は未だ把握しきれていない。それを分かっているから、この部屋にいる時に来たのだろう。鶴丸のことだ。とうに長曽祢にも部隊員にも伝えているはず。
　彼は顕現してから七年も経つのだ。私の意見を聞く必要なんて、本当はない。すんなりと頷く姿を邪な目で見るのも失礼だと思っている。もっと素直になるべきなのだ、きっと。
「ああそうだ、夕餉は肉豆腐だぜ。うちは舞茸が入るんだが、苦手じゃあないかい？」
「すごく美味しそう。楽しみ、にしてる……ね？」
　勢い半分で敬語を取ってみたものの、違和感が纏わりついて視線は大袈裟に泳ぎ、疑問符までついてしまう。鶴丸は一度ぱちり瞬きをした後、顔をゆるめた。
「……出来たら呼びに来る。待っててくれ」
　ぴっちり閉まった障子を見つめ、脳内はさきの場面を繰り返す。恥ずかしい、恥ずかしい。こういう時にわざとらしい反応を返さないのは伊達男ゆえなのだろうか。大人の対応みたいなものが一番心にくるのに。
　唇をきゅっと引き締めて目の前の書類に取り掛かる。ほんの少し面倒な会計仕事が残っていてよかった、かもしれない。黙々とやっていれば時間が過ぎるから。

　きっかり半刻ごとに休憩を入れて、気が付けば外は随分と日が傾いていた。ちょうど手持ちのものは片付いてしまって、机周りを片付けるくらいしかやることが思い浮かばない。
　多分もうほとんど夕餉は出来上がっていて、執務室の片付けも終わらないうちに鶴丸が呼びに来るだろう。そう思うと急に、抜け落ちていた羞恥がぶり返してきた。素直に、と言ったって勢いだけですぐに言わなくたってよかったし、どうせ言うならきちんと言いきればよかったのに、ああもう。どうしてこんな事でうじうじと悩んでいるのだろう。
「きみ、夕餉が出来たぜ」
「っわ？！」
「おっと、そう驚かせたつもりはなかったんだが」
「い、え……私が勝手に驚いただけです」
　急に声をかけられたような気がして吃驚した。嗚呼また恥を塗り重ねている。
「そうかい？　あぁそうだ、小鉢はほうれん草のおひたしらしい」
「……はい」
「あとは麦酒漬けに麩とわかめの味噌汁だ」
「はい…………？　素敵な献立ですね、？」
　にこにこと献立を告げてくるのに、お望みの反応を返せていないのかもしれない。不自然なほど目が合ったままだ。
「ところできみ、どうしてまだ敬語を？」
「……え？　あ〜……つい、癖で」
「今は俺ときみだけだ」
　意外と、気にしているんだなと思ったのは心の中に留めておいた。
「じゃあ……行こう？」
「もう行くのか」
「夕餉が、出来ているんじゃ」
「……そうだな、そうだった」
　すくと立ち上がって、さっさと部屋を出ていこうとする。追いかけねば、と慌てたところで彼が急に立ち止まったので額がぶつかった。
「すまん。平気か？」
　さらりと額を撫でられる。こういうところは伊達の刀らしいのかな、と思った。
「なんとか。急にどうしたの」
「明日の近侍、俺がやっても？」
　上から見下ろされているはずなのに、不思議とその瞳がきゅるりとして見える。いいよ、と許可すれば嬉しそうに目が細められた。
　その後も鶴丸はやけに浮かれていて、湯浴みをしに部屋へ戻る時までずっと、珍しく離れなかった。