刀夢


 障子を閉め切った室内で、ただ彼の存在だけが確かだった。微かな呼吸。伝わる熱。シャツの上からでも伝わるその感触。
「薬研。あなたに私の真名を教えておこうと思う」
 外で小鳥が囀るのが聞こえる。白皙に彫られた薄い瞼から藤紫が私を射抜いた。たった一瞬、瞬きにも満たないその時間に息を呑む。すぐ諭すように目尻を緩められても、油断でもないだろうその隙が語っていた。
「俺は神の中じゃ末席だが、それでも神だ。……神格に真名を教えるってのは、お勧めしないな」
「ふふ、意地悪。もう長くないの分かるでしょう」
 いたって普通、つとめていつもの通りに。そう気をつけていないと、目の前の彼に縋ってしまうかもしれない。弱ってしまった、弱くなった。
 このまま過ごせば、私の体はあと三か月と持たないだろう。その前に全て片付けることを、皆が、私が、決めた。
 薬研は何も言わない。
 あたたかくて、優しい神様。ああ、私だけ。



 審神者就任が遠い昔のことのように思える。
 日に何度も出陣して、遠征、演習、催事、がむしゃらに走り続けたあの日々が懐かしい。春は桜の下で花見をした。夏は短冊に願いを書いたり、海へ出て花火をした。秋は紅葉を眺めて焼き芋をした。冬は年の移り変わりを祝ったり、雪合戦をした。日々の些細な衝突も、他愛もない会話も、すべてわたしの愛おしい思い出として記憶に残っている。もちろん、薬研と2人で過ごした時間も。
 昨年あたりから、出陣回数が減った。男士たちが戦へ出ずとも済む日を定休日と決めたのはいつだったか。
 皆には周知していなかったが、言わずとも伝わっていたかもしれない。私の霊力が薄まりはじめていたこと。手入れ時間が長引くようになった。起き上がって仕事をしている時間が減った。本丸と刀剣男士の維持で手一杯で、ひねもす床に伏していた日もあった。
 体力作りに精を出したり、数日現世に戻ってみたりしたが、大して変わりはない。政府に確認し検査したところ、一時的に調子が上向くことはあれど概ねこのまま、次第に弱まっていくだろうとの結果が出た。
 悲しくはない。己の力のことは自分自身でもよく分かっている。元より霊力も器量も、規定の底値になんとか引っかかった程度の審神者だったのだ。
 政府からは、刀の数を減らして少数精鋭の運営方針をとることも勧められたが、自分はそう器用な方ではないから審神者業は畳むことにします、と返答した。
 それから、いつ霊力が潰えても差し支えのないよう事務作業に明け暮れた。日々の記録を細かくまとめておいた自分を称えながら、ひたすら手を動かす。粗方纏まった頃、出陣を増やした。事後報告、記録、またひたすら手を動かす。手入れ部屋はあまり稼働しなかった。
 順繰りに戦へ出ていた男士たちも戦場を回りきった頃。本丸で過ごす日々が終わり近いことを悟った。やらなければならないこと、やっておきたかったこと、一通り終えて気が付かないうちに気が抜けたのだろう。床に伏す時間が一層長くなった。ただ起きているだけで消耗していく。これまで身体だけは丈夫だったが、嘆くことはなかった。
 まだ私にはやり残したことがある。
 刀剣男士たちの今後について。それから、恋仲の薬研藤四郎について。
「気が付いている者もいただろうけれど、審神者としての力がかなり弱まっている。正直、先はあまり長くないと思う。急で申し訳ないのだけど、今後のこの本丸の方針について決めておきたい。全体軍議と同様の形式で進めるので、代表は皆の意見をまとめておくように」
 この本丸に新たな審神者を迎えるか、解体するか。解体するとして、別の本丸に移るのか、それとも、人の形を手放すか。
 意見は割れた、らしい。私が居ると話し難いこともあるだろう、と席を外していたため全容は分からないが、ずっと傍仕えをしてくれていた近侍たちだけは、既に意思が固まっているようだった。


「終わったぞ、大将」
 政府から渡された無数の書類と睨めあいを続けている間に、最後の話し合いが終わったらしい。
「お疲れ様。早かったね」
「もう五度目だしな、すんなり決まった」
「……やっぱり、変わらなかった?」
「ああ。全員一致で解散だ」
 決まってしまったのねと口を開きかけたが、飲み込んだ。それが彼らの選択だと思えど、やはり気持ちは晴れやかとは言えない。
 口を出さないと決めていたけれど、引き継ぎ候補は優秀な審神者家系の出身で美しいだとか、移動受け入れ先の本丸は個刃部屋を与えられるかもしれないとか、そういう念押しをしておけば良かっただろうか。
「じゃあ、明日と明後日は皆休みで宴会しなくちゃね」
」無理はしなくていいからな。はじめだけ顔出したらあとは寝てていい」
「大丈夫だよ、こんのすけから貰った薬も効いてるし」
なんともないように笑ってみせたが、薬研の視線は厳しいまま。
 何度も言われた。
「大将が苦しんでるのに、刀としても男としても、何もしてやれない。普段俺が学んでいるのだって何も役立てられていなかった」
 そんなわけない。薬研は私が体調を崩す度、傍で看病してくれた。皆が眠っている間に様々な書物を読み漁り、方法はないか今でも探し続けてくれている。
 全て知っているから、都度ただただ感謝を伝えて、抱き締めた。背に手を回すと、服の上からでも骨の感触が伝わってくるのが愛おしい。この骨ひと欠片でも、私のものにしてしまいたかった。
 わたしたちは、互いに記憶以外何も遺せない。
「薬研。あなたに私の真名を教えておこうと思う」
「俺は神の中じゃ末席だが、それでも神だ。……神格に真名を教えるってのは、お勧めしないな」
「ふふ、意地悪。もう長くないの分かるでしょう」
「……だからこそ、聞きたくねえんだ」
「私が勝手に話す。それでも覚えておいてくれる?」
 そうして私は薬研藤四郎の付喪神に真名を教えた。忘れないでね、と一言添えて。
 彼は何も答えない。


「……済んだか」
「うん。あとはこんのすけが来るの待つだけ」
 就任以来ずっと騒がしいくらいだった本丸が静まり返っている。終わりを迎えるのに、ふさわしい。今この徒広い本丸には薬研と私のみ。こんのすけが来たら最後のひと振りの顕現を解いて、それで終わり。
 縁を切る際、多大な霊力の消費とかなりの精神的負担を伴うために皆一斉にとはいかず、相当な時間がかかった。日を追う事に刀が減れば減るほど、体は軽くなるのに心は重くなる。
 この本丸に足を踏み入れてからずっと、怒涛の日々だった。大人数を伴い目まぐるしく過ぎて行く毎日は時間の感覚を鈍らせる。あれだけ長い時間をともにしたのに、思い返すとたった一夜の夢のようで。
「あっという間だったなぁ」
「あぁ、本当に」
 縁側に並んで傾く陽を、鳥を、誰も居ない庭を眺める。話すことが沢山あるはずでも話したいことが浮かばなくて、ただ言葉も交わさずにいた。
「主様〜!」
 しっぽをぴんと立てて、美しい足さばきでやってきたのはこんのすけ。妙に重装備だ。
「お疲れさまです! さて、主様。薬研殿。あなた方に、あともう1日差し上げます」
「……え?」
「明後日の朝までこんのすけは一旦政府に帰ります。それまでは本丸内でしたら自由にしていただいて構いません。好きにお過ごしください」
 ふふんと得意気な表情で、狐が笑う。
「短いですが別れの時間をあげるってことです。彼らが本丸の解体を明後日にしておいてくださったんですよ。それでは。巳の刻には来ますから、よろしくお願いしますね」
 呆けたままの私たちを尻目に、明後日巳の刻ですからね!と最後に念を押すとこんのすけは尻尾を揺らしてさっさと出て行ってしまった。
「…………どうしよっか」
「まあ……とりあえず夕餉でも作るか?」
「うん、そうだね」
 いまいち状況を把握しきれないまま夕餉の支度を始めたが、いただきますを言う頃には2人きりで過ごす時間を存分に楽しんでいた。
 はしゃぎながらご飯を作り、ふたりだけだからとそのまま厨で食べる。ほとんど同じものを食べているのに「そっちの方が美味しそう」と食べさせあってみたり、並んで食器を洗った。星の綺麗な夜だったから、手を繋いで庭をぐるり一周散歩した。広い畑も馬小屋も、全てを目に焼き付けた。少し身体が冷えてしまったから、一緒にお風呂に入った。湯船に浸かってのぼせるまで他愛もない話をした。髪の毛を乾かしあって、布団を一組だけ用意した。
 全部がはじめてだった。
 所謂恋仲になってから、実行したかったができずに居たことを、この日はたくさんした。不便だと思ったことは無かったけど、手を繋いで本丸内を歩いている時も、抱き合っている時も、多幸感で恐ろしい程だった。優しくて、あたたかくて、どうしようもなく愛おしくて、怖かった。
 翌日は陽も高くなった頃にのろのろ起き上がって、湯浴みをして、やっぱりずっと抱き合っていた。無駄に出たごみは焚き火で燃やしてしまって、それを並んで眺めた。おなかがすいた頃に厨へ行って、昨日のようにふたりで作ってふたりで食べた。庭を歩いて屋根に上って、曇の多い夜空を眺めながら明日の朝餉の話をした。一緒に湯船に浸かっている時、少しだけ泣いた。私が髪の毛を乾かしている間に薬研がお酒と肴を調達してきたので、味わいながら飲んだ。ただただずっと傍に居た。お酒も尽きて横になったが、うまく寝付けなかった。
「ねえ、名前呼んでみて」
「大将」
「そうじゃなくて」
「たーいしょ」
「いじわる」
 そっぽを向いて明ら様に拗ねてみせると薬研は少し照れくさそうに笑った。口を開いて、すこしふるえた唇がひとつ息を吐いたあと、確かめるように私の真名をなぞる。はじめて呼ばれた名は少し恥ずかしくて、けれどいっとう嬉しかった。私が呼びかけると彼はもう一度私を呼んで、そうしてお互いの名を呼びながら笑いあっていた。
 今この瞬間を切り取ってずっと眺めていたかった。
 それくらい、忘れ難い時間だった。
「……肌寒いな」
「そうだね」
 夜明けまで、色々な話をした。本丸での思い出話もしたし、本丸に来る前の話もした。それと、これからの話もした。今までしてこなかった話をたくさんした。陽が上り始めた頃、結局一睡もできなかったねと笑いあって起き上がった。
 布団をあげて軽く部屋を掃除して、昨日屋根上で話したようにちょっぴり豪華な朝餉を作った。食堂のダイニングテーブルに着いて、黙々と食事をした。洗い物は任せて、最後に本丸内を見て回った。どの部屋も荷物は隅にまとめられていたけれど、確かに息をしている。柱の引っ掻き傷すら見逃さぬよう、ゆったりと歩いた。
 約束の刻にはまだ余裕があったので縁側に座っていると、ここによく遊びに来る猫が膝を温めてくれた。薬研は奥の部屋で医学書を眺めていた。
 朝方布団を出てからずっと、特に会話はしなかった。必要ないとは思わなかったけれど、必要だとも思わなかった。
 こんのすけは約束の刻きっかりに門から現れた。
「おはよう、こんのすけ」
「……もうよろしいので?」
「もちろん」
「俺も構わないぜ」
 戦闘服をきっちりと着込んで、くまひとつない爽やかな顔がこちらを真っ直ぐ向いている。藤の淡い瞳が陽に輝いて見えて、背筋が伸びた。
 震える唇を噛み締めて、大きく深呼吸する。最後の、最後の仕事をしなくては。
「薬研藤四郎。…………今までありがとう」
「ああ……大将も、ありがとな」
 淡い光に包まれていく。薬研は最後まで静かに笑っていた。
 先まで刀剣男士が立っていた場所に、ひと振りの刀だけが残された。
「ねえ、こんのすけ。ありがとうね」
「……充実していましたか」
「ええ。あなたがここに私を連れて来てくれた時から、ずっと、良い日々だった」
「それは光栄です。ゲートまでお送りしましょう」
 ゲートまでの道のりを一歩一歩踏みしめた。審神者就任が遠い昔のことのように思える。拙くも手探りで進んできた日々が輝かしい。
 私は幸せな審神者だった。



「大将、そろそろ夕餉だぞ」
「……寝てた?」
 重たい瞼を開くと、相変わらず艶やかな射干玉がすぐそこにある。文机に突っ伏したまま寝ていたから背中が痛い。
「随分と気持ちよさそうに寝てたから起こすのも気が引けてな」
「ふふ、そう。良い夢だったもの」
「そいつぁいいね。どんな夢だったんだ?」
 ぐ、と伸びをして固まった筋肉をほぐす。ああ、身体が軽くて気持ちが良い。
「薬研に名前を呼んでもらった時の夢」
「……そりゃ、随分と懐かしい夢だな」
「へぇ、覚えてるの」
「そのお陰でまたお目にかかれたんだ」
 なぁ、?と幾年振りに呼ばれた名前は前世の私と薬研がまた会えるようにとまじないをかけたのだった。ふたりとも効果に期待はしてなくて、ただその時のささやかな祈りだったと思う。
 平和な世の中で会うことは叶わなかったが、それでも。
「また会えて嬉しいよ」
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